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1万回の約束

それから程なくして、船は突然の夜襲にあった。

敵は大して名のある海賊でもなく、本来の一味であれば鼻歌交じり、片手で捻り上げることすら造作もない奴らだった。見張り番の船長がたまたま居眠りをしてしまっていて、発見が遅れたのもいつものこと。だがしかし、強くはないが頭はそれなりに回る海賊だったこと、そして、ほんの僅かに一味の士気が下がっていたことが、それぞれ微妙な噛み合わせを、見せてしまったようだった。思わぬ苦戦に時間ばかりを取られ、敵陣の船を沈めるまでに、えらく時間がかかってしまったのは、事実である。

「・・・おいコック。・・・付き合え。」

地の底を這うような低音が、サンジの鼓膜を震わせる。どことなく焦燥の滲んだ溜め息が、夜の闇に溶けていく。

返事をする間も与えられずに、サンジはシャワールームへと引きずり込まれた。返り血の飛んだ薄紅のシャツを、力任せに破り捨てられる。

『おうおう、凶暴な。これじゃ本当に、野獣だな・・・。』

一戦後にふかそうと咥えた煙草の先には、火さえ灯ってはいなかった。

「おいコック、・・・今夜はちょっと、酷ぇぞ。・・・泣くなよ。」

中途半端な戦いに、膿が溜まっているのだろう。じくじくと疼くような痛みが、胸に直接流れ込んでくるようだ。

 

こいつは、いつもそうだった。

戦うことが、生きることそのものであるかのように。全力で駆け抜けることで、呼吸をしているかのように。

だからこそ、こうして時折訪れる不発戦の夜などには、ゾロは、まるで呼吸困難に陥ってしまったかのように、血走った目でサンジを抱くのが常だった。

―・・・苦しい生き方、してんな。

そうやって不透明な白濁を吐き出すことでしか、バランスを取っていられないような不安定な何かが、ゾロの中には押し込められている。

いつか爆発しなけりゃいいが・・・。

サンジはひっそりため息をついて、めちゃくちゃに剥ぎ取られた身ぐるみを、チラリと見遣る。

噛み付くように堕とされた口づけが、白い頬に、柔らかい耳朶に、華奢な首筋に、真っ赤で獰猛な跡を残す。腕だけはやめろと常々言い聞かせているからか、そこだけはひっそり避けるように、そのほかのありとあらゆる全身に、鋭い歯型を残していく。

まるで、そうすることで、代わりに自身を浄化していくようだった。切ないほどの必死さに、本人はどこまで気づいているのだろう。

口内には、じんわりと、鉄の味が滲んでいる。

 

どのくらい、その身を捧げていたのだろう。おもむろに、鋭い眼光がサンジを射抜いた。

何かを探るような間はほんの一瞬で、いきなり両足を持ち上げられたサンジの後孔を、ゾロの猛る劣情の塊が、一息に貫く。

「んぐっ・・・、ん、ッ・・・!!」

解されることも、体液で濡らされることもないままに突っ込まれた熱い欲望が、ひたすらにサンジの暗闇を穿った。

しばらく使われることのなかったその場所は、巨大な異物の挿入を、そうやすやすとは受け入れてくれはしない。

2週間。いつも通りの些細な喧嘩をしただけの、あの夜から、ずっと。

「ってェ・・・!」

強引に腰を打ち付けられるたび、サンジの奥が悲鳴を上げた。

無茶苦茶だ。

抜いては突き、突きながら噛み付くそのスピードは、息を吸う間もないほどである。ぎりぎりと噛み締める奥歯から、ふたたびじわりと血の味が零れる。覆いかぶさる野獣の首筋から、つうと一筋汗が滴った。

「ん、っ・・・あ、・・・つぅ・・」

快楽よりも、激痛に吐息を漏らしながら、ぎゅうと目を瞑ったサンジの耳に、剣士の微かな呟きが届く。

「んでだ・・・」

切羽詰ったように律動を続ける剣士の声に、狼狽えるような色が灯った。一瞬の微かな変化を不思議に思い、苦痛の狭間に剣士を見上げれば、泣き出しそうなほどに見開かれた瞳が、サンジの瞳をじっと捉えていた。

