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煙の町にて

サンジがこの国に来たのは偶然といえば偶然だった。
幼い頃から厄介になっていたじじぃの、次に狙った「シマ」がここだったという言うなればただそれだけのことだった。
ちょうど三年と少し前のことだ。長く続いた内乱が終わり、国には新たな政治が始まっていた。流通が生まれ、物が流れ、少しずつ蘇る日常生活。豆粒ほどの希望を胸に人々はみな活気を取り戻しつつあった。
新しい政府は経済発展の促進のため外国企業を積極的に誘致していた。サンジたちがこの国にやって来たのはちょうどその頃だ。外国人の入り乱れる経済特区。そもそも粗雑なお国柄。監査も審査も甘く緩く、おかげでサンジたちは簡単に入国した。
所謂、マフィアの端くれだった。
かつては隆盛した華やかな職業も、今や各国で取締の対象となっている。金と人を握る血なまぐさい稼業。それでもなんとか生きねばならない。
そういうわけで目をつけたのが経済成長を始めたこの国だったのだ。

最初の方こそ仕事があった。内乱の余波が残る町では詐欺も殺しも横行しやすい。
「狙った獲物は百発百中だ。なんせ俺は、愛のガンマンだからな」
苦々しくも甘い思い出。物心ついた頃にはピストルを握っていたサンジはそうすることになんの抵抗も抱いていなかった。
しかし裏社会の風向きは変わりやすい。各国ともに同じような状況が続いているなか同じように自身を案じた同業は、風の噂を聞きつけたのか流れるようにこの国へやって来始めた。
「そうしていつの間にか権力闘争が始まった。まぁいつもの流れといやァそれまでだが、今回はなんせじじぃの打つ手が早かった。おかげで狙うべき椅子が“ここ”になっちまってよ。俺らは裸でお天道さんの下には立てなくなった、ってわけ」
サンジは淡々と煙を吐き出す。幼い頃から繰り返してきた見飽きるほどの乾いた日常。今更何の感慨もなかったがそれでも易々と命を預けてしまえるほどサンジも弱くはなかった。
「これでも随分、蹴散らした。おかげで最近じゃあここら辺のマーケットくらいならポケットに手ぇ突っ込んで出歩けるようになった」
ポケットのなかには、小型のナイフ。
「俺たちの安寧を築くまで、あと一歩……のはず、だった」
苦々しげにしかめた眉の端がぐるりと奇妙な円を描いていた。目の前を立ち塞ぐ大柄な男。灼熱の太陽を背中に遮り何も言わずにサンジを見竦める。
――あぁ、この男に、抱かれたのだ。
透明な汗が顎を伝いぽたりと地面に堕ちていった。うんざりするほど暑い国。じきに雨が降るだろう。
「半年程前のことだ。俺たちが血と汗を垂らして均したこの地に新たな組織が乗り込んで来た。そいつらは莫大な資金とえげつないやり口で、数少ない残党を次々と支配下に追いやっていった。カジノ、ホテル、金貸しにキャバクラ……表向きは大手事業主に見せかけたそいつらの、実情は単なるヤクザと変わりねェ」
潜めた声で唸り上げれば男の喉がごくりと鳴った。
そうだ。……そういうことなんだ、ゾロ。だから頼む、これ以上――

「闇の名をジョーカー。またの名を、――ドンキホーテ・ドフラミンゴ」

いよいよ大きく見開かれた瞳を見遣りサンジは黙って煙をあげる。
ふわり、ふわりと上る排煙。それはまるで弔いのような。
「残念だが。俺とてめェは、敵どうしなんだよ」

 

 

 

 

