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ファインダー越しの未来

春  - 卒業1 -

 

 

 

それは体育館を貸し切って作られたギャラリースペースの一番奥に展示されていた。

毎年恒例の卒業展。広い敷地には所狭しと作品が点在し、卒業の喜びと葛藤が見事にキャンパス一面を彩っている。

「……すげェな、これ。アイツが作ったのか?」

しばらくそれを見上げていた長鼻が、安い感想を溜め息と共に吐き出した。「すげェ」だなんて、芸術家らしくもない。自分のことは棚に上げて、サンジはそんなことを思う。あまりのエネルギーに圧倒されているのだろう、さっきからぱっかり開きっぱなしの口の中に爆弾か何かを放り込んでやりたい。

「あんな強面野郎のくせ……ん? サ、サンジくん? 何か不穏なことを思ってやしないかね?」

ふかふかと煙草を燻らせながら、サンジがにやりと口角を上げる。途端「ひぃ」と小さく悲鳴を上げたウソップの、白いチューリップハットをひょいと取り上げる。

「あ、ちょっとサンジくん! 待ちたまえ! お、俺のトレードマークを……」

ぎろり、と睨みつけた先でウソップが小さく縮こまる。

ひらりと振ったハットを頭に乗せ、サンジは雑踏へと足を踏み出す。

 

 

「よう、マリモ野郎。迷子にでもなったかと思ったぜ」

相変わらず電話に出ないゾロをようやく見つけ、声をかけた。

高いイチョウの樹の下、ゆらゆらと光の揺れる古びたベンチ。ほんのりと温度を含んだ風は柔らかく頬を撫でていた。

面倒臭そうに喉を鳴らした野生獣は、片目を開けてサンジを確認したようだった。

「……ふあぁ……んだよ、人が気持ち良く寝てんのに……」

「ふあぁ……じゃねェよクソマリモ! ったく俺が突っ走ってなきゃてめェ提出間に合わなかったんだぞこのクソ迷子! 感謝しやがれ。まがいなりにも2年大学にいて、道間違うたァどういう神経だ」

一気にそこまで捲し立て、ふぅと大きく煙を吐き出す。

作品提出は今日からちょうど1週間前の17時。余裕を持って2時間前に部屋を出たはずのゾロが、まだ来ていないと学務のお姉様から伝えられたのが、サンジが印鑑をもらいに行った時刻、すなわち提出期限の1時間前だった。死に物狂いで苔頭を見つけ、猛ダッシュで学務の扉を開けた。滑り込みセーフ。その時、時計の針は16時58分を指していた。

「ご苦労だったな」

「アホか!! なに呑気な面下げてやがる! てめェ俺がいなきゃ卒業できなかったんだぞ! っとに人の親切を……」

ぶつぶつと文句を零すサンジを寝そべったままの視線が捉える。

ふわり、と暖かい風が吹く。キャンパスの桜が蕾をつけて、満開に咲く日を今か今かと待ちわびている。

透明な空気は喧騒を運び、ふたりの間を軽やかに満たす。

「まぁ、いいや。バカは死ななきゃ治らねぇか……」

「なに、」

「おらよ。寝腐れマリモ野郎。約束のブツ、持ってきてやったぞ」

「ん」

よいしょと起き上がり、手を伸ばしてそれを受け取る。獣は大きく欠伸を零しベンチの隣を一人分空けた。

どうやら、ここに座れということらしい。

サンジは一瞬眉をしかめ、けれども結局は素直に従った。

心地の良いイチョウの木陰には春の木漏れ日が緩く降っている。

 

「お前の作品、最優秀だってなァ」

サンジがぽつりと話しかける。

提出された作品には教員全員で評価点をつけるのがこの大学の習わしだった。名物ともいえるこの方式で卒業制作のランクが決まり、さらには合格点以上の者の卒展への展示と卒業が同時に決まる。

とはいえそれは、それぞれが全く違う分野の作品たちだ。上位の数名を除いてそのランキングに大した意味はない。ランキング自体は一種の異種格闘技戦、はたまたオールスター戦のようなものだ。

「フランスだっけ?」

「……みたいだな」

まるで他人事のように、ゾロが呟く。

ランキングに大きな意味があるのは上位の数名だ。毎年、卒展で上位入選した数名には大学から褒賞が与えられる。大学を出た後に待っているのは実力だけではやっていけない厳しい世界だ。その壮絶な競争社会で生き残れるようにと物好きな理事長からの恒例のご褒美。最優秀者に与えられるそれが、2年間の海外留学だった。

今年の最優秀賞は1名。ロロノア・ゾロに手渡されたチケットの行き先は、フランスだった。

「すげェじゃねェか、パリだぜパリ。あ~かわいいこいっぱいいるんだろうなァ! 夢の国、花の都、憧れのパリ……!」

「ふん」

興味のなさげに鼻息を吐いて空を見上げる。

つられて見上げた空には白い雲がぷかりと流れ、ほんの少しずつ形を変えていた。風にちぎれ、消えゆく欠片。

「なぁんだよ、もっと喜べよ。それともあれか? 照れ隠しか? んん? そうだよなぁ、パリだもんなぁ。あ、お前、フランス語大丈夫なのかよ。なんだっけ、ボンジュール? おら、言ってみ」

ボンジュール?

