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晴れの海の、苦い夜

 

夜の帳が、海を真っ暗に包んでいる。

遠くで聞こえる甲高い鳴き声は、闇のおとずれを知らせる、白い大きな鳥だろうか。

医務室からは、ぼんやりとしたオレンジ色の明かりが外に漏れ、黒に沈んだ甲板を頼りなげに照らしている。

 

ベッドにだらりと横たわったサンジは、のどから零れ落ちる低いうめき声をかみ殺しながら、時間が過ぎるのをただひたすらに待っていた。

額の脂汗が、その苦痛を痛々しく物語っている。

 

『3日間。』

 

航海士は、医務室の扉に手をかけながらサンジを振り返ると、まっすぐに目を見つめ、力強くそう宣言した。

 

『サンジ君。辛いでしょうけど、3日間、我慢してちょうだい。その間に私、必ずなんとかするから・・・!』

 

 

3日間、か。

 

――・・・結構、やべぇな。

 

 

思いもよらない弱気な感傷が、サンジの脳裏をかすめていく。

 

眠ってしまえば楽になるものを、あまりの痛みで、眠りに落ちることすらままならなかった。

ギリギリと脳みそを縛り上げられるような感覚が、次第に強度をあげながら、波のように押し寄せてくる。

 

眠れないならいっそ、意識がなくなってしまえばいいのに・・・。

 

そう思いかけた自分にはっとして、ぎゅうと強く、目を瞑る。

 

『だめだ。今弱気になったら、まじでおれ、飛んじまう。』

そんなことになれば、罪悪感を隠して強がったかわいい航海士や、自分のことのように心配して青ざめる優しい船医が、どんな思いをするかは目に見えていた。

 

こみ上げる吐き気を飲み込んで、サンジはきゅっと布団の端を握り締める。

 

 

――・・・がちゃり。

 

ますます激しくなる痛みに悶えるサンジの耳に、扉の開く音が届いた。

 

『・・・?ここには誰も入るなって、張り紙・・・』

 

「おう。」

「・・・んだ、てめぇか。」

 

真上から低く響いた声が、サンジの脳みそをキリキリと震わせる。ほんのりと漂う汗の香りが、夜のトレーニングが終わったことを示していた。

 

「ずいぶんと、死にそうな面してんじゃねぇか。」

「・・・そう思うなら、さっさと出てけよクソマリモ。」

 

睨み返すこともできずに、布団をかぶって鈍い声を上げる。

振り返らずともわかる、マリモのごつごつとした額に滴る汗。

ちょうどいつもの、酒を取りにキッチンにやってくる時間なのだろう。

 

「3日間、そのままだってな。」

「うっせぇ・・・。てめぇの声、頭に響くんだよ。・・・ちっと・・・、黙れ。」

 

いつもの悪態も、こう調子が悪いと勢いが出ない。

 

剣士の口元から放たれる低音が、頭の中でガンガンと反響する。

その聞きなれた音程に触発されたのか、ふと、マリモ剣士の硬い二の腕を思い出す。

締め付けられるように痛んだ脳みその片隅に、不自然な焦燥感が湧き上がった気がした。

 

 

 

カタリという音を立てて、剣士が椅子に腰かける。

 

『・・・?』

なんだよ、こんなときに。

 

「・・・おれァ今、病人だ。悪ぃが、マリモのお遊びにゃ付き合えねぇよ。」

サンジのついたため息が、僅かな苛立ちとともに部屋の空気に溶けていく。

 

声をかけるでもなく、剣士はこちらを、じっと見つめているようだった。

決してケンカをふっかけに来たのではないことを、サンジは漂う気配から察していた。

それだけに余計、背後に黙って鎮座している剣士が今、どんな様子でそこにいるのか、サンジにはまったく、検討がつかない。

 

 

 

 

顔を合わせれば、ケンカばかりのふたりだった。

 

のんきに居眠りする高いびきも、やたらに筋肉を鍛え上げた背中も。

うまそうに飯を喰らうその姿までも、目に入る姿がいちいち、サンジの癪に障った。

あれは、この船に乗り込むほんの少し前のことだったか。

目の前であの、衝撃的な敗北を見せ付けられた、あの時から、その思いは日を増すごとに強くなっていった。

 

そしてそれは、お互い様だったのだろう。

賑やかな一味のなかでは、決して口数の多くない剣士が、なぜだかサンジに対してだけ、何かにつけて皮肉を投げてよこした。

 

その言葉は逐一、ものの見事にサンジの神経を逆なでした。

 

もともとヒートアップしやすい性質のサンジである。

そうして自然、ふたりは顔を合わせるたびに、本気のケンカを繰り広げることになっていったのだった。

 

 

・・・それなのに。

 

 

体だけが、別の反応をしてしまっていた。

 

 

いつの頃からだったか、剣士に半ば押し切られたようにはじまった関係だった。

ある時はキッチンで、またあるときは食料庫で。

繰り返される欲情の行為は、はっきりと言葉で定義されることもないまま、惰性のようにだらだらと続いていた。

 

