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虹の飛翔 4

重厚な門前に立ち尽くすゾロは、仁王立ちに腕を組み、そびえる白壁を見上げていた。

立ちはだかる重い檜扉に、屋根瓦。真鍮で作られた二頭の獅子は、東の国の芸工だろう。なんだかやたらと、洒落ている。

ふ、と脇に目を移す。重厚な筆書きが添えられた、年季入りの表札がひとつ。

――ジパング城。

「あれ、ゾロじゃねぇか」

聞き覚えのあるアルトが耳に届いて、ゾロはおもむろに振り返った。

ふたりの視線がぶつかると、向こうからは「に」と全力の笑顔が返って来る。

ゾロはほんの微かに身構えて、それから大きく息を吸い込んだ。

なんせ自分は今まさに、コイツに会おうと、ここに立っていたのだ。

「おう、ルフィ。どうだ、最近は。悪党とやらの情報はよ」

「お前ェ、最近見ねぇな」                                                                                

努めて軽薄に取り繕った上辺の態度は、ルフィの鋭い声音にぴしゃりと遮られた。心根を見透かすような瞳の色に、瞬間どきり、と心臓が跳ねる。

ゾロはしばらく、風車に足を向けていなかった。

 

遡ること、数日。

ゾロの道場への帰還に対して、ようやく師匠からのお許しが出た、という伝聞が入った。駆け込んできた古株のヨサクは、肩をぜぇはぁと上下させ、最高に嬉しそうに笑って言った。

「ゾロの兄貴ィ! 辛ェお務め、お疲れ様でした! うぅぅ、ぐす、いや、泣いてなんかいねェっす。ずび。みんな、兄貴をお待ちかねですぜ!」

ヨサクは涙と鼻水で顔面をぐちゃぐちゃにしながら、生温く暖められた地図をポケットから取り出した。どうやら帰りは海上の道、小舟を使って二日三日の航海となるらしかった。

「港に、船を用意してあります。さあ兄貴、行きやしょう!」

そうか、帰れるのか――

ゾロはそう、淡々と思った。

あの、汗と涙の染み付いた、冷たい床のきしむ道場。厳しくも暖かい、小さな故郷……。

ほんのひと月と少しだというのに、なんだか随分と時が経ってしまったような気がしている。懐かしさに目を細め、ふと空を見上げたゾロの目に、遠い蒼が映りこんだ。

春の訪れを喜ぶような、美しく輝く、淡い蒼。

「……悪ぃがヨサク、十日ほど待ってくれねェか」

「え?」

自分でも、どうしてそんなことを言ってしまったのかはわからない。

心底不思議そうに反論を述べて立てていたヨサクは、ゾロのひと睨みに青くなって、いそいそと地図をしまい込んだ。

「そ、それじゃあゾロの兄貴! あっしは港で待ってますんで。きっかり十日後、港の船着場でお会いいたしやしょう!」

そうして朝から晩までみっちり詰め込んだ鍛錬の日々は、今日でちょうど六日目を迎えている。

 

そういうわけだから、風車に足が向かなくなったのは、完全なる不可抗力だった。久しぶりに手合わせを申し込む師匠に、下手な体たらくは見せられない。ひと月ほどの正座の日々で鈍ってしまった筋肉を、それまで以上に奮い立たせる必要があった。

だいいち自分としては、清々しているのだ。飯は美味いが酷くむかつく、あのクソ板前に会うこともなくなって……。

「で、用事はなんだ? ……サンジのことなら、俺からは言えねェぞ」

ぐ、と喉を詰まらせて、ゾロは一瞬たじろいだ。まさに今、その男のことを問おうと、喉を強張らせていたからである。

だいたい何が悲しくて今さら、こんなところにやってきてしまったというのだろう。別に飯なんかどこででも喰えるし、このままずっと会わなくなったって、自分としては一向にかまわないはずなのだ。

あの、細い月の落ちた夜。翌朝目を覚ましたときにはもう、板前の姿はなかった――

「じゃあ、てめェのことなら聞いていいのか」

「あぁ。もちろんだ」

「てめぇが板前を助けてェってなァ、どういう意味だ」

見つめ返す瞳が、瞬きを忘れたように黒く光る。

真一文字に結ばれる唇。半歩たりとも引き下がらない、意志を持った強い眼差し。

時代さえ違えば、こいつの下についてもよかったなと、ゾロはなぜだかそんなことを思った。

「……サンジのじぃちゃんが、死にそうだ」

「あ?」

思ってもみない台詞が飛び込んできて出鼻をくじかれたゾロは、二度ほどぱちくりと瞬きを落とした。

ゾロとしてはてっきり、蝶々を捕まえて傾きかけた店をどうこうしたいとか――そもそもこいつらが飯代払ってねェのが問題だが――掌で転がされてばかりのおナミとの仲をなんとか取り持ってやりたいだとか、そういう、大金はたけばなんとかなりそうな事案にばかり、考えを巡らせていたのだが。

……じじぃが、なんだって?

