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Last Story

――カラン、カラン。

錆びたドアベルが軽快に鳴いた。

年季が入って軋んだ扉が「ぎっ」と音を立てて静かに開く。

「……うちに帰ってろって、言ったろ?」

扉の隙間から射し込む光が昼過ぎの気怠さを含んで溶ける。口端に微かな笑みを浮かべてサンジはシャカシャカとシェイカーを振った。

店内には客がまばらに散って、慣れたようすでアルコールを流し込んでいた。平日の昼下がり。こんな時間に酒を煽るのは見慣れた顔の常連客ばかりだ。仕事から抜け出してきたのであろう海兵とヒマを持て余す金物屋の主人。白ひげの老人は柔和に笑いながら片手の指のない男に牢での生活を語っている。

みなそれぞれ輝かんばかりの時代を生き、時代とともに年を取った。偶然この場所で結ばれる縁にサンジは粛々と料理を運ぶ。

ガタ、と椅子を引きながら男はカウンターの隅に腰を下ろした。客は誰も気にかけていないようだ。唯一カウンターの真ん中で飲んでいた紳士がちらりと視線を寄せただけだ。

男は背景の棚に目を沿わせると、開いた片目を「すっ」と細める。

「マッカランを、ショットで」

「ハッ、おいおいまだ昼間だぜ? 宴は夜だろうが」

サンジは揶揄しながらもしわの寄った目尻を僅かに下げる。そうして天井を静かに見上げ「そうだな……」と悩む素振りを見せた。仕方がねぇな、誰にともなく呟いた言葉が緩やかなジャズにさらりと淀む。カウンターの下の冷たい扉。慣れた仕草でパタンと開けてガラガラと煩い音を立てる。

「ロックにしとけ」

主役のくせに、飯、喰えなくなんだろ?

コロン、コロン、と音を立てて透明なグラスを不揃いな氷が満たしていった。棚から下ろした角瓶から飴色の液体をとくとくと注ぐ。天井のファンは惰性のようにまわり続け窓の外に太陽が落ちていた。男の無骨な指先がグラスの淵をそっと撫でれば、透明な氷は「カラン」と身じろいだ。

 

 

 

ゾロと最初に寝たのは、まだサンジが一味の仲間になって間もない頃だったと思う。

いつものたわいない喧嘩の果てだった。きっかけなど覚えてもいない、どうでもいい口論の行く先。負けず嫌いの性分がこのときばかりは裏目に出た。

「っおい……続きは展望台だクソマリモ……!」

「ふん、泡吹いて倒れんのはてめェだろクソコック……!」

苛立っていたのは事実だった。この船に乗り込んでから何かとゾロに突っかかっていたのはサンジの方だったし、けれどゾロの方だってサンジのことを目の敵のように扱っていたと思う。

例えるなら、磁石の同極同士のような。

近づこうにも離れてしまう、物理の作用のようだった。無理矢理近づこうともがけばもがくほど、反発の力は大きくなった。

まだ若く、ありあまったエネルギーは体の奥底でふつふつと泡を立てていた。不安と怒りの感情をすら、整理もできない未熟者。あのとき僅かでも謙虚になれていれば結果は色を変えたのかもしれない。

「……後悔するんじゃねェぞ」

どっちが。そう、口を突いて出るはずだった悪態が暗い口内に鈍く押し込められる。

優しさの欠片もない性急な指先が快楽だけを求めてサンジの体をなぞった。

「ハッ……早く、つっこめよバーカ」

「ってめ、に、指図される覚えは、ねェ……!」

上擦る熱を含んだ吐息が冬島の空に白く留まる。息も凍りそうな夜だった。星の瞬きが聴こえるほどに澄んだ夜空を埋め尽くす星。今にもこぼれ落ちそうに丸い月が蜜色の光をとろりと溶かしていた。

「く、……っは、ぁ……うぅ、ぅ……ッ!」

絶望的な感覚が全身をじわじわと蝕んでいく。

サンジは痛みに紛れた快楽を拾い集めてどうにか自力で絶頂に上った。意図的に辿り着いたそのてっぺんは吐精の気怠さを含んで乾いていた。

荒く息を乱した体が冬の空気をまとって震える。熱い。こんなにも、熱いのに。

――どうして自分の心臓は、凍ったように冷えているのか。

「……後悔、すんじゃねェよクソコック」

「誰がマリモなんかに」

事故だ、事故。

うわ言のように繰り返す台詞が夜の海にざぶんと消える。

苛立つ感情はいつもどおりだったはずなのに不思議と怒りは湧いてこなかった。

 

