top of page

生まれ堕ちる片鱗 2

―返事しろ、クソコック!

平和で気怠いいつもの惰眠が、やおら物騒な色に染まった。

平凡な空気の満ちたまっしろな空間をつんざく、獰猛な獣の吠声。

もう何日も同じ毎日を繰り返していたサンジは、その小さな変化に思わず耳をそば立てた。

焦燥を滲ませる足早な靴音が、サンジの眠る部屋の前でぴたりと止まる。

その背後に響く微かな動揺を含んだ甘い掠れ声は、おそらくローのものだろう。男の動きを封じようとしているのか、平静を装った声が野獣の咆哮に絡み合う。

これまで一度たりとも聴くことのなかった、警戒を含む鋭い音色。

それはともすれば誰も気に留めないほどの僅かな変化だったのだが、サンジの繊細な受容器は確かにその変化を感じ取っていた。

『珍しいな。あいつがあんなに、取り乱すなんざ』

他人事のようにぼんやり思って、咥えていた煙草に明かりを灯す。

時間にすれば、ほんの数分。緊迫の時間がゆっくりと部屋を支配していった。

奇妙なほど必死なローの抵抗がしかし、その獣に届いたのは、サンジを世界と分かつまっしろな扉が、ついに美しい袈裟がけに斬られてしまった後だった。

 

 

「おいコック、帰るぞ!」

見事に斬られた分厚い扉。崩れ落ちた鉄塊の向こう側には、殺気立ったひとりの男が立っていた。

男はローに無理やり羽交い絞めをされながら、ぜぇぜぇと息を荒げている。

男の全身は、しなやかな筋肉で覆われている。深緑の着流しから覗いた、厚い胸板。頭部を覆う、笑えるくらいの緑色。顎を伝って流れた汗はリノリウムの床を汚して、透明な水玉を幾つも描いた。

男の眼は、まっすぐにサンジを捉えている。

「手間かけさせんな。てめェで出てきやがれクソコック・・・」

「・・・誰だ、こいつ」

男越しにローを見据え、サンジは静かに問いを投げた。

一瞬、男の隻眼が、哀しい色に光った気がする。

ローは、つい先ほどまで声色に滲ませていた動揺を完全に葬り去って、ベッドにもたれ煙を燻らせるサンジに視線を移した。そうして表情すら変えないまま、ローは淡々と、言葉を吐き出す。

「てめェを捕まえに来た悪党だ、黒足屋」

「っなに言ってやがる!! おいコック! てめェの目は節穴かよ! こいつは、」

「ロー、放してやれよ。ぼろぼろじゃねぇか、そいつ。」

サンジがふいに口を割ると、男の目が驚いたように、僅かに見開かれた。

見れば、深緑色の着流しは、あちこちほつれているようだった。跳ねた泥や枯れた葉が、麻着に絡んで乾いている。

どうやら、まっすぐここへ辿り着いのではないらしい。何者かに追われているのだろうか、さぞかし急いでいる風だったのに、わざわざ野山に紛れてやって来るなど訳ありの所業と決まっていた。

 

まさか、大の大人が、迷子でもあるまいし。

 

ふう、と紫煙を吐き出せば、それはふわりと、白い扉の外へ逃げていった。

微かな風が、廊下を流れているようだ。

男の足音が聞こえ始めてからこの部屋まで、少なく見積もって5分。全ての扉に手をかけていたような気配からして、外の廊下沿いには同じような部屋が続いているのだろうと、サンジはあたりをつける。

『ここから外まで、全力ダッシュで約2分か・・・』

扉のあたりに目を凝らすサンジの視界に、ふと三本の刀が入り込んだ。男の精悍な体側を飾る、不釣り合いなほどに繊細な切っ先。じ、と気配に耳を寄せれば、妖しい光がキンと鳴いた。

 

どうやらこいつも、ローと同じ、剣士らしい。

 

まっしろな扉の外には、同じくまっしろに塗りたくられた鉄の扉がのぞいていた。

サンジは頭のなかだけで、先刻の仮説を濃厚にする。

つまりここは、何かの研究施設なのだろう。

 

ぬかりなくローの隙を狙う手練れの剣士は、今にも飛びかからんばかりの眼光で、サンジをまっすぐに見据えている。

案外に力強いローの両腕が、その上半身をきつく縛り付けていた。手を離そうという気は、どうやら皆無のようだった。いくら恋人からのお願いとはいえ、放してやれと言って簡単に手放せるような相手ではないらしい。

