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虹の飛翔 1

休息を取ろうと表に出れば、ものの五分としないうちに山寺を見失った。

漫然と続く退屈な修行の合間。風は南から吹いている。

だいいち、こんな修行などしている暇があったら剣のひと振りでもしていたいのだ、俺は。

このひと月ほどのくだくだとした日々を思い、ゾロは眉間に深く皺を刻んだ。雪の残る、新芽萌ゆる山の奥。師匠に言われるがまま渋々山寺の扉を叩いたゾロは、「修行」と名のつく意味のない日々に大した意味を見い出せないでいた。

「……どこだ、寺は」

がさがさと草木をかき分けて、道なき道をまっすぐに歩く。そもそもここに着いたのだって偶然みたいなもので、まっすぐ歩けば三日と言われた道を、十日かけてやっと辿り着いたのだ。まったく不案内な寺だと、腹の底から溜め息をつく。

もとよりゾロとしては、こんな山奥に篭って居るべき正当な理由が何一つ見当たらない。

剣術鍛錬の合間に立ち寄った居酒屋で、向こうからくだを巻いて絡んで来た輩を、あまりに面倒なので軽く捻り上げた。そうしたらそれがたまたま、えらく柄の悪い盗人集団の親分だったというだけのこと。

当然売られた喧嘩を買うつもりでいたら、ほとぼりが覚めるまで隠れておけ、さもなくば二度と道場の門を叩かさんと師匠に凄まれ、ゾロは仕方なく山奥の寺で修行僧に成りきっているのだった。

『ちっ、面倒くせぇ』

今さら意味のない修行に戻る気も起きず、ゾロは早々と帰還を諦める。このまま山を下れば、どこかの町には出るはずだった。

それにしても、さっきからえらく草木の生い茂る道が続いている。                          

なんだってこんなところに、寺なんか。

ゾロは木々の隙間から空を見上げて「はっ」と短く嘆息する。淡い橙に染まる空。夕の刻が迫っている。

ったく、道場の野郎も不親切な説明があったもんじゃねェ。まっすぐ行きゃあいいだなんて言ったなァ、いってぇどこのどいつだ。

さんざんに歩き回っていい加減息の上がってきたゾロは、ぽっかりと陽のあたる平地を見つると、その場によいしょと腰を下ろした。雷でも落ちたのか、大きな切り株がその真ん中に陣取っている。ゾロは被っていた笠のあご紐を解き、途中で折れた太い枝にそれを被せる。そうしてそのまま、ごろりと横になった。

 

 

「っ!」

一瞬の隙に木刀を抜いて峰打ちをすれば、濃い橙の太陽を背に暗い影が落ちた。

いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。夕の刻はますます深まり、深い山奥には夜の帳がじわりと舞い降りて来ているようだった。ざあ、と一陣の風が過ぎ去って、ふたりの人影がゆらりと揺れる。ゾロは全身に警戒を纏い、薄目の隙間から外界を覗く。ほんの二尺ほどの間合いに詰めた、痩身の男がひとり。

「……昼寝の、邪魔だ」

「ふん。俺の蹴りを受けるとは、なかなかやるじゃねぇかクソ坊主」

にやり、と嫌味な嘆息を漏らし、すらりと伸びた足を下ろす。頭からかぶった薄い麻のベールが、男の表情を隠していた。ゾロは黙って木刀を下ろすと、土埃を払って立ち上がる。蹴りを受け止めた両腕がじんじんと鈍く疼いている。

大方、山賊か何かだろう。この辺りに限らず、人通りの少ない山道で追い剥ぎ目当ての山賊が出没することは、よくあることだった。山賊といえども人間、事情があってやむにやまれず山に入っているのだろうが、いかんせんこちらとて無下に命その他を盗られるのも具合が悪い。つまり、やられる前に斬ってしまうしかないわけで、 なぜかよく深山に入り込んでしまうゾロには、いつしか「山賊狩り」という物騒な二つ名が付けられているのだった。

それにしても。

――気配が、わからなかっただと? この、俺が。

「悪ぃなクソ坊主、俺ァちっと探し物をしていてよ、訪ねてぇんだが」

「……えれぇ物騒な頼み方だな。悪ぃが、道案内ならできねぇぞ」

なんせこの辺りは、かなり厄介な地形らしいからな。

散々歩き回った感想を加えて応えてやれば、ベールの隙間から上る煙がゆらりと揺れる。

顔は隠れてよく見えないが、どうも小馬鹿にされたような気がして、知らず眉間に皺が寄った。

……なんだよ。人が、親切に教えてやってるってのに。

「こんな一本径しかねぇ山道で、道案内なんか頼むかよアホ緑。俺が聞きてぇのは、“虹色の蝶”のことだ」

「虹色? なんの話だ」

耳慣れない言葉に首を傾げる。いきなり蹴りかかって来たくせ、呑気に無駄話とはどうも間抜けな山賊である。だいたい山賊ときたら、皆揃いも揃って躾が行き届いているのか、人の話も聞かないでいきなり襲いかかってくるのが常のことなのだ。

もちろん、この男も例には漏れなかった。人の寝込みに蹴りをお見舞いしかけるとは、大した悪党である。――しかし。

睨みあげた視線は決して逸らさず、ゾロは全身に意識を巡らせる。先程から、肌にチリチリと焼け付くような熱を感じていた。無粋な殺気とはまた違う、人を舐めまわすような、鋭い気配。

