top of page

マリモのみる夢

3) Caféマリモ

 

 

 店内には穏やかなBGMが流れていた。

 白を基調にした清潔な内装。くるくると舞う天井のファン。辺りいっぱいに漂うのは豆から煎った珈琲の香りだった。

 

 時々、雑誌の取材を受けた。

 海沿いにある小さなCafé。平日には比較的ゆったりとした時間の流れるこのCaféは、だから土日ともなれば案外と混み合った。

 取材班から、コンセプトは? と聞かれるたびサンジはいつもこう答えた。

 ――『久しぶりに会う恋人を迎えるような気持ちで』。

 それはサンジが繰り返し従業員に伝えてきたたったひとつの「ルール」だった。

 

 「…………はァ?!」

 窓際の席の金髪男がいきなりすっとんきょうな大声をあげる。黙っていればそれなりに映えるふたり組だ。周りの視線はさっきから興味本位にチラチラとふたりに向けられている。

 目の前に座る黒スーツの男は、いつもより随分緊張して見えた。

 『勝負の日、か……』

 サンジは思って微かに微笑む。

 ふたりがここで出会い、少しずつ互いを意識し始め、小さな恋心を暖めていくのをサンジはずっと見守っていた。

 あの、金髪の男。あいつはかなりにぶそうだから気付いていなかったのかもしれない。否、気づかないように蓋をしてきたのであろう。小さく愛らしい恋心のかけらはふたりの周りをキラキラと彩っているように見える。

 サンジはふっと口元を緩め暖かいココアを用意し始める。きっと恋がうまくいってもそうでなくても、ここに来るのは今日が最後だろう。

 想い合うふたりの道が暖かなものでありますように。

 そう願いながらゆっくりと泡の立つミルクを注ぎ入れる。

 

――カランカラン。

 

 店先のベルが鳴いてサンジは静かに礼を落とす。

 「いらっしゃいませ」

 その瞬間は、久しぶりに会う恋人を迎えるような気持ちで。

 それはいつもと変わらない歓迎スタイルだった。丁寧に折れた腰を元の位置へとまっすぐに伸ばす。ここからテーブル席にご案内するのだ。さて何名様だろうかと、視線を遣った先で飛び込んで来た逆光を背に立つ一人の男。

 ――ガシャン!

 手にしたココアが床に落ちて茶色の液体がぼたぼたと染みを作った。

 「オーナー、大丈夫ですか?!」

 厨房から若いスタッフが走り出てくる。サンジは慌てて笑顔を作り「……悪いんだが、掃除頼めるか」と申し訳なげに合図を送った。

 「……来い」

 背を向けたまま声をかける。店の奥へと続く道を、サンジはいつもの倍以上の時間をかけて歩いて行く。

 

 降り注ぐ眩しい光は大きな庭木に遮られる。様々な花の植わった中庭。ベンチに落ちた木漏れ日の輪。それは美しい水玉を描いて明るい午後を彩っている。

 「よく、辿り着いたな」

 サンジはそこにつっ立ったままふわりふわりと紫煙を揺らした。

 微かに上ずる自分の声が緊張感を余計に煽る。

 「もう、死んでるかと思ったぜ、てめェのことだから」

 続け様に台詞を吐き出す。悪態に乗せる嫌味な笑顔をしかし「彼」に届けることはない。

 高い空には大きな鳥が優雅に飛んでいるようだった。ここからは見ることができないが寄せては返す蒼い海のさざ波が途切れ途切れに聴こえてくる。

 ざざん……ざざん……と果てなく続く波の音。

 それはこうして外にいるとえらくクリアに胸に迫った。

 「どうやって、ここに着いた」

 「取り引きをした」

 会って初めて口を開く。

 それは想い出の中の声よりも幾分か乾いて低くなっている。

 「情報屋の男でよ。昔から世話になってんだ。そいつがヘマしてしっぽ掴まれてたんで大切な人質を逃がしてやった。この店の地図と引き換えだ。しかしアイツは、もうダメだな。随分と甘ェ顔してやがった」

 女でもいるな、ありゃ。

 くつくつと面白そうに男は笑う。サンジは煙を燻らせたまま振り返ることもできず木漏れ日の中に佇む。

 