「てめェ・・・っこいつに、何飲ませやがった・・・!」

地を這うような低音が、清廉に張りつめた空気を揺らす。

「・・・ただの、薬だ」

治療上の、な。

小さく付け加えたローの言葉に、男のこめかみがピクリと震えた。無表情のローの口端が、微かにニヤリと歪んだような気がする。

「・・・なに、企んでやがる。てめェの身を危険に晒してまでこいつを攫うたぁ、いってぇどういう了見だ」

「ふん・・・見てたのか。当たり前ェだ。死にそうなヤツを助けるのが、医者の仕事だろう」

「嘘つくんじゃねぇ! 医者なんざ、てめェの仮の姿だろうが!」

ガン!と音がして、男がローの腕を破った。思い切り振り払われたローは一瞬、ふらりとよろけて壁にぶつかる。

「・・・てめェは、死んだと思ったがな」

ぎろり、と男を睨み上げながら、ローがその目に光を灯した。小動物程度なら簡単に殺められるのではないかと思うほどの、ぞっとするような凶悪な眼光。

「生憎だったな、うちにゃあ優秀な船医がいるんだ。・・・おいクソコック、てめェのその冴えねェ脳みそ振り絞って、よく聞きやがれ」

急に話題を変えた男が、ふたたびこちらに視線を寄せた。ローと同じくらいにドスのきいた、しかしそれとは全く質の違う、深く突き刺さる鋭い瞳。

サンジはぼんやり、男を見つめた。

どこからどう見てもいかにも横暴そうなこの男が、かつてのサンジと知り合いなのかは定かではなかったが、どうも純粋な悪党というわけでも、なさそうだった。

「こいつは、・・・七武海、トラファルガー・ローは、・・・ドフラミンゴの手下だった・・・!」

瞬間、ローの瞳に殺気が灯った。

た、っとリノリウムを蹴った男の右手が、ほんの僅か1メートル先で伸ばされる。まるで反射のように、それを迎えるサンジの左手が伸ばされた、その時だった。

男の動きが、ふいにぎくりと固まった。

周囲を、異様な光が包み込む。

「おい!てめ、待っ・・・、」

「Room.」

おもむろに左手をくいと捻って、ローが何やらを呟いた。それと同時に、ぐわんと空気が曲がるのを感じて、サンジは思わず目を瞑る。

「くそっ、コック! ・・・ぜってぇ、てめェを迎えに来る・・・!」

「・・・知りすぎだ、剣豪」

―Shambles.

遠ざかる叫声に、ローの低音が重なった。甘く掠れる、鈍色の声。

目を開けたときにはそこに男の姿はなく、ただ小さな石ころがひとつ、静かに転がっているだけであった。

 

 

 

「それも、てめェの“能力”っつうヤツなのか」

「あァ」

「すげェな。物を自由に操れるだなんて、万能じゃねぇか」

「そうでもねぇ。能力の発動には、体力を使う」

ベッドに腰掛けるローの後ろ姿を見ながら、サンジは嬉々としてその話を聞いていた。先刻目の前で起こった手品めいたできごとには、巧妙なトリックも事前の仕込みも必要ないと、今まさに聞いたばかりである。

“能力者”はこの世に一定数存在しているようで、どうやらローも、そのうちの一人のようだった。

ローの持つオペオペの能力は、自身の発動した効力範囲内の全ての物を自由に扱うことができる、という代物らしかった。先ほどの男が忽然と目の前から消えたのも、この“能力”の成せる技らしい。研究所自体が、その効力範囲とやらにすっぽり収まっているのか、緑頭の男は外の小石と入れ替わる運命を辿ったようだった。

「・・・心配すんな、殺しちゃねェよ」

サンジの表情をどう取ったのか、ローが小さく言葉を紡いだ。

サラリ、と優しく髪に触れる、熱い指先が心地よい。

斬り開かれた扉から流れ込む、微かな潮風が鼻についた。今まで考えたこともなかったが、ここは、海の近くなのかもしれない。

なんとなく懐かしいような気持ちになって、サンジはそろりと目を瞑る。

柔らかく金糸を撫でる、ことさらに優しく大きな手のひら。

「俺は、・・・コック、だったのか?」

サンジがぽつりと零した言葉に、ローが僅かに息を飲んだ。

しかしそれもほんの一瞬で、ふたたびいつもの無表情に戻る。

 

