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夢現の空

5)経過:14日め



「もう・・・俺は・・・ダメだ・・・俺はここで、海の藻屑と消えるんだ・・・」
「うるせぇウソップ!男なら黙って我慢しやがれ!てめぇは昨日も喰ったろう!」
「う、う、・・・うるせぇぇぇ!だいたい言葉のチョイスがおかしいだろぉぉ!昨日も喰ったってなんだよ!飯は毎日喰うもんじゃねぇのかよぉぉぉ!!」

この世の終わりが来たかのような悲痛な声色で絶叫した長鼻が、甲板につっぷしておいおいと派手に涙を流している。
呆れ顔のナミと、彼女に給仕をしていたコックのふたりは、同時に小さくため息を漏らす。

この様子じゃあ、放っておいてもあとひと月は元気だろう。

「ごめんね、サンジくん。いつもいつも、私たちばっかり。」

貴重な水分を両目から垂れながし続ける長鼻を無視して、ナミがサンジに視線を向けた。
美しい笑顔は、今まで通りかそれ以上だが、目の下には濃い隈ができている。
連日の調査で、眠れていないのだろう。ほんの少しだけ痩けた頬が、余計に痛々しく影を作っている。

「いえいえ、とんでもございません。愛するナミすゎんのためならば、どんな苦境だって世界で一番の天国に変えて見せます!」
「てめぇのその変な信念のせいで、俺らは今にも死にそうなんだよぉぉぉ!」
「うっせぇ長っぱな!いつまでも貴重な水分ぼろぼろ零してんじゃねぇ!死にたくなけりゃあ今すぐベッドにでもいって眠ってやがれ!」
「ふふ・・・優しいのね、コックさん。」
「はぁ?!こいつのどこか優しいんだよロビン!!女はいいよなぁ~、毎日飯を喰わせてもらってんだもんよー。」

にこにこと笑みを向けたロビンの白い首筋が、ほんの少し筋張っている。
華奢な鎖骨はいつもより、深く濃い影を作る。

その微妙な変化を目ざとく察知したサンジの視線はしかし、何かを見透かしているようなロビンの頷きに遮られた。
微かに濡れた心配りの瞳に、一瞬ぎくりと凍りつく。
この賢い女性には、すべてバレてしまっているのかもしれない。

おもむろにふうと、煙を吐き出す。



初めは3食提供されていた食事はすぐに2食になり、しばらくすると1食になった。
「野郎のご飯は、2日にいちど。」
そう決定が下されてから、4日と半日が経過している。
いちばん年少で、あまり食費のかからないチョッパーをのぞいて、男連中はこの4日、たった2回の食事を取ったのみであった。

しかしながらその間も、レディたちには毎日毎食、少ないながらも食事が届けられていた。

この船のコックの一存である。船長は当然ぶぅぶぅと口を尖らせたが、文句を垂れたところで、本気の蹴りがお見舞いされたのち、レディファーストが声高に語られるのが関の山であった。

つまり、野郎どもへの食事制限の99%は、コックの女好きゆえの習性であるに間違いなかったのであり、クルー全員がそのことを、実に明白に了解していた。
しかし、誰も気づかない残りの僅か1%、鋭敏な判断が挟み込まれたその隙間。

『野郎どもの100倍か弱いレディたちだ。食糧難の影響をいちばん最初に被るのは、他でもない彼女たち。今、このタイミングで誰かひとりでも倒れてしまったら、ぎりぎりの精神力でもっているこの船の精神的均衡は、一気にガタっと崩れちまう。とにかく、レディふたりを、倒れさせるわけにはいかねぇ。』

・・・いくら、俺が喰ってないとはいえ。

 

あの賢い女性は、全てを知った上で、笑って見逃してくれているのであろうか。
 


食料が完全に底をつくのは、もう時間の問題である。




ふと、空がぐにゃりとねじ曲がる。

真っ赤に照りつけていた太陽はいきなり紫へと変化して、海がどろりと黒く染まった。
片手に乗せたトレーが床に落ち、がしゃんと派手な音を立てる。
思わず膝から崩れ落ちかけた自身の体に、寸でのところで力を込めた。