ふざけて尖らせた薄い唇を、柔らかい何かがふわりと塞いだ。

突然のできごとに避けることすら忘れていたサンジが、3秒遅れて頬を真っ赤に染め上げる。

「な、……なにやってんだてめェ!!!」

「忘れたとは言わせねぇぞ」

ぐい、と顎を掴まれて顔の位置を固定される。思わず逃げようと腰を引けばあまった片手が腰にまわった。

――近い。

「な、なにを忘れねェって、」

「ふざけんな。答えをまだ聞いてねェ」

まっすぐに向けられた真剣な瞳。目を逸らすこともままならぬまま、サンジはぐうと喉を鳴らす。

 

 

 

色塗りを始めて、1週間ほどが経った深夜だった。

持ち込んだ酒を飲み干して、ふたりはごろりと天井を見上げていた。

「なァ」

「あぁ?」

「これ、いいと思わねェ?」

ピラリ、とサンジが掲げたのは床に転がる1枚の写真。1日目に撮影された写真はゾロが「塔」に筆を落とすその一瞬を切り取ったものだ。

「この、てめェの真剣な顔。笑えるぜ。頬を伝う汗、息を詰めた獣の呼吸。アートが生まれる緊迫の瞬間を、見事に捕らえてるだろ?」

「自画自賛か」

「ったりめェだ。自分の画が嫌いでアーティストが務まるか!」

少々酒を飲みすぎていたのかもしれない。サンジはうまくまわらない舌で、やたらとベラベラ酔言を吐いた。

「ほら、見てみろよこの筋肉。美しいを通り越して、もはやエロティックですらあるだろう?」

「…………」

「なかなかの、色男だ。滲み出す野生の欲情、汗に流れる漢の匂い」

「……おい」

「いやぁ、エロいぜ。壮絶だな」

「おい、」

「決めた。うん、よし、俺今だったらこいつに抱かれても、」

「おい!!」

ゾロの低音が天井に届く。いきなり響いた諌めの声に、サンジはびくりと肩を震わせた。

「……んだよ、」

「その辺で、やめとけ」

ゾロはじろりとサンジを睨み、そのままごろりと背中を向ける。

「……意味わかんねェ。んだよ急に怒りやがって。……はは~ん、さては、照れたんだなてめぇ? なんだ、獣みてぇなやべェ目つきするかと思いきや、かわいいとこだってあるンじゃねェか」

言ってゾロの背中に頬を寄せる。なぜだか、すごく近くにいたいと思った。

――完全に、酔っていたのだ。

酒に、だけではない。その夜の雰囲気全体に、サンジはきっと肩までどっぷり浸かっていたのだった。

 

「――写真は、」

水を打ったような静寂が流れてからしばらく。

怒って眠ってしまったのかと思っていたゾロが、静かな口調で口を開いた。

サンジはほんの少し驚いて、ゾロの背中に耳を付ける。どうやら怒っているわけではないらしい。ゾロの広い背中からは強く脈打つ心音が聴こえた。

「撮るものと撮られるものの、関係性が表れる。つまりいい写真を撮るには相手との関係性がそもそも大事で、だから初めて出会っていい写真を撮るためにゃあ、相手をいかに“開かせるか”が重要な要素のひとつになってくる」

ゾロがとつとつと言葉を紡ぐ。サンジはそれを、ドクドクと煩く響く心臓の音に乗せて聴き入る。

「だから写真に映っているのは、その場のリアル、なんかじゃねェ。“ふたりのリアル”だ。撮影する者とされる者、ふたりが揃って初めてそこに“虚構の現実”が生まれる」

ふいにゾロがこちらへ向き直る。月明かりに照らされた瞳がほんの一瞬ぎらりと光った気がした。

「そしてもうひとつ。写真に映るものがある。撮影者の欲求だ。モデルの本質なんて陳腐なモンじゃねェ。もちろんそれを撮ることが撮影者の命だから、それは撮って当たり前ェだ。でもそれだけじゃねェ。それを撮ろうと目をギラつかせる、その瞬間に、一瞬入り込んだ撮影者の欲求が、本質を捻じ曲げ、解釈し、ふたりの関係に投影されて印画紙に映る」

