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生まれ堕ちる片鱗 1

目が覚めると、そこはまっしろな部屋だった。

飾り気の一切ない室内。適度な光度を放つ、蛍光灯。壁にかけられた四角い鏡が、対面の壁を真っ白に映し出している。ベッドサイドのブルーグラスが、天井からの光を青白く反射する。体を包む純白のシーツには、いやらしいほど丹念に糊が効いていた。

ごろり、と寝返りを打って、右の脇腹をベッドに預ける。衣服と敷物が擦れて、シュッと乾いた音が響く。

見たところ大仰な空調も備わっていないのに、室内は適温に保たれているようであった。いかにも清爽に澄んだ空気が、辺りを透明に覆っているのがわかる。おそらく無菌状態なのであろうこの清廉な空気をしかし、めいっぱい肺に入れることが何となく躊躇われ、無意識に小さく欠伸を咬み殺す。

目尻に滲んだ塩辛い体液は、シルクの袖でごしごしと拭き取られた。

 

そのまっしろい部屋には、窓がなかった。

 

 

ガチャン、と重たい音が響いて、白い扉がおもむろに開いた。

静かな靴音に重なる耳障りな金属音は、錠を抜くための鍵がぶつかり合う音色なのだろう。ジャリジャリと揺れる金色が、革靴の反響に色を添えていた。何の前ぶれもなくいきなり現れた長身の男は、ゆっくりと、ベッドに歩み寄って来るようだった。高い背丈の割に、線の細い全身。皺ひとつない白衣から覗く、奇妙な柄物のブルージーンズ。

すっぽりと被さった帽子のつばが、不健康そうな顔色をさらに黒々と陰らせていた。

「・・・てめェ、誰だ。」

その距離が1メートルを切ったとき、白い喉からは反射的に言葉が零れた。

男は歩みを止め、少しばかり驚いた様子で、こちらに視線を投げて寄越す。どうやら、自分から近づいてきたくせ、こちらから声をかけられることは想定していなかったらしい。腰に携えた長刀が、何を思ったかぎらりと光る。スマートな外見にはいささか不釣り合いな、その物騒な刃物はどうやら、尋常ではないほどの気配を放っているようである。

 

「目ェ、覚めたのか」

「・・・質問に答えろ」

ぎろりと睨み上げて、唸り声を搾り出す。平然と放たれた男の声は、薄い鼓膜を低く震わせていた。微かに甘く掠れた音色は、やはり初めて聴くそれであった。

「気分は、どうだ」

「最悪だ」

「そうか」

男は僅かに目を細め、こちらの様子をうかがっている。

着衣を見る限りおそらく研究者か科学者、よく言って医者、あたりなのであろう。目の下に巣食った色濃い隈が、染み付いた寝不足を感じさせた。

見下ろす視線が、鋭い光を放つ。その様子だけで、半端な三下でないことは、想像に難くない。先ほどから油断なく手をかけたままの気色ばった長刀がえらく不自然だが、男が物騒な動きをする様子は、見られなかった。

「・・・目ェ覚めた途端、どことも知らねぇ場所で転がされてりゃあ、誰だっていい気分なんかにゃならねェだろうよ」

「そうだな」

案外にも簡単に同意を示して、男はニヤリと口端を歪ませた。

それは断じて、甘ったるさの欠片が滲むような「笑み」ではなかった。

どちらかと言えば挑発的だったし、今まさに出会った人間に向けられる視線としては、いささか不穏な部類に入る。

しかし、そうして無理やりにでも笑ってみるとほんの少しだけ、他人の内を抉るような凶悪な眼光が、緩んだように見えるから不思議だった。

「で、もういっぺん聞くが・・・」

真正面で受け止めていた視線を逸らし、わしわしと軽く頭を乱す。その仕草に僅かな戸惑いが滲んだのは、男の様子を、今のところ安全、と取った証拠であった。ハラリと堕ちた金の糸は、きっと天使の羽よりも軽い。

辺りに漂う澄んだ酸素を、すう、とひと息に肺へ送り、ほんの一瞬呼吸を止める。

1秒よりも短い時は、自らに与えた逡巡の一刻だ。

 

「俺は、・・・誰なんだ」

 

男の目が微かに見開かれる。

なぜだか無性に、煙草が欲しかった。

 

 

 

オレンジ色の灯りを灯して、紫の煙が部屋を包んでいた。

ベッドサイドに置かれた煙草は、どうやら自分のお気に入りらしい。

そう言われてみれば確かに、初めて吸うにしては喉の通りも舌触りも、長年寄り添ってきたような馴染みの感があった。記憶を失っているとはいえ、どうやら何もかもを完全に忘れてしまっている、というわけではなさそうである。