 

 

一度体を繋いだからといって何かが劇的に変わったわけではなかった。

他に特定の相手がいたわけでもなく、無理矢理突っ込まれたわけでもない。だからそれはほとんど事故と同じで、あってもなくても同じことだった。

それまでと1ミリも変わることのない淡々としたゾロの態度。たった一夜の間違いというには心許ないほどの拙い行為。

それ以降ふたりが繋がり合うことはなく、サンジは次第に忘れていった。

あの静かな夜の、星降る展望台で、ふたりきりで過ごした、冷たく熱い夜の狭間。

「――逃げんのか」

だからかけられたその言葉の意味を理解するまでに、サンジは実に10秒の時間を要した。

晩ご飯を適当に済ませ抜け出して来た砂漠のはずれ。今夜はここらで夜を明かそうと野宿を決めたその少し後だった。

「…………意味、わかって言ってんのか」

「先にふっかけたのはてめェだろうが」

低くドスのきいた声が乾いた風の音に溶けて消える。砂漠の夜は、寒い。

ピリリと肌を刺す気配は獣の殺気そのものだった。

 

クソつまんねぇな。

煙を吐き出しながら背後の男に声をかけたのはほんの少し前のことだった。

崩れかかった古い建造物が点々と点在している地区。街まではもうひと歩きほど砂漠を越えて行かねばならない。日中の遠足でふらふらになった一味は早めの夜を迎えていた。サンジは岩の上に座り込んでぼんやりと煙を流す。

追ってきたのか迷子なのか、男はいつの間にかそこに立っていた。どうしてだか今朝方からやけに機嫌が悪い。まるで野生動物みたいな気配でサンジのことを窺っていた。

凪いだ空には細い月が浮かんでいた。ナイフで切りつけたような鋭利な影。月光は蜂蜜色にとろとろと揺れて甘い夢を砂に溶かした。

「クソ……うまく行かねぇな」

「あぁ? てめぇ、ビビってんじゃねぇだろうな」

ふんっ。さも馬鹿にするように鼻で笑いながらゾロはどかりと隣に座った。人のことを馬鹿にしながら苛立っているのはゾロも同じだった。黙っていてもそれとわかるほど気配がピン、と尖っている。

そうしてふたりは何を話すでもなくただ空の果てをぼんやりと見つめた。サンジはチラ、とゾロを見遣ってため息混じりの吐息を漏らす。

こいつ。――星座のひとつも、知らないくせに。

「ハッ誰が。てめぇこそ怖気づいてんじゃねぇか? 尻尾巻いて逃げるなら今だぜ」

「ふん、巻いてんのはてめぇの眉毛だけで十分だ。だいたい女とくりゃあ見境なく尻尾振ってっから、面倒くせぇことに巻き込まれんだろ」

「へぇ。随分な言い草だな、マリモのくせに。そういうてめぇはどうなんだよ、仲間もなにも見分けつけず、レディに盛ったりしてんじゃねェだろうな」

「てめぇこそ」

「あ?」

「覚えてねぇとか、言うなよ」

サンジは一瞬息を止めてゾロの方を振り返った。そうして大きく煙を吸い込んで、細く細く糸を吐き出す。その言葉が何を指しているのか、わからないほど鈍感ではない。

「……覚えてるよ。お前の方こそ忘れてんのかと思ってた」

そこで会話はぷつりと途切れた。

遠い砂山は延々と続き海の暮らしを忘れさせた。陸に体が馴染まない。俺たちでさえそうであるならば、砂漠の王女が海を渡る心境はいかほどか。

「強ぇレディだ」

ひときわ大きく煙を吐いて短くなった煙草の先を冷たい岩肌に押し付ける。いくら一国の王女とて、これほどまでに民を思い悪を憎むのは天性だ。心底優しき毅然とした愛。その悲痛な温度を思ってサンジは「ふ……」と溜め息を零す。

