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晴れの海の、苦い夜

まただ。

 

 

夜の闇に零れ落ちた母音が、ゆらりと空気に溶けていく。

脱ぎ捨てたシャツで縛り上げられる白い両腕が、ギリギリと赤く跡を残す。

罵倒も忘れて情けなく悶える自分の姿が、熱くしめった黒い瞳に、ぼうっと不確かに浮かび上がる。

 

「・・・っん、は・・・ぅッあ、も、・・やべ・・・・っぁあんんッ!!」

 

今夜何度目かの絶頂を迎えたサンジは、ともに達した剣士の生暖かい体液を、その後孔からだらりと零れさせる。

 

薄れ行く意識のなかで、真上から覆いかぶさる剣士の横顔を、チラリと盗み見る。

熱く滴り落ちる汗には確かに、渦巻くような欲情の色が滲んでいたが、その瞳は、サンジ自身の何をも映し出していない気がした。

 

 

誰を、見てるんだ・・・?

 

 

金糸を撫でる手の先に、ほんの一瞬の迷いが絡まる。

 

指先に残った微かな躊躇いが、ただの性欲処理の相手に向けられるものとは、明らかに違っていた。

毎夜繰り返し打ち寄せる快楽のさざ波のなかで、ふとその甘い感触に触れるたび、サンジの心はなぜか、灰色の不協和音で満たされていく。

 

 

 

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小象ほどもあろうかという巨大な雨粒が、どかどかと船を襲う。

轟く雷が天罰のように海へと降り注ぎ、硬い氷の塊は頑丈な甲板に大きく穴を開けていく。

 

この海域に入ってから、もう1週間。

数時間ごとに変わりゆく信じられない悪天候が、ここ最近は毎日のように続いていた。

 

 

「・・・はぁ・・・。」

 

濡れて柔らかくうねった金色の髪を、後ろで小さく結ぶ。

薄水色の袖をくるくるとまくりあげたコックは、いつものように夕食の準備に取りかかった。

 

 

つい先ほどまで、甲板はまるでお祭り騒ぎのようだった。

 

轟音を響かせながら次々と突き刺さる「雪」を、ある者ははじき返し、ある者は撃ち落し、ある者は八つ裂きに斬り裂いていく。

高らかに響く船長の笑い声と、それを諌める怒鳴り声。そこに混じる数人の気弱な悲鳴。

 

ここ一週間ほど、見飽きるほどに見慣れた、いつもの光景である。

 

当のコックも、降り注ぐ爆弾のような巨大雪を、次々と飛び上がっては蹴り飛ばし、不安げに見守る美女たちに、空からヒラリと手を振ることも忘れていなかった。

 

 

「はぁ・・・。」

 

いつもならば鼻歌さえ混ぜながら調子よく進む、心地よい包丁のリズムが、なぜだかほんの少しずつ、鈍くテンポをはずしていく。

コックの確かな腕前で、向こう側が透けるほどに薄く切られる根菜も、今日はほんの数ミリ、分厚いようだ。

 

くつくつと煮える鍋から一気に溢れ出した水分が、金属にあたって派手な音を立てた。

その音にはっと振り返ったコックは、頬を一瞬青くそめ、慌てて火を止めにコンロへと走る。

 

『おかしい。・・・なんだ、これ。』

 

鍋の吹き零れなど、もう長い年月経験していない。

こぼれた煮汁を緩慢にふき取り、そのままぼうっと鍋を見つめたコックは、こめかみにぐりぐりとこぶしを押しつけて、もう一度大きくため息をついた。

そして、まな板に転がる無残な姿の根菜たちを横目に、結った髪の毛をバサバサとほどきながら、ガチャリとキッチンを後にしたのだった。

 

 

 

「ん~・・・、サンジ、最近なんか変わったこととか、なかったか?」

「いや、・・・何も思いつかねぇ。」

「そうか・・・。」

 

小さな船医は、先ほどから念入りに、サンジの診察を続けている。

熱を測り、のどを覗き込み、聴診器をあてては、パラパラと医学書をめくる。

 

「わかんねぇな・・・、でもおまえ今、かなり酷いんじゃないか?」

「ん?んあぁ、・・まぁ、・・・耐えられねぇってほどでも、ねぇよ。」

「うーん、とにかく今は、安静に・・・」

 

