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虹の飛翔 5

ひょい、と草むらを飛び越えて、板前が隣に降り立った。

さらりと落ちた金糸を掴んで、後ろ手にきゅ、と結い直す。加えた煙管からは相も変わらず、紫の煙が上がっている。

「……ごちそうさん。旨かった」

「ったりめェだろ」

俺の作った焼きおにぎりは最高だぜ、ったくマリモ野郎なんかにやるなァもったいねェくれェだ。

板前はくるくるよく回る舌で、次々と嫌味な台詞を吐き出していった。いつも通りの、見慣れた光景。いつの間にか、すっかり絆されちまってたんだなと、今さらになってゾロは気付く。

出航まで、あと四日。

「おいクソ板前」

「あァ? なんだよクソ坊主」

「これ片付けたら、てめェを抱かせろ」

さらさらと風を受ける金の糸が、蒼の瞳を隠して揺れる。

赤い夕日が影を作るから、何を考えているのかわからない。

「…………そりゃ、てめェ次第だろ、クソマリモ」

ニヤリ、と歪んだ口端に、ゾロの中心がぞくりと疼く。……かなわねェ。

「さっさと行くぞ。てめェにとっちゃこんな奴ら雑魚だろ」

タっ、と勢い砂を蹴って、敵陣のなかへと同時に飛び込む。美しい夕焼けが鮮血に染まる。

ひと振りの合間にチラリと視線を滑らせれば、目にも鮮やかな足技が、くるくると美しく宙を舞っているところだった。

 

 

「そろそろ、……いいか?」

「ってめ、んな、は、恥ずかしいこと、聞いてんじゃ、っあぁ……ん」

くちゅ、と淫靡な蜜音が響いて、湿った暗闇が熱に濡れる。引きずり込むように雪崩れ込んだ、町のはずれの古びた宿屋。長年の鍛錬で太く硬くなったゾロの指は、誘われるように後孔を探っていた。

「てめ、いい加減、しつけェんだ、よ……! んあぁっ! はぁ、あ、や、そこっ」

「……ここが、どうした?」

「っ! んでも、ね……っん、あぁ!」

暗く狭い通路の途中、僅かに硬く強張った部分にそろりと指を這わせれば、板前の減らず口からは抑えきれない嬌声が零れた。

「ぅぅ、くっ……おいクソマリモ! いってェなんの、嫌がらせだ!」

……嫌がらせ?

聞き捨てならない台詞が届いて、ゾロははたと動きを止める。板前がムカつく野郎であることに変わりはないが、嫌がらせを働いているつもりなど毛頭ない。むしろ抱かせてもらう礼を込め、できるだけ気持ちよくしてやろうと、こんなにも手を尽くし舌を尽くしてやっているというのに。

――まだ、足りねェっつうのか?

「……こっち、か?」

「んああぁっ! くはっ、はぁ……はぁ……。ば、っか野郎!! い、イっちまうだろうが!!」

後ろだけでは物足りないかと先触れに触れてみれば、この通りである。だいたいこいつ、男にゃ馴れてるはずじゃあなかったのか。

酷い剣幕でぎゃんぎゃんと吼え立てる板前の頬は、ほんのりと紅く上気していて、潤んだ瞳が壮絶な色気を放っている。

「んだ。足りねェんじゃ、ねェのかよ」

「あァ?! んだとアホ坊主! てめェはこんな、こ、壊れモン、扱うみてェに、抱きやがって……! 処理ならさっさと抜きゃいいだろ! それを、そんな、だ、だ……大事そうに、抱かれちまったら、か……勘違いしちまうだろうが!!」

ぽろ、と零れた透明な雫が、破るように脱ぎ捨てられた青い着物を染めていく。

空の蒼を映しこんだ、光の粒が水玉を描く。

「勘違い? そりゃいってェどういう」

「てめェは脳みそまで筋肉かよクソマリモ野郎! こんなん、ただのお遊びだろうが。それなのに、そ、そんな風に、……」

躊躇うように口ごもった板前は、何を思ったか目の端を真っ赤に染め、そっと小さく視線を逸らせた。

「そんな風に、……優しく、されちまっちゃあ、俺ァ……てめェのこと……」

 

 

 

