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春に舞う、雪は 番外編 ~ 剣士の場合 ~
最初は単なる、気の迷いだろうと、思っていた。
世界一の剣豪になる。
そのために俺はひとりで生きて、この先もずっと、ひとりで強くなっていくと、信じていた。
背負った信念は、何ものよりも、重い。
であればこそ、誰の世話も受けず、必要以上の世話も焼かず、ただひたすらに、強くなっていくこと。
それが、海に漕ぎ出した俺の、腹にくくりつけた一本の「槍」だった。
・・・はずなのに。
あんなムカつく野郎が、・・・いったい、どういうことだ。
コントロールできない感情などありはしない。それは剣士の、闘い様でもある。
怒りを抑え、エネルギーを力づくでねじ伏せる。奥底でうねるその心火が、一瞬の剣先に宿る。全ての感情をコントロールしたとき、それは逆説的に、爆発的な炎となって雄叫びをあげる。
そうやって常に、心頭を鍛え上げてきた剣士が、このときばかりは狼狽えた。
ひとつずつ夜を重ねるたび、色濃くなっていくその気配を、無理に押さえつけたままやり過ごすことが、できなくなっていったのだ。
なんでこんなに、
・・・コックを、思い出すのだろう。
憎たらしく口元の歪む笑みと、人を罵るムカつく声に、時折混ざる何かを諦めたような視線。
その全てが一緒くたになって、チラリと毎夜、剣士の脳裏をかすめていく。
女どもに色目を使い、敵ですら女と見りゃあ手加減しやがる。
料理人を気取って足技しか使わないその甘さだって、いつか自分の首を絞めかねねぇ。
もっと、「ちゃんと」、生きようと足掻けよ・・・!
胸の中で罵声を紡ぐたび、剣士の心は、焦燥感でイライラと波立った。
苦しい。
名前のつかない想いを消化できないまま、剣士は毎日、厳しい稽古に明け暮れる。
重たい十字架からは容赦ない剣術が振るわれ、体だけでなく、幾度も心が折れかけた。
そして。
自我とひたすら向き合うような日々を、延々と繰り返すうち。
剣士は、天から降ってきたかのように唐突に、気づいてしまったのだ。
――・・・あぁ。これは、・・・「愛情」、か。
導き出された答えにぎょっとして、何とか抗おうと首をふってみたが、無駄だった。
そして全てを受け入れたその瞬間、彷徨っていた感情が妙に綺麗な形で、剣士の懐深い場所にストンと堕ちた。
なんだ。簡単じゃねぇか。
俺はコックを、・・・“好き”なんだ。
あのシャボン玉の町で、イメージよりも少しガッチリと肩幅の広くなったコックと再会を果たした剣士は、一目で「あぁ、やっぱり。」と思った。
ふたりでの買い物は妙に浮き足立ち、「黙って俺について来い」などと宣うコックに不覚にも一瞬ほだされかけ、流れてしまった酒の誘いだって、不器用なりに、楽しみだったのだ。
・・・アホコック、船長のことは、名前で呼びやがる。
『この感情が、「嫉妬」か・・・。』
ふん、そういう趣味はねぇが。・・・仕方ねぇ。
剣士は確かに可笑しな自覚を抱きながらも、それを上回る圧倒的な感情に根負けし、ひっそりとひとり、納得したのだった。
しかし突如去来したこの想いを、この先どうにかしようなどという大それた気持ちは、その時の剣士には全くなかった。
いくら少々色づいた「大切」な感情だとしても、他の船員にそれぞれ思う「大切」さと、その“重さ”は変えられない。
海での一瞬の気の迷いは、死を意味する。
自分の夢のため、全員の夢のため。たとえ愛する仲間だろうが、間違った選択肢を選ぶなら、遠慮なくぶった切る。
信念を貫くためにも、ひとりだけ特別扱いをするのは、危険だった。
だから、これから先もずっと、アイツが生きている隣で、俺もひたすら生き続けようと、剣士は密かにそう、ただ純粋に強く覚悟を決めていた。
それだけ、のつもりだった。
あの雪の降る、あたたかい日に。
・・・涙を、見てしまったから。
もとから危なっかしいヤツだったのだ。
いつもヘラヘラ笑って女どもを追い掛け回すくせに、その実アタマが悪ぃわけじゃない。
いちばん冷静な判断を下せるのもヤツだったし、・・・認めたわけではないが、きちんと、「強い」。
人前で弱っているところなんか、ただの一度も見たことがなかった。
その揺るぎない瞳から、意図せず漏れ出す寂しさに、気づいたのはいつ頃だっただろう。
ふっとほころぶ笑顔にも、ふわふわ漂う紫色の煙にも、よくよく目を凝らせばどこかにいつも、哀しい色が滲んでいた。
思えばもうその頃から、俺はアイツを、「見て」いたんだろう。
戦いの時に見せる不安定な怒りのエネルギーも、食卓につかず給仕を続ける隠れた健気さも。コツンと力がかかれば、途端グラグラと揺らいで崩れ落ちてしまいそうな、ギリギリのバランスだと思っていた。
っとに・・・、危ねぇ。
剣士の目にはそんなコックが、まるで自身のなかに触れたくない傷でも抱えているかのように映った。
コック自身の気高い強さで、それは幾重にも厳重に隠されていたものの、だからこそその痛みは、腹の奥底で癒されることもなく、いつまでもシクシクと膿んでいるように思えた。
いつかは、伝えてやろう。
そう思って長いあいだ、特に機会も訪れぬまま、ただコックが崩れてしまわないよう、見守るだけの時が過ぎていたのだが。
あの、苦しそうに吐き出された、・・・涙が。
剣士の心の蓋を、ほんの一瞬、柔らかく開けてしまったのかもしれない。
たまらずキスをしてしまってから、すぐに後悔した。
『・・・バレた、な。』
言い訳は、山ほど考えた。
しかしそのどれもが、嘘だった。
それに。
あの熱い涙に、触れた瞬間。
この手で、守りたくなって、しまったのだ。
胸クソ悪くて、腹立たしくてむかついて、
強くて、弱い、・・・大切な、アホコックを。
船はもうすぐ、この炎と氷の島を出て、新たな冒険へと走り出すだろう。
せっかく大きな戦いが終わったばかりだというのに、ちっとも安らぐ暇がない。
ひとつ、問題を片付けるたび、さらに大きな課題がドサリドサリと降りかかってくる。
なんて神様に愛された船だ。
・・・いいじゃねぇか。
どんちゃん騒ぎにはますます興が乗り、賑やかな笑い声が船をいっそう幸福に彩る。
海賊も、海軍も、子どもたちも入り混じった華やかな景観に、はちきれんばかりの自由が輝く。
少し離れた向こうの岩陰から、紫色の煙が立ちのぼる。
そこにいるんだろう?
それじゃあまるで、SOSみてぇじゃねぇか。
あいつの、心の痛みが、聴こえる。
今日こそは、伝えよう。
あの日と同じ、雪が降るから。
『なぁ、サンジ。』
剣士はまっすぐに、煙に向かって歩を進める。
もう、迷わない。
来い、俺と一緒に。
――・・・「生きろ」。
( 完結 )
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