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ファインダー越しの未来

秋  - 葛藤2 -

 

 

遅めの朝ごはんを済ませて向かえば、半裸の男が「塔」を見上げているところだった。ぐるぐると周辺を周りながら、時折何かをメモに落とす。

「飯、置いとく」

どさ、と床に風呂敷を置く。背負っていた肩が軽くなる。どうせ作業は1日がかりになるのだろう。中身はラップに包んだ握り飯だ。

「おぉ、ありがてェ」

もらうぞ。

そう言って早速手を伸ばす。でかくて白い飯の中心に、覗く薄紅。

「うめェな」

口の端に米粒をつけて、呟く。一心に飲み込む姿はまるで野生の大型獣だ。みるみるうちにぺろりと平らげ、満足そうに手を合わせた。親指をべろりと舐めとる真っ赤な舌に、サンジの背筋がゾクリと震える。

「――始めるぞ」

いきなり投げられた声に、サンジはハッと意識を戻した。

ゾロは幾枚もの銀皿を並べながら何やらぶつぶつと独り言を零している。

「狸は、ローアンバーと、ジェットブラック、あとほんの少しナイト……いや、プルシアンブルーだな」

「え、ちょ、ちょっと待てよ、その配色じゃあの色は」

彫刻に関していくら素人のサンジでも、さすがにそのくらいの違いはわかった。

こいつの作風は、目にも鮮やかな極彩色。今の配色では――

「いいんだ」

サンジの思考を遮るように、ゾロがピシャリと言い放つ。

「俺の言う通りにしろ」

まっすぐに見つめる瞳。視線を逸らせない。

サンジは渋々聞こえた通りの色を銀の皿に絞り出した。

並んだのは、茶系と黒のアクリルガッシュ、それに深い青色だ。つまりこいつは「自然の」狸の色を作ろうとしている。

『何がしてェ……?』

サンジは心底訝しみながら、ゾロの広い背中を黙って見詰める。

 

右下に陣取った幼い狸は、みるみるうちに生命を吹き込まれていった。

風になびく硬い毛並み。細く伸びたたくましい前足。太いしっぽは木の葉を巻き込み絡んだ蔦は上へと伸びていた。

『すげェ……』

次々と息吹を吹き込んでいく様は、まるで神様のようだった。創造主。この世の生命全てを畏怖するような。

「次、ニュートラルグレーとローシェナー」

「あいよ」

集中しているのか、サンジの方を見ようともしない。ゾロはひたすら「塔」に向かって筆を落として行く。

力強い象の瞳に、光が込もる。うさぎの耳が凛と澄む。

生かされていく生命の色。

サンジはほとんど放心状態で、ゾロの「創造」を見詰めていた。

『なんだよそんな、真剣になって』

いつだったかウソップに零した、薄ら寒い悪態を思い出す。あいつはふっと苦笑いをして、気まずそうに目を逸らしたはずだ。

黙々と作業を続けるゾロの背中。

サンジはその全てを、ひたすらに息を飲んで見守ることしかできなかった。

 

 

 

「……うっし。これで、終わり、だ」

カタリ、と床に筆を置く。絵の具で彩られた広い背中を一雫の汗が流れた。

デッサン室に篭って、3日めの夜。

目の前に現れたのは、身悶えするようなリアリティだった。

「…………うはぁ~! てめェすっげェなぁ……。は~、俺まで緊張したじゃねェか。お前いつもこんなん独りでやってんのかよ、俺ならキレそうだ……」

ほい、とタオルを渡しながらサンジが呟く。

途中2度ほどうちに帰り、食料を調達したのはサンジだ。床に転がるバラティエの紙袋。ゾロは風呂にさえ入らなかった。

3日間。息つく間もない緊迫感。

命が生まれゆく瞬間を、確かにサンジは、見た。

「いつもじゃねェよ」

サンジ特性のスポーツドリンクを飲み干しながらゾロが零す。塩分を混ぜたレモン水。濃度を0.9%に調整したから体内にはすぐ吸収されるはずだ。これでも一流パティシエの孫、料理の基本なら通り一遍頭に入っている。

「こんなに時間詰めたのは久々だ。師匠の前で手乗りの熊彫ったとき以来か。あんときゃ確か……20時間だった」

「にじゅっ……」

ゾロの世界は簡単にサンジの予想の範疇を超えていく。

20時間……。

それだけの集中を続けられるゾロも信じられないが、それに付き合った師匠も師匠だ。彫刻科の教員については詳しく知らないが、どちらもバケモンであることは間違いないだろう。

