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マリモのみる夢

1) 株式会社マリモ建設

 

 

 深入り珈琲の柔らかな香りが満ちた店内。

 白壁に包まれた空間には緩いジャズのBGMが流れている。

 「いよいよそれで完成か。いやぁ~長かった。これでようやく、ひと段落なんだな」

 いつもどおりの平日だからだろう。人もまばらな店内ではそこここのテーブルで賑やかなおしゃべりが続いていた。

 海岸通りに面した大きな窓。その特等席にふたりは座っている。

 「前金も入れた。挨拶もまわった。工事の段取りもばっちりだ。あとは着工を待つのみ、か……」

 金の前髪をさらりと掻き分け満足そうに男は呟く。

 テーブルの上にはいくつもの紙束が雑然と広げられていた。赤や青のボールペンで何度もの修正を加えられている資料には、ゴシックの太字ででかでかと題名が打ってある。

 ――『建築予定ご新宅』。

 「おかげでいい家になりそうだ。まァ、たまにゃあ口うるさく言わせてもらったけど、一生モンの買い物だからな。最高のモンを建てたかったんだ」

 男は嬉しげに眉を下げて胸ポケットから煙草を取り出す。対面しているスーツの男は目配せで店員に灰皿を頼んだ。

 「……気ィ利くじゃねェか」

 「いつものこったろ」

 事も無げに宣う男に眉根を寄せてため息を吐く。いつものことながらムカつくなぁと、金髪の男は笑って言った。

 「一年、か……てめェにもずいぶん世話ァかけたな」

 「これが俺の仕事だ、別に構わねェ」

 「ハハ、迷惑じゃねェとは言わねぇんだな」

 「てめぇのワガママにゃ散々振り回された」

 なんだとぉ?!

 思わず大声で反論を返せば隣の席の女性たちがひそひそと声をひそめた。金髪はそれをチラリと見遣り、だらしない笑顔でへらりと笑う。

 「いやぁそれにしても、こんだけ毎日のように顔合わせてたてめェと会えなくなるなんてなぁ。信じられねェぜ」

 ぷかぷかと紫の煙を吐いて男は笑う。とんとん、と小気味のいいリズムを叩いて灰を落とす。窓の外からはキラキラと太陽の光が降り注いでいる。

 

 「……ひとつ、提案があるんだが」

 おもむろに口を開いたスーツの男に、金髪は蒼い目をぱちくりと瞬かせた。

 何せ今日は「最後の」打ち合わせのはずだった。

  全てが終わって「ハイさよなら」で、この男とも二度と会わないつもりである。

  金髪は怪訝な表情を作った。

 お別れのご挨拶ならいざ知らず、これ以上何か提案されるようなことなどあっただろうか――

 

 「部屋をひとつ、増やしたい」

 

 …………はァ?!

 金髪は思わずすっとんきょうな声を上げた。店内を満たす亜麻色のおしゃべりが一瞬僅かにトーンを落とす。

 金髪は煙草を咥え直してスーツの男をじろりと見遣った。

 無理を言って入れ込んだ中庭、吹き抜けの美しい板張りの廊下。納得行くまで話し合い、時には夜中まで語り合ったはずだ。決して大きくはない家だけれど、これ以上ないほどの夢を詰めた。

 「てめェ、勝手なこと言ってんじゃねェ! あんだけ話し合ったじゃねェか! それを今さら部屋を増やせだぁ?! アホか! これ以上どこにそんなスペースがあるっつうんだよ!」

 金髪は声を落としながらも勢い込んで捲くし立てた。隣の女性たちが再びチラりと視線を送る。けれどそれには今度は気づかぬまま男を真正面から睨みつけた。

 男には何度も伝えたはずだ。

  ――これは「一人の家」なのだから。

 「いいかマリモマン、忘れてるようだから教えてやるよ。俺ぁこの家を建てると決めた時に生涯独身を貫くと決意したんだ。だから部屋は最低限でいい。余る部屋など必要ねぇ。こんな美しいレディたちを前に、誰か一人をなんて選べるわけねェだろうが!」