その、まっすぐな、光り。

「んで・・・なんでだ・・・なんでなんだよ、畜生!!!」

狭い部屋に響いた叫び声は、穏やかな波の隙間に飲み込まれていった。

今夜は、月の見えない夜だ。

 

「・・・どうした、マリモ。」

ぜぇはぁと荒い息を吐き出すゾロが、激しいうねりをゆっくりと収める。ぽたり、ぽたりと落ちる汗が、サンジの顔に首筋に、綺麗な水玉を描いては流れた。

「・・・んでてめぇは、何も言わねぇ・・・」

「・・・あぁ?」

大きく肩をいからせながら、ひとつひとつ、言葉を堕とす。掠れた低音が、湿気た空気を震わせる。必死に隠した剣士の焦燥。熱く鋭い視線は、サンジを見つめて、離さない。

「意味がわからねぇ。抱きてぇのは、てめぇだろ。なんで俺が、」

「こんな、酷く抱かれやがって・・・痛ぇんだろ、苦しいんだろ、・・・なのに、なんで・・・なんで、涙のひとつも流さねぇ!!」

ドン!と両手で叩いた床が、ジンジンと余韻を響かせる。緑の瞳には燃えるような怒りが浮かんでいるのだが、その最奥にはなぜか、悲しい蒼色が見えた気がする。・・・それは、いったい。

「泣けっつってもなぁ・・・てめぇも知ってのとおり、今俺、そういうのできねぇからなぁ。」

「うるせぇ!その態度がむかつくっつってんだよクソコック!」

「はは、おいおい。喧嘩せずにすむっつってたのは、そっちだろうがマリモ野郎。」

「っ・・・、俺は!別に、・・・」

はぁ、とため息をついて、開いていた足をよいしょと戻す。ずるり、と抜けたゾロの先端から、薄紅色の白濁が零れる。

あーあ。血ぃ出てんじゃねぇか・・・ったく。

破り捨てられたシャツをごそごそと探って、煙草の先に火をつけた。やっと、煙を吸い込める。

「いいか、マリモ。てめぇが鈍感なやつだとは分かっちゃいたが・・・、気づいてねぇようだから、教えてやるよ。」

「・・・何の話だ。」

思い切り吸い込んだ紫を、ことさらゆっくりと吐き出してから、サンジはじっとゾロを見つめた。

僅かにたじろぐゾロの瞳に、自分の平らな表情が写っている。

おそらく今向けているこの視線にだって、なんの感情も、含まれていないのだろう。

―それも、そのはずだ。

「あの夜、俺たちは、ある海域を進んでいた。ナミさん曰く、“ランダムホープ”。その名のいわれも、今となっては曖昧なあの海域には、密かに語り継がれる、伝説があった・・・」

 

 

サンジがとうとうと重ねる言葉を、なかば夢のようにゾロは聞いていた。

こいつ、酔い腐ってデレデレしていたかと思いきや、ちゃんと話聞いてやがったのか。

無表情のまま淡々と語るその声に、ふと、ナミの声が重なって聞こえる。

『ねぇ、たったひとつだけ、願いが叶うとしたら・・・』

ゾロははっと、顔を上げた。

ナミが言っていたこと。古い海図、凪いだ海、“願いが叶う”海域のこと・・・

「そうだ。やっと気づいたか、鈍ちんマリモ。」

サンジがふっと、視線を逸らした。その顔にはやはり、何の感情も浮かんでいないのだが、その止まった心の奥底に、僅かな光が見えそうな気がして、ゾロは必死に目を凝らした。

研ぎ澄まされた、野獣の眼。

「そんでてめぇ、覚えてるか、・・・あの満月の夜のこと。」

逡巡の後に首を傾げれば、長い溜め息が耳に障った。普段空など全く見上げないゾロにとって、月齢で日を尋ねられたところで、何の手がかりにもならないのである。

「まぁ、・・・思い出せねぇなら、それでもいい。ただ、事実だけは教えてやるよ。いいか、よく聞け。」

そう言ってひと呼吸を置くと、嫌味なほどに平坦な表情で、サンジがぼそりと言葉を繋いだ。意味のない、物か何かの名前を読み上げるような、ただただまっすぐの、静かな声で。

「・・・てめぇの願いが、叶ったんだよ。伝説は、・・・本当だった。」

 

 

 

―ダン!

