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ファインダー越しの未来

春  - 卒業2 -

 

 

――……答えを聞いてねェ。

そう宣うゾロの真剣な瞳がサンジの心臓を突き刺していた。

遠く人波の喧騒がざわめき、春色の風がふたりの間を吹き渡っていく。

見つめる、だなんて甘い言葉では事足りない。至近距離から睨めつけられて、苦しいほどに息が詰まった。

マリモのくせに、とか、てめェなんかに、とか、吐ける悪言はいくらでも思いつくはずだった。

「……答え、って」

喉の奥は声を忘れ、カラカラと乾いた音を立てた。

『馬鹿言うな』そう言って笑い、鼻の頭を小突けばいい。頭ではわかっているはずなのに、なぜだか心がいう事を聞かない。

戸惑うサンジの腰に回された太い腕にふと慈しむような熱が込もった。ふいにあの夜受け止めた切ない温度を思い出しサンジは頬を紅にそめる。

3月の春風がハットからはみ出す金の襟足を揺らした。風に滲む花の香り。

「一緒に、来い。フランスに」

「それは――

何かを言いかけた視界に影が落ちる。驚いて見返せば、光を遮るゾロの手には先ほど手渡した1枚の写真が握られていた。まっすぐな視線は逸らさないまま、ゾロの体が音もなく離れる。陽の光がキラリと反射してサンジは思わず目を細める。

それは卒制に展示した写真だった。「俺にもくれ」と宣ったコイツにわざわざこうして渡しに来てやったのだ。正直マリモなんかのために焼き増しを作るのは猛烈に面倒だったが、モデルを務めてくれた恩もあった。致し方ない。今はデッサン室のあの白壁に、引き伸ばしたでかい面が飾られているはずだった。

画角に収まっているのは朝陽に映えるゾロの横顔だ。静かな熱情を湛える強い視線。額に滴る透明の汗。それらはまるで肉食獣が草むらに身を潜めるような、野生の緊迫感を醸し出していた。抉るように「塔」を見つめる碧色の瞳。美しくぎらついた瞳の奥底からは、燃えるような色欲が滲み出していた。

「客からえらく人気だそうだ」

「あ?」

いきなり聞こえた場違いな台詞に、サンジは思わず怪訝な顔を向ける。

目の前のマリモは今まさに、留学の話をしているのではなかったか。

「あちこちでてめェ写真の評判を聴くらしい。客に点数を付けさせたら間違いなくてめェが最優秀賞だ、つってうちの教官がわざわざ俺に言いに来やがった。あまりに名前を頻繁に聞くもんだから、あの物好きな理事長直々に謁見があったって話だぜ」

「なんだそりゃ」

サンジは呆れたように言葉を零す。

「なんかの間違いじゃねェか? それ。センセイ方からの評価はいつも通りだったぜ?」

「プロの見る視点と、素人の見る視点は確かに違う。けど、プロの視点がいつも正しいとは限らねェ。……言ったろ、てめェの写真は正直すぎる。怖ェんだ、あまりにまっすぐ過ぎて。生々しくて、痛い」

「ダメじゃねェか」

「違ェよ、聞け」

いつものように冗談で丸め込もうと吐いた台詞が、乾いた笑いとともに紫煙に溶ける。ゾロはまっすぐに、サンジを見つめている。

「俺たち創作に携わる人間は基本的に、自分の喜びや、怒りや、悲しみや、生きづらさを、作品に投影して生きている。自覚の有り無しはそれぞれだろうが、そうやって外在化して取り扱うことで、なんとかこの世で自我を保てるんだ。そりゃ別に、芸術に限ったことじゃねェ。音楽でも、文学でもそうだ。表現してなきゃ生きてられねェ人間ってゆうのは確かにいて、そいつらはみな“何か”を介して世界を切り取り、取り扱い、枠に収めてやりくりしてる」