何事もない風に吐き出された台詞が紫煙に溶けて空へと上っていった。ふたりをじりじりと焦がす黄色い太陽。白く透ける横顔は金糸に隠れてうまく見えない。
喉を伝う透明な汗が麻のシャツに吸い込まれて消えた。
ゾロは目を見開いたまま次の言葉を見つけられないでいた。
この期に及んで最悪だった。
身一つでこの国に渡って、ほんのふた月。随分とこいつに入れ込んだと思う。会うたび心臓が重く苦しく、何度イっても底が尽きなかった。
美しい金糸がシルクに散らばり甘い匂いが嬌声に溶ける。夜ごと鼓膜を震わせた切ない啼き声。それを思うだけでゾロの中心が温度を上げた。
『なにも、このタイミングで……』
じりり、と焼け付く太陽がほんの一瞬影に隠れる。
雨の、前兆。
――“こいつ”は、たぶん、……俺が本気で惚れた、初めての「女」だ。
仏頂面を崩しもせずに、ゾロの腹底はひやりと冷えた。
足繁くあの店に通い詰めたのは何も性欲のためばかりではなかったのかと、今更ながらに気付いて唖然とした。
甘ったるく鼻にかかる挑発的な熱い吐息。白い肌のいく箇所にも夢中で残した己の証。取り繕われた余裕の姿をぐちゃぐちゃに崩すのが堪らなかった。
それがまさか、狙うべき首とも知らないで……。
『俺はいつ寝首を掻かれてもおかしくなかった、ということか……?』
自身の不用心さを嘆きながらゾロはあることにはたと思い至る。
「しかしてめェは、あいつの店に、」
「あぁ」
「男」は待ってましたと言わんばかりに口端を上げてニヤリと笑った。それはまるで好みの女の話でもするような、猥雑で楽しげな様子だった。
「ご丁寧にも、お迎えに来やがってよ」
はっ、と吐き出す短い嘆息。燻る煙が空を汚す。
「俺も油断してた。まさか相手の親玉が直接来るとは思わなかったんだ。いきなりウチに乗り込んで来やがって、躰を差し出せと宣った」
「男」の視線はゾロを超えて、煤けた集落に注がれている。壁をふたつ曲がった先、異様な匂いの漂う陽だまり。
「それが、じじぃの命との交換条件だった。要は人質だ。まさかそんな取引に乗ったわけでもねェが、俺は黙って従った。ガキの頃から世話ぁかけたンだ。穏やかに過ごさせてやりてェじゃねぇか、命のいちばん最期くれぇ……」
――……ぽた、と一粒落ちた雨が次第にぽつぽつと勢いを増す。
つい今しがたまで燦々と照っていた太陽を分厚い雲が押し隠していった。乾いた地面に水玉が残りひとつふたつと模様を浮かべる。ふたりの隙間を埋める雨がざぁざぁと煩く声を上げる。崩れた土壁に跳ねた雫は赤土の上に落ちて、散った。
「じじぃの先は、長くねェ」
「男」がポケットに手を突っ込んだ瞬間、ゾロは「男」を強く引き寄せた。

憂いを含んだ白い横顔。
驚きに見開かれた蒼い瞳。

「は、お前、……なん、で」
ぽたり、と落ちた真っ赤な雫が雨に溶けて脇腹を伝った。
次々と流れる鮮やかな紅。まるでふたりを祝福するかのような。
「――俺の、国では、赤は、……祝いの、色、だ……」
途切れ途切れに言葉を吐いてそのままずるりと地面に堕ちる。
ぐにゃりと歪んだ真っ暗闇に、激しい雨音が満ちていく。
ざあざあ喚く空の歌。「男」の絶叫をかき消しながら。

そうして。

ブラック・アウト――

 

 

 

