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生まれ堕ちる片鱗 4

とんっ、と軽やかに靴裏を鳴らして、ひとりの男が空から舞い降りた。

ほつれた麻の着流しに、目を見張るような胸の袈裟懸け。珍妙な緑頭が、柔らかそうに陽を浴びている。

「迎えに、来た」

「・・・遅ェよ、クソ野郎」

吸いさしの煙草から灰が落ちる。

何日ぶりの、太陽だろう。見上げた先で目が眩み、思わずふらりと体がよろめく。

「っと、・・・危ねェ」

「悪ぃ」

「ったく、ベタに弱ってんじゃねぇよクソコック。俺の知らねぇうちに、・・・勝手に、死ぬな」

美しく斬られた天井をふりさけ見て、剣士がぼそりと小声で呟く。消え入りそうなその語尾に、切ない焦燥が滲んだ気がして、サンジは微かに耳を向けた。

「コック。ちょっとそこの手、どけてろ」

「あァ? こうか、・・・って、のわ!! っぶね! おいクソ剣士! 急に刀振るんじゃねぇよ!」    

ノーモーションで鎖を斬って、剣士はふん、と鼻を鳴らした。全力の抗議すらまるで感謝ととっているかのようなその態度に、サンジは迷わず悪態をつく。

「バカ野郎! 殺す気かアホ剣士!」

「ちっ、・・・ぞくぞくすんな、てめェのその顔。もっと見てェが、残念ながらヤってるヒマはねぇ」

「当たり前ェだ!!」

吐き出された呑気な台詞に、さらに言葉を重ねようと口を開いた、瞬間。

剣士の筋張った太い片腕が、サンジを強く抱きしめた。

跳ね上がる、痛いほどの鼓動を打つ心臓と、剣士の首筋から立ちのぼる、汗の匂い。熱いくらいの、静かな体温。

自分に向けられた愛おしさの波が、全身から流れ込んでくる。

―あぁ、・・・こいつ。

「クソコック。こんな、・・・痩せっぽっちになりやがって」

「好きでなったんじゃねぇ」

「てめェで飯も自給できねぇとは、大した待遇だな。コックのくせに。これじゃ、俺が抱いたら折れちまうじゃねぇか」

「・・・折れねぇように抱きやがれ、クソ野獣」

「会いたかった」

「・・・・・・あぁ」

至近距離で視線が交わり、永遠のような瞬刻が流れる。

獰猛な瞳のずっとずっと奥、微かに滲む緑色の優しい光。

「出るぞ。ここから」

「あァ」

「しっかり掴まっとけ。落ちたら、知らねェぞ」

「地獄の果てまでしがみついてやるよ」

「・・・そりゃ、光栄だ」

ふわりと金糸を撫でた指先が、躊躇うように頬をなぞった。一瞬、切なげにまつ毛を揺らし、振り切るように天井を見上げる。

サンジを抱える腕に、ふいに強く熱がこもる。軽やかにトン、と地面を蹴った剣士は、四角い空へと舞い上がる。美しく斬り取られた細い蒼に、ふたりの体が吸い込まれていく。

「初めてにしては上等だ、クソ剣士」

「・・・あぁ?」

「でもそりゃ、俺の専売特許だ。俺よりうまくなんじゃねェぞ」

「いってぇなんの、」

「ゾロ」

「・・・ってめ! まさか記憶が戻っ、」

 

―Happy Birthday.

 

ニヤリと微笑むサンジを見遣って、剣士の瞳が大きく見開く。

秋の風がふたりを撫でて、ふわふわと金の糸を揺らしていた。

「・・・2日早ぇよ、アホコック」

覚えてやがったか、と舌を鳴らし、剣士はギリリと奥歯を噛んだ。

乾燥した冷たい風に乗って、潮の気配が鼻をかすめる。

狂おしいほどに懐かしい、この匂い。

「あぁ、ぞくぞくすんな。海も俺を歓迎してるみてぇだ。潮風と全身がひとつに交わる、この感じ。久々だ。てめェとのセックスより、100倍気持ちいいぜ?」

「・・・当たり前だ、」

俺たちゃ、海賊だ。

事も無げにそう言い放ち、ゾロは静かに前を見据える。

深い影の落ちた精悍な横顔に、サンジの心臓がチリリと疼く。

 

ふと誰かに呼ばれた気がして、サンジは後ろを振り返る。

青々と草の生い茂った断崖の上に、静かに佇む真っ白い建物が目に入った。

横に長く伸びた、平らな建造物。

無言で見送る無機質な佇まいが、まるで「あいつ」の象徴のようで、サンジはひとり目を瞑る。

 