「サンジのじぃちゃんは、サンジの命の恩人だ。だから、俺の命の恩人でもある」

「待て待て待て、最初からわかるように説明、」

「説明なんかいらねェ。俺が、助けてェんだ」

まっすぐに突き刺さる眼光が、ゾロの胸をチリリとかすめた。本気、の勢いだけではない、熱を持った確かな気配。そうか、こいつ覇王色の覚醒者だったのかとゾロは瞬間に得心する。「王」の資質があるもののみが持ち得る、天に愛された特別な能力。そりゃあ、俺が下につきたくもなるはずだ。

なんだあのクソ板前、ちゃんと強ェやつに守られてんじゃねェか。

「で、その死にかけたじじぃのために、あいつは山賊の真似事なんかやってるってのか」

「山賊? なんの話だ? サンジは俺らの話なんか聞いちゃいねェよ。蝶々のことだってただのお伽噺だって、これっぽっちも信じちゃいねェ」

幼子のように口を尖らせたルフィは、だから俺が見つけるんだと鼻息荒く拳を握った。

『……言ってねェ、のか』

それもそうか、とゾロは思う。平和な飯屋の板前が山賊を装って情報を奪っている、ややもすれば男と体を交える一夜もあるなど、仲間に知られて気持ちのいい話ではない。

「ルフィさーん! どこですかー!」

門の内から、男を呼ぶ女の声が聞こえてきた。固い蕾もほころぶような、芯の通った明るい声。おそらくここの、姫様だろう。

「っと、俺、行かねェと」

「あ、おいルフィまだ話は終わっちゃいねェ! その喋々ってのは、」

「悪ィ! また今度な、ゾロ!」

にか、という笑みを残して、ルフィは軽々門を越えた。

開ける、必要はなかったらしい。

再び門前にひとり残されたゾロは、分厚い扉をまじまじと見詰める。

鈍色に光る、雄々しい獅子が、二頭。

向き合って睨み合う様はさながら大喧嘩の前触れのようで、しかし互いを見つめる瞳には、深い信頼が滲んでいるようにも見える。

『気になってるみてェじゃねぇか。これじゃあ、まるで』

――あいつのことが。

ゾロはがしがし緑頭を掻くと、川べりに向かって歩き始めた。

穏やかな春風が頬をなぜる。

心地よい花の香が鼻先をかすめる季節の狭間に、なぜだか今はただ、無心に剣を振っていたかった。

 

 

いつの間にやらぐっすりと眠り込んでしまっていたらしい。

サラサラと水の流れるせせらぎが耳に届き、吹き渡る匂い風には夕日の彩が溶け込んでいる。

疲れきった体を引きずって、寝返りを打とう、と身じろぎしかけたところで、ゾロはぴくりと動きを止めた。

……一人、二人、三人――

『ちっ。物騒な気配、漂わせやがって』

数にしてざっと、二十。野蛮な殺気はゾロを取り囲んで、じりじりと粘っこく間合いを詰めている。

ゾロは薄目を開けて、隣の刀をチラリと見遣った。刀は一瞬ギラリと光り、主人の命を今か今かと心待ちにしているようだった。数日前、別れを告げた直後に踵を返したヨサクから、受け取った愛刀「和道一文字」。相棒の戦う支度は、とうに終わっているようだ。

『こいつで斬撃を飛ばしちまえば、一気に十四、五人は硬ェが』

しかし……。

ゾロはおもむろに起き上がると、地面に手を付きよろりと立ち上がった。瞬間周囲の気配が緊張を帯びて、全ての切っ先がゾロに向かって光ったのがわかる。

『面倒だが……一人、一人斬るしかねェか』

よろ、と再びよろめきかけて、ゾロは両足に力を込めた。敵に無駄な隙を見せるわけにはいかない。

……クソ。

苦々しい舌打ちが、淡い橙にひやりと響く。

板前の顔を見なくなってから、六日め。

――ゾロは、とてつもなく、腹が減っている。

 

「おうおうてめェらよぉく見やがれ! そこに見えるはお偉ェお坊様じゃねェか! なぁに物騒な面下げて構えてやがる。なに? 物騒なのはアチラさん? いってェそりゃあどういうこった。なになに? 酒場で見かけたふざけた野郎と、同じ刀を持ってるだと? こりゃあいってェどういうことか、……説明してもらおうじゃねェか、坊さんよ……!」

ざり、と砂を踏む音がして、取り囲む気配がにじりよった。頭と思しき男はやたらと芝居がかった嫌味な口調で、取り巻きたちを焚き付けている。草むらのそこここから零れる、気味の悪い醜悪な笑み。ゾロはなぜだか薄ら寒さを覚えて、冷えてもないのに片腕をさすった。

『あいつ、……いつもこんな薄汚ェ奴ら相手にしてんのか……』

――そんなに知りたきゃ教えてやるよ。俺の“戦い方”を、な。

板前の、全てを諦めたような哂いが浮かぶ。

ゾロはぎりりと奥歯を噛んで、握り締めた柄に力を込めた。

その瞬間の感情を捨ててなお、戦い続ける板前の孤独。たかだか喋一匹捕まえるためだけに、身を売り捌く壮烈な覚悟。

俺は、あいつのこと、ほんのひと欠片も分かっちゃいなかったんだ……!

「おらおら坊さんよ、あんときの勢いはどうした? あぁ? 酒がねェと力が出ねェってか?」

げはげはと下衆た嗤いが満ちる。ゾロがぎろりと視線をやれば、春先の土手は水を打ったように静まり返った。

「……おいてめェら、さっさとこいつ殺っちま、っ!!」

薄汚れた号令を叫びかけた刹那だった。

視線の先で殺気立っていた頭の男は、腹を押さえて地面に膝をついた。

一陣の、風が吹き抜ける。

「うぐ、げはっごほ、っ……だ、誰だ?!」

「なぁにやってんの。クソ坊主サン」

聴きなれた甘い低音が、鼓膜を震わせる。

声の方角を唖然と見つめたゾロの腕の中に、ぽすりと小さな小包が落ちてきた。拳骨ふたつ分ほどの、小さな風呂敷包み。それは僅かにぬくもりを残して、どこか懐かしい香りを放っているようだった。

「腹、減ってんだろ?」

喰えよ。

そう言って、口元を緩めて笑う。

そいつの瞳には今、諦めでも、嘲笑でもなく、ぎらぎらとした、戦いの色が滲んでいた。

 

 

 

(続)

 

 

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