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みっつめの交差点で 3

「――はいOK、おつかれさん」

カメラマンから肩を叩かれてサンジははっと我に返った。

座り心地の悪い椅子が軋み、開いたままのファッション誌が膝の上から床に落ちる。

「あ……悪ィ、ラフ板の調整、俺の仕事だ。ミスった」

「いいよいいよ。今日はスタジオだしあんまり気にすんな。それよりどうしたんだよ、えらくお疲れじゃねぇか」

サンジははぁ、と息を吐いて金の糸をぐしゃぐしゃと乱した。

読みかけの雑誌を拾い上げながら目の前の鏡をちらりと見遣る。寝癖の立った柔らかな髪。

元来身なりには気を遣うたちだ。こんなこと、滅多にないのに。

サンジはいつものどおりの癖で左の胸ポケットをごそごそと探った。――あれ。出てくるとき、煙草、入れなかったっけ。

「あ~……いや、ちょっと、……寝不足かもしれねぇ」

「おいおい、大丈夫かよ。本格的に忙しくなんのは来月からだぜ? 今からそんなんじゃあ先が思いやられるぜ」

やれやれと溜め息をつきがらも心配してくれているようだった。ほれ、と差し出された紙コップからほかほかと湯気が立ち上っている。

「今日はさっさと帰ったほうがいいんじゃねぇか?」

「あぁ……いや、まだ編集が、」

「いいっていいって。あと最終チェックだけだろ? 俺やっとくから、定時で上がれよ」

ポンッ、と背中をはたかれてサンジは思わずお茶をこぼす。「あっちィ!」と声を上げれば「悪ィ悪ィ!」と笑顔が返った。

――俺、写真は好きだし。

そうか、こいつは、好きな仕事をやってんのか。

サンジははたと思い至ってウソップの背中をまじまじと見つめる。

長鼻の男はぺこぺこ頭を下げ、いつも通りにごまをすっている。

へらへらと崩れただらしない笑い。底が透けて見えるほどの下手くそな強がり。

丸まった背中はダサいのに、なぜだかそこには「プライド」が滲んでいるような気がした。

 

 

「38.5度……」

まじか……。

虫の息のように呟いてサンジはバタリ、とベッドに倒れ込んだ。

確かに頭が重いとは思っていた。体の節々も痛んでいたような気がする。背中をぞくりと走る悪寒は冬の気配ではなかったらしい。

「うー……」

気づいた途端熱が上がったような気がして、サンジは頭から布団をかぶった。

久しぶりに人ごみを歩いたからだろうか。それとも疲れていたのだろうか。

確かに空気は乾燥していて、かさつくゾロの唇を笑った覚えがある。

「辛ぇ……」

サンジはサイドボードに手を伸ばしスマートフォンの電源を入れた。指先でカレンダーをめくってみれば、明日の予定は取材が一件だった。比較的近場の飲食店だし、あそこはウソップに頼もうか……。

ぼんやりと画面を見つめていればぶるぶると携帯がうなり始める。

サンジはしばらく黙って見つめ、左の親指を画面に滑らせる。

「――もしもし」

『……忘れもの』

ぶっきらぼうな物言いはまさしくアイツのものであった。

耳慣れ始めた不機嫌な低音が、やけに心地よく鼓膜を揺さぶる。

『煙草……』

「あ? あ~…………」

そういえば、と思い出す。サイドボードに置いてあるのは家の鍵とスマートフォン。いつもはそこに煙草もあって、出勤前にポケットへ詰め込むのだ。

『昨日、店に忘れてそうだったから。持って帰っちまったけど、必要か?』

残りは、五本。

そう告げるゾロの声にサンジはそっと目を閉じる。

あの、黒い、潰れた箱を、ゾロが覗き込んで、煙草を数えている。

ぶっきらぼうに閉じられた口。人を射抜くまっすぐな瞳。柔らかな髪は風に揺れて秋の空に鮮やかに映える。

――こいつも、故郷に、逃げるのだろうか。

『別にいらねぇなら、』

「いや、いる。今すぐに。てめぇうちまで持って来い」

『はぁ?』

ついでにポカリスエットと、みかんゼリーも。

子どもみたいなサンジの頼みにゾロは一瞬気配を潜めたようだった。

『……わかった』そう、スマートフォンが声を届けた後から、サンジの意識はぼんやりと霞んでいった。

 

 