そうして、二度と、振り返らない。

 

ローは、追って来なかった。

 

 

 

-------

 

 

ドフラミンゴを見つけたとき、一味はすでに虫の息だった。

高らかに上がる嫌味な笑い声。風に揺れる、柔らかいファーコート。

あの美しい桃色が血塗られた赤に染まればいいのにと、ローは内心で反吐を吐き捨てる。

ドフラミンゴは、人を殺めることすら、遊戯の延長とでも思っているような男だった。ローは幼い頃に拾われて、わけもわからず様々なことを教え込まれた。それは、医学の知識であったり、精神的な冷酷さであったり、躰を開くときの啼き方であったりしたのだが、ことここ数年は、そいつの元からどうやって逃げようかと、専らそのことばかりを考えていたような気がする。

遠く高笑いをあげている、体裁上は自分のボスであるその男に、ローは心底憎しみの眼光を突き刺した。

「キャプテン、ボスがいるよ。会わなくていいの?」

「あぁ。・・・しかし、まだ時じゃねぇ」

ローは静かに声を漏らし、岩の影からじっと、目の前の光景に目を凝らす。

 

 

『麦わらの一味を捕らえる』

そう連絡が入ったのは、つい数週間前のことだった。

ローはこの頃では、完全な単独行動を許されていた。長年の従順な「ご奉仕」が、ドフラミンゴのお気に入りだったこともあるのだろう。時に彼を逆撫でる口の悪さすら何かの性癖をそそるのか、ローに会う時のドフラミンゴはいつでも上機嫌に、薄気味悪い笑みを浮かべていた。

 

幾度となく新聞を賑わせていたその一味のことを、ローも知らないわけではなかった。

しかしなんでまた、そんな少数海賊団を。

不可解に頭を捻りながら、ローは静かに腰をあげる。幼い頃からの英才教育で、ローもまた、人のことに頓着がなかった。ドフラミンゴの言うところの捕獲とは、つまり、死んでもらうということなのだろう。だいいちドフラミンゴの命令には、断るという選択肢は含まれていない。命令を受けたら、受けるか死ぬかの、どちらかなのだ。

―事の次第はわからねぇが、今回も淡々と指示を遂行する方が得策だな。

欲しいものは、どんな手を使ってでも手に入れる。ドフラミンゴがそういう男であることを、ローは誰よりもわかっていた。裏の顔と表の顔を見事に使い分ける卑怯なやり方は、時にローの癪に障ったが、そこで暴れるほどローはもう子どもではない。

「さっさと支度しろ、ベポ」

「アイアイ!」

刀を一本携えて、潜水艦の舵を切る。黄色く塗られた小さな潜水艦は、ローが自ら選んだものだ。感情の起伏などほとんどないローだったが、それは珍しく、心から愛する乗り物だった。

 

 

今、このタイミングでドフラミンゴと出会うのは、ローにとっては都合が悪かった。そもそも、あまり望んで会いたい相手でもない。

強大な覇気使いのことである。ローがこの島に入っていることくらい容易に感じ取っているのであろうが、今のところ彼は寛大にも、ローを見逃してくれているようだ。

『こいつらを片付けるのが、最後の仕事だな』

密かにそう胸に決め、ローはじっと様子をうかがった。自分が出るまでもなく、麦わらの一味はひと捻りにされたのだろう。

最後に残った男がひとり、何やらを低く喚いているのが見える。腰に挿した、三本の刀。命乞いでもしているのだろうか。剣士はしきりに、何かを頼み込むように、ドフラミンゴに頭を下げていた。

 

と、その後ろで、よろりと立ち上がる男の姿が目に入った。

風になびく金髪と、スラリと伸びた細い足腰。

男はふらふらと剣士に近寄ると、それに気づきもしないほど懸命に何かを訴えかける剣士の後ろから、思い切り踵落としを食らわせたのだ。どう見ても本気で振り下ろされた蹴り技は、瀕死の剣士の意識を遠く彼方へ飛ばしたようだった。

『・・・仲間同士で、殺し合いか?』

目の前で繰り広げられる妙な光景に、ローは僅かに首を傾げた。人のことなど、ましてや会ったこともない海賊のことなどどうでもいいはずなのに、その金色に揺れる髪は、なぜだかローの視線を捉えて離さなかった。

 

 

 

