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1万回の約束

「ねぇ、たったひとつだけ、願いが叶うとしたら・・・あんたたちは、なにを願う?」

唐突にそう語り始めたのは、この船の航海士、ナミだった。

しばらく続いていた平穏な海が、突如発生した大竜巻によって見事なまでに表情を変えた、その晩のことである。

いくら優秀なサニー号とはいえ、上下に激しく揺れる大波を渡り、槍のように降り注ぐ雨を全身に浴びながら、吹き荒れる風をそのまま受け止め続けるには、いくらなんでも限界があった。

特別な事情でもない限り、航路はいつも、その海域で最も安全なルートが選ばれている。それはすなわち、航路の変更には常に危険が伴う、という事実の裏返しでもあるのだが、今回ばかりはどうにも致し方なかった。

一味の詰める海賊船サニー号は、たった一瞬の海の気まぐれによって、せっかく取った最も安全な航路の変更を、余儀なくされていたのである。

 

ナミの深酒に付き合っていたゾロとサンジは、その言葉の意味がすぐには飲み込めず、次の台詞を喉に詰まらせた。

騒々しい晩ご飯も終わり、船員たちがそれぞれの時間を過ごす、ゆるやかなひと時である。ナミは突然の難航海に神経をすり減らしたのか、珍しく少々酔っている様子で、頬をほんのり赤らめていた。

「・・・どういう意味だい、ナミさん?」

「どうもこうもないわ。そのままよ。」

なぜだか少し怒ったような雰囲気を滲ませ、ナミがふいと顔をそらせる。そのふくれっ面を確認したと同時に、でれりと鼻下を伸ばしたサンジを横目に見遣ってから、ゾロがふん、と鼻を鳴らした。

「願いなんざ、ねぇな。」

「あら。あんた相変わらず、夢がないのね。」

「わけのわからねぇ存在に頼み込むよりゃ、俺ぁ自分の腕を頼る。」

「ふうん。まぁ、あんたらしいわ。ねぇ、サンジくんは、なにかあるでしょう?」

「え、俺・・・?」

いかにも不意打ちをされたかのように、サンジはぼんやり目線を泳がせる。元はといえば、ゾロにつまみを作るために、キッチンに居残っていただけなのだ。贔屓のナミが登場したことによって思わぬ長居をしてしまっているが、元来、酒には強くない。アルコールなのか眠気なのか、サンジはすでに、うとうとと違う世界を覗いているようだった。

「そうだなぁ・・・かわいいレディたちの住んでる部屋で、かわいいレディたちとふかふかのベッドに寝転びながら、かわいいレディたちに美味しい料理を作って、かわいい」

「あぁはいはいわかったわかった。もういいわ。・・・ったく、あんたたちったら、ほんとに夢がないんだから。」

「あぁ?んなこといきなり言われても、急に答えられっかよ。」

「いきなり言われて、急に答えるのが大事なの!」

やけにはっきりと響いた台詞が、夜のキッチンを震わせた。アルコールを溶かした気だるい空気が、ほんの一瞬、熱を帯びた残響を残す。

「・・・信じるかどうかは、勝手なんだけど、さ・・・」

そう言って、ふっと視線を落としたナミの横顔が、曖昧なオレンジに染められていた。ぽつりと零れた、躊躇いの瞬刻。飽きるほどに繰り返された、たわいのない言葉遊びの続きを、淡く輝く弓なり月が、ただただ静かに見守っていた。

 

 

 

いつものごとく惰眠を貪っていたゾロに雷のような鉄拳が落ちたのは、太陽もテッペンに登りきった、真っ昼間のことだった。

目の前に立ち尽くすのは、オレンジ色の髪の女。

「あ~・・・ナミ?」

途端「ぐう」と鳴いた腹を押さえて、そういえば、と苔頭を掻く。いつもの朝の鬱陶しい儀式が、今日は、なかったような気がしている。

「なんだ?んな鬼ババみてぇな形相、」

「アンタ・・・こんなときに、いつまで寝てんのよ・・・」

「あぁ?そりゃ、コックが起こしに来ねぇと俺ぁ、」

「その!サンジくんが!大変なの!!」

広い甲板に、悲痛な叫び声が響き渡る。固く結ばれていた口元が、一瞬ぐにゃりと歪んだ気がする。

ただならぬ雰囲気を纏ったオレンジ色の航海士は、ふるふると首を振って、溢れかけた感情をぐいと喉奥へと押しやったように見えた。

「いいから来なさい!!」

無理矢理に襟ぐりを掴んだ両手が、微かにわなわなと震えている。そのままぐるりと踵を返したナミの後ろ姿を、ゾロはなかば唖然と見送る。そして、のそりと立ち上がると、コックがいつも引きこもっているはずの、狭いキッチンへと足を進めた。

 

 

サンジが、笑わなくなった。

 