派手やかな打撃音が、夜中の展望室に鳴り響いた。

眩いばかりの星空が降る。サニー号は凪いだ海に碇を下ろして、一夜の休息を取ろうかという時だった。

狭い部屋の壁にもたれ、荒い息で肩を押さえたサンジの視線が、ゾロの瞳に鋭くぶつかった。ふわふわと揺れる頼りない紫煙が、戸惑うように漂っている。

「ってぇ・・・!クソマリモ野郎、てめぇもっぺん言ってみろ!」

「何遍だって言ってやる・・!女と見りゃあ節操もねぇ、てめぇの阿呆面がいちいち苛つくっつってんだ!」

それはすでに事の発端を思い出すことすら面倒なほどの、他愛のない、いつも通りの喧嘩だった。しばらく続いた目的のない罵り合いは、もはや趣旨すら見失い、あとはただ暴言を吐き出すためだけに、暴言を吐いているようなものであった。

「ふんっ!てめぇこそ、レディにびびってとどめ刺せねぇくせして、よくそんな大口が叩けたもんだな!」

「うっせぇ!俺はできねぇんじゃねぇ、なるべくしねぇだけだ!」

「・・・それが甘ぇ、つってんだろうがアホマリモ!」

「あんだと?てめぇよかマシだクソコック!」

三角形に釣り上がった目が、ぎりぎりとゾロを睨みつけている。理由もないただの怒りが、夜の闇に流れ込んでいる。こうなってしまえば、いい加減喧嘩の内容など、もうどうでもよくなるのだが、コックに負けることだけはゾロのプライドが許さなかった。

―胸糞が悪ぃ。

「だいいちてめぇは、俺にゃほいほいケツの孔開くくせに、他の女に目ぇ移らせるたぁどういう了見だエロ眉毛!」

「はぁ?!俺がてめぇに惚れてるとでも思ったかアホマリモ!俺は世界でいちばんレディが好きなの!汚ぇ野郎のことなんざ、これっぽっちも眼中ねぇよ!!」

「っ、てんめぇ・・・あんなにしがみついて啼いてよがるくせして、・・・ずいぶんな言い分じゃねぇか・・・!」

「はぁん?あんなしょぼい寝技で、勝ち誇った気になってたのかよ。てめぇはホント、クソおめでてぇヤツだな!」

「っ・・・、言ってくれるじゃねぇか、尻軽コック・・・!」

びきびきと音を立てそうなほどにこめかみを筋立て、ゾロがぎろりとサンジを見下ろす。負けじと睨み上げてくる、サンジの華奢な輪郭が堪らない。黒々とした影を落とし、ざわつく胸にこぶしをあてる。今夜はどことなく、互いの苛立ちが過ぎる気がしていた。

「いいぜ、・・・そんなに俺が嫌なんなら、二度とてめぇに手ぇ出しゃしねぇ。」

「あぁ、そうしてくれ。てめぇのしつけぇセックスにゃあ、ほとほと痺れを切らしてんだ。ったく、いったい何遍イきゃ気がすむんだ、クソ野獣。」

「そりゃ、・・・てめぇが誘うからだろうが!」

「はぁ?!俺のせいかよ?!そんなこと頼んだ覚えはねぇぞ!」

「・・・っ、」

ゾロは思わず言葉に詰まった。

ふたりは、何度も体を重ねて来た関係だった。

それは初め、戦闘のあったその夜や、大きな事件の片付いた朝などに、つまりはどうにも体がしくしくと疼くのに合わせ、行われていた情事だった。それがいつからか、申し合わせたように夜な夜な体を重ねるようになって、今ではふたり、劣情を吐き出し合うことに違和感すら忘れてしまっていた。

 

月灯りの隠れる、静かな夜。

ゾロはサンジから、何かを要求されたことも、何かを拒絶されたことも、ただの一度もなかった。

 