 金髪はぜぇはぁと肩を上げた。

 詭弁だった。

 長い長い看病の果てに安らかに眠った祖父の顔を思い出す。

 残された遺産は全て金髪男の手に渡っていた。

 この金を使って遊べるような人間だったらどんなによかっただろう。気を紛らわせる方法など幾つでもあったはずなのに男はそこから一歩も動けなかった。

 ――こんなにも深く愛情をくれた人も、いつかは俺を置いていなくなってしまう。

 それは「愛」を知らぬ孤独な男が唯一知った胸の痛みだ。

 「てめぇにゃ、……わからねぇだろうがよ」

 金髪はまるで独り言のようにぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

 失うことがこんなにも辛いなら、もう二度と誰も愛さないと決意をしたのはいつのことだっただろう。

 男はそうやって、一人静かに苦しみに蓋をした。

 そうしてあのドアを叩いたのだった。

 ――株式会社マリモ建設。

 「はっ、お客様に対して失礼にも程があるぜクソマリモ。だいたい一緒に住むような相手なんか、」

 「俺だろ」

 事も無げに言い放ったスーツの男に、金髪は一瞬言葉を失う。

 爽やかな風が緑の街路樹を揺らしている。赤いスポーツカーが風を切って通り過ぎる。

 キラキラと照りつける鮮やかな太陽は大きなガラス窓から店内を照らしていた。

 ――今こいつ、なんて?

  「……聴こえなかったか? 俺だ、っつってんだ。その部屋に入るのは」

 さらさらと軽やかに重なる言葉に、金髪の目が見開かれていく。

 あれ、おかしい。なんでこんな、胸が苦しい――

 何かを言おうと口を開けたのと同時に、ガシャンと大きな音が響いた。どうやら店員がコップを割ったらしい。

 スーツの男は一瞬そちらへと目を遣ったが、すぐに金髪へと視線を戻した。

  「いい加減、素直になれよアホ眉毛」

 みるみるうちに紅の挿す頬に、一筋の光がほろりと零れる。スーツの男は腰を上げてふわりと金色の糸を撫ぜた。暖かい掌。働く男の強い手だ。

 愛に傷ついた男の胸に、小さな小さな光が灯る。

 「……意味、わかん、」

 「わからねぇハズはねぇ。てめぇだって、気付いてんだろ。部屋割りを決めるときも、家具を揃えるときもそうだ。“誰か”がいるかもしれねぇ可能性を、ことごとく否定し言葉を飲んだのは、なぜだ」

 スーツの男が淡々と言葉を紡ぐ。

 「家を建てるのは幸せな計画なんだ。これから誰かと一緒に、ここで一生やっていく。そういう覚悟や幸福が、普通だったら満ち溢れてるモンだ。なのにてめぇと来たら……」

 男は大きくため息を吐いて、手元の珈琲を一気に飲み干した。

 冷たくなって酸味の増した珈琲はそれでもとても美味しく感じた。

 「“一人で住む家を作りてぇ”……そうやって勢い込んでやって来たくせにいちいち苦しそうな顔をしやがる。普通、逆だろ。本当に一人がよかったら、出来上がるほどにワクワクしてくる。部屋をひとつ、削るたび、家具をひとつ、減らすたび、てめぇはなんでそんなにも……泣きそうな顔をしてやがる」

 金髪はそこで大きく目を見開いた。前髪に隠れた片目。美しい蒼の瞳には遠くの海が写りこんでいる。

 「なんで、そんなこと……」

 やっとのことで口を開いた金髪を、まっすぐな瞳が優しく射抜く。混ざり合うふたりの色は海に輝くエメラルドのようだ。

 「――てめぇに、惚れてんだよ」

 金髪はもはや言葉も探せないまま静かな静かな涙を零す。

 遠く広がる蒼い海。さざ波の奏でる淡いメロディ。

 「……まぁ俺も最初は単なる仕事上の責任感かと思ったんだけどな。いざ俺の手を離れるとなったら、てめェをこの家に独りで残しとくのが嫌だと思った。ったくよ、俺としたことが、私情を挟んじまうとは」

 まったく建築士失格だな、俺ァ。

 言って、マリモは無邪気に笑う。金髪の男は面食らったように目を見開いて、つられたように頬を緩めた。穏やかな風が吹いている。

 「……まァた計画練り直しじゃねェか、クソマリモ」

 「おぉ、望むところだ」

 緑頭の横顔には、愛しさの片鱗が滲んでいる。

 金髪はぐすぐすと鼻を鳴らし、涙でぐちゃぐちゃな笑顔を零した。

 

 海は一層優しく輝き小さな門出を祝福している。

 背景に流れる古いジャズは恋の始まりを歌っていた。

 ふたりは揃って席を立ち同じ方角へと歩みを進める。

 眩しい光はキラキラと歌うように波間に溶ける

 

 

 

(続)

 

 

 

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