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虹の飛翔 7

――……、い……おい、……おい!

「おい!!!」

「っ! ……んん? っ、……痛ェ……」

目を覚ましたのは、暖かな腕のなかだった。

サンジは惚けたように、目前に迫った蒼白の顔面を見つめ返す。

あれ。俺、死んだと思ったけど。

だんだんに意識が戻り始めると、体中のあちこちが痛んでいることが朧げに自覚されてきた。

情けないくらい繰り返し男たちの鎌首を突っ込まれていたケツの穴は、ぽってりと火照って泣きそうなほどヒリヒリしているし、たぶん、骨も内蔵も、いくらかイッちまってる。……けど。

――俺、助かった?

「てんめェ……! 阿呆が、無茶苦茶なことしやがって!」

「痛っ、ってェよクソ坊主」

サンジを抱きしめる腕に、ぎゅうと力が加えられた。捻った首筋がきりきりと痛んで、折れた右腕はみしみしと音を立てる。腹への締め付けがキツいせいで、内蔵に溜まった血液が逆流しそうだ。……死ぬ。

「……蝶は?」

「ったく……自分のことより人のことかよ、相変わらず……」

サンジの言葉に、ゾロは大きく溜め息をついた。柔らかな金糸を梳く、ごつごつと硬い、無骨な掌。

どうしてこんなにも、愛おしいのだろう。

「蝶々は、死んだ。一匹残らず」

「は?! え!? じ、じゃあ、クソジジィは」

「馬鹿、落ち着け。最後まで聞きやがれ。てめェのじぃさんが、すぐそばまで来てたんだ。どうせこんなこったろうと、思ってたらしいぜ。ったく、てめェのお節介のせいで無駄に寿命縮めるところだった、っつって、大文句言ってたぜ、あのじぃさん」

ゾロは意地悪く口端を歪めて、サンジの頭をくしゃくしゃと掻き乱した。いつも通りの仏頂面にはしかし、隠しきれない喜びが滲んでいる。

そうか。ジジィ……助かったんだな。

「さっさと帰っちまったみてェだけどな。明日の仕込みがどうとか言ってよ。ったく、こんなことなら俺がわざわざ摑まえに来るまでもな、っ…………おい」

戸惑うゾロを、さらに強く抱き締める。そ、と背中に触れてくる掌が、じわりと甘く熱を帯びる。

ずっと、こうしたかった。ずっとずっと、欲しかった。

だけど、ダメだったのだ。だって俺は。俺の命は――

 

「……本当に強くなるには、弱さを認めなきゃならねェ、らしい」

おもむろに、ゾロが口を開いた。

潜めた声が大切なトーンを纏っていたから、サンジはじっと、耳を傾ける。

「力任せに剣を振るうとか、どんどん体を固くするとか、そういうのを弱いとは、もちろん言わねェ。だけど、真の意味で強くなるには、自分の弱さを受け入れて、それと共に歩んで行く道しかない、……らしい。うちの、師匠の言葉だ」

ゾロはどこか虚空を見つめて、掠れた低音で言葉を紡いだ。心地よい波が、鼓膜を震わせる。ゾロの、心の、声が聴こえる。

「そいつのためなら死んでもいい、だなんて、体のいい甘えに他ならねぇ。死ぬほど大切だってのは、わかる。だが、死んじゃいけねェんだ。絶対に。てめェが大切に思うように、てめェだって、めちゃくちゃ大切に思われてんだよ」

ほろほろと透明な宝石を零しながら、サンジは静かに、頷きを返す。

聴こえる、聴こえる、ゾロの声が。

 

ゾロの心の、涙する声が。

 

 

「……賭けだったんだ」

サンジがぽつりと言葉を零した。

ゾロは小さく首を傾けて、次の言葉を促している。

「理屈で考えりゃあ、蝶が現れたら、死にそうな俺は助かるはずだった。だけど、確証があったわけじゃねェ。死んだ奴は帰って来れねェわけだから、蝶々を見た全員が助かったっつう、裏を取ることはどうしてもできなかった」

生きられるかもしれないけれど、死んでしまうかもしれない。

生きていたいという期待を抱くと、死にたくないという不安が生まれた。

希望と絶望が、終わりのない追いかけっこ繰り返す。

それは、果てしなく続く、残酷な問答だった。

「だから俺は、生きることへの執着を、捨てることを選んだんだ」

かつて、その尊い命の全てをかけて自分を守ってくれた、ジジィのために。

次、もしものことがあったら、自分の「生」の全てを賭けてでも助ける。それはサンジにとってはもはや、至極当たり前の「日常」だった。

――はず、だったのだけれど。

 