――ピンポーン。ピンポーン。

「ん、んん……」

閉じた目を無理やりこじ開けながらサンジはサイドテーブルに手を伸ばした。適当にボタンを押して画面が光る。午後22時38分。

――ピンポーン。

「はァい……」

のそのそとベッドから起き上がると体はぐっしょりと汗をかいていた。ずいぶん、ぐっすりと眠っていたらしい。サンジは髪の毛を適当に直しリビングルームを足早に抜ける。

頭の芯はぼんやりと重いが、どうやら熱はひいているようだ。

――ピン、ポーン。

「はいはい、今出てやるよ。ったくせっかちな」

適当に靴をひっかけてサンジは扉に手をかける。秋の夜長に沈むドアノブは熱っぽい体にひやりと冷たい。

サンジはそうっと丸窓を覗く。

――ピン、

「っゾロ!!」

バン! といきなり開いたドアにさすがのゾロも驚いたようだった。「うおっ」と小声を発して後ずさり、仰け反った格好でしばらく固まる。

「いきなり出て来んなよ……ビビった」

「あ、悪ィ。いや……ゾロ、てめぇなんで、ここ」

「探した」

状況が飲み込めずうろたえるサンジに、ゾロはぬけぬけと言ってのける。あまりに当然な表情をしているからうっかりサンジまで流されそうになってしまう。

「そうか。……じゃねぇよ! 探した? どうやって」

「あんたが荻窪で働いてるって言ってたから、それっぽいとこを」

「は、え? 俺の、仕事場を?」

「あぁ。雑誌社なんかそんなたくさんねェだろうと思って。今すぐに、っつったわりには既読つかねぇし、変なモン頼むしよ。てっきり死んだかと思った」

誰が死ぬか!

バシっ、と頭を思い切り小突いてこれみよがしに溜め息を吐く。不服そうにぼやく言葉が全く頭に入ってこない。埃っぽい玄関の床。

こいつ、こいつ、――クソ迷子のくせに!

「あ~、まぁ……その、上がるか」

「おぉ」

遠慮がちに声をかければなんのためらいもなく敷居をまたいだ。

ゾロは相変わらず馴染まないスーツに前と同じ黒縁の眼鏡をかけていた。おそらく仕事帰りなのだろう。あまり上手とは言えないけれど、ほんの少し髪の毛を整えてもいた。

部屋の真ん中のソファを見つけてゾロはどかりと腰を下ろした。ジャケットを脱ぎながらその辺のハンガーを適当に探す。

初めて来たくせに、ずいぶんとえらそうだ。

まるでサンジを見つけたことで、自分のものにでもしたかのような――

 

『家はどこだ』

『住所がわからねぇ』

『おい、起きてんのか』

『どこに行きゃあてめぇに会える』

『おい、アホ眉毛、生きてるか?』

『落ちてんのか』

『今から、会いにいく』

 

――会いにいく。

 

差し出されたポカリスエットを飲み干し室温に戻ったゼリーを流し込む。熱は眠っている間に下がったのだろう。胃にものが入って来ると急にお腹が減ってきた。

「お前、夕飯まだだろ。なんか、食うか」

「おぉ。悪ィな、病人なのに」

全く悪びれもせず言い放つゾロにサンジはじろりと一瞥をくれる。ゾロはパソコンの画面を睨んでカタカタと軽快にキーボードを弾いている。

やれやれ、と立ち上がったサンジは大きな冷蔵庫をガチャリと開けた。所狭しと並ぶ調味料。ごろりと転がる余った野菜。料理はだいたい作りきりで食べてしまうから残り物は案外少ない。

一人暮らしにしては容量の大きなそれは、祖父からもらった就職祝いだった。

適当に摘んだ卵は、四つ。

――祝われるようなことなんだろうか、就職って。

サンジは下の引き戸を開けて冷凍ご飯と鶏肉を取り出した。

お米を長めにレンジにかけて冷蔵の扉をもう一度開ける。サンジはしばらく眺めてから小さな玉ねぎを二つ取り出した。

包丁の背をとんっと叩いてサンジはくるくると袖をまくった。

玉ねぎは簡単に水で流し、さきに包丁で端を落とす。そうして手際よく薄皮を剥がしてやや大きめにみじん切りだ。

チン、とご機嫌な音が響いてご飯の適温が知らされる。入れ替わるように鶏肉を温めながら温もった米をボウルにあける。

ここで冷凍のベジタブルミックスを思い出し、サンジはいそいそと引き戸を開けた。お、あったあった。メインの料理に使っても良いけれど、今日は彩りが寂しいから皿の隣で付け合わせにする。

