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ツクヨミのほこら、てのひらの月

その明確な変化に気づいたのは、船に戻ってしばらく経ってからのことだった。

 いつものように朝ごはんをすませ、洗濯物を干して掃除に取り掛かろうと倉庫の扉を開けた時。いつもならば何かが飛び出してくるタイミングで、ふと違和感を覚えたのだ。

 ――あれ。『声』が、聴こえない。

「どうしたの、サンジくん」

「え、あぁ。なんでもないよナミさん。ちょっと、掃除でもしようと思って」

「いつもありがと、サンジくん。ウソップ暇そうにしてたわよ、手伝わせる?」

 何気ない会話を交わしながら蜜柑畑に足を伸ばす。ここはサンジの休憩場所で、仕事の合間にぼんやりと空を見上げるのが好きだった。

 あの子たちと、一緒に。

「なぁ、どこにいるんだ」

 ざわざわと海風が吹いて青々と茂った葉を揺らす。波は穏やかに凪ぎ、雲はゆるやかに流れている。白い海鳥が一羽、羽を広げて空を渡る。上昇気流に乗って、高く、高く……。

「出て来いよ」

 しん、と静まり返った地面に目を凝らす。確かに気配は感じるのに、声が、言葉が、聴こえない。

 サンジはそっと立ち上がって煙草の先に火をつけた。白い風が海に溶ける。遠い記憶が心臓の鼓動を早くする。ずっと、一緒にいた。

「……なんで、」

 喉まで出かかった言葉はそのまま肺の奥へと飲み込まれた。下唇を微かに噛んで息を止める。トクトクと繰り返す心臓の音。うるさいほど頭のなかに響く。

 もう、聴こえないのか。

 目の前が真っ暗になったような黒い気分が満ちていく。

 置いていかれたのか。あのときと同じように。

 意味のない言葉がぐるぐると回る。あのときって、いつだっけ。

 ――みんな、どこにいるの。

「――――おい」

 はっ、と後ろを振り返るとそこに男が立ち尽くしていた。見慣れた顔。むかつく仏頂面。世界でいちばん愛しい人。

「……ゾロ、」

「なにしてる」

「いや……」

 もごもごと口ごもり、視線を逸らす。

『そんな嘘なんかついて』

 頭の中に声がリフレインする。自分は人と違うのだ。隠さなければ、生きていけない。

「なんだ、なに考えてる」

「なんでもねぇよ。そこ、邪魔だ」

 どけ、と跳ねのけようとした手首を強く掴まれる。反射的に引こうとして、ぐ、と体に引き寄せられた。顔が、視線が、吐息が、――近い。

「っ、なんだよ、嫌がらせならあとにしろ。俺は今忙し、」

「てめぇの大事なものってなんだ」

 は? と口を開いたまま固まったサンジにまっすぐな視線が突き刺さる。大事なもの……? サンジは逡巡する。大事なもの……そんなの、……そんなの。

 ――それって、なんだ。

「なに言ってんだ、てめぇ。ほこらぶっ壊してから頭でもおかしくなったんじゃねぇの」

「いいから茶化さず答えろ」

 逃げ出そうと引いた腕がさらにぎゅ、と強く掴まれる。なんだか泣きたくなったのはその鋭い痛みのせいに違いない。風が吹き抜ける。

「んなもん……すぐに答えられたら苦労しねぇよ」

 俺の、大事なもの。

「なにか、失ったものはねぇか」

 ぐ、と喉を詰まらせる。こいつは何を知っているというのだろう。聴こえなくなったたくさんの声。ひとりぼっち。ゾロ、俺の大事なものって……なんだ。

「心当たりが、あるんだな」

 至近距離で問いかけられる。鼓膜がふるりと振動する。サンジは小さくこくりと頷いてそのままそっとうつむいた。

 あぁ、声が聴きたいと、甘い痛みのなか泣きそうになりながら思う。

 

 ちょっと、出かけて来る。

 そう言って、連れだって船を下りた。夕飯までには帰って来なさいねと、船番のナミの声が後ろから届く。片手を上げて答えてから、無言で島の中心へと向かう。町の賑わいを抜け、静かな小道を通り、小高い山の上に伸びる階段を一段飛ばしで上っていく。うっそうと茂る森の深緑。鳥の声がどこかで響く。ざわざわと風が吹く。明らかに気配が変わっていく。

