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ツクヨミのほこら、てのひらの月

 倉庫の扉をゆっくり開き暗がりに向かって手を伸ばす。

 ギ、と鳴いた立て付けの悪い扉。ほこりっぽい空気が煙とともに肺を満たす。

 ほうきに手をかけようとしたところで、サンジは「あ」と声を出した。

 穴があいて水が漏れるブリキのバケツのその後ろ。柔らかな影に紛れている小さな『それ』に声をかける。

「掃除、すんぞ」

 すると『それ』はさっと走り出て今度は酒樽の影に身をひそめた。サンジはわずかに頬を緩め、甲板の階段を上へとのぼる。

 蜜柑畑にたたずむと別の『それ』が笑いかけた。サンジは「やあ」と声をかけて何食わぬ顔で畑にしゃがみこむ。いたずら好きの笑い声はさっきの『それ』とは打って変わって人懐こい。

 サンジはうぅん、と伸びをして背の低い雑草に手を伸ばした。

 空は青く波は静かで夕暮れの甲板は穏やかだった。キッチンからは香ばしい匂いが、ふわり、ふわりと漂っている。オーブンのなかのオニオングラタンは、とろりとチーズを溶かしている頃だ。

「明日の天気はどうかな」

 何気なくつぶやいたサンジの肩にふたつの『それ』がひらりと舞い降りる。

『あしたは晴れよ』

『あしたは雨よ』

『うそ、晴れるに決まってる』

『うそ、雨に決まってる』

 ぷうと頬を膨らませ、ひどい顔でにらみ合う。サンジが笑って手のひらを差し出すと『それ』は花が咲いたようにパッと笑った。

『雨でもいいわ』

『晴れでもいいわ』

『雨でもいいって言ったじゃない』

『晴れでもいいって言ってるのよ』

 おでこを近づけ喧嘩をしながらサンジの白い掌に腰掛ける。喧嘩の声はいつの間にか笑い声に変わり、見上げた空には雲が流れる。

 

 サンジが『見える』ことに気づいたのは7つか8つのときだったと思う。

 それまでは誰でもがそういうものだと思っていたから、見えるとか見えないとかを考えたことがなかった。

「だってじじい、あいつがもっと塩を入れろって、」

「なァに馬鹿なこと言ってやがる、ちびなす。下手な嘘なんかついてねぇでさっさと鍋を用意しやがれ」

 頭のこぶをさすりながら目に涙を浮かべてスープを作り直す。黄金に輝くスープの匂いはじじいのそれとは微妙に違っている。

『怒られた。かわいそう』

「キミが塩を入れたらいいって言ったんだよ」

 ぐし、と頬の涙をぬぐってサンジはじろりと『それ』を睨んだ。『それ』は寸胴鍋の影からサンジのことを面白そうに見つめている。

 妖精、という存在がこの世界に存在していることを、サンジはずっと小さな頃から知っていた。

 それは古びた本の隙間や壊れた鉢植えの影、ピカピカに磨いたグラスの底に。そっと現れてはなにかを喋り、そしていつの間にか消えてしまう。

 だからサンジは寂しくなかった。嵐の吹きすさぶ夜も、朝もやけに静まる甲板も。故郷を思って枕を抱えた夜だってそばにはいつだって妖精がいた。

「なに言ってんだ。嘘ついてる暇があったら皿でも洗っとけ」

 ガハハ、と笑う大男たち。コック帽をかぶった彼らは気のいい仲間だったけれど、サンジの言うことを誰ひとりとして信じてくれはしなかった。

 膝小僧を抱えて眠る夜。

 だからサンジは、ずっとひとりぼっちだった。

 

「サンジくーん、チーズ焦げちゃうわよー」

「はぁいナミさん!」

 いつの間にぼんやりしていたのだろう、はっと顔をあげてあわてて手を振る。

 サンジは脇に置いたほうきを持ち上げ急いで階段を駆け下りた。途中でぶつかった筋肉ダルマに「邪魔だ」と一瞥くれてキッチンに滑り込む。キッチンのなかには香ばしいチーズの香りと、デミグラスソースの湯気が満ちている。