温まった鶏を小さめに切ってフライパンに放ればジュワッと音があがる。適度に火を通してからみじん切りの玉ねぎも入れる。ボウルのご飯に色付けが済んだら、後はまとめて炒めるだけだ。

ひと通り味を整えて平らなお皿にご飯を分ける。ついでにフライパンもさっと洗って火にかける。そうして余ったもう一口のコンロで二つ分の卵をとろとろと丸め込んだ。

「おらゾロ、そこ片付けろ」

「ん」

サンジに声をかけられてゾロはいそいそとパソコンをしまった。うーん、と大きく伸びをして黒縁の眼鏡をテーブルに乗せる。

「目、悪ィのか」

「いや。悪くならねェようにな」

ほかほかと湯気を立てる皿の端に色とりどりの野菜を乗せる。真ん中に陣取る黄金の物体には真っ赤なケチャップで「バカ」と書いた。

「……誰のことだよ」

「てめぇしかいねェだろうが」

ほい、と手渡した皿を受け取りゾロがまじまじと黄金を見つめた。最初訝しげに細められていた瞳はまるで珍しいものでも見るように見開かれていく。

子どもみてぇだな、なんか。

「……すげぇな、てめぇ」

「は? こんくらい誰でも作れんだろ。ほら、箸」

こちらを見向きもせずにそれを受け取りゾロがパン、と手を合わせた。

「いただきます」

ほら、こういうところ。

「…………うめェ」

サンジの方をチラとも見ずにゾロが黙々とスプーンを運ぶ。平皿にカチャカチャと触れる音が静かな部屋に反響する。

 

「食った……!」

ごろり、と横になりながらゾロが満足げに息を吐いた。サンジもソファに背中を預けお気に入りのジッポを掌におさめた。金に輝くデュポンの音色。毒の香りが天井に淀む。

「ごちそうさん」

「あいよ。ったく、ちったァ病人扱いしろよな。皿洗いまでさせやがって」

「熱下がってんだろ? それに俺だって手伝ったじゃねぇか」

上下に腹をさすりながらゾロが偉そうにゴタクを並べる。しょうがねぇヤツ、と溜め息を吐けば紫の煙が鼻から抜けた。

「ところでよ、マリモ野郎」

「あぁ?」

「お前、終電、」

「うあっ!!」

ゴン! と鈍い音がしてゾロが小さくうめき声を上げた。したたかに打ち付けた膝小僧を丸い背中で抱きかかえている。

「痛ってェ……えぇと、今何時だ?」

「24時12分」

ゾロは体操座りの格好で手早くスマートフォンを操作した。サンジはそれをぼうっと見ながらごくごくと赤いワインを飲み込む。

「……危ねぇ、終電24時30分だ。遅くまで悪かった」

そう言うとゾロは立ち上がり、ソファに投げていたジャケットを羽織った。重いパソコンを仕舞い込み、投げたネクタイをポケットに突っ込む。最後に鞄の中を覗き込んで、手荷物をざっと確認する。

テーブルの上に無造作に置かれる物騒な名前の煙草のケース。

「じゃあな、邪魔した。風邪、気をつけろよ」

おっさんみたいな忠告を残しゾロが一歩足を踏み出す。

 

いなくなる。

いなくなる。

この夜から、永遠に、ゾロが―――

 

「っ! ……なんだよ、」

反射的に掴んだゾロの左腕にサンジはハッと我に返る。

慌ててパッと手を離すとゾロの腕がだらりと垂れる。ゾロの体に触れた掌が苦しいくらいに熱を持つ。

ドクドクと鼓動を早める煩い心臓。

カチ、カチ、と進む秒針がふたりの隙間を着々と埋める。

――今、俺は、なにを。

「……帰って、いいか」

「っ、さっさと帰りやがれクソマリモ!」

げしげしと足で押し出してゾロを玄関へと追いやった。

向こうからトンッとつま先を叩く音がする。履き慣れない革靴にでかい足を収めたのだろう。伽藍堂の玄関に、ガチャリ、と響く乾いた音。

「迷子になんじゃねーぞ」

バタン、と閉まる扉の音が冷たい部屋を密封する。

それはまるで永遠の離別のように、重く、深く、残響を残した。

 

 

 

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