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みっつめの交差点で 2

作品の前に立ち尽くすとなんとも言えない感覚が湧き上がった。

そびえ立つ細長い「棒」の前でサンジは静かな呼吸を繰り返す。

モノ派の展示が行われていると知って、繰り出した週末の美術館。都内は秋晴れの陽気に包まれ爽やかな空が広がっていた。

こんな休日など大学生の頃以来だろうか。

それでも週末と呼べるような休みがあるだけまだマシなのかもしれなかった。友人たちの話を聞けば、慰めるのも億劫なほどの激務つづき。ある者は体を壊して仕事を辞め、ある者は転職を考えるようになった。

やりたい仕事に就ける者などほんのひとにぎりに過ぎない。

そんなこと随分と前から分かっているにも関わらず、どうして働いているのかなどとつまらない問答が頭を過ぎる。

生きるために、働くしかないのだ。

そんな風に考える時点で、きっと何かが麻痺しているのだろう。

月末にはこのあたりの紅葉も色づくはずだ。

結局、美容院には行かずじまいだった。

『……ん?』

サンジはふと目を留めてひとつ向こうの部屋に視線を移した。

今回の展覧会は白壁で仕切られた五つの部屋が淡々と続く展示方法だった。サンジが進む次の部屋が五つめで、つまりは最後の部屋である。

『……あ』

そのことに気づいたのと、向こうがこちらに気づいたのはほとんど同時の出来事だった。

「お前、っ」

思わず大きな声を出しかけて慌ててボリュームを最小まで絞る。踏み出した革靴の硬い裏が広い部屋に「カツン」と反響を残した。

「何やってんだ、こんなところで」

距離にして数十歩。辿り着いたその先に「緑頭」が佇んでいた。

男は僅かに驚いた表情で近付くサンジをただ見ている。

「おいおいてめェ、芸術鑑賞なんて柄じゃねぇだろう?」

たった一度会っただけなのに軽口がぽんぽん飛び出していく。

男は細身のジーンズに灰色のパーカー、その上に黒のジャケットを羽織っていた。それは決して「オシャレ」とは言い難く、いかにも地方の大学生といった風情だ。

しかしまぁ、言ってみれば元がよいのだろう。

ダサいと指を差して笑えるほど可笑しくもなく、所謂無難な着こなしである。

――眼鏡は、仕事用、か。

「……さては、迷子じゃねぇだろうな」

「うるせぇ」

適当な悪態をついたところで思いがけない返事が返ってくる。まさか、本気かよ……憮然と立ち尽くす男の様子にサンジは微かに失笑を零す。

「で、今日はどこに着く予定だったんだよ」

「……ツリー」

「あ?」

「スカイツリーだよ! ったく歩いても歩いても着きゃしねぇ。なんだよこの街ァ、一体全体どうなってやがる」

はぁ、と溜め息をつく姿にサンジはあんぐりと口を開けた。

こいつ、東京が初めてとかそういう以前に、どっかネジでも抜けてんじゃねぇか?

「あー……なんだ、案内、してやろうか」

「いい。月末に地元帰るから、ちょっと観光しようと思っただけだ」

男は小さく溜め息をついて目の前の作品をじっと見つめた。背丈の半分ほどの高さの「物体」が、漆塗りの板の上に乗せられている。

「なんだこの、石」

男は言って、首を傾げる。

一瞬きょとん、と固まったサンジは二秒後に思わず吹き出していた。

「……なんだよ」

「ハハッ! いやいや、……なんでもねぇ。うん。そうだな、石、だな」

そうだよな、うん、そうだ。まさしく、石だ。

何度も繰り返すサンジの言葉に男は訝しげに眉を寄せた。

緑の鮮やかな髪の毛先が柔らかそうにふわりと揺れる。金色の前髪が視界を遮る。真っ白な世界が色を映す。

サンジはひとしきり笑い終えて、目尻に浮かんだ涙をこすった。こんなに笑ったのなんて、いつぶりだろう。

「あ~笑った笑った。いやぁ、そうだよなぁ。てめぇ、斬新だなぁ」

「は?」

「いや、うん。なぁ、今日このあと時間あっか? 昼飯、奢ってやるよ」

ニッと笑ったサンジの顔を男はぽかん、と見つめ返す。

「ほら、行くぞ」

「えっ、あ、おい」

サンジは男の腕を掴んで「石」の脇をさっさと通り過ぎる。

 