それはまるで、風のない、海のような。

 

「てめェは、疲れてんだ。・・・寝ろ」

額と瞼にキスを落として、愛おしそうに頬を撫ぜる。色の悪い顔面が離れきる直前、その筋張った首筋に、サンジはいきなり腕を絡めた。驚いたように目を見開いたローが、バランスを崩してベッドに倒れこむ。

「な、黒足、っ・・・」

「ロー」

サンジの視線が、まっすぐにローを捉える。困惑したような、灰色の瞳。

「抱いてくれ」

一瞬とも、永遠ともつかぬ間が、ふたりきりの空間を静かに包んだ。

短く吐き出される、微かに湿った温いため息。それは、逡巡の戸惑いか、拭いきれない劣情だったか・・・

いきなり蕾を割った噛み付くような口付けに息つく隙も与えられないまま、サンジはローの熱い舌先へと、痺れる紫煙を絡ませた。

 

 

サンジの真っ暗な暗闇を、ローの劣情が激しく穿つ。熱く湿った肉欲は、底を抉って高みを貫く。ひたすらに襲い来る快楽に口を塞げば、堪えきれない嬌声が喉の奥から零れ落ちた。

「黒足屋、・・・息を吐け。過呼吸になる」

ひゅう、と吸い込んだ乾いた空気が、喉の奥に絡まって激しい咳となり零れ落ちる。もう幾度目だか数えるのも億劫なほど、サンジは無数の頂きを掴んでいた。

青い海から零れた涙がひとすじ、頬を伝ってシーツを汚す。哀しいのか、痛いのか、苦しいのか、そのどれもが違うような気がして、だからこそいっそそのどれものような気もして、サンジはまた、ローを強請る。

「も、・・・っと、なぁ、ロー、・・・ロー・・・っと、くれ・・・!」

「っ・・・、」

後孔を濡らす淫靡な体液が、卑俗な音色で耳をくすぐる。激しい欲情がふたりを貫く。

果てなく続く、真っ暗闇。心臓を丸ごとぶつけるかのように、全身で腰を打つローの震え。サンジのあげる、まるで悲鳴のような嬌声に、ローの空息が静かに重なった。

 

何を埋めても、何度満たしても、サンジの空っぽが満たされることはない。

 

「ん、っ・・・は。っあ、あ、・・・んん・・・も、だ・・・めだ、あっ、ロー・・・っ!!」

「あぁ。・・・我慢、すん、な、・・・っイけ、」

 

―・・・サンジ。

 

キィン!

 

甲高い金属音が、サンジの脳みそをまっすぐに貫いた。

昇り詰めるサンジのこめかみに、突き刺すような痛みが走る。

 

薄れゆく意識の底で、誰かがサンジの名を呼んでいる。

 

―誰だ、・・・

 

目の前にチラつく、派手やかなピンク。粘りつく嫌味な笑い声。

目の前では、緑の剣士が全身から血を流し、ピクリとも動かなくなっていた。

激しい衝動に突き動かされてわき目も振らずに突っ込めば、下衆た視線がニヤリと歪んだ。その羽毛に触れることもできないまま、金色のマリオネットが宙を舞う。

「フッフッフッ。若さとは、罪なことだ・・・。素直に頷けば部下にしてやってもよかったものを。まったく、惜しいものを亡くした。俺は悲しいぜ、“黒足のサンジ” ・・・。しばらくここで、お寝んねしとくんだな」

じき、ローがてめェを回収にし来るだろう。

耳にこびりつくような笑いを残し、七武海は空へと飛んだ。

入れ替わりに響く鈍い落下音。視界は次第に霞みがかり、ふたたび意識を深遠へと誘ってゆく。

息をひそめた心音が、やけにリアルに耳についた。

 

誰かの乾いた靴底が、ざり、と無慈悲に土を踏む。

 

―俺は、・・・誰なんだ。

 

キィン!

 

空をつんざく残響が、力なく横たわったサンジの脳みそをかき混ぜる。

曇りなく磨かれた鉄の鏡。

それはまるで、鞘が奏でる抜刀の音色のような。

 

遠く耳についた呼び声は、いったい誰のものだったのだろう。

 

 

 

(続)

 

 

・・・前のページへ       次のページへ・・・

 

bottom of page