苦しそうに眉を潜め、零れ落ちる嬌声を無理矢理に喉奥へ押し込める。

どこをどうして欲しいとも、そこをそうするなとも言わないサンジに、ゾロは微かに気づいていた。

だけれども、それよりも僅かに、自身の熱が上回っていた。

ゾロはサンジに何も問わぬまま、熱い暗闇に自身を穿ち、白く弾ける夜の果てを、迎えることを続けて来たのである。

 

「・・・あぁ、確かに。てめぇは何も、言っちゃいねぇ。でもな、・・・」

ゾロは喉奥から、掠れた低音を引きずり出す。

なんだか嫌な感覚が、ぞわりと背筋を通り抜けていく。ねとりと鼻をつくような、微かな気配。

―なんだ、これは。

「てめぇの偉そうに笑った顔も、女みてぇにボロボロ泣く顔も、いちいち・・・むかつくんだよクソコック・・・!」

「っ、んだと、」

いつもであれば気にならないような些細な罵りが、やたらに胸に、重みを乗せる。

脳みそのなかにはぐるぐると、妙な違和感が絡みついているような気がしていた。

わけが、わからねぇ。わからねぇが、―・・・これ以上、言葉に出すのは・・・!

「そんなに俺に抱かれたくなきゃあ、」

やめろ俺、止まれ、止まるんだ・・・!

 

胸の奥で、必死に抵抗をしていたことに、あのときの自分は、気づかなかったのだろうか。

 

―「もう二度と、俺の前で泣いたり笑ったりすんじゃねぇ!」

 

どこからともなく、テッペンを告げる鐘の音が聴こえた気がする。

月明かりが、小さく揺れる船を照らし出した。

それはそれは美しい、満月の夜だった。

 

 

 

「っ!・・・俺、ッ・・・」

「お?気づいたかアホマリモ。ちったぁ賢くなったんじゃねぇか?」

ニヤリ、とも笑わないサンジの横顔に、ゾロはぞくりと背筋を凍らせる。

「俺だって、伝説なんざ、信じちゃなかったさ。だけど、あるんだなぁ、こういうことって。てめぇみてぇに、俺のことを毎日ひたすら嫌ってりゃあ、そりゃ願いが叶う可能性だって上がるっつうもんだ。例えば流れ星だって、あの一瞬で願い事を言えるくれぇに常日頃から思っておくこと自体が、願いを叶える原動力になってる、っつう話もあるくれぇだからな。・・・あ、この話は、アホマリモにゃちょっと難しかっ、」

いきなりぎゅうと抱きしめられたサンジが、思わず喉をひゅうと鳴らす。

そのままぎりぎりと力を込めれば、腹の空洞から「うっ」とくぐもった声が漏れた。

てめぇのその、いろいろ詰まって面倒くせぇ胸の中も、・・・空っぽに、なっちまったのか・・・?

「俺の、せいか。」

「・・・あ?」

「てめぇが笑わなくなったのも、泣かなくなったのも、・・・俺の、せいなんだな。」

「・・・、」

頷くことも、否定もしなかったサンジの白い横顔は、金糸に隠れてうまく見えない。

不意に堕ちた静寂の時間は、優しさなのか、戸惑いなのか。

どっちなんだ、なぁ。そんな顔じゃ、わからねぇんだよクソコック・・・!

「まぁ、・・・いいじゃねぇか。てめぇも、俺が突っかからねぇ方が助かるんだろ?」

抱きしめた腕を解くように、力を込めて押し返す。ゾロはそれを、許さない。

「んだよ、・・・しつけぇな。てめぇが俺に、笑うなと願った。そんで月が、それを叶えた。それだけじゃねぇか。願いが叶ってよかったなクソマリモ。ったく、羨ましいぜ。俺だってレディとあ~んなことやこ~んなこと、」

「黙れクソ眉毛!!物分かりのいい口ばっか聞いてんじゃねぇ!辛ぇなら辛ぇと言いやがれ!!」

思わず、口をついて出た。

その言葉に、一瞬ぴくりとサンジが震える。

「笑えなくなって一番辛ぇのは、てめぇだろうが!泣きたい夜に泣けねぇなんて、辛くねぇわけねぇだろう!!誰よりもあいつらのことばっか考えるてめぇが、自分のこと心配されてちゃあ、そりゃあ胸だって痛むだろう・・・だったら自分の感情は押し込めて、いつも通りだって、言ってやりてぇ気持ちもわかる、でもな、・・・」