静かな細月が佇んだ、あの、暗い夜。

『そうしたらてめェ、俺の体、拾ってくれるか?』

あれは、思わず出てしまった、「本音」だった。

「覚えてるか? てめェはよ、心底驚いたみてェな顔で、俺のことを見返して来やがったんだ。あんな顔、されるとは思わなかった。だからそれ以上、何も言えなくなっちまった」

「なんで」

サンジは短く息を吐いた。

ゾロの反応は、予想だにしないものだった。

サンジは思わず口にしてしまってから、しまったと思っていた。

――変なこと、言っちまった。

反射的に、身構えた。おかしな奴だと馬鹿にされるか、下らん事だと一蹴されるか、さもなくば怒って全てを問いただされるかと思ったのだ。

しかし。

ゾロの反応は、想定の範囲を超えていた。

まさか俺が、明日にでも死ぬ覚悟ができていることなどは、露ほども思い至らないまっすぐな視線。

生きることしか考えていない、阿呆らしいほどの、その「強さ」――

「俺は、止めて欲しかったのかもしれねぇェなぁ」

サンジは「はは」と自嘲を落とす。寂しげな笑いが、山の端に響く。

「弱ェだろ? 結局、生きることも、死ぬことも、中途半端だったんだ。誰かのために生きてることしかできねェくせに、自分の命を捨てるのは、本当は怖くて……」

「十分、強ェじゃねェか、てめェはよ」

サンジの言葉を遮って、ゾロが小さく声を漏らす。

視線の先に、エメラルドの海が見える。優しい色だ、とサンジは思う。

「俺のこと、信用してくれたんだろ」

――十分じゃねェか。

じっと、見つめ合って。

まっすぐにそう、零してから、ゾロは小さく、口づけを落とした。

 

「もう、死ぬだなんて言わせねェ」

「はっ、なんでてめェが」

「俺のために、生きろよ板前」

「……意味わかんねェこと言ってっと、三枚にオロすぞクソマリモ」

 

「好きだ」

 

サンジは今度こそ驚きに目を見開いて、ゾロの顔面を見つめ返す。

……今こいつ、なんて?

「なんつう顔してんだよ」

「え、いや、……え? は? てめ、今、何言っ」

「おぉ。何遍でも言ってやる。てめェを、愛してる」

 

――愛してる。愛してる。……サンジ。

 

深い深い、口づけが落ちる。

それはとびきり甘い、林檎のような。

 

 

「馬鹿野郎……俺もだ。――クソ阿呆マリモ坊主」

「……素直じゃねェなァ」

はは、と暖かく笑いかけながら、抱きしめられたその暖かさを、きっとサンジは、一生忘れることはない。

 

 

 

 

「じゃあ、しばらくのお別れね」

「あぁ」

「忘れ物はない?」

「あぁ」

「航路は確認した?」

「あぁ」

「ほらここ、服に皺寄っちゃってるじゃない」

「あぁ」

「百万ベリー、くれる?」

「あぁ」

「……んもう! ちょっと、ゾロ!!!」

おナミの大声に、ゾロははっと、我に返った。

「ったく……サンジくん、ちゃんと来るってば。もう、心配性なんだから……」

板前は今朝早くから、風車に篭って姿を見せない。

なんせ、昨日の今日なのだ。無理はさせたくなかったが、それでもやはり、どうしても最後に一目、会いたかった。

ゾロはぼんやりと、遠くの通りを見つめる。賑わう町の、喧騒。そこに、板前の姿はない。

「まさかあんたらがそういうことになろうとは、思ってもみなかったけど……」

まぁ、サンジくんの、命の恩人だからね。

はぁ、とこれみよがしに溜め息をついて、おナミはそっと涙を拭う。昨夜の一連のできごとについては、板前の今後に差し障らない程度に、掻い摘んで報告済みだ。なんせしばらく、店になんて立てそうもない。

とはいえ当の板前は「これでおナミさんに看病してもらえる!」と、えらく浮かれていたのだが。

「ゾロ、たまには遊びに来いよ! 俺様のすげェ発明、見せてやっから!」

「おぉ」

ゾロはチラリと、ルフィを見遣る。

ふたつの視線がぶつかると、向こうからは無邪気な笑顔が返った。

こいつは端から、全て気付いていたのかもしれないとゾロは思う。……全く、どいつもこいつも侮れねェ。

「ゾロの兄貴ィ! そろそろ出航いたしやすぜェ!」

「あァ、今行く」

揺れる小舟に、片足を乗せる。今日は素晴らしい、出航日和だ。

「世話になったな」

「またいつでも来なさいよ。次は、迷子になんないでよね」

あんたが迷子になると、面倒臭いんだから!

