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生まれ堕ちる片鱗 3

次に意識を取り戻したとき、体は冷たいコンクリートの上だった。

薄暗いオレンジのランプがひとつ、サンジの体を照らしているのがわかる。残響のような衝動が、脳みその奥で疼いているようだった。夢か現か、押し寄せた曖昧なリアルを思い出す。サンジは周囲に漂う異様な気配を感じ取って、その蒼い眼を慎重に開いた。

瞳に映り込む、漆黒に光る鉄格子。

「おい、ロ・・・っ!」

立ち上がろうと身をよじった瞬間、ジャリ、と鈍い金属音が聴こえた。サンジはいきなり動きを封じられ、思わずずるりと体を傾ける。片手で取った、中途半端な受身。打ち付けた肘が、痛い。

「ロー!お前何しやがっ、」

「てめぇを、逃がさねェためだ」

地を這うような重い低音が響く。乾ききった氷の音色が、サンジの鼓膜を冷やりと撫でた。それは瞬刻、チリリと空気を凍らせて、微かに震える心臓を舐った。

片足を地面に繋ぎとめる、太く冷たい鉄の枷。白い足首は赤く染まり、次第に青くくすんでいく。

「どういうつもりだ。てめェ、・・・“ドフラミンゴ”と、どういう関係だ」

「ふん、・・・思い出したか」

残念だな。

格子の向こうに佇むローが、口端をニヤリと歪ませたのがわかる。ローは長刀を肩に担いで、冷え冷えとこちらを見下ろしている。暗く陰った目元には、残酷な笑みでも浮かんでいるのだろうか。いつでも優しくサンジを見つめた色素の薄い灰色の瞳は、今や目深な帽子に隠れ、全てを知ることはできなかった。

「政府と契約を結んだ海賊、・・・ドンキホーテ・ドフラミンゴ。俺はあいつを、追っていた」

ずきずきと疼く鈍い痛みが、重いリズムでこめかみを突いた。追っていた理由は、思い出せない。

「上出来だ、黒足屋」

その声が、いつもの甘い残響を含んだ気がして、サンジはピクリと耳をそばだてた。

格子の向こうで、ローが静かに刀を抜く。

「思った以上に、回復が早ぇ」

す、と差し出された切っ先が、まっすぐサンジの喉元を指した。

―あと、2ミリ。

ほんの僅かにでも身を捻った瞬間、地面のコンクリートは美しい鮮血に染まるだろう。

「おかげで、こっちの予定が狂った。計画は、完璧だったはずだ。俺の誤算は、あの男が生きている仮定を棄却していたこと。それから、てめぇを・・・」

言いかけて、一瞬何かを言い淀む。無意識なのか、ローは小さく、歯軋りを零した。

オレンジに照らされた薄暗い檻の空気は、酷く淀んでいるようだった。

「・・・まぁ、いい。てめェはここで、おとなしく寝ていろ。変な気を起こさねェ限り、俺はてめぇをすぐには殺らねぇ」

「それは、俺が変な気を起こせばすぐにでも殺すと、そういう解釈でいいんだな」

「契約だ、黒足屋」

ジリ、と1ミリ間合いを詰めて、ローがぎろりとサンジを見据える。

帽子の陰から覗く瞳に、鋭い光が灯った気がする。

真っ白い喉元に突きつけられる、その切っ先が届くまで、あと1ミリ。

「二度と、俺から離れねぇと約束しろ。それが守れるなら、俺はてめぇを、一生愛してやる。その代わり、守れねぇようなら、・・・」

ごくり、と白い喉が啼く。僅かに触れる、剣先の気配。ローの本気を孕んだ光が、サンジの心臓に圧し掛かった。

それはまるで、凍てつく夜の海のようだった。冷たく沈む無慈悲の大波が、サンジの暗闇をひたひたと満たしていく。

「てめェを殺る。今、ここで」

「わかった。わかったから、・・・んな怖ぇ顔、すんな、ロー」

両手を小さく万歳に掲げ、サンジはそっと息を吐いた。陳腐な降参の合図である。

「ちゃんと、・・・愛して、くれんだろうな」

「あぁ。約束する」

「俺の愛は、重いぜ?」

ニヤリと口角を歪めれば、ふん、と小さく空気が揺れた。ローは静かに刀を下ろした。

「悪ぃが、これからはここがてめェの部屋だ。あの野獣がまた、いつ来るとも限らねぇ。毛布くらいは用意してやる」

「ったく、てめぇの愛は乱暴だな。・・・そんで、緑のアイツは誰だったんだ、いったい」

「知らない方が、幸せなことの多い世の中だ、黒足屋」

「・・・だな」

 

漆黒に輝く格子の隙間から、ローの腕がふっと伸びる。

金糸に触れる、柔らかな掌。華奢なようで、その実、逞しく伸びた滑らかな指先。

優しい熱は今までと寸分違わず、微かに甘く湿っていた。

 

 

 

―バタン・・・

遠く響いた重低音に、サンジの鼓膜が小さく震えた。ローはそれ以上、何もせずに去っていった。

カツン、と反響した去り際の靴音が、耳の奥にぼんやりと残像を残している。

「・・・さて」

伸びた顎鬚に指を沿わせる。誰にともなく呟いたサンジは、ひとり静かに頭を捻った。

いったい何がきっかけだったのだろう。どういうわけだか、サンジは突如として、「黒足」の記憶を断片的に思い出していた。

しん、と静まる胸の熱。バラバラと拾い集めたパズルのピースを、ひとつひとつ、慎重に繋ぎ合わせていく。

 