 

 たどり着いた島は海軍の規制が緩い穏やかな島だった。

 ひとつの港と小さいマーケット、海に続く一本道沿いに点々と村が広がっている。

 久しぶりの島にみな目を輝かせ、思い思いに駆け出していく。だだっ広い海にたった5人と1匹の海賊船だ。海の上が心細くないといえば嘘になる。

 ここは小さな町ながら十分に活気があるのがわかった。賑わうマーケットを横目にサンジもうきうきと目を輝かせる。

 葉ものの野菜と根菜類、フルーツも補充が必要だろう。新鮮な野菜の立ち並ぶ市場にサンジは思わず頬をほころばせる。調味料はまだ大丈夫。ただし珍しいものがあれば手に取ってみる。肉は山ほど買っておかねば船長のブラックホールは並じゃない。

「……お?」

 両手いっぱいに野菜をかかえて二度目の帰路につこうとしたときだった。賑やかなマーケットのはずれ、酒瓶の転がる掘っ立て小屋の脇に見慣れた緑色がちらついたのを目の端に捉えた。

「あいつまさか迷子じゃねぇだろうな」

 思わず口をついた台詞にサンジはふるふると首をふる。この島で迷子になってもすぐに見つけられるだろうからと、野放しにされたときの映像が思い浮かんだ。つまりは、そういうことだ。

「おいマリモ」

 急ぎ足で背中に追いつきぶっきらぼうに声をかける。

「荷物、持ちやがれ」

「あぁ?」

 いきなり現れたサンジの言葉に気でも悪くしたのだろう。片手を腹巻に突っ込みながら不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。ゾロはなぜだかそわそわと落ち着きがなく、なにかを探しているようにも見えた。一瞬、不審に思いながらもどうせ酒屋かなにかだろうと結論づける。

「おら、これ」

「なっ」

 重たい茶袋をどさりと手渡すとゾロはそれを慌てて受け止める。

「ちゃんとついて来いよ」

「俺は用事が、」

 有無を言わせず船へと歩き出す。ゾロはふたことみこと文句を零して、結局はサンジの後に従った。

 路地の影では三つ子の妖精がなにやら囁き合っているのが聴こえた。

 

 ゾロへの気持ちに気づいたのは、他でもない妖精たちのしわざだった。

 あれは金色の朝焼けが美しい凪いだ朝のことだ。

 瑞々しいレタスをちぎりながら卵のスープをかきまぜ、幾重にも積み重なったパンケーキの上からとろりとろりとはちみつを垂らす。しおれかけたデイジーの花瓶のふちで歌うのは、キッチンでよく見かけるあの子。テーブルの上を駆けまわるふたりは次々と置かれる皿でかくれんぼをしている。

『きっとそうよ』

『ほんとうに?』

 さっきから窓辺に座ってこそこそと内緒話をしている彼女たちにサンジはチラリと視線を寄せた。目が合うとさっとそらすのに、料理をはじめるとまたこそこそと噂話をはじめる。

『だってわたし、わかるもの』

『ふたりはあんなに仲が悪いのに?』

 同じような質問と回答が飽きることなく繰り返される。キラキラと輝く朝の空気に穏やかな波音が溶けている。

『だって、恋をすると美しくなるのよ』

『それなら間違いないわ、見て』

 くすくすと笑いあっていつの間にかふわりと消える。あとに残る幸福の空気。サンジは一瞬手を止めて「……そうか」とひとこと声を零す。

 妖精はいつだって、正しいことを話している。

 

「みんな聞いて。島のひとたちから聞いた噂なんだけど……」

 全員で夕食を囲みながらナミが凛と声を張った。今日のメニューは特大オムライスと海獣肉のミートボールスープだ。付け合わせの骨付き肉は大喰らいの船長のためだった。どっさりとおかわりまで積んだ光景にキラキラと目を輝かせている。