いつも通りの朝、いつも通りのキッチンには、いつも通りに輝く料理が並べられていた。

三々五々起きだしてきたクルーたちは、いつものように、各々の定位置に着く。朝の柔らかな陽の光が、小さな波しぶきに反射して、キラキラと楽しげな夢を描いている。目にも鮮やかな料理の数々は、おそらくこの周辺地域の料理なのだろう。ふわりと鼻をかすめる香ばしい匂いは、大食漢たちの食欲をそそるには十分すぎるほどである。

「・・・おい、サンジ、なんか変じゃねぇか?」

最初に口火を切ったのは、ウソップだった。カチャカチャと皿の触れ合う音が響く、朝陽の中の眩しいキッチン。その美しい光景に、何かが、絶対的に足りていないのだ。

「こちらコック特製の甘いデザートパンです、ナミすわん。」

「あ、・・・ありが・・・とう、サンジくん。」

唖然としながら紡いだ言葉が、無理矢理に喉から絞り出される。互いに顔を見合わせたクルーたちは、揃って小さく首を傾げた。いつもならば、メロメロと愛好を崩すはずのサンジの口元には、メロメロはおろか、ニコニコも、ニヤニヤも、これっぽっちも見当たらない。

「えっと、サンジくん・・・なんか、・・・怒って、る?」

切れ味鋭い物言いが自慢のナミでさえ、そのただならぬ気配に、思わずもごもごと口ごもった。感情の見えない平坦な表情は、ともすれば怒っているようにも見えるのだが、それはいっそ「怒り」の感情ですら、ないようなのである。

 

言うなれば、―「無」。

 

「何を言っているんだい、ナミさん。」

いつもであれば、でれでれと鼻下を伸ばしながら、きょとんと眉を下げたのであろうその表情は、さきほどと数ミリも変わらず、平坦な様相を崩さない。

「・・・なに?俺、なんかついてる?」

静かにクルーを見渡す蒼い瞳には、唖然とした一味の顔が次々と映り込んでいく。

ぼうっとしているのか、怒っているのか、冷静ぶってるのか、戸惑っているのか、・・・いやむしろ、そのどれかであれば、話は早かったのかも、しれなかった。

クルーの脳裏に浮かび上がる、いくつもの仮説にかすりもしない、ただひたすらにまっ平らな感情を、サンジは一味に、向けていた。

「・・・サンジ、ちょっと・・・笑ってみな、・・・な?」

「・・・え?なに言ってやがるウソップ。俺、笑ってるぜ?さっきから。」

 

そう。

それはまるで、「感情」のすべてを、どこかに置いて来てしまったかのように。

 

サンジを囲んだクルーの表情が一斉に、不安の灰色に影った。

 

 

―サンジが、笑わなくなった。

 

 

「・・・で、てめぇとしちゃあ、いつも通りのつもりだ、と。」

「何遍言わせんだ、アホマリモ。てめぇは脳みそまで筋肉なのかよ。」

目の前でしゃがみこむゾロに向かって、ふぅ、と大げさに煙を吹きかける。それは紛れもなく、いつものムカつくコックの姿である。しかし、確かに他のクルーが騒ぐように、その表情からは、何の感情も読み取れない。

「変だぞ。てめぇ。」

「あぁ?うっせぇな、てめぇの緑頭よりゃマシだろ。」

ぎろり、と睨んだのであろう真っ平らな顔が、瞬間こちらに向けられる。吐き出される台詞はいつもと変わらないのに、感情が乗らないないだけでこんなにもこちらの感情が揺れないのかと、ゾロは内心、妙に感心する。

―そんなに、慌てるようなことなのか?

ゾロは最初こそ僅かに戸惑ったものの、よくよく考えて、次のような結論を出した。

「まぁ、俺としちゃあ、・・・正直どうでもいい。」

「ちょ、ちょっと、ゾロ!」

興味なさそうに立ち上がって、テーブルの上のにぎり飯に手を伸ばす。朝飯を食べ損ねたおかげで、えらく腹が減っている。

「別に笑おうが笑うまいが、コックはコックだろ。飯も作れるし話もできるんだ。余計な腹が立たねぇだけ、俺としちゃあありがてぇくれぇだ。」

「おいゾロ!いくらなんでもお前、そんな言い方、」

「はは!わかってるじゃねぇかクソマリモ。」

慌てるウソップを制止して、サンジが次の言葉を重ねる。おそらく皮肉な笑いを浮かべようとしたのであろうその顔は、やっぱり平らで波も立たない。

「俺としちゃあいつも通りだし、ナミさんを愛する気持ちだって変わってねぇ。料理だって作れるし、別に体もなんともねぇんだ。そうだろ?チョッパー。」

「あ、・・・あぁ、体には、全く・・・」

「な。だったら、んな騒ぐこたぁねぇよ。ちょっと笑い方忘れちまっただけだ。いつも通りにやってくれ、」

―まぁ、そのうち治んだろ。

ぼそり、と呟いた一言が、全員の耳に届いたのかわからない。

一味はそれぞれに顔を見合わせ、戸惑うように言葉を詰まらせていた。

ふわりと吐き出された紫煙はゆらゆらと宙を舞い、行き場を失ったように、いつまでもいつまでも漂っていた。

 

 

 

