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アルタイルの苦悩
2)ローと、サンジ
「・・・つれねぇヤツだな。」
「・・・んだよ。見てたのかよ。」
空になったコップをシンクにカタリと置くまで、コックは背後の気配に気づかなかった。
ついさっきまで、そこには誰もいなかったのだ。無理もない。
このざらざらとした感覚は、暑さのためだろうか。
頭はぼうっとしているのに、胸の奥の方だけが、妙に冷たくしんとしているようだった。
「別に、見たくて覗いてたわけじゃねぇ。」
普段はやたらとボリュームのある帽子をかぶっている客人も、今日の暑さに耐え兼ねたのか、無造作に髪の毛を跳ねさせたまま、どかりと床に胡座をかいていた。
トラファルガー・ロー。天下の七武海様は、ひとつ前の島で組まれた「同盟」のため、しばらく前からこの船に同船している。
それにしても。
・・・いつの間に、そこにいたんだ、こいつ。
「・・・それも、てめぇの変な能力か?」
「たまたまだ。ロロノア屋の大声で目が覚めた。面倒に巻き込まれたくねぇから、帽子と入れ替わった。てめぇがここにやってきた。・・・それだけだ。」
「・・・ふん。」
胸のポケットを探って、取り出した煙草に火を付ける。
心なしかゆっくりと吐き出された紫煙が、ふわりふわりとキッチンの空気に溶けていく。
「・・・暑ぃな。・・・なんか、飲むか?」
「あぁ。」
気を取り直したコックは、外科医にそう、声をかけた。
客人のそっけない受け答えにも気を悪くせず、コックは「はいよ」とひと声かけて、フルーツ絞りに取り掛かる。
わかるのだ。
拒否によるそっけなさと、単に装飾がないだけの、まっすぐな言葉との、違いくらい。
「ノースじゃあ、こんなに暑い日は、珍しい。」
「おぉ、そうだな、てめぇもノース出身だったなぁトラ男。」
「つい、厚着の癖がついている。」
「ははっ、確かに、なんだかもこもこしてやがんなぁと思ってたぜ。」
襟元についている黒いふわふわを、チラリと見遣りながら、氷を砕く。
この客人、ひょっとしたら、暑い空気は苦手なのかもしれない。
シトラスジュースの隠し味にはミントを入れて、ひんやりと爽やかに仕上げることにする。
「なに、怒ってやがった?」
「なんだって?」
「ロロノア屋だ。あいつ、なに怒ってやがったんだ?」
ガリガリと氷を砕く音が、キッチンに煩く反響している。
その音にかき消された外科医の言葉はしかし、サンジの耳にはしっかりと届いている。
ふぅ、と一息ついたコックは、カランとコップに氷を入れてから、絞っておいた果汁をとぽとぽと、その透明な空間に注いでいった。
「・・・知らねぇよ。マリモのご機嫌なんか。・・・俺にもよく、わかんね。」
おらよ、と目の前に差し出されたコップを、どことなく不思議そうにしげしげと眺める。
そうしてしばらく見つめていた外科医は、右手でそれをひょいと持ち上げたかと思うと、コックの瞳に向かってまっすぐ、言葉を発した。
「ありがとよ。」
うぐ、・・・
声にならない声が、喉元から零れ落ちる。
不意打ちで寄せられたあまりに率直な言葉に、ドキリと一瞬、心臓が大きく脈を打った。
「あ、・・・あったりめぇよ。コックがこんくらいできなくてどうする。・・・て、てめぇは今まで、何喰ってやがったんだ、んな不思議そうに、じろじろ眺めやがって。」
「何、喰って・・・?」
慌てたように取り繕ったコックにそう言われて、ローはぼんやりと、これまでの食生活を思い浮かべた。
死なない程度に、栄養を取っていれば、それでよい。
つまり食のことなどほとんど考えたこともなかったローは、日々なんとなく、目の前に出てくるものを、口にしてきただけだった。
それは、船員たちが用意したものであったり、島で立ち寄った店屋だったりしたのだが、そのメニューを改めて問われると、
「・・・?」
「てめ、・・・ひょっとして、覚えてねぇのか?」
「ん、あぁ・・・、興味がない。」
「はぁ?!」
サンジは素っ頓狂な声をあげた。
自分が命をかけるほど大切にしているものが、別の人間にかかると、こうも価値が違うのか・・・。
こいつ、食に困ったこともなきゃ、考えたこともねぇんだろうなぁ・・・。
怒りを通り越して哀れみすらたたえたその様子に、怪訝な視線をくれる外科医を見遣って、サンジは大きくため息をつく。
「お前、とりあえず、好きなもの喰え。な。」
「あ?」
「どうせ、いいモン喰ってこなかったんだろ、これまで。うちの船にいる間くれぇ、てめぇのワガママ聞いてやっから。リクエスト、考えとけ。」
「・・・リクエスト、とは、」
「そうだよ、なんかあんだろ、喰いてぇもん。なんでもいい、あぁ、・・・ほら、冷てぇモンとか、甘いモンとか、そういうんでもいいぜ。あとほら、ノースの料理なんかどうだ。久々に喰うと、懐かしくってうめぇぞ。」
「・・・考えておく。」
しっかりと頷いたローの目を見て、サンジもまた、満足そうに頷き返す。
なんのことはない。こいつ、言葉が少々足りないだけで、素直なヤツなんだな。
コックの繊細な心はそう、外科医を見定める。
あの、腹巻野郎と大違いだぜ・・・。
はぁ、と小さくついたため息を、目ざとく見つけた外科医の表情に、サンジは思わず、ぽろりと言葉を漏らした。
「・・・わかんねぇんだよ、マリモのことなんかちっとも。」
「・・・?」
「避けたきゃ避けりゃいいんだ。ぶった切って、無視してくれりゃあ、こっちだっていくらでも応えてやんのによ。・・・あんな傷ついた目ぇ、しやがって・・・、いったい俺ぁどうすりゃ・・・」
そこまで言いかけて、はっと、口をつぐむ。
出身が近い親近感なのか、哀れみからくる優しさからなのか、妙な安心感が、サンジを包んでいた。
その雰囲気に飲まれたように、意図せずほろほろと、言葉が零れ落ちてしまう。
「・・・悪ぃ、つい。」
「いや、構わねぇ。」
外科医は何かを悟ったかのように、静かに次の言葉を待っている。
「・・・はは、っとに、・・・情けねぇ。」
それは、手の届かない焦りだったか、身を切られるような切なさだったか。
コックが苦しげに漏らした声色が、ほんの微かに震えていたのを、ローは目を閉じることで、見なかったことにしたのだった。
その他のお話は、こちら・・・ 1)ゾロと、サンジ