「あしたは、満月なの。しかもちょうど夜中の12時に、満月が起こる」

「満月?」

 仲間になったばかりのトナカイはまだびくびくと影に隠れていることが多かった。サンジがちらりとそちらを見るとトナカイは「わっ」と目をそらす。帽子の上で妖精が笑っている。

「そう、満月。しかもいつもより月が大きく見える、所謂“スーパームーン”よ。だから、だとは思うんだけど……」

 そこで一度言いよどみ、ナミがふっと目をふせた。一同はきょとんとナミを見つめる。キッチンの妖精も同じように、だ。

「その、古代からこういう自然現象って、神とか鬼とかそういう、目に見えない存在の力を借りて、語り継がれることが多くて、」

「な、なにが言いてぇんだ、ナミ」

 こ、こわくなんかねぇぞ、と強がるウソップの脇からルフィがひょいと手を伸ばす。それだけで「わっ!」とのけぞったウソップにナミが小さくため息を吐いた。

「……この島のまんなかに、小さなほこらがあるの。それは、とある神さまを祀るために建てられたものなんだけど。今日のお昼頃、何者かに壊されてしまったらしいの」

 ひどいのよ、パックリとまっぷたつなんだから。

 心底、気の毒な表情でナミが「はぁ」とため息をつく。ウソップとチョッパーはこの先の展開を想像して青ざめ、その隣でルフィが肉にがっついている。妖精がいっせいにある男を見つめる。サンジもまた、同じように。

「それで祟りが起きるんじゃないか、って噂が立っているみたいなの。ほこらは100年ほど前に建てられたものらしくて、当時なにが起こったのか正確に知る人はほとんどいない。祀られているのはツクヨミの神。……月の、神さまよ」

 しん、としたキッチンに波音がざぶんと穏やかに寄せる。最後の肉を喰い終わってルフィがふぅ、と息をついた。満腹らしい。

「それって…………どういう、ことだ?」

「……さあ?」

 ナミが肩をすくめ、その話はそこで終わった。ログは三日。つまり、あさっての出港まで、なんとかしておかなければならないらしい。

 

「てめぇか」

「……あぁ?」

 夜食に運んだお盆を床に置きながらサンジがぶっきらぼうに声をかけた。ゾロは筋トレの手を休めてふう、と一息いきをつく。したたる汗があごから落ちる。

「ナミさんが言ってただろ。ほこら」

「……あぁ」

 ぽりぽりと頭を掻いて首からかけたタオルで汗をふく。「ん」と手渡した特製ドリンクを当然のように受け取って飲み干した。ごくり、と喉が鳴る。甲板の影に小さな影が揺れる。ひとつ、ふたつ、みっつ。

「お前昼間、なにしてたんだよ」

「だから俺は用事がある、つったんだ」

 ゾロを回収したときの光景を思い出す。あのとき、確かにゾロはなにかを探していた風だった。――何をしちまったんだ、いったい。

「頼まれたんだよ」

 はあ……とため息をつきながら、握り飯を口に含む。そしてもぐもぐと咀嚼をすると豪快にごくりと飲み込んだ。いつ見ても惚れ惚れするような喰いっぷりだった。ルフィのそれとはまた違う。挑戦している気分になるのだ、こいつに飯を作るときはいつも。

 キッチンから漏れる光のなかに揺れていた妖精たちが息をひそめ階段の影にそっと身を隠す。大丈夫だよ、誰にも見えてない。

「頼まれたって……誰に」

 ゾロは一瞬言い淀み、その淀みをサンジが正確に読み取ったことをゾロもすぐに理解したようだった。大して言いたいことでもない風に目を逸らし、握り飯をほおばりながらとつとつと言葉を紡ぐ。

「……女」

「…………なにしたんだ、てめぇ」

 なるべく多くの意味を含めて訝しげに問いかけると不服そうな視線が返った。俺はなにもしてねぇよ、と顔を逸らす。三つ目の握り飯を手に取って口の中へと放り込む。それは、サケ。ちなみにさっきのはタラコ。