ジュワ~……と煙が立ち上り湿った熱気が頬を撫でる。

ばらばらと散った桜海老の紅にネギの緑が鮮やかに絡む。

小さなヘラが鉄板にこすれるとカシカシと尖った音を立てた。

「おら、食え。今日は俺のおごりだ」

面食らったように鉄板を見つめていた男がおもむろに「パン」と両手を合わせた。一応は礼儀を身につけているのかそういうところだけは律儀なようだ。「悪ィな」とは言いながらも、別段遠慮している雰囲気ではない。熱された鉄板を見つめながら「いただきます」と続く言葉。どうやら単なる野生動物というわけではなく、躾は行き届いているらしかった。

名前は、ゾロ。

「どうだ?」

「はふ、……う、はっ、熱ィ」

「ハッそりゃそうだろ。ゆっくり食えよ、火傷すんぞ」

言いながら、サンジも鉄板に手を伸ばす。もんじゃ焼きなんて何年ぶりだろう。こういう時でもなければ都内に住んでいても滅多に食べない。

「ほら、あれがスカイツリーだ。見えんだろ?」

あぁ、だか、うぅ、だか喉を鳴らしてゾロがはふはふと息を吐く。くもった窓の向こう側にでんとそびえる高い塔。東京の未来を牽引する、夢と希望の電波塔。行きたいと言っていた割にはあまり興味はないらしい。これだってゾロから言わせれば「ただの棒」なのかもしれなかった。

「酒も飲むか?」

「悪いな。ビールでいい」

でいい、とは何て言い草だと思わず頭をはたきそうになる。別に普段から喧嘩っぱやいわけでもないのに、どうもサンジはゾロといるとペースを乱しがちだ。

「……で、お前は何の仕事のインターンしてるわけ?」

なんとなく手持ち無沙汰になってサンジはゾロに声をかけた。ゾロは相変わらずはふはふと苦労しながら目の前のもんじゃにかぶりついている。若い。

「あ? あぁ……まあ、聞いてもつまんねぇよ」

「いいだろ。教えろよ」

「……営業だ」

「へぇ。なんの」

「人材系。特にIT関係のな。SEとかプログラマーとか、主にはそういうBtoC。つっても、インターンレベルに具体的な案件まわされるわけじゃねぇから、今は外回りに同行してる」

へぇ。

サンジは気のない返事をして底の焦げごともんじゃをすくう。外回りに同行するやつが迷子になっていて仕事になるのか。

「なに。お前、営業がやりたいの」

「…………」

何の気なしに呟いた台詞が蒸気に混じってふわふわと霧散する。あれ、と思ってチラりとゾロを見れば何やら複雑そうな表情で白い米を咀嚼していた。

……噛む回数、多いんだな、こいつ。

「よく、わからねぇ」

「あ?」

「わからねぇんだよ。ほっとけ」

最後の方は吐き出すようにぶっきらぼうな言葉を投げた。もぐもぐと動く頬の動きが綺麗な絵画のように焼きついていく。緑を見つめる、青い瞳孔。窓の外には下町の色。

「……てめぇは、」

「ん?」

「てめェはなんの仕事してんだ」

俺?

そう言って首を傾げればゾロは無言で頷いた。

べたついた机。手作りのマヨネーズ。無造作に置かれるぬるいビール。

「俺、ねぇ……なんだろうな」

「なんだ、無職かよ」

「違ェよ阿呆! 雑誌の編集社だよ、荻窪の……あ~、つってもてめェにゃわかんねぇだろうけど」

「へぇ」

ゾロはこの話には興味があるのか、ビールをぐいっと一気に飲み込んでサンジの方に向き直った。

「そこで、雑誌に載せる写真撮る手伝いしたり、いい具合に編集したり、まぁ、そんなような仕事だよ。こないだもレストランで会ったろ? 一応、フォトグラフィックデザイナーとか偉そうな名前ついてっけど、要はお手伝いだな」

「それ、楽しいか?」

ぱくり、とヘラを飲み込みながらゾロがまっすぐサンジを見据える。投げ出すような言い方だが、ふざけている、ようには見えない。

「あ~……楽しいもなにも、仕事だからなぁ。……まぁ、写真撮るのはもともと好きだったし、嫌いってほどでもねぇと思うけど」

「……そうか」

ゾロはそれだけ答えると、残りのビールを飲み干した。きょろきょろと何かを探す素振りを見せて卓上の爪楊枝をひょいっとつまむ。その表情はどことなく落胆しているようでサンジはなんとなく居心地が悪い。