目が覚めたのは比較的上等なベッドの上だった。
オレンジ色に光る洋燈にのりの利いた白いシーツ。転がされた体の上には肌触りのよい毛布がかかっているようだ。
「っよ、ッ! っうぅ……」
起き上がろうと体に力を入れた瞬間脇腹がびりりと鋭く痛んだ。
ゾロは軽く腰を折り曲げ自身の腹をおずおずと見遣った。
ぐるぐるに巻かれた真っ白な包帯のあちらこちらに紅が滲んでいる。
すでに何度か巻き直されているのであろう、ベッド脇のゴミ箱のなかには真っ赤に染まった包帯が適当に突っ込まれていた。
「おぉ、起きたか。ロロノア」
ノックもせずに開いたドアから男が大股でベッドに寄った。ピンクのファーに派手なサングラス。この国ではいささか目立ちすぎる格好の大男が心配そうにゾロを見下ろす。
「…………“アイツ”は、」
「フッフッ! お前、自分のボスの前で最初の台詞が“アイツ”か」
ドフラミンゴは愛好を崩し心底可笑しそうに口元を歪めた。
凶悪なマフィアの総元締。ここ一体の裏社会を牛耳るトップ。
ゾロが会社から伝え聞いていたのはその情報だけで、だからこの国に権力闘争があったことももともとは違う組織の配下だったことも、それは“さっき”のが初耳だった。
「なぁ、ロロノア。ずいぶん入れ込んでいるとは思っちゃいたが、まさか敵の腹心に刺されるとはなァ」
「…………すみません」
ゾロは再び視線を落とす。薄紅の毛布はさらさらと心地よくゾロの素肌を覆い隠す。
純白のベッドの上。夜毎に聴いた切ない啼き声――
「……俺の、力不足です」
おもむろに口を開くゾロの台詞をドフラミンゴはどこか遠い目で聴いている。
「敵を見抜けなかったことも、そいつに惚れ込んじまったことも……」
淡々と吐き出す鈍色の声。橙に照らされたふたりの影。
「……だから、悪ィが辞めさせてもらう。てめェの下では、もう働けねぇ」
睨みあげた鋭い視線がサングラスの向こうの瞳とまっすぐにぶつかった。
もはや笑みの欠片も残していない表情からはしかし何の感情も読み取ることができない。
「今ここで、てめぇをぶっ殺すことなど雑作もねェ。そうだろ、ロロノア」
ゾロは視線を逸らしもせずにただひたすらに耳を向ける。
「だが、すでに瀕死の可愛い部下を、まさか自分の手で殺れるほど俺は非道な男じゃねェ」
フッフッフ……と零れる微笑に凶悪な闇が滲んでいる。
底が知れねェ、と思った。
おそらく今の自分では、こいつと真っ向勝負しても勝目がないだろう。
「愛した子猫に逃げられて、可愛い部下に裏切られ……。俺は立つ瀬がないのよ、わかるか、てめェにこの悲しみが」
心底悲しそうに眉根を下げてドフラミンゴが右手をあげた。
その手に握られたシルバーの玩具。
磨き上げられた美しいピストル。
「――――いいか、ロロノア。俺はこれから、三十秒の眠りにつく。その間、何が起こっても、俺には見えねェ」
カチャリ、と安全装置のはずれる音が響く。
おもむろに数を数え始めた男を横目にゾロはベッドから飛び起きた。
痛む脇腹を必死に抑え、着の身着のまま走り出す。
頑丈な鍵を素手で捻り潰し眩しい世界へと続く廊下へと飛び出していく。
――この国には、もう、居られねェな。
「おいおっさん、覚悟しとけよ。次に会ったときは、二つに斬って捨ててやる」
去り際に吐いた捨て台詞はせめてもの恩返しのつもりだった。
雨上がりの涼風が緑の短髪をさらりと撫ぜる。空へと続く太陽の道。遠く響く目覚めの発砲音。町一面に満ちているのは、あの日と同じ極上に甘い柑橘の香りだ。



「……よかったのですか、若様」
重い本棚がスライドして両手にピストルを構えた男が現れた。
「その呼び方はやめろと言っているだろう、ヴェルゴ」
「失礼いたしました」
恭しく下げた頭に今朝の朝食が乗っている。ほんの少しばかりうっかりなのだ、この可愛い腹心は。いいじゃねェか、と思う。問題のひとつもない奴など、実につまらない。
「いったん逃がした、それだけだ。アイツらはどうせまたこの椅子を狙いに来る」
「ゼフが今朝、住処から消えたそうです」
そうか……。
ドフラミンゴはソファに腰を沈めモネの出したコーヒーを受け取る。
舌を火傷するほどの熱い温度。コンデンスミルクのたっぷり入った甘く痺れる異国の味だ。
「しかし、アイツを一度も抱けなかったのは心残りだ」
「あら、そんなこと、本気で思っていないでしょう?」
モネは「ふふ」と妖艶に笑い羽のような軽さで部屋を立ち去った。のりの効いたシーツに散った、鈍色に輝く一発の薬莢。
「なに、……年寄りの、気まぐれだ」
参りましょう、と差し出された手に使いかけのフォークが乗っている。仕方ねぇなぁと笑った顔に惜別の色など滲んではいない。
「行こう。新しい時代の、幕開けだ」
押し破られたドアを開いて光の方へと歩いていく。