「ただ、頼まれたんだ。ほこらを斬って欲しいって」

「それでなんで斬っちまうんだよ……」

 単細胞にため息をつけばむ、と眉間にしわを寄せた。妖精たちが口々に文句を述べる。俺も、そう思う。どう考えても、今の俺は間違ってない。

「酒場で飲んでたら声をかけられた。願いを聞てやれば一杯おごってやるって」

「たったの酒一杯でてめぇは自慢の腕を振るうのか」

「必死だったんだ、そいつ」

 苦虫を噛み潰したような顔で言う。そうだ、そういう男だった、こいつは。サンジは思う。猛獣のような舌なめずりをして敵に剣を向けるくせして、最後のところで詰めが甘い。

情に流されやすいのと優しいのを同じ意味にはしたくない。

「明日の満月までに、どうしてもと頼まれた。あんまりにもしつこいから仕方なく斬ってやった。だいたい俺ァ神を信じてねぇ」

 ごくり、とドリンクを口に含んで立ち上がる。ごちそうさん、と返されたボトルをサンジは片手で受け取った。ボトルの中のドリンクはぬるくなっている。ゾロの高い体温を思ってサンジは目をふせる。

「じゃあ……あのときお前は、誰を探してたんだ」

「それは……」

 今度こそ言いづらそうに口ごもり、誤魔化すように空を見上げる。美しく輝く月。あと少しで、満月だ。

「てめぇには関係ねぇよ。俺の問題だ」

「……あっ、そ」

 それっきり口を閉ざす。ざわめきのような囁き声がサンジの肩から、足元から響く。いつも一緒にいたはずのそれが、なぜだか何を言っているのかよくわからなかった。

 

 サンジはうつらうつらと夢を見る。

 暖かい温度にくるまれてすやすやと眠る不思議な夢だ。

 心地よい呼吸のリズムに少し早い心音が重なる。

 トク、トク、トク、トク、……

 もう少しだけ眠っていたい……そう思って寝返りをうつと、遠くで笑い声が聴こえる。

『――――』

 なにを言ったのかはわからなかったけど、それはとても心地のよい言葉だった。

 あぁ、早く会いたい。

 ――――いったい、誰に?

 

 翌朝早く町に出かけたゾロを追ってサンジはそっと船を下りた。

 朝ごはんは作って来たからしばらく戻らなくてもなんとかなるだろう。

「あいつ、どこ行くんだろうな」

 建物の影に話しかけるとざわりと気配が揺れたのがわかった。だけど言葉は返って来ない。サンジは小さく首をかしげ、次の角を曲がったゾロを慌てて速足で追いかける。

 ゾロは同じ道をぐるぐるとまわってようやく目的の場所を見つけたようだった。廃屋のような崩れかかった建物の、破れた暖簾をくぐってなかへと入っていく。

 サンジは適当な窓を見つけてその軒下で耳をそばだてた。雲が流れていく。

『……それで、俺はどうしろっていうんだ』

『……、……』

 ゾロが誰かに問いかけている声が聴こえ、その先はぼそぼそとして聴こえなかった。しわがれ声は老婆のそれのようにも、全然違うなにかのようにも聞こえる。ゾロが何かアドバイスのようなものを乞うている。あの、ゾロが。誰かに教えを乞うなどと。

「珍しい……」

サンジは思わず呟いてさらにじっと耳を傾ける。

『今晩12時、か』

 いくつかのやり取りのあとで、ゾロが息を飲んだのがわかった。いったい何が話されているのだろう。サンジはふと、思い返す。『ほこらは神さまを祀るために建てられた』。

今晩。――満月の、夜だ。

『……わかった。世話になった』

 それだけ告げてごそごそと立ち上がる音が聴こえ、サンジは慌ててその場から離れた。わき見もふらずに路地を戻る。角を曲がる前に一度振り返ると、暖簾をくぐる緑色の髪の毛が見えた。

 妖精は一度も話しかけて来なかった。

 

 

 

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