ゾロはそこまで一息に話すと、ぜぇぜぇと大きく息を継いだ。自分でも、どこに向かっているか、わからない。ただ、とにかく心が、それを急かすのだ。今じゃないと、駄目な気がした。今、伝えないと。今、こいつの心に、届けないと。

なぜだかわからない、だけど、・・・―きっと、ここを逃せば、後戻りできなくなる。

サンジは何を思っているのか、相変わらず平らな顔で、耳だけをこちらに傾けている。

なぁ、聴こえるだろ?聴こえてるんだろ?てめぇの心のなかにはまだ、感情とやらが、残ってるんだろう・・・!

「でもな・・・、誰より辛ぇのは、他でもねぇ、てめぇ自身のはずだ・・・うぜぇくらい大笑いして、心から涙流すのが、てめぇの本来の表現だろうが・・・それを奪われて、しんどくねぇはずがねぇ。女どもに、へらへらしろよ。酷ぇ抱かれ方されたら、ちゃんと泣けよ・・・そうでなきゃ、・・・見てられねぇ・・・!!」

・・・それを奪ったのは、この俺なのに・・・!

酷い矛盾を話していることは、自分でも十分にわかっていた。泣くなと願い、泣けと喚く。もう、めちゃくちゃだ。

どうすることもできなくて、ただ抱きしめたサンジの熱を、嫌というほど肌に感じる。

―もう二度と、俺の前で泣いたり笑ったりすんじゃねぇ・・・!

違うんだ、聴いてくれ、あの台詞は、・・・あの言葉の本心は、・・・

 

「・・・ゾロ、てめぇ、・・・泣いてんのか・・・?」

はっ、と顔を上げた先で、じいと見つめるサンジの瞳と、視線が合った。

美しい、蒼色。

それは、平らの表情のなかに埋もれた、光り輝くサファイヤのようだった。

あまりの美しさに、ぱちり、とひとつ瞬きをすれば、音もなく、透明な雫が零れ堕ちる。

・・・あれ?俺、泣いてんのか・・・?

「・・・んで、てめぇが・・・てめぇが、・・・泣くんだよ!!」

絞り出された鋭い刃が、ぎりぎりとゾロの心臓に突き刺さった。無表情の視線が、痛いほどゾロを切り裂いていく。

「黙って聞いてりゃ、好き放題言いやがって・・・!辛ぇかだと?あぁ、・・・辛ぇよ、死ぬほど苦しいよ。でもな、そりゃ別に今に始まったことじゃねぇ・・・」

ぎりりと奥歯を噛み締める様子に、微かな悲しみが滲んだ気がする。

―そうか、・・・その仮面の下に、まだてめぇは、いるんだな・・・

ゾロの指先が、遠慮がちに金糸を撫でる。びくり、と肩を震わせたサンジの瞳が、どことなく傷ついたような色を滲ませる。

波の立たない蒼い海に、微かな微かな風が吹く。

「俺は、・・・俺はな、・・・てめぇに抱かれてるときゃあ、いつだって・・・ずっとずっと、辛かったんだよ!!!」

ゾロは大きく目を見開いて、サンジの言葉に息を飲んだ。

どういうことだ?そりゃあ、いったい・・・

「俺だってな、最初はただの、欲求の解消だと思ってたんだ・・・ろくにレディとも接触できない船上じゃあ、よくある話だって言うじゃねぇか。それがたまたまてめぇだった、っつうだけで、俺は別に特別な気持ちも抱いちゃなかったんだ。だけど・・・」

怒りなのか、悲しみなのか、僅かに零れる感情を拾い上げようと、ゾロは必死できっかけを探した。うつむくサンジの白かった横顔には、薄らと赤みがさしていて、さっきまでの平らな表情とは、明らかに何かが変化している。

・・・どこだ、てめぇの本心は、・・・どこにある・・・!

