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ファインダー越しの未来

冬  - 繋がる1 -

 

 

 

しんと底冷えのする冬の午後。

ちっとも温度のあがらない部屋で、サンジはぶるりと腕をさすっていた。

石油ストーブに乗ったやかんがシュウシュウとご機嫌に煙を吐き出している。

ぴゅう、と甲高い音が聴こえ窓の外へと耳をそばだてる。ふわりと舞い上がる白い花びら。この冬、初めての雪だ。

「――断る」

にべもなく断られ、下げたままの頭を上げることができない。

寒さからか足がガクガクと震えていた。サンジは足元にこびりついた絵の具の染みを見つめる。

部屋を満たす空気はいつまで経っても冷たいままだ。

 

ゾロを呼び出したのは、他でもないサンジだった。

携帯が鳴ってもほとんど出ない、そもそも気づかない、切れた充電をそのまま数日放置できる、という三拍子揃ったクソアナログ野郎だ。だからというわけではないが、ゾロとは連絡をして落ち合ったことなど一度もない。たまたま見つけた緑頭に声をかけるのがいつものこと。だいいち野郎と仲良くお約束して会うなんざ、例えオカマばかりの世界に飛ばされたところで俺は拒否をするだろう。

こうなる前にはいつでも会えていた気がするのに、いざ連絡を取ろうとして、番号すら知らない自分に愕然とした。

仕方なくウソップの人間電話帳を頼りやっとの思いで約束を取り付けつけたのが3日前。

「なんか、必死だな」

ウソップには心配そうに顔を覗かれたが、それでもサンジは構わなかった。その程度には必死だった。

 

 

サンジの撮影の仕方は、実にシンプルだ。

「いい」と思った瞬間に、シャッターを下ろす。たった、それだけ。

その一瞬を切り取るため、サンジは「時」を何日でも待った。

春の学内展に出展したのは、近所の公園で撮影した少年のポートレイトだ。

家から歩いて10分のところにある、アヒル公園。日当たりの良い広い公園は、春になると桜が満開に花開く、近所ではちょっとした名所だった。

サンジはここに、1週間通いつめた。敷地内の大抵の遊具は遊びつくしたし、小さな池に浮かんだ2隻のボート――これはアヒル公園の由来だ、たぶん――にだって少なくとも10回ずつは乗っていた。

それは、晴れた木曜日の朝だった。

子どもたちがみな学校に行っているお昼すぎの時間。ひとりの少年がランドセルを背負ったまま滑り台の上に佇んでいた。

「サボリか?」

下から見上げて声を掛ければ、鋭い目つきで声が返った。

「うるせェ! “オトナ”のお前に何がわかる!」

今にも飛びかからんばかりの勢いで、生唾を飛ばす。

背景の、切なくなるほどに青い空。

 

その瞬間、サンジは静かにシャッターを切った。

 

 

暖かい春風が熱を孕み、眩しい太陽が金木犀を色づかせる。燦々と輝いていた命のざわめきが、ひとときの眠りについていく――

サンジが写真を撮らなくなってから、もうよっつめの季節が訪れていた。

 

 

 

意を決した告白は目の前であっさりと砕け散った。

「頼む、1日でいい」

ゾロは口を真一文字に結んだまま、頭を垂れたサンジを見下ろしている。

野郎相手に頼みを乞うなど、これまでのサンジでは考えられなかったことだ。これが余程の事態だということくらい脳みそ筋肉の獣野郎にだってきっとわかっている。こいつはたぶんわかった上で、それでも頑なな姿勢を崩そうとしない。

「――なんで、急に」

それは至極まっとうな質問だった。

 

 

写真を“撮れなく”なってからも、サンジは別段焦らなかった。

これまでだって何かに追われるように必死に撮影をしていたわけではない。ましてやなりたい将来像があるとか、誇り高い野望があるとかいうわけでもなかった。崇高な未来を並べ立てる同期に、冷めた視線を寄せたこともある。