『見聞色、……か』

「おいおいクソ坊主、人のこと勝手に量ってんじゃねぇぞ。てめぇあれだろ、他の坊さん舐め腐って、戒律とか一切守らねぇタチだろう」

失礼な物言いに気分を害しかけ、そういえば別に敬虔な僧侶になるつもりは毛頭なかったと、了然たる事実を思い出した。舌の根まで出かかった悪態を、無理矢理に喉奥へと押し込める。どうもこいつと喋っていると、調子が狂って仕方がない。

「まぁ、いいや。何も知らねぇなら、用はねぇ。さっさとこっから立ち去って、適当な宿でも探すんだな。この辺は飢えた山賊どもの巣窟だ。いくらてめぇが強ぇからって、安らかな昼寝にゃ向いてねぇぜ。てめぇ、なんか、阿呆そうだし」

「あぁ?!」

ゾロは今度こそ思い切り眉間に皺を寄せて、迷わず木刀に右手をかける。

「待て待て待て、そうやって血の気の多いのが阿呆っぽいつってんだよクソ緑」

「……てめぇに言われたかねぇ」

「そこの脇道を右に曲がったら、すぐ平らな道に出る。あとはまっすぐ下るだけだ。それくらい、できんだろ?……ほれ」

切り株に被せていた笠を、ひょいとつまんで頭に乗せられる。ぽす、と乾いた音がして、それは綺麗に緑を隠した。

「餞別だ、クソ坊主」

「お……」

俺のだろ、と言いかけた文句を寸でのところでぐうと堪え、ゾロは小さく喉を鳴らす。どうもいちいち、むかっ腹の立つ奴だ。木刀で受け止めた瞬間に感じた、あの気迫はなんだったのだろう。ベールの向こうから立ち上る煙は、ゆらゆらと形を変えながらゾロの鼻先を霞めていく。

「おい、山賊」

去り際に振り返れば、男がチラリと視線を寄せた。表情は、わからない。

「てめぇ、名は」

木々の隙間から零れ落ちる月明かりが、ふたりの影を長く伸ばした。所在なげに漂う紫の煙は、ざあっと吹き渡る一陣の風にいとも簡単に流されていった。ふわりと舞い上がる、薄いベール。空に溶けゆく甘い金色。

「……サンジ、だ」

――サンジ。

「悪くねぇな」

ゾロは言って、その場から立ち去る。

後には金に輝くお月様が、ただただ山道を照らしているだけであった。

 

 

さて、その五日後。

ようやく下山を果たしたゾロが辿り着いたのは、商い文化の賑わう小さな城下町だった。

決して皆、お世辞にも裕福とは言えないのだろう。町を行き交う人たちがまとった着物は質素で慎み深く、それらはおそらく一生もののようだった。しかしながら、日々こつこつと仕事に励み慎ましやかに積み上げた豊かさは、町をいい塩梅に活気づかせていた。

軒先に吊るす干し柿や、低い塀から覗く手入れの行き届いた庭の木々。色とりどりの品物が並ぶ市の様子に、ゾロは感心の喉音を漏らす。

「腹、減った」

ゾロは腹をさすりながら、くん、と空気を嗅ぎ分ける。つい先刻から、鼻先を香ばしい香りが霞めていた。

寺を出てからしばらく、ゾロはこれといって食物を口にしていなかった。なにせ、こういうことになろうとはついぞ予測していなかったのだ。いきなり忽然と消えた山寺、不思議に入り組んだ深い山径。いい加減、腹に何か入れないと、その辺で行き倒れることになってしまいそうだった。ゾロは山寺で最後に取った食事を思い出す。乾燥した芋に、薄い豆のスープ。うまくもない精進料理を流し込みながら、無為な時間を過ごしたものだと思う。

「飯屋は、どこだ」

賑わう市を抜け、人通りの少ない町外れに出る。どうやら香りは、この辺りから漂ってきているようである。

『あれか』

いくつか並んだ軒先のなかに、白い湯気の立ちのぼる佇まいを見つけた。大げさな看板こそ見当たらないが、こぢんまりとした外観はいっそ凛とした矜持が感じられたし、内からとんとんと響く小気味のいいリズムはえらくゾロの食欲をそそっている。

揺れる暖簾には、青地に白で「風車」の文字。

ゾロはごくりと喉を鳴らし、片手でひょいと暖簾を押し上げる。

「悪ぃが、飯を……」

言いかけて、ぎくりと固まる。

店の奥から顔を出した、痩身の男。

目つきは悪く、どう見ても客を歓迎しているようには見えない。全身を青色の着物に包んで、揺れる袖をたすきに掛けている。きゅ、と後ろに髪を結った姿はいかにも仕事人といった風情だったが、咥えた煙管からはふわふわと紫の煙が上がっていた。

空気に透ける、金色の髪。ざあっと吹いた、一陣の風。

「……てめ、」

「はいは~い! 毎度いらっしゃいお客さ……え、なに?」

同時に固まったふたりの男を交互に見遣って、女がぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「えーと……サンジくんの、知り合い?」

――サンジ。

「あぁ、まぁ、……顔馴染みって、やつ?」

男はふう、と煙を吐くと、まっすぐにゾロを見返した。

あのときは気づかなかった、美しく澄んだ蒼色の瞳。

この男には試すような微笑が似合うと、ゾロは思う。

 

「で、何喰いてぇんだ、クソ坊主サン」

 

 

 

 

(続)

 

 

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