言いかけてはっと、何かに思い当たる。

慌ててめくったページの先で目的のものを発見した船医は、悲嘆のうめき声を小さくかみ殺しながら、サンジの顔を覗き込んだ。

 

「な・・・、なんだよチョッパー。んな深刻そうな顔して。」

「いや、・・・なぁサンジ、それ、起こったのいつからだ?」

「これか?あー、っと、そうだな・・・」

 

サンジはその、白く繊細な右の手を、自身のおでこにあてがった。

やっぱり、熱は出ていない。

 

「雪蹴っ飛ばしてるときは、なんともなかったんだ。そんでその後、急に晴れて来たろ?だから、あとは野郎共に任せて、飯作るためにキッチンに入った、・・で、そんときにズキリと・・・。」

「そうだよな、晴れてから、頭痛が始まったんだよな?」

「晴れてから・・・、まぁそう言われれば、そうだった、かな。」

「そうか。やっぱりだ・・・」

 

心なしか深刻そうな面持ちでうつむいた船医は、「ちょっとナミ呼んでくる!」と駆け足に医務室を飛び出していく。

 

 

 

「つまり、“これ”は・・・これからますます、酷くなるっつうことだな?」

 

船医の言いつけで床に臥せることとなったサンジが、よいしょと首をもたげて問いかける。

切羽詰まった様子で言葉を濁す船医が言うには、つまり、こういうことらしかった。

 

悪天候を避けて入ったこの海域は、晴れの日が続くことで有名な、珍しい場所であった。

天候の予測もたたない危険な航路を進むものたちにとって、「晴れ」が確約されたこの海域は、つかの間の安らぎが得られる貴重な場所として、古くから言い伝えられているという。

羅針盤さえ意味をなさない、荒くれ者の海である。この平穏な海域に、無事に船を連れてきた美人航海士の腕は、言うまでもなく確かなものであった。

 

ところがこのありがたい海域には、たったひとつ、厄介なおまけがついているというのである。

 

「それが、『オモヒハレヌ者、晴レノ地ニ足踏ミ入レルベカラズ。』という言葉なんだ。」

「オモ・・・なんだって?」

「私も、聞いたことはあったわ。」

 

船医に続けて、航海士も口を開く。

 

「“重い割れぬ”とか“尾も引っ張れぬ”とか、いろいろな説があるんだけど、いまいちわかってないみたい。それはつまり、これまであまり多くの人に影響が出ていない、っていうことなの。だからまさか、サンジくんが・・・。」

 

そう言って、言葉を詰まらせる。

いつもは顎でサンジを使う航海士も、力なげに床に臥せったサンジの様子に、ショックを受けている様子だった。

 

「ともかく、サンジ。“これ”、いったん発症してしまうと、時間の経過に伴って、頭痛がどんどん酷くなるらしい。吐き気や眩暈、・・・さらに悪くすると、意識を失ってしまうことも、あるって・・・」

 

小さな船医は、まるで不治の病を告げるかのように、悲痛な面持ちで下を向く。

 

「おいおいチョッパー、別に死ぬわけでもあるめぇし。」

「でも俺、今度ばかりは治してやれねぇ・・・ごめんよ・・・。」

「待て待て泣くな、てめぇのせぇじゃねぇんだからよ。なぁナミさん、ここの海域抜けりゃあ、元に戻るんだろ?」

「えぇ・・・あ、そうか!サンジくん、私、船の航路、」

 

嬉々として顔を上げた航海士の言葉を遮って、サンジは続ける。

 

「ナミさん。大丈夫だよ。ここは安全なんだろ?進路を変える必要はねぇよ。」

「でも・・・、」

「いいっていいって。他の奴らは、大丈夫なんだな?」

「あぁ、サンジ以外は今のところ・・・」

「だからって、サンジくんのこと、」

「いいから。いこう、このまま。安全だから、ここに連れてきてくれたんだろ?さすがはうちの、航海士だ。ナミさんの判断は、間違ってないぜ。」

「・・・だって、・・・っ!」

 

鼻にかかった声が微かに震えたのを聞かなかったことにして、サンジは精一杯の笑顔を返した。

 

「さあ、ナミさん。今晩はおれがいないんだ。代わりにとっておきの夕飯、みんなに出してやってくれるかい?」

 

 

 

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