あの日、行き成り世界に独り残されたサンジは、行くあてもないまま彷徨っていた。

誰かを頼ろうにも、身寄りがない。何をするにも、金がない。

サンジがふらふらと町を歩けば、心無い大人たちはひそひそと眉を潜め合った。

だから、町を出た。

そもそも「大人」のことなんか、とうの昔から信頼していなかった

「齢のいくつも行かねぇガキの頃だ。そうこうしているうちに、いつの間にか山径に入り込んじまったらしくてよ」

板前は瞳に静寂を湛えて、昔語りをとつとつと紡ぐ。

「悲しいことに腹は減るんだ。だから、なんでもいい、食べられるものを探して、俺は目の前の岩に手をかけた……」

 

ドーン! ガラガラガラ…………

 

はっ、と気付いた時には既に、サンジの小さな体は、雪山深くの谷底に真っ逆さまに転げ落ちた後だったそうだ。

人気のない、雪山の渓谷。

降り積もる雪。

死への恐怖。

「何度も叫んだ。大声で喚いた。だけど人っ子一人通らねぇ。そのうち、体がおかしくなってくるんだ。尋常じゃねェほど腹が減ってんのに、腹の虫が鳴かなくなってよ。まるで心より先に、体が生きるのを諦めちまったみてェだった。なんとか体を擦ったり叩いたりしてみるんだが、自分の体がもう、全くの別モンみたいで」

涙すらうまく流れなくなって、裂けた喉からは血の味が滲んだ。

『おれ、しぬのか……?』

ボロボロの体を抱え、幼いサンジは分厚い雪に倒れこんだ。

――このまま、眠っちまった方が楽かもしれねェ……。

自分が考えたのか、誰かに囁かれたのか、それすらもよくわからないまま、サンジはすうっと目を瞑った。

……その時。

シャク、と雪を踏む足音が、聞こえた。

サンジはぴくりと、耳をそばだてる。

『……おい、さっきから呼んでんのはてめェか、クソチビナス』

頭上から、重たい低音がどすりと響く。サンジは、恐る恐る薄目を開く。

曇りかけた蒼い瞳に映ったのは、辺り一面に舞い踊る虹色に輝く蝶の大群と、中心に佇む一人の大男だった。

 

「その光景があまりに綺麗でよ。俺ァついに天国への迎えが来たかと、心の底から覚悟したね」

だけど、これが天国なら、悪くねぇなとも、思ってな。

うっとりと目を細め、板前がへらりと口端を緩める。よほど、美しかったのだろう。まるで今まさに目前にその輝きが広がっているかのような恍惚の表情に、ゾロはごくりと喉を鳴らした。

反り上がった白い喉に、情事で滲んだ汗が垂れる。

――綺麗だ。今すぐに、噛みちぎってやりたいほど。

「ジジィは三日間、俺を庇って猛吹雪を浴び続けた。四日目に太陽が覗いたとき、俺は無傷で助け出され、」

ジジィの片足は、動かなくなっていた――

板前がふわりと、宙を見つめる。視線の先には暗い天井が、じっとこちらを見下ろしている。

何を考えているかは、やっぱりわからない。

「ジジィの足は完全に壊死していて、切断するより他なかった。……俺の、せいだったんだ」

俺の、せいで……

くしゃ、と床の着物を握って、板前はそろりと顔を逸らせる。

組み敷いた腕の中、小さくなって肩を震わせる白い背中には、罪悪感の羽が生えているみたいだ。

ゾロはそれに、そっと触れた。体は一瞬ぴくりと体を強ばり、そうしてゆっくりと、全ての力が抜けていく。

「……蝶がいることは、だから、確かだ。なんせ俺は、自分の目で見たんだ。しかも、山に入った奴らの証言もだいたい一致してる。つまり、死にかけたり、危険な目に合っているときなんだ、あの蝶々が人間の前に姿を現すのは。わかるか? てめェの筋肉頭に、この意味が」

サンジはニヤリと口元を歪めて、床に転がる煙管を拾い上げる。

うつ伏せになったまま火をつけると、ことさら丁寧に煙を吸い込んだ。

細い月が、二人を照らす。

 

――「虹色の蝶には、不死の力がある」

 

今度はきっぱりとゾロを見つめそう言い切った板前の瞳には、弓なり月を映し込む、蒼く美しい海が見えた。

 

 

 

(続)

 

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