「……なんだよ、不満か」

「いや」

奥歯に海老でも挟まっているのか難しい顔をして楊枝を突っ込む。二本目。

「なんか、なんで働いてんだろうな、って、思ったから」

ぽつり、と零したその台詞にサンジは「あ、そう」と短く答える。

賑やかな笑い声がテレビのなかから漏れ出してくる。

そんなもん、生きるためだろ。

そうやって、笑って誤魔化すのは違う気がした。

 

 

ゾロは帰り際、しつこく「おつり」を渡したがった。聞けばこないだのタクシー代の残りらしい。それじゃあおごった意味がなくなるだろとかなんとか適当にかわし、ジャケットのポケットにつっこみ返した。

「いいよ。そしたら、こっちいる間にまた飯行こうぜ」

「おかしいだろ、それじゃあ」

「そんときビールでも奢ってくれよ」

な。

そう言うと、押し負けたのか渋々といった様子で引き下がる。どうも押しには弱いらしい。

学生に金の心配をされるほど俺の方だって落ちぶれちゃいない。

「じゃあな、迷子マリモくん」

ひらり、と手を振り改札をくぐった。すぐに人並みに飲まれていく。

どうせまた迷子になるのだろう。今日は休日だ。知ったこっちゃない。

『ピコン』

端の方に席を取ってひと息ついた暖かい車内。陽気な音色を響かせたスマートフォンをマナーモードに切り替える。丸いボタンを操作すると、平らな画面はぼう、と光った。

『飯、ありがとうございました』

それは、顔文字もスタンプもないそっけない一行だった。

サンジは「ふっ」と笑みを零し胸ポケットにスマートフォンを突っ込む。『既読』の印をつけながら青の画面がふたりを繋ぐ。

 

 

 

翌週の週明けから、撮った写真の加工と次の取材準備を淡々とこなした。

サンジの担当する雑誌のいくつかは、例年年始に大型の特集を組む。そのためだいたいこの時期から準備が始まり、年末に向かうひとつき間が所謂繁忙期というやつだった。

雑誌の全体構成は別部署――といっても大した人数ではないのだが――が担い、サンジは写真の加工を担当している。メインの文章はライターに書かせるのだが、如何せんこの人手不足だ。簡単な紹介文くらいなら時々サンジが担うこともあった。

『明るい陽ざしの差し込む窓。レースのカーテンが木漏れ日を作り……』

写真のなかでは可愛いレディがコーヒーを片手に遠くの空を見上げている。

実際にその視線の先にあるのは、雑然と並ぶ高いビル群だ。

サンジは座り心地の悪い椅子で、ぐるりと一周首回す。ごき、と鳴った右肩はまだ週の半ばだというのにすでに血行が悪い。

「ほい。あんま根つめてっと後に響くぞ」

カコン、と硬い音がして見慣れた缶コーヒーが机に乗せられた。喉を仰け反らせて見上げて見れば長鼻が人の良さそうな顔で笑っているところだった。

「お~……ウソップ、サンキュ。取材は?」

「予定変更だってよ。ったくあのクライアントどうかしてんぜ。ちょっとこっちより大きい会社だからって、でけぇ顔しやがってよ」

苦々しげに眉をひそめ小声でぼそぼそと文句を垂れる。ウソップはその写真の腕と社交性を活かしフリーの仕事もこなしていた。とはいえうちとの専属契約なのでこっちの会社にも利益が落ちる。仕事と金を回してもらう手前、相手会社に大きな顔はできないのだ。

「だから、午後から俺フリー。編集たまってんだろ? 手伝うか?」

「あ~悪ィ。そっちに残ってるデータ、任せていいか」

「あいよ、これな。適当に色つけてったらいいかな。っとに、俺ァ写真撮るために就職したってのによ、これじゃあなんでも屋だぜまったく」

いつもの軽口を叩きながら隣の席にどかりと座る。手際よくカタカタとパソコンを弾けばみるみるうちに素敵な「空間」が出来上がっていく。

「なぁ、ウソップ」

「ん~?」

「お前は、なんで働いてんの?」

なんでもないように言い放ちサンジは静かに画面を見つめる。カタカタと重なるキーボードの音。午後のフロアの気怠い雰囲気。

「さあな。食っていくためじゃねぇの? あと俺、写真は好きだし」

「…………へぇ」

気のない返事を返しておいてサンジはごくりとコーヒーを飲み込む。

外気に冷めた缶コーヒーは底に生温い欠片を残す。

「なに? 悩みでもあんのか?」

「いや、」

なんでもねぇよ。

うーん、とひとつ伸びを零しサンジはおもむろに立ち上がる。

「ちょっと、煙草」

そう言い残してデスクを立ち去る。

もう五年も似たような日々を繰り返している。

 

