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アカと、ミドリと、金色と 2 ~ ミドリ ~






キッチンの小窓から、オレンジ色の灯りがぼんやりと漏れる。

 

深夜の時刻に差し掛かった海は、細い月に照らされて青黒くうねっている。

昼間の熱気を含んだ空気は、どことなくわだかまりを残し、月光を遮って飛ぶ大鳥の羽音を吸い込んでいく。

 

 

金色のコックは煙を燻らせながら、朝ごはんの下ごしらえに精を出す。

 

前の島で大量に手に入れた上質な食パンを、一枚一枚せっせとスライスしては、平たい皿に乗せていく。うずたかく積まれた食パンは少し湿った布をかぶせられ、冷蔵庫に消えていく。この作業だけを、もう三十分ほど繰り返していた。

 

 

ガチャリと音を立てて、木の扉が開く。

 

眠そうなあくびを噛み殺しながら入ってきたのは、マリモ頭の剣士だ。

 

コックはほんの寸刻ぎくりと手を止めたが、剣士からふいと目を背けると、煙を吐き出しながら何でもないふうに、作業に戻った。

 

次のパンが、最後の一斤である。

 

 

「・・・どうした?マリモ頭。酒でも飲むか?」

 

黙って席についた剣士の気配を、コックは背中でうかがっていた。

いつものように皮肉ったらしくしゃべりかけるでもなく、飯の要求もなく、酒の催促もない、その不自然な普通さに、心音がどきどきと早くなる。

 

何日かぶりの風呂上がりなのか、ほかほかと蒸発する水分のなかに、ほのかに石鹸の香りが漂っている。

 

「・・・いや。」

 

剣士はぶっきらぼうに、コックの問いかけに応える。

何気ないふりをして注意深く、その低い声色を聞き分けたが、そこには毒も棘も、込められてはいなかった。

 

 

――・・・見られた、よな?

 

 

昼間の船長との一件が、コックの頭に焼きついて離れない。

流された、だけではないことを自覚できないほどに、サンジの頭は悪くできてはいなかった。

 

少なくとも、最後のキスは。

 

自分の、判断だった。

 

柔らかい唇の感触が、コックの脳裏に蘇る。

 

一瞬だったが、確かに自分は、欲情していた。

その紛れもない事実が、後ろで佇む剣士の瞳に反射されたかのように、サンジの胸をズキリと突き刺す。

それと同時に、たった今流れ込んだ船長の色香に、思わず心臓がドクンと一度、甘く脈打った。

 

 

 

咎められるかと身構えるコックの背中にはしかし、いつまでたっても、野獣の狂気も怒りも伝わって来なかった。

いつも通り、以上の、“なんでもない”様子に、コックはますます困惑する。

 

それとも俺が、意識しすぎているだけなのか・・・?

 

 

たかが軽いキスを、二度交わしただけである。

 

そのうち一度は無理やり奪われたものだったし、なにより相手はあの、ガキんちょ船長だ。

ただの挨拶だと言えば、「そうなのか。」とでも納得しそうな能天気ゴム人間と、確かにほんの瞬刻色情に心がざわついたとはいえ、軽く口づけを交わすくらいで、この図太い神経を持つクソ野獣剣士が、いちいち怒ったり喚いたりするのだろうか。

 

サンジは内心で首を捻って思いを巡らせると、その疑問にひとり結論を見出した。

自身の答えに納得したコックは、誰にも聞こえない小さな声で「・・・ないな。」とひとりごちる。

 

 

食パンはみるみるうちに分解されていった。

 

再びうずたかくパンが積まれた皿をひょいと持ち上げ、冷蔵庫に首を突っ込む。

茶色く芳ばしい耳にくるまれた、真っ白に光るパンの山が、ひとつ、ふたつ、みっつ、・・・。

明日の朝はこれで、栄養たっぷりの美味いサンドイッチを、大喰らいの船員たちに心おきなく食べさせることができるだろう。

 

「・・・てめぇ風呂上がりなんだろ?水でも飲んどけ。酒ばっか飲んでると、水分足りなくなんぞ。」

 

コックは下ごしらえを終わらせると満足そうに一息ついて、なおも黙ったままでいる剣士に、冷たい水の入ったコップを届けた。

 

「おらよ。」

 

その親切を右手で受け取った剣士は、たった今受け取ったコップをことりと机に置くと、同じ手でおもむろにコックの左腕を掴んだ。

コップを渡すために差し出されたコックの無防備な腕は、剣士の厚い掌に、なすがままに引き寄せられる。

 

「っぶね!てめぇ、何しやが、ッ・・!」

「来い。」

 

剣士はひょいと、その太い両腕にコックを抱きかかえると、ジタバタもがく抗議の罵倒に耳も貸さずに、スタスタと1階に向かった。

 

 

 

 

-------

 

 

 

 

ドサリと落とされたのは、美しいアクアリウムバーのソファの上だった。

突然の愚行に、怒りもあらわに睨み上げるコックを、仁王立ちの剣士が腕を組んで、静かにじろりと見下ろしている。

 

「・・・ってぇな!てめぇ、いきなり何だクソマリモ!」

 

怒声をあげるコックを、さっきまでと同じ無感情な表情が見据える。

影を落として立ち尽くす剣士の瞳にはしかし、ほんのわずかの心火が滲んでいる。

 

その微かな揺らめきを見てとったサンジは、計らずもギクリと怯んでしまってから、無意識に目を背ける。

 