乱暴な口付けから始まる情事に、声を潜めて深く重なり合う。

 

「もっと啼けよ、・・・クソコック。」

 

耳元で響くその声に、何度高みを見せられただろう。

剣士から与えられる壮絶な快楽は、体を重ねるごとにその熱さを増していった。

かみ締めた唇とは裏腹に、体はもっともっとと、先を急かす。

白濁した床の染みを見遣るたび、身悶えするような矛盾を感じながらも、サンジは幾度となく、押し寄せる悦楽に溺れていったのだった。

 

 

しかし、野獣のように抱きすくめる剣士の瞳のなかに、微かに焦燥の色が浮かぶのを、サンジはいつの頃からかぼんやりと気づいていた。

 

不意にみせる優しい指遣いに、金糸を梳く愛しそうな横顔に、抱いた後の切なげなため息に・・・。

サンジに対して巧妙に隠された、剣士の甘ったるい情動が、じわりじわりと滲み出してくる。

その秘めた想いにふと触れるたび、サンジの胸は、なぜだか小さくキリキリと痛んだ。

 

・・・こいつ。

 

誰を重ねて、俺を抱いてやがる・・・?

 

 

 

 

カタリと音をさせて椅子に座り込んだ剣士は、静かにこちらをうかがいながら、そこに居座っている。

毒も棘も含まない息遣いが、オレンジ色の光に溶けていく。

ケンカをするか、体を重ねるかの、どちらかしか選んでこなかった関係の相手に、こういうときどういう顔をしたらいいのか、サンジにはよく、わからない。

 

 

「てめぇ、・・・辛ぇのか。コック。」

思いがけず柔らかく響いたその声に、再びぶるりと、脳みそが震えた。

 

「・・・・・・だったら、っ・・なんだよ・・・。」

布団の端を強く握り締めたまま、ぽつりぽつりと言葉を搾り出す。

否定も肯定もしなかったことが「yes」とほぼ同じ返答だったということを、サンジは薄々感じながらも、なぜだかそれ以上の言葉を紡げない。

 

「辛ぇんなら、・・・辛ぇカオすりゃいいだろうが、アホコック。」

「・・・は?何言ってやがる、マリモのくせに。・・・偉そうに、人間様の心配か?」

「また、そう・・・、こんなときまで、素直じゃねぇんだな。」

「な、・・・んだよ、気持ち悪ぃな。言いたいことがあんなら、さっさと言って、こっから出てけよ。」

 

いつもとどこか様子の違う剣士の態度に、サンジの調子がつられて狂う。

ぽろぽろと零れ落ちる言葉の、どこまでが虚勢で、どこまでが本心なのか、言っている自分にいちばん自信がなかった。

ぶれることない胸の羅針盤が、くるくると、無意味な円を描き始める。

 

「ちっ、・・・いつまでいるんだ、マリモ野郎。人が苦しんでんのが、そんなに楽しいかよ。」

「そんなんじゃねぇよ。」

「じゃあなんで、」

「っとにてめぇは、っ・・・はぁ。まぁ、いい。・・・たまには俺を使え、コック。」

「・・・・・・は?」

「だから、なんかあんだろ、ほら、・・・こう、殴りてぇとか叫びてぇとか、痛みが紛れる方法っつぅか、・・」

「・・・わかるように人語で話せ、クソマリモ。さすがの俺でもマリモ語は、」

「だから!・・・ったく、じれってぇ野郎だな・・・、っ・・俺を頼れ、っつってんだ!」

 

思いもよらない言葉が耳に飛び込んで、サンジの心臓がドクリと一度、大きく脈打った。

 

 

頼れ、だと?

なんで俺が、こんなやつに・・・

 

 

サンジの脳みそが、再びイライラと波立ち始める。

 

 

お前が見ているのは、俺じゃないくせに・・・――

 

 

「んだよ。・・・てめぇに心配される筋合いなんて、・・・俺には、ねぇよ。」

「あぁ?んなこと、」

「ねぇんだよ。わかったらさっさと出てけ。てめぇのクソむかつく声聞いてっと、治るもんも治らねぇ。」

「・・・その声によがって啼いてんのは、どこのどいつだ。」

「あぁ?!!それとこれとは話が別だ!だいたい俺たちは、体だけの関係だろうが!」

 

言ってしまってから、しまったと思った。

 

ほとんど無意識に叫んだ最後の言葉には、抑えきれない嫉妬の色が、どろりと絡みついていた。

 

調子の狂った羅針盤の針が、サンジの胸の中でくるくると回転している。

今しがた吐き出した黒い感情への後悔が、サンジの耳朶を赤く染めていく。

 

・・・まじぃな。

自分を、コントロールできねぇ。

 

「コック・・・、まさかてめぇ、・・・俺の気持ち・・・、」

「・・っ!あぁ、・・・悪かったな、今まで知らんふりして抱かれてよ。・・・てめぇに好きなヤツができたことぐらい、俺ァ気づいてんだよ・・・!」

 