 「……いきなり現れて、迷惑な野郎だ。てめェこれからどうするつもり、」

 「迎えに来た」

 なんでもない風に吐き出された台詞にサンジの体温がカッと上がった。

 サンジはぐるりと振り返り目の前の男に人差し指を突き刺した。

 「てめェは! 勝手に出て行っていきなり帰って来て、その言い草はねェだろう! てめェは俺の中じゃ死んだことになってんだ。それを今更迎えに来ただァ?! てめェのアホは死んでも治らなかったんだな!」

 堰を切ったように零れ落ちる台詞がじゃぶじゃぶとサンジの心臓を浸してゆく。

 「だいたい虫がよすぎんだよ! 出てったのはてめェの勝手だろうが! それをこんな、……こんな風に、っ」

 いきなり強く抱きしめられてサンジは言葉を喉に詰める。

 言いたいことは山ほどあったはずだった。帰ってきたら伝えたいこと、知りたいこと、見せたい風景、食べさせたい料理……。

 それはひとつも言葉にならず全ては涙に溶けていく。ボロボロと落ちる熱い雫は男の肩を色濃く染めた。

 「……悪かった」

 男は小さく口を開く。ゆるゆると頭を撫でる分厚い掌から愛しい温度が伝わってくる。

 「追われるようにこの町を出て、そっから後は転々とした。いろんなことに首突っ込んで命が何個あっても足りなかった。……だけど」

 そこで小さく息を吸い込み男の腹がふわりと膨らんだ。

 ――あぁ、生きてる。

 サンジはそれを泣きたいような心持ちで思った。

「だけどな、たったひとつだけ、ずっと後悔してることがあった――」

 ざあ、と一陣の風が吹く。海から届く潮の匂い。キラキラと揺れる木漏れ日のダンス。

 

「俺はまだ、てめェに、愛してると伝えていねェ」

 

 流れ落ちる柔らかい涙が頬に幾つもの筋を描いた。

 さわさわと揺れる色とりどりの花々たち。まるでふたりがこの世に存在していることを心から祝福しているように。

 

 

 

 「見えねェのか、それ」

 白い砂浜はしゃくしゃくと乾いた音を立てていた。

 寄せては返す蒼い波。足元をべろりと舐めては遠慮がちに遠のいていく。

 「……大したことねェよ」

 男の隻眼は丸く見開かれそれから優しく細められていく。

 無茶をしたもんだと思う。この店の場所を突き止めるためだけに目ん玉を一個かけちまったらしい。

 昔からそういうヤツだった。

 生きる力がアンバランスで、目を離すと飛んで行ってしまいそうな男だった。

 サンジが前に勤めていたフランス料理屋の厨房裏。そこがふたりの出会いの場所で、初めてのキスの場所だった。

 あの日。

 目の覚めたサンジの隣に男はもういなかった。

 「……もう、帰って来ねェと思ってた」

 寄せては返す波の音に淡い声音は溶けて流れる。今ならどんなことを口走っても海が全てを許してくれると思った。

 「てめェとセックスせずに、死ねるか」

 男がニヤリと口角を歪める。相変わらずむかつくその面にしかしサンジは「ハハ」と微笑を零した。

 今夜はどこで眠ろうか。この男の温度に抱かれて――

 そっと差し出す白い手を厚い掌が握り返す。遠く海沿いの道を赤いスポーツカーが翔けていく。大きく開いたその窓からは大音量のBGMが流れてくる。

 恋の始まりを歌った古いジャズ。

 「…………ゾロ、」

 消え入りそうに小さな声でサンジがぽつりと言葉を落とす。

 一体、何年待ったのだろう。

 

 「―――おかえり」

 

 ぎゅうと握り返す柔らかな手。

 ずっとずっと、待っていた。ずっとずっと、会いたかった。

 

 柔らかな光に包まれている、白く小さな素敵Café。

 それは遠く生き別れた恋人へのメッセージ。

 

 「ただいま」

 

 いつの日かこの迷子に届くように。

 まっすぐにここへと戻れるように。

 

 祈りのような切ない願いを、その名前に背負いながら――――

 

 

 

(完)

 

 

 

・・・前のページへ

bottom of page