サンジはただ、写真を撮ることが好きだった。

「その時」を待つ、あの気怠い空白時間。

サンジがここに存在できたのはたったそれだけの理由だった。

「もう、二度撮れねェかと思ったんだ。だけど別に、それでも構わねェと思ってた。……俺ァもともと、こっちの道に進むような人生を歩んでいたわけじゃねェ」

名門パティスリーの直系の孫。周囲は何の悪気もなく、サンジを「パティシエの卵」に仕立て上げた。それはゼフとて同じこと。後継になるための手ほどきを受けて育った、18年間。厳しい修行には今でも心から感謝している。

「だから、ダメならもう、俺の本来の進むべき道に戻ろうと思ってたんだ。これだってはたから聞きゃあ贅沢な悩みなんだろう。あんな名門の後継を断って、金持ち息子の道楽ぐらいに思ってるヤツもいただろうし、実際そういう嫌味を言ってくるヤツもいた」

いつの頃からか厨房に立てなくなったサンジに、ゼフは何も言わなかった。

『美大に行きたい』

意を決して伝えた言葉には、「そうか」という短い返事が返った。

幼い頃にはさんざっぱら説教を食らった首から下げたポラロイドにも、文句を言われることはなくなった。

ただ、時折寄せられる好奇に満ちたサンジへの中傷にだけは、いつだって鬼のような形相を向けたのだった。

「たった1回、だ。この“撮れねェ”時期に唯一指が動いたのは、他でもねェてめぇの作品だったんだよ」

だから、頼む――

もう1度、今度はさっきよりも10度ばかし深く、頭を下げる。

無理に今年卒業せにゃならんワケでもねェ。そう言ったのは赤髪の教官だ。それはある意味正論なのだけれど、サンジにとって「留年」は人並み以上の意味を持った。例えるなら「敗北」。誰に、ではない。負けるのは、自分自身の人生に、だ。

祖父の期待を無下にするような生き方を選んでいる自覚は、痛いほど。

「ふん。どうせ卒制のためなんだろ? 正直、てめェが卒業しようがすまいが俺にゃあこれっぽっちも関係ねェ」

「っ、てめェ……」

事も無げに言い放ったゾロを、サンジは強く睨みつける。

「てめェの生き方はてめェで決めるモンだろ。卒業のため? ふざけんな。そんな言い訳みてェな写真撮られて何が楽しい。だいたい、俺にだってやるべきことは山ほどあんだ。てめェのヒマつぶしに協力してやってるヒマはねェんだよ」

降り注ぐ台詞のひとつひとつが、サンジの心臓をヒリヒリと刺した。

抉るような正直さが険悪な雰囲気に拍車をかけているが、ゾロの言うことはもっともだった。何一つ、間違ってない。それどころか正解過ぎて眩しいくらいだ。

こみ上げる想いを喉奥へと押しやる。ふいに覚えた軽い吐き気は、3日前にもらった風邪のせいだろう。

「――だから、だよ、ゾロ」

「あァ?」

獣が怪訝そうに、眉をひそめる。

サンジはぶら下げたカメラを撫でて、ふわりと優しい眼差しを落とした。いつの間にか随分と溜まっていた埃を払ったのは昨日の夜。ひどく冷たい冬の温度が、熱を持った指先にひやりと触れた。

祖父からの大切なお下がり。サンジの愛機、SX-70。

「言い訳みてェな写真なんか、撮りたくねェ。これ以上写真をないがしろにしたら、俺、ダメんなっちまう気がすンだ。60点取るための撮影、学年を上げるための出展。そんなのもう、うんざりだ。撮りたい瞬間を、心から感動した瞬間を、俺は、撮りてェ」

だから、てめェに頼みてェんだ。

何度目かのお願いでは、もう頭を下げたりはしなかった。これ以上、逃げない。目の前の、まっすぐな視線から。

 

 