大きく空に仰け反るとキラキラと揺れる星が降っていた。美しい砂漠の夜。このまま時が止まればいいのになどとそんな言葉が一瞬過ぎる。

サンジは胸ポケットをごそごそと探り、新しい煙草に手をかけた。そこで僅かに逡巡して、出しかけた煙草を箱に戻す。そうして「よいしょ」と起き上がると、ぱんぱんと尻の砂をはたき落とした。風に乗って砂が流れる。

「――逃げんのか」

一瞬、張り詰めた糸がビン、と震えるように薄い鼓膜がピリリと震えた。

たっぷり3秒の間を置いて振り返ったサンジの視線が、鋭く尖った視線とぶつかる。

獣の、瞳。

「…………意味、わかって言ってんのか」

先にふっかけたのはサンジの方だと、言い募る言葉が乾いた空気に共鳴した。

そういうつもりが全くなかったわけではなかった。けれど、試した、わけでもない。

強いて言うなら単純な興味だ。

あの、静かな夜の思い出が、風紋とともに消えてしまう、その前に――

「……仕方ねぇな」

ざり、と砂を踏む己の靴音がえらくはっきり耳についた。

抱き込むように額を寄せて崩れた土壁に掌をつく。真っ暗な夜を背景に細い月がふたりを照らす。

「抱いてくれんだろ?」

「黙れ」

強く後頭部を引き寄せられて思わずふらりと体勢を崩す。痕がつくほどに握られる手首。噛み付くような乾いたキスがサンジの舌先に執拗に絡みついた。零れる吐息に滲む焦燥。いつの間に切れたのか口端からは鉄の匂いがだらりと溶けた。

「は、っぁ、ぅ……ッく」

ごくりと唾液を飲み込んでサンジは静かにまぶたを開く。

目前数センチ。ギラギラと瞳に光を灯し、必死の形相でサンジを貪る獣が、一頭。

『ああ。なんだ、こいつも……』

はぁ、はぁ、と息を吐きながらサンジはごしごし唇を拭う。

こいつも。こんな野獣も。

――怖ェのか。

「おら、足開け」

低く響くゾロの声が吹き付ける風音にかき消される。

半分ズボンを下ろした格好でサンジは岩肌に縫い付けられていた。ごつごつとした冷たい石が背中にあたって酷く、痛い。

「服、ひくとか、そんくれぇ、気ぃきかせやが……ッく、ぅ、ぅああぁっ! イ、ッ」

無理矢理に押し入ろうともがく中心が入口付近でぐちゅりと音を立てた。

余裕の欠片も見当たらなかった。

ゾロは荒い呼吸を繰り返しながら性急になかへと侵入を試みる。

「バっ、まだ入んね、ンなでっけ、ぇあっ、あぁ、ぅんんンッ」

「……煽んじゃ、ねぇ、ッ」

堪らないように喉で呻いてゾロはぐ、と腰を入れる。欲動を駆り立てられた塊はさらにぐぐ、と硬さを増した。

「や、あっ、あァッ……クソっ」

「仲間に、手ぇ、ッ出される気分は、どうだ、クソコック……!」

じゅ、と首筋を思い切り吸われてサンジは細く息を飲んだ。ゾロの零す陵辱めいた台詞がサンジの心臓に悲しく響く。

怒ってねぇといられねぇ。突っぱねてねぇとダメんなっちまう。

――怖くて敵わねぇんだろ、お前。

「なあ、どうなんだ、ッよ、このっ……淫乱コック……!」

ゾロから溢れた先走りがぐぷぐぷと温い音を立てる。

ハぁッ、とひときわ熱い息を吐いたゾロはぐぐ、と奥まで腰を入れた。

深く深く、突き刺さる熱がサンジの心臓をじりりと焼き付ける。

「なッ! は……、はぁ、はぁ……なかで、出しやがったなてめぇ……」

ぜぇはぁと息を乱しながらゾロはのたりと体を離した。そのままごろりと横に寝転び背中をぴたりとサンジに付ける。ざざ、ざざ、と寄せる砂音はまるで波のようだった。

「おい、……俺まだイってねぇよ」

すぅ、すぅ、と吐き出す息が次第に深く、間隔を開けていく。

乾いた風がさわさわと金の糸を夜に流す。砂漠の夜は、寒い。

キラキラと降る満天の星がふたりの影を薄く伸ばす。

サンジは「はぁ」と溜め息をついて萎えた己をそろりと撫ぜた。

 