 

 

その夜、サンジは夢を見た。

真っ白なキャンバスの上をたったひとりで歩いて行く夢だ。

頑丈に貼られた白い布が足音すらも飲み込んでいった。静寂。

辺りには壁も天井もなく、どうやらだだっ広い空間らしかった。煌々と降り注ぐ眩しい光が辺り一面を照らし出している。

「おーい、誰かいるか」

サンジは少し心細くなって遠くの誰かに声をかけた。

がさ、がさ、と靴底の擦れる音が壁もないのに反響する。

よく見れば自分は真っ白な帽子をかぶっていて、それはたぶん祖父のものだった。

「おーい」

誰かいるか。

けたたましいほどの光に包まれサンジは思わず目を細めた。見たい、見たいと望む行為が逆説のように視界を狭める。

おーい。誰か。

平衡感覚すら危うくなってサンジはその場に座り込んだ。

歩かなければならないことはわかっているのに、それ以上前に、進めない。

――誰か。

すると一瞬目の前に影が落ち、サンジははっと顔を上げた。

強い逆光を背に立ち尽くす、スーツ姿の幼い顔。

あれは……――

「なぁお前、俺はこれから、どうしたらいい?」

「知るか。これはてめぇのキャンバスだろ」

瞬間、ざあっと風が吹いて辺りの景色が霧散する。

次に目を開けたときには、いつも通りの見慣れた天井がサンジをじっと見下ろしていた。

 

 

 

週末に出かけようぜと、声をかけたのはサンジの方からだった。

ゾロは既読をつけたあと丸二日連絡がなく、土曜日の遅い時間になって「わかった」とだけ返信があった。

「――よう、迷子野郎。よく着けたな」

「うるせぇ、これくらいできる」

有名な犬の銅像を背にサンジがひらりと片手を上げる。今日は少し日差しもあるからか上は紺のニット一枚のようだ。

「いくらてめぇが目立つ髪型だっつっても、探すのめんどくせぇから迷子になるなよ」

「……なるかよ」

ほれ、行くぞ。

先に立ってすたすたと歩けば歩幅を合わせて横に並んだ。

こうして隣に並んでみると背丈はゾロの方が僅かに高いようだった。そんなことが引っかかって意味もないのに舌打ちを零す。

ふたりは並んで歩きながらどうでもいいことを適当に話した。ギターの並ぶ楽器店を曲がり、並木の続く坂を上る。途中立ち寄ったサンドイッチ屋では軽めのブランチを頬張っていく。

「えーと、……ここだな」

スマートフォンの画面と見比べながらサンジはふと足を止めた。

十二階建ての比較的綺麗な建物だ。一階エントランスにはオープンテラスが並び、上の階に向かって螺旋階段が伸びている。

「なんだ、ここは」

「うん? ……お前、星とか見るか?」

「は?」

サンジはゾロの答えも聞かずスタスタとガラスの自動扉を抜ける。そこから四階まではエスカレーターで上り、あとはエレベーターで一直線。十二階。

「……プラネタリウム?」

「そ。はい、チケット」

二人分のチケットを買っていそいそと館内に足を進める。ゾロが慌てたように後ろに続く。次の上映まで、ちょうど十五分。

「なんだよ、いったいどういう、」

「なぁ昨日お前、何やってたんだ?」

「ん? あぁ、テレアポ用のリスト作りを」

「ふーん……悪いな、今日は付き合わせて」

「いや、それは別に、いいけど……俺の地元じゃあ、星なんか見上げりゃいくらでも見えるが」

そう言ってゾロは手元のパンフレットに目を移した。『ちきゅうと、お月さま』――子ども向けの番組だろう。周りにも親子連れが集まっている。

「ま、ゾロにはこのくらいがちょうどいいだろ」

「何の話だ」

ニヤッと笑って頭を小突くと、ちょうど開演の時間になった。

 

 