「お、おいサンジ、大丈夫か?」

手を差し出しかけた狙撃手に、なんとか笑顔を貼り付けた顔を向ける。

「ウソップ、俺まだ、右足・・・あるか?」
「は?何言ってんだお前、」
「・・・いやいい、悪ぃな。ただの立ちくらみだ。」

おそらく、いつもどおりの声色で、答えられたはずである。
朦朧とした意識を悟られないよう、必死で「普通」を装った。

だめだ、いったんどこかで頭を冷やさねぇと・・・

不審な瞳を向ける狙撃手を振り切って、よろよろとした足取りで向かったのは、今やがらんとした空洞の広がる狭い食料庫であった。




――ドサリ。

部屋に入るなり鍵をかけたサンジは、いきおいその場に倒れ込んだ。
甲板でこの醜態を晒さなかっただけ、マシだろうか。
おそらく、誰にも気づかれていないはずだ。

「・・・はぁ、はぁ、はぁ・・・」

苦しそうに胸を押さえ、大きく肩で息をする。


食料庫の壁はぐにゃんと歪み、今にも全てが崩れ落ちて、埋もれてしまいそうである。
ぐわんぐわんと嫌な耳鳴りが響き、思わず両耳をぎゅうと塞ぐ。

ずぶり、と妙な音を立て、体が床に沈み込み始める。
えも言われぬ恐怖が、絶望をともなって胸に迫り来る。
夢か、現実か、その堺で、サンジは必死に手を伸ばす。

大きな背中。片足の、コック。

ジジィ、待ってくれ・・・

ぜぇぜぇと、音の出ない声を張り上げるサンジの、右足だけがさらに深みへと沈み込んでいく。
からっぽの胃が震え、酸性の液体が吐瀉される。
ひゅうと吸い込んだ酸素とともに、それが気道に入り込んで、不意にげほげほと咳が込み上げる。
目の前の視界がぼんやりと、霧霞に包まれていく。

待ってくれ、これを、俺の右足を、これさえあれば、ジジィの足は・・・!

ずぼりと抜き出した右足は、いつものように、膝から下が消えていた。
愕然とそれを見つめたサンジは、痛みも恐怖も忘れて、声の出ない喉を震わせ叫び上げる。


――・・・助けて、助けて、助けて、


・・・ゾロ!


「サンジ!!」


ふわり、と包まれた体温に、サンジはぎゅっと目を瞑る。
激しく脈打つ心臓を、力づくで握り潰されるかのような恐怖の感覚が、徐々に強度を弱めていった。
抱きしめられた体の温度は、自分より少し高くて、やけにリアルで心地いい。

あれ、これは、夢だよな・・・?

「ったく、無茶しやがって・・・!」

聴きなれた優しい声が、耳元で響く。
先程までの恐怖はいつの間にか、安堵の涙に溶けていく。

ずっと欲しかった、何よりも渇望していた。その、声。
あぁいっそこのまま、意識を預けてしまおうか・・・

「・・・てめぇの薄っぺらい考えなんか、すぐ見破れんだよアホコック・・・」


――・・・ひとりでなんか、無理させねぇ。


あぁそうか、だから飯、喰わなかったのか・・・


境の曖昧になったサンジの体が、ぎゅうと抱きしめられて輪郭を取り戻す。
・・・暖かい。これは、俺の、体だ。

そうか、そうだったのか、・・・ゾロ。
もういい、もういいから。喰えよ。うまい、俺の飯を。


だけどもう少し。今はただ、このままで・・・




どのくらい、そうしていたのだろう。
サンジは大きな体にくるまれて、小さくゆったりと、息を吐き出していた。
少しだけ汗臭いその匂いが、懐かしくサンジの鼻をくすぐっている。

「・・・俺はてっきり、本気で・・・マリモに嫌われたのかと・・・」
「はぁ?!」

剣士の太い声が、低く響いて頭上から舞い落ちる。
どうやらサンジはふらふらになりながら、お昼寝中のアホマリモの巣に、自ら入り込んでしまったらしかった。

優しい反響が、部屋の空気をそっと震わせている。

「はぁ・・・これだから、てめぇは・・・。ったく、どんだけ俺が、我慢したと思ってやがる。」

そう言って、愛おしそうに金糸を撫ぜる。
大きな掌から伝わる体温が、じわりとサンジを満たしていく。
まるで子どものような気持ちになって、サンジはその広い胸に、そっと顔を埋めてみた。