 ここが、ツクヨミの神のほこららしい。

「嘘だと思っていいから、笑わずに最後まで聞いてくれ」

 壊れかけた木のベンチに並んで腰かけ、先に口を開いたのはサンジの方だった。

 目の前にはまっぷたつになった「神のほこら」が見えていた。美しい断面はぱくりと口を開けていて、人力で斬ったとは思えない所業だった。その真ん中ではご神体なのか、掌に収まる大きさの丸い石がこれまたきっぱりと真ん中からふたつに割れている。

 ざわっ……、と風が吹き抜ける。

「この世界には、見える世界と、見えない世界が同時に存在しているんだ。たとえば月が、見えていなくても空にはずっとあるように、光のなかで影は存在しえないように。そこにあるはずなのに見えないものが、確かに、ある」

 サンジはポケットから煙草を取り出してその先に小さく火を灯した。風に流れて煙が消える。神さまの前で失礼かな、と呟くと「こんなことぐれぇで機嫌損ねるような神は、神じゃねぇ」とわかるようなわからないような答えが返った。信じないと言いながら、相手の立場は尊重する。ゾロの好きなところのひとつだった。

「俺は、ずっと、『あいつら』と一緒だった。朝起きた温もりの残る枕の下、朝食のときに広げられた新聞の裏、美味しそうなスクランブルエッグを一緒に笑って、歯磨き粉のふたでいたずらされる。ずっと、そうだったんだ。楽しいときも、悲しいときも、……ひとりぼっちのときも、あいつらだけはずっと、いつだって一緒にいてくれた」

 一気にそこまで話をしてサンジはふ、と息を吐いた。口にしてしまえばなんてことのないことだった。言葉にしてしまえば、たった、それだけのこと。

ゾロはサンジの言いつけを守っているのかひとことも言葉を挟まない。

「その声が、聴こえなくなった。気配は確かにある。だからいなくなったわけじゃないと思う。でも、見えねぇし、聴こえねぇ。たとえるならチューニングに失敗しているみたいな、そんな感じだ。ぼんやりとしていて掴めねぇ。こんなこと今までに一度もなかった」

 思った以上に自分の声に不安が滲んでいてサンジは驚いた。言葉にして初めて自分の感情を知る。いつもそうだった。大事なことはいつだって、あとから気づくのだ。

「教えてくれよ、ゾロ。どうしたらいいんだ。俺は……」

 俺は……。

 紡がれるはずの湿った言葉が喉の奥に引っかかる。言わない方がいい。咄嗟に頭の中にサイレンが響き渡る。コントロールの利いた生き方。揺れずに、知られずに、表面を繕って生きる。それがたやすいことくらい、もう、嫌というほど知っているのに。

 ゾロ。

 なあ、俺は――

 俺は……、

「……どうやったら、寂しくないんだ」

 ゾロ。

 なあ、答えを知っているなら、教えてほしい。

 ざあっと一陣の風が吹いて土ぼこりを巻き上げた。けほ、と小さくせき込んでサンジは乱れた金糸をかき上げる。ツクヨミのほこら。ゾロの生き方そのもののように、美しく切り裂かれた神の家。

 ゾロがそっと手を伸ばし、サンジの左手に手のひらを重ねた。壊れ物に触れるような、繊細で優しいやり方だった。重ねられた右の手は、サンジが知っているそれよりも、熱い。

「……よけねぇのか」

 聴きなれた低音が風に乗って耳に届く。サンジは何も答えないまま、それでも手を離さない。

「俺は、お前のそういうのは、正直よくわからねぇ」

 嘘も、偽りもない。

 ゾロの言葉はまっすぐにサンジの心臓に突き刺さった。それはサンジを少しだけ傷つけ、そしてじんわりと優しさで満たしていく。

「お前に見えてる世界を、俺が理解することはたぶんできねぇ。俺はそういう感受性で生きてねぇし、この先もたぶん、生きられねぇ。けど、」

 そこで一度言葉を切ってゾロがちらりとサンジを見遣った。重なった掌が熱を上げる。サンジは振り返ることができないまま、掌をそっと握り返す。まるで勇気づけているみたいだった。励まされたいのは、一体どっちなんだ。