「――わかった」

「っ! ゾ、」

「ただし条件がある」

時間にして、ほんの数秒。

バチバチと音が聞こえそうなほどの真剣な何かが、ふたりの間を静かに行き来した、ような気がした。

見つめ合うふたり、……なんて甘い画じゃなかった。傍から見ればむしろ睨み合っているように見えたに違いない。

承諾の言葉に喜びに破顔しかけたサンジの頬が僅かに硬く強ばった。

そうしてゾロは静かに口を開くと、淡々とその「条件」を告げたのだった。

 

 

 

冬休み初日、柔らかい陽射しの降り注ぐ午後。

「来たぜ」

「おう」

逃げなかったんだな、そう零したゾロの膝裏を思い切り蹴り上げる。

試験と縁のない4回生たちは、終わりのない長い休みにいつの間にか突入していた。

勝負の季節。学生でいられる最後の冬。それぞれが焦りと不安を抱えながら、真っ向勝負の闘いを始めている。

サンジの蹴りを寸でのところで避けたゾロは、意地の悪い笑みを浮かべながら早速上着を脱ぎ始める。相変わらず無駄に筋肉のついた背中は憎らしいほどに厚く広い。

思わず見とれたサンジの視線にゾロが気付いて口を開いた。

「惚れるか?」

「アホか!」

言って、そっぽを向く。

朝からこっそり石油ストーブを燃やし続けていたことが功を奏して、白いデッサン室はなかなか快適な温度に温められていた。サンジはぼんやり窓の外を眺める。綺麗に葉の落ちた広葉樹、緩い風にしなる電線。

子どものように、古いポラロイドを首から下げて。

「言っとくが、俺は自分の好きなように作品を作る。気は使わねェ」

「端からンなこと期待してねェよ」

「休みてェなら勝手に休め。てめェは風呂にも入りてェんだろ」

「……風呂には、てめェも入れよ」

「かなりの長丁場だ。場合によっては、2月くれェまでかかるかもしれねェ。てめェの提出分の時間ぐれェは取っといてやるから、そこまではなんとか付き合えよ」

「ご親切に、どうも」

――音ェあげんじゃねェぞ。

そう言って笑ったゾロの横顔に、強い意志が滲みだしていた。あえて言葉にするならば、――『覚悟』。

「どっちが」

サンジのついた悪態を、鼻の先で「ふん」と笑う。

幸福が滲み出したようなキラキラ光る冬の午後。

長い長い闘いの、ひどく穏やかな幕開けだった。

 

 

巨木を部屋まで運び入れ、倒れないようロープで固定するところまでで初日は終わった。

無造作に転がった大小様々なキャンバスを、部屋の隅へと乱雑に押しやる。

薄い布を座布団がわりに敷いて、持ち込んだカセットコンロに火を入れた。適当に持ってきた野菜と買い足した肉。その場で即席の鍋を作る。

「うめェ」

「ったりめェだろ」

はふはふと豆腐を頬張りながらゾロの零した台詞に、サンジは思わず口角を緩めた。

ただの水炊きだって、誰かと喰う飯は格別に美味い。

独りぼっちで過ごすことの多かったサンジは、そのことを身に染みて知っている。

――例えその飯の相手が、どんなにムカつく野郎であっても、だ。

「明日も早ェ。今日はこんくらいにして、さっさと寝ンぞ」

「わァってるよクソマリモ」

チっ、と小さく舌打ちを打つ。頼んだのは自分だけれど、命令される筋合いはない。

ゾロはまたよくわからない笑みを零して、床にごろりと横になった。

「はぁ、喰った喰った。これで酒がありゃあ最高だな」

「構内は禁酒だろ、おい自分の皿ぐれェ片付けろ」

「てめェだってヤニ吸ってんじゃねぇか」

すぐにぐうぐうと寝息を立て始めたゾロの背中に蹴りを入れて、サンジは立ち上がる。

キャンバスを包む用に積んであった汚い毛布を、適当に選んでバサリと乗せる。本意ではないが風邪をひかれても俺が困る。

パチリと電灯を落とせば、石油ストーブのオレンジがぼうと薄く暗闇を照らした。

 

 

 

 

 

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