金色のマリオネットが宙を舞ったのは、それから僅か5分後のことだった。

糸を操る能力者の前に、金髪の男は指の一本をすら、触れさせることができなかった。

耳慣れた醜悪な笑い声を残して、ドフラミンゴはその場を去った。

「ねぇキャプテン、ほんとに運ぶの?」

「あぁ。これはボスからの、・・・別れの餞別だ」

「でも嫌だよ俺、死体運ぶの」

金髪の男は完全に血の気が引いていて、まさに死人のようであった。拾い上げて肩に担げば、ローの服が黒く染まる。明らかに、血を流しすぎている。

「まだ死んだと決まったわけじゃねぇ」

「もうダメだよそいつ。ねぇキャプテン、ボス怖いし、置いて行こうよ。ボスは、こいつが死ぬのと引き換えに、そっちの男を生かしたんじゃないの?」

おろおろと狼狽える白いくまが、後ろの剣士を指差した。緑頭の三刀流は、かろうじて息をしているものの、もうすでに虫の息だった。一味の盾にでもなっていたのだろう、大量の血液を垂れ流している。ざっと見た限りでも、体の関節が変な方向に曲がっているし、この様子だと内蔵もいくらかいっているように思えた。

―こっちは、ダメかもしれねぇな。

放っておけば、今夜あたりが峠だろう。運良く生き残ったところで、しばらくは動くことすらできないはずだ。

「ベポ。この金髪は、死んだことになっている」

「・・・そうだけど、それが何?」

「これは、俺たちだけの、秘密だ」

「・・・・・・研究所に、運ぶんだね!」

賢い白くまの頭を撫でて、ローはニヤリと口端を上げた。

金髪は、自分の命と引き換えに、この剣士を守ったのだろう。おそらくは、一味の全てを、こいつに託して。

 

「・・・ジ、・・・」

立ち去ろうと身をひねったローの背を、微かな音色が追いかけた。

『なんだ?』

振り向きざまに目を凝らせば、微かに剣士の口元が動いたのが目に入った。ローは僅かに驚いて、灰色の瞳を静かに開く。

―信じられねぇ。この男、まだ意識があったのか。

「ジ・・・、・・・サン、・・・・・・」

男がうわ言のように、声を漏らす。剣士の声帯はもう、声など出ないほど無茶苦茶に擦り切れているはずだった。絞り出されるように届く、途切れとぎれの唸り声。訴えるような、悲痛の呻き。

「・・・ンジ、・・・・・・サンジ・・・」

―“サンジ”・・・こいつの、名か。

零れおちた名だけを拾って、ローは再び男に背を向けた。

慌てて後ろに白くまが続く。愛用の潜水艦では、手術の準備が始まっているはずだ。

―麻酔なんか効きゃしねぇだろうが、まずはどうにか血を止めねェと・・・。

ローは歩みを進めながら、医者の頭で算段を弾く。生かせる確率は、高く見積もって、・・・30パーセント。

“サンジ”を担いだ肩はぬるく湿って、べたつく鉄の匂いを放っている。

秋に向かう高い空が、小さな島を蒼く包み込んでいた。緩やかに吹き抜ける静かな風は、目深にかぶったローの帽子を、遠慮がちに撫でていった。

 

 

 

ザ、と土を踏む乾いた音に、ローは背後をゆるやかに振り返った。

潮の混じった、冷たい秋風。立ち尽くす絶壁からは、遠く遥かな海が一望できる。

「なんだ、・・・逃げたんじゃねぇのか」

ローは静かに言い放つと、再び視線を海へと戻した。

背後に立つひとりの男は、唇を真一文字に結んで、物騒な面を向けているようだった。ローだって決して愛想のいい方ではないと自覚しているが、男の気配も大概だ。

・・・こいつ、小動物くらい、殺気で殺れるんじゃねぇか?

ローはぼんやり、空を見上げる。

千切れてはまた、ひとつに絡まる、呑気な雲。それはまるで幼子の遊びを見ているような感情を喚起したが、ロー自身はそんな風に遊んだことも、そんな光景を見たこともないので、それが本物だったかどうかはわからない。

「コックから聞いた。てめぇが治療してくれたんだってな」

ぽつりと零したその声には、どうやら狂気も殺気も含まれてはいないようだ。

ローは静かに、ため息を吐き出す。

「ただの、気まぐれだ」

「コックが生きてることが知られた時点で、ドフラミンゴは俺たちを手にかけただろう。なんせ、あいつの命と俺の命は、交換条件だったんだ」

ローの台詞を聞こうともせず、三刀流が言葉を重ねる。

 

 

完全に意識を失う、ほんの僅か手前のことだ。

サンジがあの男に交換条件を突きつけた声が、ゾロの脳裏に鋭い残響を残していた。

『後生だ。こいつの代わりに、俺の命でなんとかしてくれねぇか』

蹴り飛ばされた衝撃で、ゾロは立ち上がることすらままならなかった。必死に意識にしがみつきながら、サンジが零す台詞を夢の中のように聞いていた。

あと一発。わけのわからないあの攻撃を受ければ、間違いなく、命はなかった。

―クソコック。てめぇは、俺にも断らず勝手に死ぬような、そんな真似・・・!