「隣にいる、ことはできる。てめぇの飯を喰って、てめぇとともに海を渡って、てめぇと一緒に海の果てを見る、ことも」

 小さな森の崩れたほこらにさらさらと透明な風が吹く。森が鳴き、雲が流れる。遠い空に夕暮れが落ちて町の明かりが灯りはじめる。点々と浮かび上がるオレンジ色ははじめてみる風景なのにどこか懐かしい。

 そのままふたりは言葉を交わすこともなくただ手のひらを重ね合って時を過ごした。

 夕闇が世界を柔らかに包み、町を藍色に染めていった。美しい月が山の端にのぼるとふたりの影は闇に溶けた。ささやくような風の音色。眼下に広がる小さな町。その向こう、真っ暗な海から届くのは、飽きるほど聴いた波の音。

 ずっと一緒にいたのは、『彼ら』ばかりじゃなかったはずだ。

「……帰るか」

 立ち上がったゾロの手をほんの少しだけ強く引く。それだけで、もう全てが伝わってしまう。境界が溶け合って細胞が行き来しているみだいだった。ゾロは一瞬立ち止まり、困ったように小さく笑う。そしてゆっくりしゃがみこんで鳥の鳴くようなキスをしたのだった。

 

「結局、なんだったんだ」

 甲板にごろりと大の字になっていつもより大きな月を見上げる。全員で甲板に出てみましょうと、提案したのはナミだった。いつもとは少し違う雰囲気になんとなくみんな浮かれている。ガキの頃の修学旅行みてぇ、と笑うウソップに「それってなんだ?」とチョッパーが目を輝かせた。ルフィは「うまそうだ」を連呼した挙句に「風情がないわね」とナミからげんこつを食らっていた。

 満月は人を浮つかせる。

「あ~……」

 ふたりは仲間たちからは少し離れた場所で寝転んで、ぼんやり空を見上げていた。ゾロはなにか隠し事があるように月からわずかに目をそらす。

「別にいいだろ、減るもんじゃねぇ」

珍しく今回ばかりはサンジも譲らず、ゾロにずい、と言い募った。なぜだか微妙にたじろいだゾロがぽりぽりと頭を掻くのが見える。今夜はサンジもどことなくそわそわと落ち着かなかった。満月がそうさせるのかもしれない。この星に生まれ、生きている。影響を受けないはずがない。

 月の引力。潮の満ち引き。太陽が隠れた夜の世界。

「あー……」

「なんだよ、奥歯にものが挟まったみてぇな顔しやがって。てめぇらしくねぇ」

「俺の、大事な人に」

「あ?」

「だから、俺の、大事な、人に」

 聴きなれない単語が聴こえた気がしてサンジは思わず聞き返す。

「は、大事な人?」

「……そうだよ。その、ほこらを斬れと頼んできた女が言ったんだ。『あなたの大事な人の、大事なものが永遠に失われる』……それが“封印”を解くための交換条件、ってとこだったんだろ。ったく、タチの悪い……」

 サンジはぱちぱちと瞬きを落とし、それから小さく首をひねった。大事な、人……それって、つまり。

「この辺りは緯度だかなんだかの関係で、満月の夜に何かしらのエネルギーが強くなりすぎるんだそうな。といっても俺みてぇな普通の人間にゃわからない程度だが、敏感な奴らにとっては結構大きなことらしい。それを抑えるため、あのほこらは建てられた。しかも今夜はスーパームーンだ。本来なら最も影響が大きくなる日なんだそうだが、あのほこらがあることによって良くも悪くも力がセーブされちまってたらしい」

 ゾロは自分でしゃべりながら、半信半疑で眉間にしわを寄せている。空には落ちそうなほどに大きな月。それを見上げてあくびを零す。

「女は月の力を使って、今夜恋人に想いを告げに行くそうだ」

 きっと大きな決断だったのだろう。素性もわからない見ず知らずの男に、必死で懇願し、罪の片棒を担がせ、さらにはそいつを危険にさらしてしまうかもしれないことすら飲み込んで、それでも恋人を取る。