「てめぇが俺を抱けば抱くほど、俺は、・・・俺は、てめぇに、・・・もっと抱かれたいって、・・・思っちまうんだ・・・。おかしいだろ、野郎だぜ?しかもよりにもよって、こんなにムカつくてめぇに、だ。何度もやめようと思った、何度も、断ろうと思ったんだ。これ以上続けたら、・・・本気になりそうで、怖かった。だけどもう、手遅れだった。俺は、・・・俺は・・・っ」

「コック!!」

思わずその肩を引き寄せて、ゾロはふたたび、抱きしめた。

折れそうなほどに、華奢な体。豊かな感情を詰め込んだ、はち切れんばかりの小さな胸。

強く、強く。気持ちと同じだけ、強く。

「・・・悪かった。違ぇんだ、素直じゃなかったのは、俺の方だ。・・・あの言葉、」

―もう二度と、俺の前で泣いたり笑ったりすんじゃねぇ・・・!

頭のなかに、自分の声が、リフレインする。

「あれは、・・・本当は、違ぇんだよ。・・・てめぇが笑うと、胸の辺りが、ざわざわすんだ。てめぇに泣かれると、心臓がぎゅうと締め付けられる。それを、てめぇのせいみたいに言ったのは、・・・俺が自分の気持ちに、気づきたくなかったからに、他ならねぇ。」

筋肉質の腕の中に収まった、痩身の体がふるふると震えている。

怒りなのか、恐怖なのか、絶望なのか、それは俺には・・・わからない。

「だから、笑うなだなんて、言っちまった。本当は、俺の心の揺らぎに気づいて、自分で何とかすべきだったのに。間違ったのは、俺の方だ。・・・すまなかった。責任は、俺が取る。取らせてくれ。嫌だと言っても、勝手に取る。俺は、・・・俺は、一生、・・・てめぇのそばを離れねぇ。」

体中に敏感なアンテナを張り巡らせた、繊細なこいつの震える全身。怯える心。

その全てが、愛おしくて愛おしくて、堪らない。

 

―サンジ。

「てめぇの全てを、・・・愛してる。」

 

「・・・遅ぇよ・・・」

細く掠れた震える声が、小さく喉から零れ落ちる。

静かな静かな、新月の夜。

 

パタリ、と床に零れた涙は、微かに蒼い光を放っていた。

 

 

 

そのまま眠りこけていたのだろう。

朝陽に照らされ目を覚ましたサンジは、狭いシャワールームに転がった血みどろのシャツを見て、小さくひとり、ため息をついた。

『っ・・・てて、・・・チッ』

昨晩酷い抱かれ方をしたせいで、腰から下にうまく力が入らない。

いくらなんでも、あれはほとんど強姦に近かったと、思い出してむかっ腹が立った。ふと隣を見遣れば、大口を開けてがぁがぁと眠りこける、マリモ剣士の緑頭。痛む尻を気遣いながら、せめてものお返しとばかりに、重たい蹴りを一発お見舞いしてやった。

「んがぁ!!・・・んん、朝か・・・。」

「朝か、・・・じゃねぇよクソマリモ!てめぇはほんと、人のこと考えもしねぇで、いきなり突っ込んで来やがって!ったく、正真正銘の野獣だな!!だいたい、やるときゃちょっとくらい解してからやるのが普・・・あ?なんだ?・・・なんか付いてっか?」

あまりにじいと見つめられて、サンジはぎょっと鏡を見た。そこに映るのは、蒼い瞳の髭面男、笑顔も美しいこの船のコック・・・

―ん?・・・笑顔?

「コック、てめぇ・・・っ!」

「う、うわっちょ、いきなりなんだマリモ野獣!」

「戻りやがった!戻りやがったなクソコック!てめぇ・・・無駄な心配かけんじゃねぇよ!!」

「あぁ?!」

まるで大きな動物のように、すりすりと頬ずりを繰り出す剣士の、緑の頭がくすぐったい。

ふかふかと気持ちよさそうに茂った苔は、心なしか太陽の匂いがする。

「・・・なんだ、んな心配だったのかよ・・・。だから言ったじゃねぇか、ほっときゃいつか治るって、」

「そうか、戻ったのか・・・これは確かに、いつものムカつくてめぇの顔だ!」

「・・・喧嘩売ってんのかてめぇ・・・!」

「戻るなら、初めからそうと言いやがれクソコック!」

「だから、それは俺も初めから、」

―・・・よかった・・・!