「別に。時間の問題じゃねェ。いつだって向き合う姿勢は変わらねぇよ」

もぐもぐと握り飯を頬張りながら、ごろりと仰向けに寝転がる。相変わらず、うまそうに飯を喰う。白いリノリウムの床はゾロの背中にぴたりと張り付いて、色黒の素肌をひたひたと受け止める。

窓から吹き込む秋の夜風は、少し、冷たい。

 

「なぁ」

ゾロの隣で膝を抱え、背中を丸める。

「お前、何で彫刻、やってんの」

天井を見上げたままのゾロに、声をかける。3日間濃い時間を共に過ごしたからだろうか。普段ならば絶対に聞かないような言葉が喉から漏れた。

自分にとって利のないことへは、徹底的に耳を塞ぐ主義だった。レディの話ならいざ知らず、野郎の話など聞くだけ無駄だ。そうやって面倒な相談を持ち込まれるお人好しを、サンジは身近に知っている。

第一、サンジには必要のないことだったのだ。他人の、夢や、希望なんか――

「なんとか生きるためだろ」

事も無げに言い放ったゾロに、怪訝な視線を向ける。

窓から差し込む外灯の灯りがゾロの頬を白く染めていた。その横顔に、室内の電灯をつけ忘れていることに気づく。

夜の帳がふたりを包む。

「生きる? なんだそれ、哲学か?」

「現実だ。……見ろよ。あれが、俺の世界だ」

ゾロが下から「塔」を見上げる。サンジもつられて顎を上げる。

幾重にも積み重なった、動物たちの鼓動。今にも動き出しそうなほどリアルに切り取られた一瞬の現実。何者かを狙うような、ぎらりと光る両の瞳。葉に隠れ、絡め取られ、混ざり合いながら上へ上へと伸びる、凄まじいまでのエネルギー。

これが、こいつの“世界”――

「俺は、まっすぐに切り取ることしかできねェんだ。嘘も、誤魔化しも、俺の世界には通用しねェ」

ぽたり、と。

小さな水滴が落ちるように、声を落とす。生まれたままの滑らかな肌を汗の雫が伝っていく。

「傷は傷のまま、汚れたものは汚れたままにしか、受け取れねェ。だからって、俺がそれを全て受け止められるほど強いかといえば、それは違う。……苦しいんだ、生きていくのが。こんなにも、呼吸ができねェ」

作品が完成した高揚感からだろうか。今日のゾロは、やけに饒舌だった。

“世界”を見上げて、溜め息をつく。ゾロの心の声が聴こえる。――『怖い』。

「だから、重ねるしかなかったんだ。果てしないリアルを生きるために、色を重ね、嘘を重ね、全てを美しいものに昇華する他なかった。それが俺の作品であり、生き方だったんだ」

――これまで、は。

白い部屋一面に、ゾロの声がクリアに響く。高い天井に、声が跳ねる。

なぜだかドクドクと脈打つ心音を悟られまいと、サンジは自分の膝を強く抱きしめた。

さっきよりも、強く。もっともっと、強く。

「てめェとなら、できるかもしれねェと、思った」

僅かに小首を傾げ、サンジを見上げる。

ゾロの瞳に、サンジの金糸が映り込む。

――綺麗だ。

ふいに浮かんだ単語に驚いて、サンジはふるふると首を振った。

なに、考えてんだ、俺は。ゾロ相手に、そんなこと……。

 

「最後の仕上げだ」

ほれ。

そう言ってぶっきらぼうに渡されたスプレー缶のラベルを見遣る。

「ニス……?」

「てめェで仕上げろ」

「え?」

驚いて、薄いまぶたを大きく見開く。

「いや、でも俺専門じゃねェし、うまくできる気がしねェし、それに……てめェの、大切な、世界を」

「仕上げて欲しい」

まっすぐに。

届けられたのは、まるで懇願のような台詞だった。

背丈はいくらも変わらないはずなのに、とてつもなく遠く見える瞳。

そうか。

――ゾロとは、住む世界が、違うんだ。

「でも、やっぱり、俺じゃ……」

「てめェがいいんだ。何度も言わせんな。ほら、手伝ってやっから」

後ろから、掲げた右手を支えられる。汗の滲んだ裸の上半身がサンジの背中にぴたりと触れる。耳にかかる、ゾロの吐息。

やけに体が熱いのは、きっと、ただの気のせいだ。

「……今回、だけだからな」

「わかってるよ」

嬉しげな笑いが空気に溶ける。秋の気配がふたりを包む。

至近距離から響いた低音に、サンジの胸はチクリと痛んだ。

 

 

 

 

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