私たちの住むこの地球は、一人ぼっちの天体でした。

太陽を中心にぐるぐると回る「太陽系」の恒星です。

ところがある日、その地球に「テイア」と呼ばれる惑星がぶつかってしまいます。

ジャイアント・インパクトと呼ばれるこの衝突で、太古の地球に渦巻くマグマが宇宙に向かって投げ出されました。

飛び散ったマグマは宇宙に冷やされ、かたまり、そうして球体を作ります。

それが、月です。

地球には雨が降り、生命が生まれ、大きな海が広がりました。

月は太陽の光を受けて黄金に輝くようになりました。

そうして、永遠に交わることなく月は地球を回っています。

私たちが月を見上げるとき、どこか懐かしいような切なさを抱きます。

それは元はひとつだったふたつの天体が、惹かれ合っているからなのかもしれません――――

 

非常口のランプが点灯して一連のショウが終わりを告げた。お月さまの番組のあとは、今夜の星空の案内だった。北の空に見える、北斗七星の探し方。

「……よかったかよ、アホ眉毛」

開始早々いびきをかきはじめるかと思っていたゾロは、意外にも最後まで目を開けていた。

話がわかっているとも思えなかった。星空の浪漫なんかわかっちゃいないはずだ。

だいたいこいつの地元では金を払わなくっても星空なんか見放題なのだろう。

だけど。

東京にだって、星はあるのだ。

ほんの少し明るすぎて、隠れてしまっているだけで――

隣で「夜空」を見上げるゾロの、時折上下に動く喉を、その瞳孔に映り込む星を、サンジはふと綺麗だと思った。

「惹かれ合うってのは、理屈じゃねぇってことだな、クソマリモ」

「…………おぉ」

家族連れのひいた静かなフロアにはオルゴールの『ふるさと』が流れている。

 

 

ビールを一杯奢らせろときかないゾロについて渋々バーに入った。

都内ではどこでも見かけるチェーン店だ。

ゾロはぎこちなくメニューをめくって、言い慣れなさげな料理を頼む。

窓の外に広がる都会の夜空。潰れた煙草ケースをテーブルに投げる。

「おいてめぇ、ちゃんと仕事できてんのか? あんなクソ迷子っぷりじゃあクライアントのとこまで辿り着かねぇだろ」

「るせぇ、大きなお世話だ」

ハハッと軽く笑いながら紫の煙を細く吐き出す。

ミックスナッツを放り込み、金色の泡をごくりと飲み込む。

ズン、ズン、と響くアメリカンミュージックがどことなく忙しない気持ちにさせる。

「お前、卒業したらこっちで働くの?」

トン、と灰を落としながらサンジがゾロに目線を配った。

店内にはお揃いの紺のポロシャツを着たかわいいレディが給仕にまわっている。彼女たちがテーブルに近づいた途端メロメロと愛好を崩すサンジの様子にゾロは訝しげな視線を寄せる。

「……まだ、決めてねぇ。地元も好きなんだ」

「ふーん。地元がねぇ……」

サンジは適当に相槌を打ってゾロの気配に耳を傾けた。

サンジの通った専門学校は大して有名だったわけではなかったが、それでも都内の中心に近く地方からの学生は多かった。

彼らは一様に東京に憧れ、期待が裏切られると簡単に都会を憎んだ。

冷たい、寂しい、乾いている――

それは確かにこの街を表すひとつの重要な側面ではあった。

人々は互いに無関心を装い、隣の部屋の住人すら知らなかった。空はいつも灰色に霞み、見上げた夜空に星は、見えない。

「なぁ、ゾロ。この街の人間は、冷たいか」

分厚めのフライドポテトをつまみながらサンジが何気なく言葉を零す。

舌にざらつく塩の匂い。ポテトはすっかり冷めてしまって、染み込んだ油が少しだけ不味い。

「さぁ。俺はここに住んじゃいねぇし、冷たくされた覚えもねぇ」

「そっか」

「ただ、」

ただ? と首を傾げ、サンジはチラとゾロを見遣った。

ゾロは僅かに視線を逸らし少し先の虚空を見ていた。こいつが言葉を考えるときの、癖だ。

そういうことを、少しずつ知っていく。

「故郷がこの街だっていうのは、逃げられねぇってことだろうとは、思う」

ズン、ズン、と響くリズムが心臓の表面を僅かに震わせている。流し込んだ金色の液体がサンジの胃袋でぶくぶくと溶ける。

流れ続ける日々の風景。

「おい眉毛、あれ、北極星かな」

その真ん中に、俺がいる。

 

 

 

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