まっすぐに走って着いた先は、誰もいない港だった。
「……おうおう、運がいいな迷子マリモ。安いメロドラマでもあるまいし」
言っとくが、ここは俺たちの家じゃねェぜ?
そう言って笑った男の痩身を力いっぱい抱き寄せる。
真っ赤に腫れ上がった両頬と、包帯の巻きついた金の頭。麻のシャツをめくり上げれば白い肌には紅が滲んだ。
「ひでェな」
「骨の一本や二本、なんてことねェよ。……痛ェから離せ、クソ野郎」
ぷか、と上がる紫の煙が穏やかな風に流れて消えた。ゾロはますます力を込めて細い腰を抱き締める。
「……じじぃは?」
「あぁ、」
アレ、と後ろ手に突き出した親指が遠くのタンカーを示していた。暗く湿った船底に隠れているのは五日くらいだろうか。
「まぁ、大丈夫だろ。殺しても死にやしねぇクソじじぃだ」
平坦に響いた男の声が薄い鼓膜をふるりと撫ぜる。冷静に見せた表情には僅かばかりの影が滲んでいた。
――おそらくこれは「心配」、だな。
わかりづらいことこの上ない。感情が揺れれば揺れるほどに「無」に近付こうとする男だった。
ほんとに、弱ェ。お前も、……俺も。
「どうする。俺たち、お尋ねモンだぜ?」
呑気にふかす重い煙草を薄い唇から取り上げる。文句を言おうと開いた口を強引な口づけで黙らせた。
「ん、……」
喉から零れる甘い呻き。それだけでゾロの中心は熱を持つ。
「ぁ、っ……おい、エロ野獣。なに早速おっ勃ててやがる」
「うるせェ。てめェこそ物欲しそうな目ぇしやがって」
煩く吠える不器用な舌を堪えきれずに絡め取る。とろりと溢れる透明な唾液は煙草の煙で苦く、甘い。
「ぅ、っん……は、ぁっも、ちょっ……なァ、っゾロ」
困ったように濡れた瞳がゾロの視線と交わった。ふわり、香る甘い匂い。極上の果実は煙を纏いいつかの夜に想いを馳せる。金糸に隠れた美しい横顔が強請るようにゾロを見上げた。朝に上る太陽はふたりの影を柔く、伸ばす。
「なんだ」
「っ、……わかってんだろうが、クソ変態マリモ」
「俺ァ別に、変態じゃねぇ」
「アホ抜かせ、十分変態じゃねェか! だいたいフツウの奴があんな何遍も人のことイかせ、」
「てめェだからだよ」
抱き締める力を緩めもせずにゾロはまっすぐ言葉を吐き出す。
この薄っぺらいキンキラ頭のなか、小難しいことをつべこべ並べ立てたもう少し奥。幼い傷の癒えぬままに愛を待ちわびる深い湖――
「てめぇじゃねェと、勃たなくなっちまった。……どうしてくれんだ、ったく」
ゾロの零した溜め息の向こうで男が丸く目を見開いた。瞳に浮かぶ深い蒼が珍しく乱れてゆらゆら揺れる。
暑さでどうかしちまったんじゃねェかと思う。俺も、こいつも……。
――こんなことなら、大歓迎だ。
「おかげで会社もクビだろうよ。……責任、取ってもらおうじゃねぇか」
なぁ、サンジ?
ふたりだけに響く声が乾いた地面にそっと舞い降りる。
青く広がる海の向こう、新しい世界はもうすぐそこだ。
小さく締まった愛らしい尻と、噛み付きたくなるほど柔らかい腰。啼いて乱れる夜を想ってゾロの中心がひくりと疼く。
「おら、いくぞ」
つっ立ったままの額にキスを堕とし、掌を引いて歩き始める。
ゆっくりと、一歩ずつ。互いに傷ついた体を労わるように。
次のセックスは時間をかけて黙ってしようと、そんなことをゾロは思う。
今夜は一体、どんな顔をするだろう。
「…………望むところだ、クソダーリン」
遅れて届いたサンジの呟きが風に乗って海に溶ける。波は緩く寄せては返し異国の空は今日も霞む。
「てめェが、好きだ」
新たな海が目の前に広がる。
まるでふたりの愛を慈しむような――


風が歌う暑い国。
淡い空。
浮かぶ雲。


前略、煙の町にて。

 

 

 

 

 

 

 

(完)

 

 

 

 

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