聞こえるかどうかの音量で呟かれたその言葉から、全ての想いを読み取ったサンジは、小さく小さくため息を吐いて、緑頭をぽんぽんと撫でた。

そうか、・・・怖かったんだな、こいつ。

「もう二度と、笑わねぇだなんて愚行、やるんじゃねぇぞ。」

「てめぇのせいだろアホマリモ・・・」

落ちていたベルトを拾って、くしゃくしゃのズボンの腰に通す。

シャツはまた、買い替えだな。

血みどろで引き裂かれた高級シャツは、どう見ても、物騒な代物だった。舌打ちを打ちながら、それをぐしゃりと頭に乗せる。その途端、後ろからふわりと優しい熱を感じた。抱きしめる、ゾロの温度。

「・・・俺は、朝ご飯の準備があんの。」

「・・・なぁ。コック。」

サンジの発言を一切無視して、上裸のゾロが、愛おしそうにサンジを包んでいる。

やれやれ、と息を吐いたサンジは、ついばむようなキスを許した。

・・・こんなに甘ったれだったか?こいつ。

「もう、忘れんな。100回泣いて、1万回笑うような、俺は、・・・そんなてめぇが、見ていたいんだ。」

「っな!てめ・・・恥ずかしいこと口に出すんじゃねぇ!」

 

・・・でも。

 

サンジは不意に、口元を緩める。

ちょっと笑わないくらいで胸を痛める、その愛おしい、精悍な横顔。

 

―あるいは、・・・てめぇと俺、ふたりで、なら。

 

言った先から頬を真っ赤に染め上げたサンジは、緑頭を軽く小突くと、スタスタとシャワールームから去っていった。

その背中を見送って、ゾロは優しくため息を吐き出す。

 

今夜からまた、月は細く輝き出すだろう。

一度死んでは、蘇る。

何度も繰り返されてきた夜空の営みは、まるで愛の理のように、ただただ静かに、海を見守っているのだ。

何度つまずいたって、何度だってまた、やり直せばいい。

 

諦めなければきっと、また新しい何かを、生み出せるはずだから・・・―

 

 

 

―「ね、面白い言い伝えでしょ?」

「うわぁもう、ナミすゎんたら、さっすが物知り!僕の恋の炎が、もっと熱く燃え上がりそう!」

「ふふ、まぁ、単なる伝説、だけどね。しかもね、その願いは、叶っても2週間で効能が切れちゃうらしいのよ。」

「へ?・・・そうなの?」

「そう。だから、満月の夜から、次の新月までの、ひと時の夢、・・・ってこと、なのかもしれないわね。」

「ふ~ん。そうか、夢っていうのは、儚いもんなんだなぁ・・・。」

「ね。だからあんたたちも、何か願い事でも祈ってみたら、・・・あれ?ゾロ、寝ちゃってる。」

「あぁ!ホントだ!ったくクソマリモの野郎、ナミさんの素敵なお話の最中に眠りこけやがって・・・!あぁ、いいよいいよナミさん、そいつはそのまま放っといて。馬鹿だから風邪もひかねぇからさ。」

おやすみ、と手を振るナミを見送って、ふたりはキッチンに取り残される。

安心しきったその横顔に、サンジは小さくキスを堕とす。

『そうだなぁ。俺の願い、は・・・』

切なく見つめた視線を逸らせ、小窓から見える月を眺める。

弓なりづき。

満月までは、あと1週間ほどだろうか。

 

「てめぇに、惚れてる。・・・それを伝えることくらい、許してくれるか?・・・ゾロ。」

 

曖昧なオレンジ色が、ふたりを包む。

窓から覗く、美しいペルセウス。もうすぐ、冬の島に入るのだろう。

サンジはジャケットを脱いで、剣士の背中にふわりとかける。

眠りこけた横顔を愛おしく見つめた蒼の瞳は、今まさに流れ落ちた星の光を、映し出しはしなかった。






(完)

 

 

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