 

 

少しずつ。少しずつ。

こうしてサンジはゾロを知っていった。

野望のためには命をも投げ出す――その強さを、傲慢さを、湧き上がる自信を、サンジは酷く憎しみ、蔑んでいた。

しかし、あの乾いた夜に、ゾロの零したため息に溶けた焦燥。

耳元で濡れた刹那の囁きがそれまでの「ふたり」をきっぱりと崩してしまった。

――ゾロも、怖ぇんだ。

唐突に辿り着いたその事実はサンジの心臓をびりびりと焼いた。

ゾロの怖さに向き合うことと、己の弱さを知ること。そのふたつはサンジにとってほとんど同じ意味を持った。

つまりは自分こそが恐れていたのだ、ロロノア・ゾロという存在を。

奴を見るだに不安で仕方なく、脅威を感じ、真っ赤な心臓は恐れ慄いた。果てしない強さも曲がらない信念も。ゆらゆらと揺れてばかりのサンジの胸の内は、ゾロの「強さ」に苛立つばかりだった。

焦り、あるいは、嫉妬。

背格好もほとんど変わらない「同い年」の存在にサンジは酷く傷ついていた。ゾロが剣を抜くたびに汚い感情が渦を巻いた。

そのゾロが。憎しみ、恐れ、心から憧れたあの、ゾロが。

自分と同じく何者かを恐れる存在であると気付いた時から、目を瞑ることができなくなった。

ぐるぐると渦巻く黒い感情の、そのいちばん奥底にあったもの。

それは恐怖でなく、ゾロへの嫌悪でもなく、己に対する乾いた落胆とゾロへの不思議な温もりだった。

 

 

 

***

 

チリ……と煙草の灰が落ちベニヤの床に雪が積もった。

町は遅くまで煌々と明かりが灯り、どこからともなくトンテンカンと鈍い金属音が響いている。

透明なガラス窓には幾本もの雨の筋が描かれていた。夕方から降り始めた雨はやむことも知らず、ざあざあと音を立てて降り続いている。屋根から落ちる雨粒はときどきブリキのバケツに「カンっ」と跳ねた。

窓の向こうには港が臨めた。見るともなくぼんやり眺めれていれば遠くの船影が次第に輪郭を表していく。

もっとも、この町は少し高台に上りさえすればどこからだって海を見渡すことができた。小山のような島の形は、時折襲う大津波を避けるためにはちょうどいいのだろう。

「はぁ……」

サンジは誰にともなく溜め息を零し短くなった煙草を咥えた。ゆらゆらと上る煙の先が天井あたりで行き場を失っていた。べこべこと潰れた銀皿の上、度数の重い煙草が重なり合っている。

厚意といくらかの同情で今宵はふたつの部屋が充てがわれていた。そのありがたい申し出にいちばん落ち込んだのはナミで、空気を察したチョッパーが「俺はナミの部屋がいいぞ!」とサンジの前に進み出たのだった。

――女部屋がひとりきりになるのは、寂しいからな!

「ったくルフィのクソ野郎どこ行きやがった」

トン、と人差し指で灰を落とし幾度目かに外を見遣る。岸に陣取る灯台が暗い海を照らしていた。町はまだまだ、眠りにつかない。

「さぁな。散歩でもしてんだろ」

「こんな雨のなか? まさかウソップ探しに行ったとか」

「なわけねぇだろ」

あれでも一応、船長だ。

低く響く馴染みの声が狭い部屋を小さく震わせる。ゾロはキュポン、と音をさせて咥えていた一升瓶を脇へ転がした。

『船を、下りる』

ルフィがさらりと告げた事実に、強く動揺したのはサンジだけではなかったはずだ。

大切な仲間だった。共に海を渡り、空を飛んだ。あの背の上で仲間と出会い、笑い、歌い、喧嘩した。

『辛いのが自分だけだと思うなよ、ウソップ……!』

コチ、コチ、と時を刻む音が今夜はえらく耳についた。船を叩く金属音が降りしきる雨にぬらりと溶ける。豊かな港町は濡れそぼり、いっとうキラキラ輝きを増していく。――それはまるで、星空のように。