 きっと、優しい人なのだろうとサンジは思った。やったことは決して褒められたことではないが、ゾロからは彼女の薄暗さが伝わってくることはない。

 そういうことが、大事だと思うのだ。

 優しくて、強い。きっと、人を愛することを、知っている人なのだろう。

 うまく、いくといいね、レディ。

「……で、断れなかったんだな」

「そんなの、俺ぐらいにしかできねぇだろう」

 あぁ……と嘆息する。まぁ、そうだろうな。てめぇぐらいだよ、まさか神さまに立ち向かおうとする阿呆なんざ。思って、サンジは頬を緩める。その、阿呆で、馬鹿で、どうしようもなく甘いてめぇに、まさかこの俺が惚れちまうなんて。

 これも満月のせいかもしれない、と思う。

 月が欠けていくのと一緒に、想いを忘れていけたらいいのに。

 本心でないことを心に描き、ふ、と柔らかに目を伏せる。もう長いことこの想いは消えることを知らないのだ。欠けることのない満月。まるでずっと月がのぼっているようだ。

「馬鹿だな、てめぇは」

 くすくすと笑ってやればゾロはむ、と顔をしかめた。そういうひとつひとつの言葉が、仕草が、平凡でつまらなくて、かけがえのないほど愛おしい。

「で、大事な人って。どういうことだよ」

 答えを半分知っていながら、サンジはゾロに問いかける。こういう謎かけのような距離感がきっと俺たちには居心地がいい。

「……前から気づいてた、わけじゃねぇ。こうなってはじめて知ったんだ。自分の知らないところで、てめぇが何かを失っていく、その静かな寂しさを俺ははじめて怖ぇと思った」

 淡々と告げられる言葉はどれを取っても嘘がない。サンジはそっと目を瞑る。なにげなくすごいことを言われた気がする。

「お前、自分の“大事な人”が誰かもわかってなかったのに、その賭けに乗ったのかよ」

「あぁ」

「信じらんねぇ……相手が俺じゃなかったらどうしたんだ」

 例えばナミさんとか。言ってみてから、首を振る。いや、それでもこいつはなんとかしたんだろう。

「俺の惚れたやつが、そんなヤワな奴なはずがねぇ」

 わかるようなわからないような理屈を吐いて、ゾロはごろんと空を見上げた。一億の星がキラキラと輝き大きな月が落ちてきそうに光っている。手を伸ばせば届きそうだ。美しい、十六夜の空。

「でも結局俺の大事なもん、は戻って来てねぇし、“祟り”はどうにもならなかったんだろ。まぁ、いいけどよ。ご大層にお言葉なんか聞きに言ってたじゃねぇか」

「……つけたのか」

「不可抗力だ」

 サンジはきっぱり言い捨てる。波の寄せくる音が聴こえる。

「まだ、試してねぇだけだ」

「あ?」

「“祟り”を封じる方法だ。てめぇが今のままでも寂しくねぇっていうなら、まぁそれでもいいかと思っただけだ。封印する方法、なくはねぇ。幸いにも……満月まであと2時間ある」

 月を見上げたままゾロが言う。心なしか口元が緩んでいる気がする。……あまり良い予感はしない。

「……一応、聞こう。なにを、しなきゃならねぇんだ、俺“たち”は」

「さぁな。だいたい、てめぇの考えてることで合ってるんじゃねぇか」

 ニヤリ、と意地の悪い顔で笑う。サンジは大きくため息をつく。妖精の見えていた、あの孤独で甘ったるい見慣れた世界。手放すにはあまりにも大きく、すぐには傷は癒えそうもない。

 ――だけど。

「……いいぜ」

 サンジはふわりと煙を吐いて夜の風に耳をすます。聴こえる。孤独に濡れた瞳の向こう、凛と立ち尽くす己の姿。好きだ、と思った。ゾロと俺が生きているこの世界が、好きだ。

 生きることはいつだって冷酷で、さびしくて、泣きそうなほどに優しく甘い。

「やろうぜ、セックス。12時を過ぎたら」

 もう、見失わない。寂しさを誰かのせいにはしない。孤独を抱え、たったひとりで、一緒に隣を歩いていこう。

「悪くねぇな」

 笑ったような色を滲ませ隣からふわりと声が届く。掌に月を閉じ込めて、そっと心臓の熱で温める。昨日と同じ今日が続き、代わり映えのない明日がやってくる。

 それこそを幸福と呼ぶのだと、誰かに教えてやりたい気がした。

 

 

 

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