ゾロの大きな掌が、サンジの白い両手を包む。手に握られたままの写真がくしゃりと音を立てる。画角に閉じ込められているのは極限まで絞り込まれたエロティシズムだ。頬を滴る一筋の汗も、月明かりを写した美しい瞳も。そこに滲むのは間違いなく、痛いほどの「劣情」だった。

――つまり、これは。

「気づいたか。そこに映ってんのは……てめェの、欲求だ」

ハッと顔を上げたサンジの唇に、柔らかい何かがそっと触れる。

それがゾロの唇だということに気づいた頃には、サンジは太い腕の中に小さく抱きすくめられていた。

「っ、ゾロ、なにやっ」

「煽ったのはてめェだろ」

「やめ、っんん……」

もう一度深く落とされた口づけに全身の力が奪われていく。じたばたともがく足を絡め取られる。息継ぎの合間に見上げたゾロは、ひどく優しい顔をしていた。

「……俺のモンになれ」

耳元で囁かれ、わけもなく涙が零れる。

声を殺して抱き合えば、抑えた劣情は全身を巡った。幾度となく高みに登り、荒い呼吸は闇に溶ける。

ふたりはたった1度だけ、キャンバスの陰で体を繋げた。

「ゾロ、ゾロ……ダメだ、……怖ェ……飛びそう……」

「大丈夫だ、……俺がいる」

白い喉が天を向き、熱い白濁が闇に零れる。

 

それは切ないほどに甘いセックスだった。

 

 

 

色彩豊かな極彩色と、優しくもたくましいナチュラルカラー。

そんなことはないはずなのに、高く見上げた先は薄ぼんやりと霞むようだった。

制作時間は述べひと月と3週間。完成した「塔」を見上げながらふたりは静かに佇んでいた。

「……狙えると思うか? 最優秀」

いつもの作風とも、あの秋の日に仕上げた作品とも、似ているようで全く異なる趣だった。怖いほどに重ねられた極彩色の隣り合わせに、今にも動き出しそうな生き物が堂々と居座っている。リアルと虚像の混ざり合う空間。まるでそこには嘘と本当が織り成す新しい「世界」が構築されているかのようだった。捻じ曲がり屈曲した解釈と、素直で実直な感性が見事なまでに調和している。

地に足の着いた幻想――

言葉にするならばそういう類のリアリズムだった。どことなく滲んだオリエンタルな叙情が、なぜだかサンジの郷愁を誘った。

「珍しいじゃねェか。てめェは賞レースなんか興味ねェと思ってた」

サンジはふわりと煙を吐き出す。色に染まった指先はゾロの背中と同じ配色だ。

「ランキングなんか興味ねェ。必要なのは最優秀賞だけだ」

「はは、それを興味あるって言うんだよ」

「日本を出る」

ガタガタと窓枠が風に揺れていた。ぴゅうという鳴き声が木々の間を渡っていく。

ここ最近は、暖かくなった次の日に冬の嵐がやってくるような寒暖の差の激しい日々が続いていた。ぬか喜びの空の機嫌。季節は少しずつ移ろいでいる。

「副賞使って留学する。鷹の目の下での修行はおそらくここが限界だ。こっから先は自分の目で、鼻で、指先で、感じていくしかねェと思った。俺はもっと世界に打ちのめされなきゃならねェ」

「……そう、か」

天上の高いデッサン室にゾロの低音がクリアに響いた。いつもに増してきっぱりと言い放った台詞を、だからサンジはひどく煩いと思う。

だってこんなにも、耳を塞ぎたい。

「……いいんじゃねェの? よくわかンねェけど、てめェが本気で考えたことなんだろ。足りねェ頭でよく結論出したもんだ、マリモのくせに」

偉そうにな。

そう言って笑うサンジの目を、ゾロの視線がまっすぐに射抜く。誤魔化すように零した笑いが広い部屋に虚しく響く。訪れた静寂を打ち破ったのは、喉奥から絞り出すような獣の声色だった。

「ついて来い」

「…………は?」

立ちのぼる紫煙がふわふわと高い天井に影を残す。

冬の傾いた太陽の陽が冷たい窓枠をじわじわと撫でた。甲高く鳴く北風には薄紅の花が僅かに滲んだ。

もう少し。

あとほんの少しで、季節が春を運んでくる。

「俺の作品には、てめェの存在が必要なんだ」

「は、……いや何そんな、自分勝手言ってんだよ、意味わかん、」

「俺には――」

零しかけた手馴れた悪態がゾロの視線に遮られる。

サンジは耳を塞ぐことができない。

ゾロは意を決したように口を開く。

 

「俺には。……てめェが必要なんだ、サンジ」

 

 

 

 

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