「ま、お前にとっちゃあ丁度いいかもなァ。なんせ未来の大剣豪サマだ。お子ちゃまのクソ海賊ごっこなんかに付き合わされて、いい加減うんざりしてたんだろ」

「……それ本気で言ってんのか」

「…………なわけねぇだろ」

フッ、と短く煙を吐いて銀の皿に火を押し付ける。そうして何かをひねり潰すようにぐりぐりと乱暴に灰を散らした。胸ポケットをごそごそと探って見つかった最後の1本は、真ん中あたりでぐにゃりと折れ曲がり、不味そうな腹わたを見せている。

それなのにどうして想いは、目に見えないのだろう。

「――好きだよ」

雨音に重ねるようにサンジがぽつりと言葉を零す。折れ曲がった煙草からゆらゆらと紫の煙がのぼる。ざあざあと降りしきる夜の雨。ふたりを小さな箱に閉じ込めながら。

それ以上、会話らしい会話もしなかった。

いつの間にかうとうとと眠りに落ちていたサンジを眩しい朝陽が包み込んでいた。ゆっくりと開く薄いまぶた。雨粒を反射して光る屋根。いつの間に帰ってきたのか、ベッドの上ではルフィが腹を出して寝息を立てていた。

サンジは朝ごはんの支度をしようと静かに椅子から立ち上がる。

姿の見えない男がひとり。

窓枠に突っ伏し冷えた肩からは、薄い毛布がはらりと落ちた。

 

 

 

船を降りてからしばらく、サンジは金と飯を求め各地の酒場やレストランをまわった。

サンジの腕のよさは世界中に知れ渡るところとなっていた。海賊時代の重たい異名はいつしか「黒足の料理人」へとその姿を変え、どこへ行っても歓迎を受けたサンジはふたつ返事で招き入れられた。

キラキラと輝く厨房に買い揃えられた一流の食材。

それでも、どこも長続きはしなかった。

短いところでは数週間、長く居ても半年ほど。世話になった店の主人には文句のひとつもなかったけれど、サンジはいつでも満たされない思いを胸の奥底に住まわせていた。

ぐつぐつと音をたてる鍋の淵から透明な灰汁が溢れ出す。

料理をしている間だけは、誤魔化すことができたはずだった。かつてあの獅子の背中で、思い出せないほどに繰り返された日常。

「どっかで迷子になってんじゃ、ねぇだろうな……」

緑の野菜を転がしながらサンジは小さく舌打ちを零す。

 

 

 

ゾロが目を覚まさぬまま3日と半日が過ぎていた。

空にはお天道様がぽっかりと浮かび、雲はにこにこと光を降らせる。体いっぱいに光を満喫しながら住人達はのびのびと笑っていた。

底抜けに明るい光景だった。

昼間から酒を煽り、音楽に興じる仲間たち。その楽しげな様子を横目に見ながらサンジは船医に声をかける。

「だめだぞ、お前も病人じゃないか」

船医はちょっと怒りながら、それでも疲れたように小さく俯く。この3日間、痛みと熱にうなされるゾロの治療のため朝も夜もなく走り回っていた。

「……ごめんな、サンジ。1時間だけ、お願いしてもいいか」

チョッパーは酷く疲れたようすで申し訳なさそうにぽつりと呟いた。ほとんど眠っていないのだろう。生気のないつぶらな瞳の周囲には濃い色の隈が見てとれた。

中途半端に開かれた治療室の扉の向こうからさざなみのような笑い声が響いていた。ウソップが何か軽口を叩き、悪ふざけに乗っかったルフィをナミがたしなめる。

見慣れたいつもの光景だった。

ゆらゆらと揺れるジャズのリズム。穏やかな、ブルーノート。

つい3日ほど前に仲間になった骸骨の音楽家が見事な腕前を披露している。

「じゃあ俺、あっちの部屋にいるから。目が覚めたらすぐに呼ぶんだぞ」

「あ、チョッパー」

「なんだ?」

――……ドア、閉めてけ。

チョッパーは小さく頷いて、パタン、と静かに扉を閉める。

心地よく流れていたジャズのメロディーは半音下がって向こう側へと閉じ込められた。

 

 