 

「黒足のサンジ」は、ドフラミンゴを追っていた。

正確に言えば追われていたのだが、つまり会えればいいわけで、この際それはどっちでもいい。細かい目的こそ定かではないが、サンジはドフラミンゴとの遭遇を目指し、とある島に渡ったようだ。

どうやらサンジには、仲間もいたようだった。

先ほどいきなり現れた、あの、緑アタマの男。あれもたぶん、「仲間」だったのだろう。蘇った映像のなか、血だらけで倒れていたのは、間違いなくあの男だった。野獣のくせして倒れるなんざ格好悪いことこの上ないが、そう言う自分も一度死にかけている。

すなわち、作戦は、失敗に終わった。

「黒足のサンジ」は返り討ちにあい、ぼろぼろの体は瀕死の重傷を負った。

 

ローがドフラミンゴと何かしらの関係にあることは、かなり確かな事実に思えた。

先程も、男はローを「手下」と言った。それを聞いた瞬間だったのだ。ローの顔色が、がらりと変わったのは。

去り際にドフラミンゴが吐いた台詞も、あれはまさしく、ローとの蜜月を表す言葉だった。

 

―と、なれば。

サンジは煙草に明かりを灯して、紫煙を思い切り肺に流した。

出された薬を飲まなかったせいか、思考は急に冴え冴えとしている。

少なくとも今、ローから逃れることは、ベストアンサーではなさそうだった。万が一この檻からうまく逃げられたとしても、ドフラミンゴの追っ手がすぐに伸びてくるのが目に見えている。目の当たりにしたローの「能力」からも、一度は膝をついたドフラミンゴの強さからも、今の体力では逃げ切ることも不可能だろう。

で、あるならば。

サンジの傷んだ脳みそが、絶望の淵から結論を弾く。

密やかに体力の回復を図りながら、“アイツ”・・・ふざけた緑アタマの野獣剣士が、再びここに来るのを待とう。そのときが、この檻を抜け出す最大のチャンスのはずだ。

―・・・ぜってぇ、てめェを迎えに来る・・・!

野獣剣士の唸り声が、サンジの頭にリフレインする。

ヤツがここに戻ってくる保障など、実を言えばどこにもなかった。

しかしサンジは、ほとんど確信に近い感覚で、その言葉を信じていたのだった。

 

アイツは、必ず、俺を迎えに来る。

 

それはおそらく、無意識に沈んだ「黒足」の記憶なのだろう。

じゃり、と鳴いた足枷を見つめ、サンジは薄っすら笑みを浮かべた。

二本に伸びる白い両腕。それが無傷だったことは、なによりの希望だ。

サンジはふう、と煙を吐き出す。零れる紫煙は辺りを漂い、淀んだ空気に溶けていく。

 

閃くように思い出した、もうひとつのこと。

克明に刻まれた、全身の記憶。

 

―なんせ俺は、・・・「コック」だったのだから。

 

 

 

サンジは淡々と、「契約」を守った。

ローも約束どおり、サンジを愛した。

 

重たい檻の扉が開いて、ローの甘い声が届く。

白い喉に指先が触れると、サンジの中心はぞくりと波立った。

不思議なことに、契約を交わしたその日から、サンジの心は平穏な凪に満たされていた。

時は、必ず、来る。

静かなる決心が、まるで小さな炎のように胸の奥に灯っているかのようだ。例え今は思い出せなくとも、緑アタマへの信頼を、体がしっかり覚えているのがわかる。信じる強さが覚悟となって、いつしかサンジ自身を支えていた。

いくども浅い眠りに落ちて、冷たい床で目が覚めた。だいいち、窓のないこの檻の中では、時間の感覚など皆無なのだ。

枷に繋がれた片足首が、熟れたようにじゅくじゅくと膿んでいる。傷を舐める、熱い舌先。相変わらず平坦な色を宿したローの瞳に、従順な金色の眼差しが映り込んでいた。

 

サンジは、きちんと、役割を果たした。

ローも、丁寧に、サンジを愛した。

 

サンジはそれを、嫌だと思ったことは一度もなかった。

ここから逃げる計画に一切の揺るぎはなかったが、それでも、ローのことはやはり、嫌いではなかったのだ。

 

ただひとつ、ローは、サンジの名前を呼ぶことをしなくなった。

 

けれどもそれは、あとで何度想い返してみても、紛れもない、愛情の行為だった。

 

 

 

その日もサンジは、冷たい檻のなか、たったひとりで目を覚ました。

風の音すら聴こえない、埃っぽく湿った薄暗い檻。痛む腰を庇いつつそろそろと身をよじれば、足元からはじゃらりと鈍い音が響く。

昨日から今日、今日から明日へと続くはずの、いつもとおんなじ繰り返し。

飽きるほどリピートされた平穏な毎日が、再び繰り返されようと口を開きかけた、その瞬刻。

 

キィン!

 

甲高い音が鳴り響く。

高い天井がずるりとずれて、まっすぐな光がサンジを照らした。

細く切り取られた、蒼い空。ふわりと流れ込む、ひんやりと乾燥した空気。

そうか、季節はもう、秋なんだ。

目の前でガラガラと音を立てて、鉄の格子が崩れ落ちる。

聴き覚えのある、あの、金属音。

 

―あれは、いったい、いつだったか。

 

「コック!」

 

力強い、呼び声が聴こえる。

途端、サンジは思い出す。

清廉に響いたあの音色は間違いなく、空さえも斬り裂く、鋭い剣先の咆哮だった。

 

 

 

(続)

 

 

 

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