船医の必死の治療によってなんとか一命を取り留めてからも、ゾロの耳の奥にはぐるぐると、あの音声がこびりついて離れなかった。

思い出すだに、腹が立った。

命と引き換えに何かを守ろうとする、その傲慢さにも、弱さにも。そして何より、一味を守れなかった、自分自身の不甲斐なさにも。

だから、船医の泣き出しそうな制止を振り払う頃にはもう、サンジが忽然と姿を消したことも、乾いた血液が点々と跡を残して続いていたことも、そのすべてを薄れゆく意識のなかに見た男の後ろ姿に賭けて、決死の思いで船を出たのだった。

 

「てめぇがコックを匿ってくれていなけりゃ、俺たちは今頃、全員死んでいた。ドフラミンゴは、自分の作戦の失敗をみすみす見逃すようなヤツじゃねぇ。コックが生きていたとなりゃあ、どんな汚ぇ手使ってでも俺たちを殺しに来ただろう」

「・・・偶然だ、ゾロ屋」    

ローの低音が、辺りの空気をぞくりと震わせる。

怒っているような鈍い音色だが、これがこいつの常態なのだろう。

こっちが下手に出てるのだから、少しくらい愛好を崩せばいいものを。

そう思いかけて、苦笑する。

・・・ま、人のこと言えた義理でもねぇか。

ゾロは静かに、空を見上げる。美しい秋の空だ。遠くローが見据えた視線を辿る。透明な風、白く漂う雲、その先にずっと続く、蒼。

―まるであいつの、目ん玉みてぇだな。

「偶然かどうか知らねぇが、少なくともてめぇのおかげで、俺たちは全員命拾いした。礼を言う」

「・・・ふん」

ローは小さく嘲笑を零した。相変わらず、むかつく野郎に変わりはない。がしかし、こいつのおかげでコックは生き延び、俺たちの首の皮が繋がった。

カッコ悪くても、這いつくばっても、死ぬよりは100倍マシなのだ。

 

―生きてこそ。

 

「てめぇがこの世に生まれたおかげで、俺はとんでもねぇ迷惑を背負っちまった」

ローがぼそりと言葉を吐き出す。諦めたような声色にはしかし、ほんの少しの希望が滲む。

そうか、てめぇも、・・・自由になったのか。

「それは、誕生日でも祝ってくれてんのか?」

「・・・さぁな」

ひらり、と軽く手を振って、ローは静かに踵を返した。

向かう先に佇むのは、真っ白く伸びた無機質な研究所。

頭ばかりまわるこの医者崩れが、果たしてこの時代に何を企んでいるのか。ただただ上を見上げるゾロに、それはさっぱりわからない。

別に、わかろうとも思っちゃねぇが。

 

ふいにローが歩みを止めて、おもむろにこちらを振り返る。

ニヤリ、と歪めた口角に、底意地の悪い光が灯る。

「黒足の野郎に、伝えとけ」

「あぁ?」

 

―てめぇの中は、なかなかよかった。

 

びき、とこめかみにヒビを入れながら、ゾロはぎろりとローを睨んだ。

射るような視線のその先には、面白そうに頬を歪めた、男がひとり。

 

やっぱり殺るか? こいつ。

 

ひらひらと嫌味に片手を振って、男はひとり、先へと進む。

追いかけはしない。だけど、追い抜かれるつもりもない。

ゾロはくるりと背を向けると、まっすぐに丘を降りていく。

 

船では、見飽きるほど見慣れたあいつらの笑顔と、食べ飽きるほど食べ慣れた、コックの手料理が待っている。

 

はためくジョリーロジャーが、海の光をキラキラと反射する。

流れる雲は薄く尾をひき、去りゆく秋を彩っている。

生まれ堕ちたその、瞬間から。

神様でも奇跡なんかでもなく、希望の片鱗はいつだって、この掌のなかにあるのだ。

 

 

―あいつの中がよかっただと? ふん。・・・そりゃ、当たり前ぇだ。

「コックはもう、ずっと前から俺のモンなんだよ。トラ野郎・・・!」

 

柔らかい陽が緩んだ頬を撫でる。

幸せの夜まで、あと、少し。

 

 

 

 

( 完 ― ゾロ、お誕生日おめでとう! ―)

 

 

 

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