「それで、黒足屋っつうのは本名なのか?それとも、なんだ、こう・・・あだ名、のような」

「本名だ。黒足のサンジ。てめェの蹴りは、なかなかの上物だったからな」

「ふぅん」

変な名前。

サンジは呟いて、ふたたびぼんやりと天井を見上げた。蛍光灯から放たれる光が、四角い部屋を白く照らしている。

男は、ロー、と名乗った。

やはり医者であったこの男は、三日三晩、睡眠どころか飯も食わずに、サンジの命を取り留めたらしかった。男がサンジを発見したときには、既に瀕死状態だったらしい。そもそも今生きていられる確率が3割程度だったというから、自分のことながら驚きだ。

ローの言葉通り、サンジの白い体のあちこちには、目も当てられぬほどの傷や痣が散見されていた。ほんの少し寝返りを打つだけで、思わず「うぅ」とくぐもった声が漏れる。いくら上等の蹴りを持っていたらしいとは言え、到底敵わぬ相手にでも喧嘩をふっかけてしまったのかもしれないと、サンジは思った。

黒足のサンジ。何やら、やたらと血の気の多い男のようだ。

「そんで、てめェが俺を、助けたのは」

「俺たちが、恋人どうしだったからだ」

「はぁ・・・」

サンジは怪訝に眉をひそめ、極めて静かに煙を吐き出した。

鏡に向かって「なんじゃこりゃ!」と大声を上げたのは、つい先ほどのことである。吃驚の原因となったその眉は、珍妙かつ豪快に渦を巻いていて、黒足と呼ばれる男のトレードマークか、はたまた一歩間違えば罵倒の対象になっていたであろうことは、容易に想像がつく。

「なんべん聞いても、にわかには信じられねェが・・・」

「それも、そうだろう。なんせ、俺たちは男だ」

ローはゆっくりと、言葉を選んだ。何度も繰り返した同じ台詞に、サンジは困ったように眉根を下げる。

 

 

話を聞く限り、サンジは何日も眠り込んでしまっていたようだった。

奇跡的に命を留めた手術は大成功の類だったようで、体には、外傷以外のダメージはほとんど残らなかったと、ローは述べた。それだけに、手術が終わってからも目を開けることなく昏々と眠り続けるサンジに、正直これ以上の手の施しようがなかった、とも。

そんな面倒をわざわざ背負い込むなど、例え善良な医者であっても、軽々しくできる芸当でないことは明らかだった。あるとすれば、何か裏の事情が絡んでいる場合か、もしくは明確な理由がある場合、に限られるはずだ。

 

この場合、どちらの可能性も五分五分である、と考えるのが、妥当であろう。

 

ということは・・・、とサンジは考えを巡らせる。

50パーセントの確率で、自分はこいつの恋人であった、ということになる。

 

 

深い眠りからの起き抜けに、あまりに多くを考えすぎたのか、ぐうと鳴った腹具合を見かね、ローが「待っていろ」と命令を下した。先程から吐き出される不遜な態度は到底、恋人に対するものには思えなかったが、かと言ってローがどんな風に「恋人」に接していたのかを、今のサンジには知る術もない。

ふらりと姿を消したかと思えば、再び霧のように現れたローは、なぜだか大皿いっぱいに、ほかほかと湯気の立つパンを乗せていた。

そのあまりのミスマッチさに、思わずほろりと、笑みが零れる。

「てめェは食わねェの?」

「俺はいい」

パンは嫌いだ。

自分の嫌いなものをわざわざ人様に差し出す心意気は理解できなかったが、それでもその不器用な給仕によって、サンジはほんの僅か、ローに対する態度を軟化させたのだった。

 

「なァ、それで、こりゃあ治るのかよ」

「さあな。わからねェ。てめェみてぇな症例は、俺も初めてだ」

慣れた手つきで薬を配合しながら、ローは平然と言ってのける。精錬に澄み切った部屋の空気は、サラサラと落ちる粉音をすら反響させるような静寂を保っている。

「大怪我を負う原因となった事象の記憶そのものが抜け落ちていることから、おそらく、今のてめェには逆行性健忘の一種が生じていると考えられる。記憶を飛ばす事象から後の記憶がねェ状態を順行性の健忘と言うが、逆行性はその逆、つまり、事象以前の記憶障害が起こる健忘障害だ。ただしこれ自体は、さほど珍しい症例でもねぇ。逆行性健忘に限れば、記憶の減弱を起こすケースの1割程度に見られる症例だ」