何気なく紡がれるゾロの言葉が、サンジの頭に重く響く。

「ところがてめェは全く逆だ。できるだけありのままに、見たまんま、感じたまんまを表現しようとする。一瞬一瞬全てに自分を“開いて”、まるでまるごと全部を受け止めようとしてるみてェに。それはあまりに残酷だ。全てを受け止めるということは、対象の良い部分も悪い部分もありのままに感じることで、つまり同時に、自分の酷ェ部分や汚ェところまでもを見つめ続ける作業になるからだ」

「俺は別に、そんなつもりじゃ……」

言いかけて口ごもる。軽く笑い飛ばすには、ゾロの眼差しはあまりに真摯だった。

普段あんなに口下手なゾロが、淀みなく言葉を繋いでいく。きっと長く、たくさんのことを考えて来たのだろう。大事なことを話してくれている、ことだけは、だから痛いほどにわかった。

「プロはどうしても高度な技術や見せる巧さまでもを評価に含んじまう。それは責めるべきことじゃなく、ある意味では至極真っ当なことだ。てめェもわかってると思うが、この世界はそんなに甘っちょろいもんじゃねェ。作品を通して自分を伝える力を、俺たちはこの先死ぬほど養っていかなきゃならねェ。だけど、そういう小手先の、あとから付けられるような技術じゃあどうしても追いつかねェもんがあるんだ。……わかるか?」

一瞬の間をおいてから小さく首を振ったサンジを見て、ゾロが静かな笑みを零す。柔らかな春風のようなそれはまっすぐに、サンジの胸の真ん中に届いた。

春色の風が頬を撫ぜる。

 

「世界を愛するちからだ」

 

はっとして目を見開いた先に、ゾロの穏やかな眼差しが見える。

わけもなく何かが込み上げて、サンジは思わず顔を背けた。

可笑しいだろ、こんなの。

――ゾロに理解されて泣けて来るだなんて、そんな……。

「てめェはだから、写真を選んだんだろ。そうやってまっすぐにしか生きられないてめェがこの世界で生きるには、なんとかそのリアルと向き合っていく必要があった。だから、ファインダーを覗いたんだ。全ての一瞬を、真っ向から愛し受け入れるため。プロじゃねェ観客には、その真ん中の想いだけが届く。痛みも傷も汚れさえも、まっすぐに、誠実に。なぜならそれが――俺たちの生きる世界だからだ」

もはや嗚咽のように荒い呼吸を繰り返すサンジの体が、暖かい温度に包み込まれた。零れる涙を堪えようと無理矢理に息を止めれば、代わりに酷い咳が転がった。「我慢すんな」そう言ってぽんぽんと頭を撫でられ、熱い雫が頬を伝う。

『我慢はよくねェな、チビナス』

両親が亡くなったあの日。

真一文字に口をつぐんだサンジを抱きしめ、ゼフが掛けた言葉はそれだけだった。静かに頭を撫でる大きな掌。伝わる温度のあまりに優しい暖かさに、幼いサンジは声を上げて泣いた。

「お、……俺、は……っ」

繰り返す嗚咽を飲み込みながらサンジは辛うじて言葉を吐き出す。

「ず、っと、ゼフの後継ぎとして、そ、育てられっ、て……それは、嬉しくなかったわけじゃ、っねェ、んだ。菓子作りは好きだ、今、だって。本当に、感謝、してる。だけど……」

そこまで零し、言い淀む。遠くの喧騒が風に乗って流れてくる。

ゾロの右手が励ますように、背中に優しく触れている。柔らかな体温が心臓まで届く。その手が離れていく瞬間を、サンジは心から「こわい」と思う。

「……それだけじゃ、ダメだった。いくらクッキーを焼いてみても、いくつのケーキを仕上げても、空虚な穴はちっとも埋まらねェんだ。たぶんゼフは、……気付いていたと思う。俺がいつもどこか上の空だったことも、ファインダーを覗く瞬間にだけ身震いするような喜びを感じていたことも」