剣士の言葉を先読みして、サンジは思わず語気を強めた。

そうして強がっていなければ、胸の奥に抑え続けてきた情けない想いが、堰を切って溢れ出してしまいそうだった。

 

「レディ抱くみてぇに、愛おしそうに触れてきやがって・・・っ。体だけって割り切ってんのは、お互い様だろうが。」

「は、・・何、言って、」

「目ぇつむってりゃあ、レディの体にでも思えたかよ?はんっ、俺に、誰かを、重ねんじゃねぇよ・・・気色悪ぃ・・・っ!」

「違っ、それは、」

「だいたい、ありゃ性欲の処理だろう。んな壊れ物扱うみたいな触り方されて、俺は・・・どうすりゃいいんだ。」

「待てってコック、俺は、」

「ッ・・うっせぇな、変な期待させんじゃねぇよ・・・!もう十分だろ、やめようぜ、あんなこ・・っんぁ?!!!」

 

次々と吐き出される罵声を遮って、サンジの体がぎゅうと、力強く抱きしめられた。

突然のできごとに、一瞬、息が止まる。

 

そのまま気を緩めかけたサンジの両の手が、はっと思い出したように、抵抗を試みる。

 

「・・・っにすんだ!おいクソマリモ、そこ退け!」

「うっせぇ。病人は黙れ、グル眉毛。」

「てめぇ・・・っ!もうやめろっつってんだろ、こんなこと!」

「それは、聞けねぇ。」

「は?!ばっかじゃねぇの、てめぇが誰を想って抱いてんのか知らねぇが、俺はナミさんでもなきゃ、街のかわいいレディでもねぇんだ!孔ならなんでもいいのかよ、このクソ野獣!」

「・・・誰も、重ねちゃいねぇよ。」

「んなわけねぇ。あんなに大事そうなカオして俺のこと突きやがって。勘違いもたいがいに、」

 

「想ってんのは、・・・てめぇのことだ。」

 

「・・・・・・は?」

 

耳に届いた言葉を、うまく飲み込めない。

凍りついたように固まったサンジの耳元に、剣士の優しい低音が響き渡る。

 

 

「勘違いはてめぇだ、ばか。俺が抱きてぇのは、・・・おまえだけだ。・・・好きだ。てめぇが好きだ。」

 

 

・・・好きだ、好きだ、・・・サンジ・・・っ!

 

 

 

-------

 

 

 

どのくらい、こうしていただろう。

 

何度も襲った吐き気はすっかりと落ち着きを取り戻し、鋭い痛みはいつしか柔らかい鈍痛へと変わっていた。

力いっぱい喰いしばって血の味が滲んだ口内からは、今や、静かな吐息が漏れるだけである。

 

愛おしそうに抱きしめられた両腕から、優しい温度が伝わってくる。

その甘い感触に、いつもの抵抗も忘れてそっと、寄りかかる。

 

 

ふたりの関係が変わることを、ずっと恐れていたのは、たぶんサンジの方だった。

 

いつの頃からだっただろう。

後孔から漏れ出す剣士の熱い肉欲に、押し殺した声に絡まる甘い吐息のなかに・・・。

自分だけに向けられた淡い感情が、ほんの少しでいい、潜んでいやしないかと、無意識に探ってしまうようになっていた。

 

そして、その甘い期待は同時に、剣士の微妙な心変わりを、サンジに気付かせた。

 

想いを伝える方法は、いくらでもあったのだろう。問いただすことも、できたはずだ。

だけれど、そこでぶつかって傷つくことができるほど、サンジの心は強くできてはいなかった。

 

だから、微かに生まれたその甘ったるい幻想を、サンジは、なかったことにした。

そして『体だけ』の関係を、『自分の意に反している』という形で、続ける道を選んだのである。

 

 

あたたかな幸福が、サンジを包む。

剣士から伝わる、柔らかな息遣いも、暖かいまなざしも、微かに滲んだ情欲も。

 

今なら、わかる。

 

これは、間違いなく、自分だけに向けられたものだ。

 

 

「いつまで泣いてんだ、アホコック。」

「・・・うっせぇ。泣かしたのはてめぇだろ。」

 

乱れた着流しを濡らす透明な水滴が、口下手なサンジの想いを、ぽたりぽたりと静かに代読している。

 

「知らん。てめぇが勝手に泣いたんじゃねぇか。」

「マリモが、ふざけたことぬかしやがるから、」

「ふざけてねぇ。」

「ばっ・・・!っ・・もう、いい、頼むから、それ以上なんも言うんじゃねぇ。」

「あぁ?!!人がせっかく意を決して、」

 

「心臓、壊れる。・・・死ぬ。」

 

その言葉の真意を測りかねた剣士が、疑問の瞳をこちらに向けるのを制止するように、もういちど強く、今度は自分から、その広い背中に腕をまわす。

そして、ピアスの揺れる赤い耳朶にふわりと口付けを堕とすと、ふたりだけに聴こえる小さな小さな声で、ぽつりと、囁いた。

 

「・・・俺の方が、もっと好きだぜ。ゾロ。」

 

 

 

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