首を差し出すと名乗り出たのはサンジにとっては「判断」にすぎなかった。

今ここで船長を渡すわけには行かない。元はといえばほとんど無理矢理にルフィの心意気にあてられて繋がった仲間たちである。こいつが今ここでいなくなってしまえば、間違いなく一味はバラバラだった。

今やあの船はたったひとり夢を追いかけるため手段ではなく、みんなの夢を乗せた箱舟のようなものだった。

ひとりの犠牲で多くの夢が繋がるならばと、瞬間サンジは「計算」した。

今や億超えの賞金首だ。それと釣り合う首など今の船にはいるとも思えない。

であれば、せめて、と。

多少大口を叩いてでも己の首を取ってもらう必要があった。

ゾロの顔がチラと脳裏をかすめたのは、だから単なる「計算」の途中だったからにすぎない。

「――……っ!」

目の前に広がったフィクションのような光景に、心臓が音を立てて崩れていく。

油断した。

あいつの顔が浮かんだほんの一瞬、「怖い」と思ったのは事実だった。

痺れるような怒りとともに意識を失うコンマ2秒前。ゾロの吐息が震える音を、サンジは、確かにその耳に聴いた。

 

 

肌と肌が触れ合うたび、堪らないように心臓が疼く。

じんじんと熱を持った指先は触れるとどろりと溶けそうだ。

途切れ途切れに混ざる合う吐息。ベッドが秘密を重ねていく。

「ハッ、ん……ゾロ、」

好きだ、と呟いてサンジはくっと腰をひく。逃がすまいと追いかける掌がサンジの腰をきつく掴む。

「逃げんな」

「うっ、ぁ」

ヤメロ、と言葉にしたいのに喉はひゅうっと啼いただけだった。戯れのようにぱくぱくと唇を動かしてサンジは声もなく頂点で果てた。ず、ず、と押し入るゾロの腰が一段と深くで動きを止める。サンジからほんの少しだけ遅れてゾロが「ぅ、」と喉を唸らせる。

まるで獣が呻くようだ。

ゾロは腰を強く引き寄せたまま一滴も漏らさずなかに吐き出す。

「はぁ、はぁ……はぁ、……ゾロ……」

うわごとのように呟いてサンジは薄らと目を開ける。ぼんやりと霞む視界のなかに浮かび上がる獣が一匹。

ついさっきのことだった。小さくキスを落とし、立ち去ろうと椅子を引いたサンジの腕を、ゾロは反射のように素早く掴んだ。

起きたのか、と問う間もなく、強く、強く、引き寄せられた。

酷く熱い掌。

――行くな。

「ゾロ、俺……」

「好きだ」

まるで全身でサンジを感じ取ろうとしているかのようだった。

吐精してもなおなかに留まったままの中心が再びゆっくりと芯を持つ。熱い塊はじわじわと腸壁を押し広げ不意にじゅぷ、と溜め息を零した。

生きてる。生きてる。――生きてる。

「ゾロ、」

「好きだ」

「ゾロ」

ずっ、と深く腰を抉られサンジは上擦った声を漏らす。扉の向こう側からは楽しげに、閉じ込められた音楽が響く。わっと上がる笑い声。優しげに揺れるシンコペーション。

「なぁ、堪んねぇよ……ゾロ」

荒い呼吸を繰り返しながらサンジは何度もその名を呼ぶ。

もう二度と、呼べないかもしれない、などと。

崩れ落ちるあの瞬間、強烈にサンジを焼いた怒りは、寂しさでも恐怖でもなくたったそれだけの想いだった。

「……ゾロ、」

好きだ。

何度も、何度も、寝言のように繰り返すメロディが、美しいピアノの調べに溶ける。獣は深く息を吐いて、何度も、何度も、腰を埋める。高らかに歌うヴァイオリン。

あの瞬間、間違いなく、ここは最期の場所だった。

命の終わりを見た気がした。

「ゾロ」

巻きついた包帯に鮮血が滲み裂けた傷口が熱を持つ。きっとあとで船医に怒られるだろう。

ふっ……と笑みを零しかけたサンジを「ずんっ」とひときわ強い衝動が貫く。最奥まで届いた甘い劣情に空っぽの脳みそは真っ白になった。

 

 

(続)

 

 

 

 

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