耳慣れない単語をすらすらと並べ立て、ローが淡々と言葉を紡いだ。医者、というのも、どうやら本当らしい。

「だがてめェの場合は、少々やっかいな状態にあると推測される。通常、単純な逆行性健忘では、エピソード記憶のみの健忘が起こるのだが、どうやらてめェの場合は、自分自身のことを全て忘れてしまう、全生活史健忘が同時に生起しちまっているらしい。要するに今のてめェは、あなたは誰、私は誰、状態だ」

「そりゃ、俺が一番、わかっちゃいるが」

理解できた言葉だけを何とか繋ぎ合わせ、サンジは懸命に事態の把握に努めていた。

つまり、大怪我の際にそれ以前の記憶が飛んだ。それと同時に、自分に対する記憶も飛んだ。そんで、それはローにも治せねェ、と・・・。

「全生活史健忘は、心因性で起こることが多いと言われている。悪ぃが、俺の専門は外科だ。精神の方は強くねェ。ただある程度の処方はできるから、しばらくはこのまま、様子を見させてもらう」

「・・・そうするしか、ねェんだな」

「あァ」

悪ぃ。

二度目の謝罪を口にすると、僅かにローの瞳が曇った。初め真っ黒に見えていた虹彩は、白い光に照らされると、微かな灰色を滲ませていることがわかる。色素の薄い、淡色の瞳。

「謝るこたァねェよ。てめェが外科医じゃなきゃ、俺は確実に死んでたんだ。ケンボウ、とやらだって、時間を置きゃ治る可能性もあんだろう? その証拠に、全てを忘れたわけじゃねェ。今だって俺は、確かに、煙草の味を覚えていた」

ふう、と紫煙を吐き出しながら、サンジの視線が灰皿を探した。

気色の悪さがないわけではなかったが、自分としては何も覚えていないので、別段困るようなことも思い浮かばなかった。

 

短くなった煙草は、まずい。

擦り付けるように火を消して、もういちどあの、新鮮な重さを味わいたい。

 

部屋をぐるりと舐める視線に気付いたのか、ローがふと、簡易灰皿を取り出した。喫煙者の勘を介して見たところ、ローが日常的に煙草を吸っている様子はない。灰皿を携帯しているとは、周囲に親しい喫煙者でもいるのだろうか。

「あ、・・・ありがとう」

「構わねェ」

それにしても、とサンジは思う。

まるで、灰皿を探し始めた瞬間にそこに現れたかのような、絶妙なタイミングだった。

じりりと先を押し付けて、短くちびた煙草を消し去る。途端に寂しくなった口元に葉物を押し込もうと手を伸ばしたのと、ローの唇がそれを塞いだのは、ほとんど同時のことだった。

「ん、む・・・ぅ!っは、てめ・・・なに・・・っ、」

言いかけて、口をつぐんだ。

恋人どうしだったというのなら、このくらいは、普通のことだったのだろう。躊躇いのない口付けが、以前のふたりについての真実味をいっそう深くしていた。まっすぐに見下ろす色のない視線は、ほんの僅かな戸惑いすら見当たらない。

「悪ぃ、俺、その・・・、すっかり、・・・忘れちまってるみてェで」

「あぁ。無理に思い出すこたァねェよ。てめェはそのままでいい、黒足屋」

今日はもう、休め。

そう言い残して、ローは静かに部屋を去った。後にはガチャリと、重い錠の落ちる音が残った。

 

ひとり残されたサンジは、先ほどローの手によって配合された薬を、喉の奥へと流し込んだ。そうしてしばらくすると、どろりとした重たい眠気が覆いかぶさってきたのがわかる。

いくら医者を名乗っているとはいえ、初めて出会った、のとほとんど変わらない人間が調合した薬など、本来なら飲むべきではないのであろう。ましてや自分は今、記憶をなくしてしまっている特異な状態である。嘘などいくらでもつくことができるだろうし、物質的な証拠もない以上、真実を取り繕うことなどいとも簡単なことなのだ。

しかしサンジは、ローが自分を悪い風にしようとしているようには、どうも思えなかった。

だいいち、本当に薬でどうにかしたいなら、飲めとも言わずに立ち去るようなミスを、あいつが仕出かすとは考えにくい。

ぐるぐると思考の海に飲まれながら、サンジはだんだん意識を沈める。

白い帽子、濃く刻まれた隈、脳みそに響く低声と、妖気を放つ刀・・・

 