ゾロには気づかれないよう、・・・ほんの、少しだけ。

「だって、・・・てめぇがあんまり、俺を避けるから、」
「バカか、てめぇは。」
「はぁ?!だってそうじゃねぇか、昼間は全く顔出さねぇし、夜にキッチンで会えば、・・・っ!」

そうだった。

あの日から悪夢を毎晩見るようになったサンジは、毎夜のごとく、深夜にキッチンへと駆け込んでいた。
ぜぇぜぇと脂汗を流しながら、水を僅かに口に含む。
そこにはなぜかいつも、緑頭の男がひとり、仏頂面で腰を下ろしていたのだった。

「まさか、てめぇ俺のこと、待っ・・・」
「っ・・・、顔を合わせりゃイライラ怒りやがって。んな体力使ってるヒマねぇだろうが、お人好しが。だったらしばらく、こっちから離れてようと思っていたのにてめぇは、・・・」

そのゴツゴツとした頬を赤く染め、半ば呆れた様子で言葉を繋ぐ。
たくましい横顔だと、サンジは思う。

あぁ、好きだ。こんなにも。

「・・・あんな顔で、駆け込んできやがるから・・・。」

放っておけねぇじゃねぇか。

聴こえるか聴こえないか、ギリギリの音量で剣士がつぶやく。
小さく吐き出された甘いため息が、ふたりをそっと、包んでいく。

「・・・わかりづれぇんだよ、クソ剣士。」
「あぁ?てめぇが鈍いだけだろうが。」
「・・っせぇ。二度と離れるんじゃねぇ、バカ。」

はだけた胸に、ぎゅうとしがみつく。
ドクドクと脈打つ剣士の鼓動が、自分のなかから聴こえるようだった。

生きている。こいつも。俺も。

「なぁ、ゾロ・・・飯は、喰え。頼むから。」

安心したのか、心なしかとろんとした表情で、サンジがゾロを見上げている。
起きておく体力も、今は相当落ちているのであろう。
2週間も飯を喰わずに、今日までどうやって生きてきたのだと、その細くなった腰をぎゅうと抱きしめ、ゾロが小さくため息をつく。

「飯を喰えだ?・・・そりゃこっちの台詞だ、アホコック。」
「っ俺は、」
「だぁもう、そうやってひとりで強がんじゃねぇ。幻覚まで見やがって。死に急いでんじゃねぇよバカ。」
「っ・・・」


覚えのある、この感覚。
あの孤島で空腹に耐えた数十日間、おかしな夢を見始めたのは、漂着から1週間を過ぎた頃からだったであろうか。
とにかく毎日のように夢を見て、毎晩のように脂汗を流していた。

クソじじぃには負けたくなかった、けなげな自分。
そしてまだ、「何も知らなかった」、幼い自分。


「・・・なぁ、俺たち、・・・死ぬのかな。」
「はぁ?おいアホコック、正気か?なに弱気になってんだよ。喰ってねぇからそうなるんだ。・・・安心しろ、」


死ぬときは、一緒だ。


ゾロの唇が、はっきりと動く。
再び眠りに落ちようとしていたサンジは、ぼんやりと薄目を開けてそれを確認すると、ほっとしたように微笑んでから、すとんと眠りに落ちていった。

コックの名にかけて、

「・・・ゾロ、」

・・・絶対に、てめぇを死なせはしねぇ。




夕日の落ちた甲板に、大きな白い鳥の鳴き声が響く。
波は柔らかく渦を巻き、空を渡る風は昼間の湿気を含んで、生暖かく船を取り巻いている。

美しい人の甲高い歓声が聴こえ、ドタドタと足音が重なり始める。

あれは、天使の歌声だろうか。

眠りに落ちたふたりの間を、船長の高らかな笑い声がつんざいていく。
虹のように華やかで、太陽のように眩しい、あの笑顔で。


「おーい!お前らぁ!島が見えたぞぉぉーっ!宴だぁぁぁーっっ!!」



静かに眠るふたりが次に目を覚ますとき、きっと船は、幸せに包まれている。




( 完 )

 

 

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