そう言って笑ったおナミと握手を交わし、両足を船に乗せた、その時。

「おーーい! 受け取れ、クソ坊主ーーーー!!」

ひょい、と投げられた包み物が、小さな船に向かって弧を描く。

空からどさり、と降ってきたそれは、ド派手な落下音を響かせて、ぐらぐらと上下に船を揺らした。

「重ェ……」

「はぁ、はぁ……病み上がりに重労働はきちィぜ。ったく、面倒かけやがって」

「俺ァ別に、頼んでなんか」

「いいか、大事に喰えよ? どんだけ迷っても、これだけありゃしばらくはもつ」

そう言って、にか、と満面の笑みを零す。

途端どきりと、心臓が跳ねる。

ったく、こいつにゃ負けっぱなしだ。何やってんだ。……ベタ惚れじゃねェか、俺。

「悪ィな。礼を言う」

「なに、俺にできんのはこんくらいだ」

あとは、てめェを、待ってることくれェか――

ことさらに小さく声を潜めて、板前がそろりと言葉を紡いだ。

ゾロは面食らって喉を詰まらせる。よくよく見れば板前は、耳の後ろまでを美しい紅に染め上げているようだった。

あぁ、クソっ。

――今すぐ、抱きてェ……!

 

「そんじゃあゾロの兄貴、出航しますぜ!」

「おぉ、頼む」

「みなさんも、兄貴がどうもお世話になりやした!」

「本当よ、まったく、迷惑ったらありゃしないんだから! また迷惑かけに戻って来なさいよね」

「ゾロぉぉ! おいおいおい……俺ァ寂しいぜェ……。てめェと次に会う時にゃ、俺、もっと強ェ岡っ引きになってっからなぁ!」

「ゾロ、次は俺と喧嘩しよう!」

「そりゃ、いいな」

「……クソ坊主、」

「だから、俺は、坊主じゃねェ」

煙管をぷかりと吹かし上げ、板前は静かに空を見つめる。

紫の煙が、ふたりの間をふよふよと漂う。

季節はもうすぐ、初夏の色だ。

 

「俺の飯、一生喰わせてやっから、覚悟しとけ」

 

一瞬、静まり返った港が、高らかな笑い声を響かせて、美しい蒼は空に弾けた。

動き始めた船は少しずつ岸を離して、人影をぐんぐんと小さくさせる。

「……寂しいっすね、兄貴」

「あぁ」

――でも。

「何度でも、また会えるさ」

生きてさえ、いれば。

遠くの岩陰に、人影が見える。それは静かに佇んで、ゾロの往く道を見守っている。

『じぃさん……長生き、しろよ』

ゾロは大きく息を吸い込んで、呑気に輝く天を仰いだ。

海はどこまでも蒼く、空の匂いを溶かして揺れている。空を渡る白い鳥が、甲高い鳴き声をひとつ、落とす。

ゾロは大きく、背伸びをする。

「くあぁぁ……ひとまず、寝るか」

ごろんと甲板に横になって、ゾロは静かに瞼を瞑った。

 

暗闇を照らす明るい光が、消えようとも。

進むべき道が、途絶えようとも。

幸福なんかそこらじゅうに、転がっているのだ、本当は。

 

「兄貴ぃぃ! あっし、腹が減りやした! もらったにぎりめし、食べやしょう!!」

ヨサクの掛け声に片手を上げて、怠惰な眠りに落ちていく。

 

 

たぶん、この先も、ずっと、続いていくのだろう。

寄せては返す、波のように。満ちては欠ける、月のように。

苦しさも、楽しさも、混ぜ込みながら。

それこそが、「幸せ」ってヤツなんだろうと、ゾロは思う。

何度でも繰り返される、幸福の輪廻。

難しいことはわからねェけど、生きていくというのは、きっと、そういうことなのだ……たぶん。

 

ゾロは適当に考えを巡らせていたが、海風の心地よさにいよいよ鼾を上げはじめた。

ぐうぐうと煩い音に乗って、春の波が朗らかに歌う。

暖かな陽射し。美しい蒼。愛する人の待つ、優しい時間。

 

ゾロはふわりと、笑みを零す。

 

 

そうしてあとに残るのはただ、寄せては返す、波の音――

 

 

 

 

(完 ―暖かいお付き合い、ありがとうございました!―)

 

 

 

 

 

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