まっしろな部屋は相変わらず静かに佇んで、空調音すら聞こえて来ない。

いままさに眠りに堕ちんとするサンジには、今が朝なのか夜なのかすらも、よく、わからなかった。


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それから同じような毎日が、何事もなく繰り返されていった。

腹が減れば飯が出され、排泄の際には簡易便器が差し出される。朝も晩もない、まっしろな生活。ローは時折姿を見せては、他愛のない雑談をして、静かに部屋から去って行った。

恋人どうしの口付けは、するときもあれば、しないときもあった。

口付けを交わしたところで、その大半は触れるだけの軽いものだったのだが、どういう気まぐれなのか、時にふと、厭に熱くねちっこい口付けを求められることもあった。ローの真っ赤に染まった滑らかな舌先が、酷く乾いた口内に挿し入れられるたび、サンジの細い腰はずくずくと疼いた。

 

ローのことが好きなのか、と問われれば、嫌いではない、と答えたであろう。

 

ふたりは恋人どうしの甘ったるい会話など、一度たりとも交わさなかったし、口付け以上の行為に及ぶこともなかった。

劣情に疼く甘い腰の痛みを、ひとり吐き出す夜もなかったわけではない。

しかしそれだって、あくまで男としての生理的な反応であって、ローに対する欲情なのかと問われれば、イエスともノーとも答えられる自信がなかった。

 

ローのキスは、優しかった。

 

ふわり、と金糸を撫でられて、サンジの目が線に閉じる。

まるで壊れかけた玩具を扱うかのような、慎重で柔らかい指先の温度。

サンジは、その感覚だけは、間違いなく「好き」だった。

 

 

 

その日もサンジは、ひとり静かに目を覚ましていた。

一度意識を取り戻してから後は、ひたすらに眠り続ける、ということはなくなっていたものの、一般的な睡眠時間と比較すればかなり長く眠っているようである。

まだ体が、本来の調子に戻ってはいないのだろう。

ローと会話を交わす程度であれば問題なく振舞っていられるのだが、起きているあいだ中全身にはまだるっこい倦怠感が付き纏っていたし、ましてや部屋から出て何か事を成そうなどと、考えるだけでぐったりと疲れてしまう有様だった。

医療についてはよくわからないけれども、自分の体は今、記憶の消失などという、なんとも大げさな状況に置かれているのである。気づかぬうちに体のあちこちがかなりの負担を負っていたとしても、不思議ではないと、サンジは思う。

 

起き抜けにぼんやりと天井を見上げていたサンジは、くあ、とひとつ、あくびを零した。

今日で、いったい何日目なのだろう。

ベッドサイドの煙草を掴み、火も灯さずに、咥え込む。体を起こすのが面倒で、布団に包まり両膝を抱えた。そろそろ、ローが食事を運んで来る頃かもしれない。ぼんやりと昨日のキスを思って、サンジは再び眠りの波に飲み込まれていく。

 

 

「おい! いるんだろ! 返事しろ!」

いつの間にかうとうとと眠り込んでいたサンジの耳に、聞きなれない怒号が響き渡った。

吠えるように重なる大声には、明らかに焦った様子の足音が続いている。

言い争うふたつの声のうちひとつは、おそらくローのものであった。今では耳慣れた甘い低音が、廊下にぐわんと反響している。

ずいぶん広い、廊下なんだな。

流れ込む物騒な気配にも関わらず、サンジは呑気に、そんなことを考えていた。

ローは普段、無駄な物音をほとんど立てない。だから、外の様子がほんの僅かにでもうかがい知れたのは、これが初めてのことだった。

「どこだ! っクソ、・・・てめェで声を上げやがれ! なに簡単に捕まってやがる!!」

野獣のような唸り声が、サンジの鼓膜を震わせている。

誰を探しているのか、ドスの利いた低い声には凶悪な響きが滲み出し、その男のただものではない雰囲気を伝えていた。相当に、強いヤツなのであろう。ふたりから放たれる不穏の気配が、扉の向こうで混ざり合っている。

 

凶暴な足音は、だんだんとこの部屋に、近づいて来ているようだった。

不思議と、怖い感じはしない。

 

「おいどこだ! てめェはそんな弱ぇタマかよ!! ちっ、・・・しゃきっとしやがれ、クソコック!!」

 

サンジは布団に包まったまま、僅かに首を、右に傾げる。

 

 

(続)

 

 

 

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