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虹の飛翔 6

旅立ちの、前夜。

今夜は、ゾロしては珍しく、迷うことなく目的地に辿り着いていた。

軒先に揺れる、すすけた暖簾。青地に白で、「風車」。

「あら、ゾロ。いらっしゃい」

「おう。……ん?」

異変には、すぐに気付いた。

なんせこのひと月と少し、数日を除いては、毎日のようにこの店に通いつめたのだ。

いつもそこに“ある”はずの、あの、洗練された鋭い気配。それが、なぜだか、今宵は。

「あぁ。サンジくんなら、ついさっき出かけちゃったわよ?」

「は…………」

おナミの言葉に一瞬言葉を詰まらせたゾロは、突然何かに思い当たったように、さっと顔色を青ざめさせた。

――まじぃ。

「あ、ちょ、ちょっとゾロ! あんた一人でどこ行く気?!」

素早く踵を返したゾロは、後ろから追いかける声に振り向きもせず、ただ一心に風を斬った。

頭のなかに、最悪のシナリオが現れては消える。

 

 

『最期ぐれェ、ひっそりと死にてェよなァ。月明かりもねェような、真っ暗な夜に。まるで子猫が、そうするようにさ』

そうしたらてめェ、俺の体、拾ってくれるか?

あの夜。

一瞬、驚いたように目を見開いたゾロを見遣って、板前はにか、と無邪気に笑った。細い月の落ちた、春の夜。

戸惑うゾロが何も答えないでいると、つれねェなぁ、そう呟いて煙を吐き出した。ゾロは板前の暖かな膝に寝転がって、下からそれを眺めていた。紫色の、霞が揺れていた。金に隠れる、白い横顔。

ゾロはそっと、それを見つめたのだけれど、丁度月は雲に隠れて、美しい陰影を落としただけだった。

 

 

「あいつ、死ぬ気じゃねェだろうな……!」

ゾロはぎりぎりと奥歯を噛み締める。傍を吹き抜けていく春の夜風が、耳元でひゅうと音を立てていった。

板前が向かったのは、間違いない。

あの、暗く深い山径のはずだ。

『クソ、間に合え……!』

腰に刺した刀が、カチャカチャと煩く音を立てる。刀は主人の焦りを見透かしたように、今はひっそりと息を潜める。

なんでだ。なんで、気付かなかった……!

ゾロはもう一度、板前の声を思い出す。

――最期ぐれェ、ひっそりと死にてェよなァ。

ゾロは煌く星空を見上げ、焦燥に任せて舌を打った。

光を吸い込む真っ暗闇。春霞に揺れる金色の星。

小さな宝石はゆらゆらと瞬いて、囁かな微笑みを零している。

月の見えない、静かな夜。                                                                                      

 

今宵は、新月。

 

 

 

ゾロはひたすら走り続けて、山の中腹で息をついた。

「ったく急いでるっつうのに、……なんつう山だ!」

しばらく前に「風車」を出発してから、幾分かの時間が経っている。

なんせこの山、やたらと入り組んでいるのだ。曲がり角を右に曲がれは、左の風景が目前を掠める。まっすぐに坂道を登っていたはずなのに、なぜだか同じ看板に出くわす。

ひょっとして磁場でも曲がってんじゃねェかと、ゾロは曖昧に首を傾げた。とすればなおさら、この際山賊でもいいから「人」に出会いたい。事態は一刻を争っている。

「クソ、誰かいねェか!」

いっそ襲いかかって来やがれ! と、半ば自棄っぱちに思いかけたところで、ゾロは遠くに人影を見つけた。

大きな大きな、大樹の根元。ひとりの人間が、うなだれている。

早速駆け寄って、声をかけた。危険な奴かどうかなど、判断している暇はない。

「おい、ちょっと訪ねてェんだが……」

人影はゆらりと、ゾロを見上げた。

どうやら人影の正体は、歳を取った男のようだった。山賊というわけではなさそうだが、どんな顔をしているのか、闇に隠れてよく見えない。

老人は幹にもたれかかり、ぜぇはぁと苦しげな息をしている。

「……なんでそんなところから、げほっ、……人が、出て来やがる」

「悪ィじぃさん、時間がねェ。金髪ぐる眉の男を知らねェか?」

単刀直入にそう尋ねると、老人の瞳が一瞬、ぎらりと光った。

……なんだ?

「――その男が、どうかしたか」

「死ぬ気なんだ。あのクソ野郎、自分が死ねば、全部丸く収まると思ってやがる」

ゾロは端的にそれだけを述べると、無意識のうちに舌打ちを打った。

馬鹿なあいつが考えそうなことだった。

自分が死にゃあ、蝶が舞うだろうと。そうすりゃあ不死の薬が、手に入るだろうと。

だからあいつは、俺にあんな台詞を聞かせたのだ。

『最期ぐれェ、ひっそりと死にてェよなァ』

――だからてめェが、探しに来い。

どんな賭けだ、とゾロは微かに苦笑を零した。あまりに、負け戦過ぎやしねェだろうか。だいいち俺が気づかなけりゃ、無駄死にになるところだったじゃねェか。

「――あいつには、大切なじじぃがいるんだ。別に、命賭けてまで守りてェもんを、否定するつもりは毛頭ねェ。だけど、だったら、もっと他人を頼る方法があるはずなんだ。あいつは……自分を、犠牲にしすぎる。それは、本当の強さじゃねェ――」

ゾロは言って、奥歯を噛み締める。

 

 