空は快晴。

果てなく続く海は平穏そのもので、次の島までの障害も、どうやら見当たらないようだ。気持ちの良い潮風が吹く。珍しく湿度の低い海域で、この先もしばらく、穏やかな航海が続いていく予定になっている。

「はぁ・・・」

誰ともなく、ため息が零れる。サンジが表情を失ってから、もう、1週間と少しが経っていた。

相変わらず美味い飯を作り、ナミを見かければ愛の言葉を囁き、出会い頭のゾロに一発蹴りをお見舞いする。そのどれもがいちいちこれまで通りなのだが、それらはしかし、完全にそれまでのものとは、趣を違えてしまっていた。

「何より、ご飯の時間がね・・・。」

すでに本日何度めかのため息をつきながら、ナミがぼそりと呟いた。付近にいるのは一人だけだから、それはおそらく自分に向けられた言葉なのだろう。がぁがぁと煩く寝息をかいていたゾロが、チラリと薄く片目を開ける。

「サンジくんが笑わないだけで、あんなに寂しい時間になるだなんて・・・」

・・・いっつも迷惑そうな顔してたじゃねぇか。

喉元まで出かかった言葉を、なんとか喉奥へと押し込める。滅多なことを口に出せば、雷が飛んでくるのは目に見えていた。

サンジの表情がなくなってしまったことで、船にはずんと、沈んだ空気が漂っている

「・・・サンジくん、このまま一生、・・・笑わないのかしら・・・」

おそらく誰もが思い始めているのであろうその言葉を、ナミがぽつりと、不安げに零す。

「・・・。」

聞こえていていないフリをして、ゾロはごろりと寝返りをうつ。

 

なぜだかイライラと胸がざわめく。

それを聞きたいのは、ゾロも、一緒だった。

 

 

向かい合うふたりの影が、オレンジ色に染められる。

夕刻のキッチンには、ふわふわと蒸気が渦巻いている。晩ご飯のために炊かれたお米は、20合。そのうち半分を船長が、残ったものの半分を、剣豪が食べることになっている。

「・・・なんだよ。飯ならまだ、っ」

言葉の続きを遮るように、ゾロの唇が重ねられる。壁際に追いやられたサンジは、手に持った菜箸を下ろす暇もなく、口内を蹂躙する熱い舌を受け止める。

「・・・っはぁ、んだよ急に、発情期か?マリモちゃん。」

平坦に見返す蒼い瞳に、綺麗な緑が映り込む。混ざり合ったふたつの色は、エメラルドに輝く海のようだ。

「・・・いつ治んだよ、それ。」

「あぁ?」

低く掠れた呻き声が、狭いキッチンに共鳴した。奪い取った煙草から、ふよふよと頼りなげな紫煙が立ち上っている。口内に残る、サンジの匂い。

「なんだよ、心配してくれてんのか?マリモのくせに。」

「・・・ふざけんな、質問に答えろ。」

嫌味な笑いを浮かべて軽口を叩いた・・・のであろうサンジに向かって、ゾロはぎろりと鋭い視線を向けた。あくまで平然を装ったつもりが、零れる言葉には微かな焦燥が滲んでしまった。

自分が何を思っているのか、自分でもよく、わからない。

「質問つってもなぁ・・・。好きでやってるわけでもねぇしよ。だいいち、俺としては特に何にも変わっちゃねぇんだ。てめぇらが慣れてくれる方が、手っ取り早いんじゃねぇの?」

ひょい、と煙草を取り上げて、再び口に咥え込む。一瞬見えた真っ赤な舌に、ゾロの中心がぞくりと泡立つ。

「てめぇがよくても、あいつら困ってんじゃねぇか。じめじめした空気撒き散らしやがって・・・昼寝の邪魔だ。」

「んなこと俺に言わ、っん・・・」

悪態にもならないつまらない台詞を、自身の唇で無理矢理に塞ぐ。本当は、耳も、目も、その全てを塞いで、見えなくしてしまいたかった。こいつの、・・・こんな、顔。

「んん、っく・・・はぁ、・・・おい俺はまだ、晩ご飯の仕込みが、」

「知らねぇ。」

シャツの中に滑り込ませた掌を、焦るように背中にまわす。ぎゅうと抱き寄せる細い腰が、時折びくりと跳ね上がる。

こんな、感じやすいくせに・・・

「なぁ、・・・コック、っ!」

熱い息を吐きながら見つめた視線の先に、コックの平らな表情が見えた。

嬉しいとも、嫌だとも言わないその瞳には、自分自身の姿さえ、映し出されていないかのようだった。

これじゃまるで、・・・透明人間じゃねぇか。

「・・・悪ぃ、邪魔した。・・・晩ご飯、続きやってくれ。」

「あ?」

「萎えた。」

「・・・あっ、そう。」

手放したコックの片腕には、微かに赤い痕が残った。いつの間に、そんなに強く握っていたのだろう。

僅かに重い足取りで扉に向かいながら、コックの背中をチラリと見遣る。

紫煙を上げながら鍋をかき混ぜる、いつもの背中。

そこにはやはり、なんの感情も浮かんではいなかった。

 

 

 

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