一面を埋め尽くす小さな海が、ふたりを青色に染め上げる。

閉じ込められた食料兼観賞用の魚たちは、自分の絶望的な運命すら知らないままに、キラキラとそのウロコをひるがえし、優雅に泳いでいる。

 

 

 

落ちる影が不意に濃くなり、ずしりと躰が重くなった。

 

はっと顔を上げたコックの目が捉えたのは、仰向けに転がされたその細い腰の上に、緑アタマの剣士が馬乗りになろうかという映像だった。

 

「おい!何しやがんだてめぇ!いきなり乗っか、ん・・・ッッ!!」

 

慌てて大声をあげたサンジの唇が、馬乗りになった剣士の熱い唇で荒っぽく塞がれる。

そのまま深く息をしながら、口内のあらゆる部分に執拗な愛撫が重なる。舌の裏、上あご、奥歯のさらに奥・・・

互いの唾液が交じり合う音が広い部屋に響いて、コックの吐き出す息に熱がこもる。

 

充分にとろとろと溶けた口内から離れると、剣士の乾いた唇は首筋を丁寧に辿って、鎖骨に到達する。焦れったく這い回る甘い刺激に耐えるうち、シャツのボタンが粗暴に外され、露わになった胸元の幾箇所もが、真っ赤に染め上げられる。

 

執拗に重ねられる口付けに、剣士の抑えた荒い息遣いが絡まる。

匂い立つ劣情に、サンジの中心がざわりと色に染まる。

 

「はぁ・・・っ。おいおい、野獣かよクソマリモ・・・。んな無言で急に襲っ、」

 

「黙れ。」

 

低い声に、重たい気迫が滲む。

 

サンジは思わず、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 

コックの微妙な身じろぎにも構わず、剣士はカチャカチャと、チェーンの付いたごついベルトをはずしにかかる。反射的に抵抗を試みるも、その繊細な右手は黙ってはねのけられただけで、作戦はあっけなく失敗に終わった。

 

「んッ、・・っ!はァ、っ・・・な、おいマリモ、てめ・・なに、そんな焦って、」

そこまで言葉にして、つい先ほど頭の片隅に棄却したもうひとつの仮説に、はたと思い至る。

 

「っ・・・まさか・・・、怒ってんのか?」

 

「―・・・・・・だったら何だ。」

 

たっぷり5秒ほどの空白のあとに剣士の口からこぼれたのは、否定の言葉ではなかった。

目を見開いてその言葉を飲み込んだサンジは、次の瞬間ニヤリと口元を歪めると、さも可笑しそうに次の言葉を続けた。

 

「なんだよ、・・・妬いてんのかよマリモ。ルフィだぜ?あんなクソガキにか?」

「・・・るせぇ、」

「可愛いとこあんじゃねぇかよクソマリモ。」

「黙れ。」

「俺のこと、肉かなんかと間違えてんじゃねぇかあいつ。」

「黙っ・・、」

「だいたいいきなりキスしてきたのはルフィの方で、俺は、」

 

「るせぇっつってんだろ!!!!」

 

いきなり凄まれ、コックは肩をビクリと引きつらせる。

上からぼたりと汗を落とした剣士の、激情に震えた眼の色を、サンジはおずおずと見上げることしかできない。

 

「ベラベラベラベラしゃべってんじゃねぇ。黙れっつってんだよ・・・てめぇ、それ以上しゃべったら、・・・二度とそのむかつく声、聞けねぇようにしてやんぞ。」

 

背筋にぞっと冷気が走るような鋭い声で、剣士が呻く。

耳元にかかる熱い吐息に、気持ちとは裏腹に思わず腰が小さく跳ねる。

 

「いいか?コック、よく聞け・・・。俺は、ルフィに妬いてるわけじゃねぇ。あのガキがてめぇをどうしようが、知ったこっちゃねぇ。でもな、・・・」

 

サンジの敏感な耳が、その言葉の裏側に織り交ぜられた狂気を嗅ぎ分ける。

 

「てめぇから・・・手ぇ出すのは、・・・許さねぇ。」

 

はっと見つめ返したサンジの瞳を、剣士の燃えるような眼光が貫く。

 

 

ルフィなんかじゃない。

 

こいつが怒ってるのは、・・・俺だ。

 

 

羞恥よりもさらに黒々とした感情が、胸の中に湧き起こる。

その泉の最奥から、押し込められた罪悪感の塊がどろりと溢れ出すと、息を詰めたサンジの頬が赤く染まった。

 

「・・・はんっ、てめぇの命令なんて聞きゃしねぇって、」

 

「命令じゃねぇ。」

 

自身の居心地の悪さを誤魔化すかのように、粗雑に吐き捨てたコックの台詞を冷たく遮って、剣士が続ける。

 

「俺が、許さねぇっつってんだ。俺はてめぇに指示してやるほど、甘ったるくねぇ。次やったら、俺は、てめぇを、ぶった切る。そんだけだ。・・・勘違いすんな。」

 

殺気立った声色が、サンジの躰を縛り上げる。

 

沈黙に身を包んだコックを、剣士はじろりと真上から見下ろす.

 

 

しばらくそうして身じろぎひとつしなかった剣士は、1分とも永遠とも思える時間ののち、何もなかったかのようにすっと立ち上がった。

 

「あ、・・ゾ、・・・っ」

 

射すくめられたサンジはその場を動けないまま、物欲しそうな声を上げる。

その色づいた声は剣士の耳に届いたのか、振り返りもせずスタスタと部屋へ戻る剣士の後ろ姿を、サンジは呆けたようにただ、見守ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

( 完 )

 

 

前のお話は、こちら・・・ アカと、ミドリと、金色と 1

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