幼馴染が、死んだ夜。

夜の道場でひたすら鍛錬に打ち込んでいたゾロの、ごうごうと唸る剣を、師匠は黙って取り上げた。

『なにすんだよ! 俺はもっともっと強くならなきゃいけねェんだ! 約束したんだ! 邪魔すんな!』

金切り声でまくし立てる小さな体は、広い胸にぽすり、と収められた。

抱きしめられた師匠の胸は、ひどく汗臭くて、泣きたいほどに、暖かかったのを覚えている。

『人に、甘えられること。他人に、弱みを見せられること。悲しい時に、泣けること。それができてこそ、真の剣士です。くいなも、それを願っていますよ』

――強く、なりなさい。                                                                                                                   

くしゃり、と頭を撫でられて、ゾロはわんわんと大声で泣いた。

 

あれから、幾年もの月日が経った。

俺は少しでも、強くなれたのだろうか。

 

 

「……ごほ、げほっ、はぁ……金髪野郎なら、男共に連れられて行った」

「っなに?! おいじぃさん、そいつらどっちに」

「焦るな。ほら、これ」

老人が、小さな紙切れを差し出す。それはチリチリと煙を上げて、さらに小さく消えかかっている。

「“ビブルカード”だ。これの指し示す方角に行きゃあ、あいつのところまで辿り着く」

「あ? なんでじぃさんが、そんなもん」

「大切、なんだろうが」

老人はぎらりと眼を光らせて、真正面からゾロを見据えた。

今にも死にそうな顔面にはしかし、生きることへの執着が滲んでいるようだった。

「げほっ! ごほ、っは、ごほっぐはっ」

「お、おい、じじぃ大丈夫か」

「はぁ、はぁ、はぁ……ごほっ、追いついた、ところで、……はぁ、……こんな体じゃあ、何もできねェ。……おい、クソ坊主。あいつのこと、…………頼んだぞ」

そう言って、まっすぐにゾロを見つめる。

真っ暗な夜を映し込む瞳に滲んだのは、紛れもない。死ぬまで生きるという、凄まじい覚悟だった。

 

 

 

「ふん……そんなもんかよ、てめェらの“実力”はよ。そんなんじゃ、全然ヨくなれね、っんう! あ、っく……んんっ」

一体、どのくらいの白濁を吐き出したのだろう。乾いていた地面は今やどろりと湿って、生臭い風が頬を撫ぜている。

「っ、あぁ! あ、あ、あ、っあう、んんっ、はっあ! ……はぁ、はぁ……は、そんなんじゃ、全然、イけねェ……!」

ドスリ、と重たい音が響く。げほげほ、と激しく咳き込めば、地面は真っ赤な鮮血に染まった。

綺麗だな、とサンジは思う。

美し星の、降り注ぐ夜。見上げる空に、月は見えない。

「けほっ、けほっ……おら、まだ、俺はイケるぜ……? 死ぬまでヤるっつったのは、どこのどいつだ……ほら、かかってこいよ……その程度の刺戟じゃ、俺ァ全然、ヨクなれねんだよ……!!」

ぐん! と奥を抉られて、サンジの体は弓なりにしなる。静かな闇を、叫声がつんざく。

空に仰け反った白い喉は、男たちの熱い掌に包まれ、鋭い熱でぎりぎりと締まった。

 

――そうか。……死ぬ、のか。

 

目の前がぼんやりと、霞みはじめる。

不思議と怖くはなかった。あとはただ、あいつを信じるだけだ。

いきなり飛び込んで来て、俺の作る飯を美味そうに喰った、あいつ。

『ったく、他人にゃ興味ねェかと思いきや、勝手に人のこと、嗅ぎまわりやがって』

サンジは静かに、瞼を落とす。

あいつの、太い腕も、硬い指も、汗の匂いも、切なそうに孔を穿つ熱い視線も、全部全部、覚えている。

『っとに、物騒な気配、纏いやがって。おナミさんを泣かせたら、死んでもただじゃおかねェからな』

サンジはふわりと口元を緩め、なんとか呼吸をしようとひくひく動く喉を、よしよしとなだめる。

大丈夫だよ。――怖く、ないから。

にこり、と柔らかな笑みが零れる。不思議だった。あいつのことを考えると、自然に体が熱くなる。

“それ”を伝えられなかったのだけが心残りだったけれど、今から死ぬ奴に打ち明けられたところで、あいつだって困っちまうだろう。

これで、いいんだ。

『俺の蹴りを受け止めた奴ァ、てめェが初めてだったよ』

なぁ。知ってるか? 俺、強ェ奴は、嫌いじゃねェんだ。

なぁ。てめェはムカつく野郎だけど、俺、てめェが来んの、結構楽しみにしてたんだぜ。

なぁ。にぎりめし、美味かったかよ。

なぁ――……

 

 

ふわ、と甘い風が吹く。

月の見えない暗い夜に、どこからともなく明かりが灯りはじめる。

ひとつ、ふたつ、みっつ……――

明かりはだんだんにその数を増して、いつしか数え切れないほどの光を放つ。

一面を覆い尽くす、神々しい、光の絨毯。

強く、弱く、再び、強く。

ひらひらと舞う金色の羽は、美しい虹色に輝いている。

 

 

迷子になんか、なってねェだろうな。

しっかり、ジジィに、届けてくれよ。じゃねェと、死んだ俺が、浮かばれねェ……。

 

「死ぬな!!! サンジ!!!」

 

意識の途切れるほんの手前。

甘く届く咆哮に笑みを零して、サンジはたった独り、深い深い眠りに落ちていった。

 

 

 

――なぁ

 

 

 

……ゾロ。

 

 

 

てめェが、好きだった。

 

 

 

(続)

 

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