遠く空高く羽ばたく鳥の声が聴こえる。さわさわと風が鳴き、白いハットのつばを揺らした。

サンジは慌てて帽子を深くかぶりなおす。真っ赤な目を隠すには、都合のよいサイズだった。

「だから俺は別に芸術家になろうとか、これで喰ってこうとか、そういうのは全然ねェんだ。悪ぃけど。ちょっとだけ本気の趣味、もしくは決められたレールからはみ出したくなった贅沢な反抗期だと思ってくれよ。素直さ、ってさ、裏を返せば何も考えてねェってことだろ? だいたいお前は考えすぎなんだよ、ゾロ。俺は、……俺は、てめぇに付いては、行けけねェ。てめェとは、見えてる世界が、違いすぎる」

暖かい体温がゆっくりと離れる。サンジはそれを心から寂しく思う。

もう1度だけ、抱きしめて欲しい。だけどそれは、叶うことはない。

――今ここで、俺とゾロの道は、別れたのだ。

それに気付いた瞬間、後頭部を殴られたような衝撃が走った。そうか、もう、二度と一緒はにいられないんだ。そう思った途端、サンジは目の前が真っ暗になるのを感じる。なんせおんなじ日本にいたってこんなに連絡のつかないヤツだ。海外に行って今と同じような友達でいられるとは、思えない。

ゾロはジーンズのポケットに手を突っ込んで、何やらごそごそと探し物をしている。別れの餞別でもくれるのかと、サンジは笑って煙を吐き出した。本来なら俺がやる立場なんだけど。そんな見当違いなことを言って、サンジはぼんやり空を見遣る。白い帽子のつばの向こう、水彩のように淡い青。

「ん」

切なく見上げた視界を遮るように、数枚の紙束が手渡された。ポケットの中でぐちゃくちゃになったそれはよく見れば青い封筒で、中からは1枚のチケットが顔を出している。

出てきたのは国際便の飛行機チケット。東京発。行き先は――

「……フランス?」

「白ひげの理事長がてめェに、ってよ。鷹の目から預かってきた。どうも、てめェんとこの赤髪のおっさんが後生だっつって頼み込んだらしいぜ。もっとも、あんだけ注目されてりゃ何にもねェとは言えねェだろうけどな。客の中にゃ毎年恒例のように通う名の通った目利きもいると聞く。これだけ話題になって賞も出さねェとなりゃ、名門大学の名だって傷つけかねねェ」

「あンの野郎余計なことを……」

サンジはさも憎々しげに、でかい舌打ちを繰り出した。そもそもどういう理由であれ人の世話になるのが好きではない上、話を聞けば妙な情が上乗せされている気がしてならない。卒業だからとか、最後だからとか、そういう類いのしがらみは、大嫌いだった。

「いらねぇ。そんな手垢のついたチケット」

「馬鹿野郎、なに卑屈になってんだ。安心しろ。いくら昔馴染みとはいえ、あの理事長はほいほい人の言うこと聞くようなタマじゃねェよ。自分の目で見て、考えて、決めたらしい。特別賞、だとよ。10年にひとり、いるかいないかだ、っつってたな。ちなみに前の奴は、ゴムみてェに柔軟な作品作る、ろくろ回しだったらしい」

「……んだ、そりゃ」

知らねェ。そう言ってふわりと笑う。屈託のない笑顔の端に、抑えられた切なさが滲んだ。季節の移ろいがそうさせたのだろうか。出会ってからほんの数ヶ月で、ゾロは随分と柔らかい顔をするようになった。

「もう1度だけ言う。俺に、ついて来い。俺の創作にはてめェのファインダーが必要だし、俺の人生にはてめェの笑顔が必要なんだ。何度もは言わねぇぞ。俺は、……俺は、てめぇに、惚れてる」

 

その時一陣の風が吹いて、白いハットが宙を舞った。

くるくると美しく舞い上がる帽子に手を伸ばすゾロの、広い背中をファインダー越しの視線が捉える。

瞬間サンジは息を詰める。

そしてたった1度だけ、慈しむようにシャッターを切った。

 

 

 

 

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