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異国の空と、路地裏の猫。

――――サンジ。

 男の名を知ったのは、母国での調査の最中だった。

 東の国々を中心に、さまざまな国際犯罪であがっていた名前。

「あぁ、奴さんのこと調べてんの?」

 中央の資料置き場での作業中に、先輩警官が声をかけてきた。赤い髪に汚いサンダル。片目の傷は国外捜査の際についたもの、らしい。

「なかなか面白いだろう。あらゆる犯罪で名前が上がるのに、その実まったく尻尾が掴めないんだ。窃盗、薬、殺し、なんでもやる。相手は問わず、ときには仲間にも手を出してる。それなのに、」

 男はおどけたように肩をすくめる。

「動機が掴めない」

 ゾロは新聞がスクラップされた資料を閉じて、グレーの棚に並べて戻す。男は隣の棚から分厚いファイルを取り出して、パラパラとビニールをめくっていく。

「普通は金か女のため、あるいは過去の恨みを晴らすためだろ。マフィアだって雇われて働くこのご時世に、動機もなく犯罪に手を染めるなんて、一体全体どうかしてる」

 ほら、ここ。

 指し示されたところを覗き込めば、直近に「サンジ」が関わった事件が羅列してあった。

 葉っぱの密輸、銀行強盗、マネーロンダリング、密売人殺し……――

「最後のは、お前が追いかけてる事件だな。ロロノア・ゾロ」

 低い声色に顔をあげれば、鋭い眼光がゾロを射抜いたところだった。視線が交わると同時に背中に電気が走る。まるで尋問のようだった。

 仲間にさえ心を許さない、男のこれまでの仕事に身震いをする。自分が足を踏み入れようとしているのは、そういう世界なのか。

「……ま、肩の力抜いてさ」

 ポン、と頭に乗せられたてのひらは「先輩警官」のそれに戻っていた。

「楽しんで来いよ。海外、はじめてなんだろ? うまい飯に綺麗な美女、若さがうらやましいぜ」

 じゃあな、と軽く手をあげて資料庫をあとにする。握らされた紙袋にはひととおりの情報と、うまい飯屋に赤丸のついた薄汚れた地図が入っていた。

 

「い……っ、おい……、おい、ゾロ」

「ッ……つ、ぅ」

「あっバカ動くな、傷が開く」

 ぐ、と肩を押し戻されてゾロは思わず声を漏らした。

 雨に濡れた髪の毛が、枕に淡い染みを作っている。

 鉛玉に貫かれた肩が鈍い痛みを放つ。血痕の滲んだ白い包帯。天井の薄明かり。

「だから言ったろう、ここには来るなって」

「悪ィ。助かった」

「お前、死ぬぞ」

 はぁ、とこれ見よがしにため息をついて、ウソップが額にタオルを乗せる。ヒヤリ、と冷たい感触に発熱していることを知った。床の上にはどろどろになって破り捨てられた己のTシャツ。それから何度か巻き替えられたのであろう真っ赤な包帯が適当に放られていた。ジャケットに入れていたはずのピストルは無造作にサイドボードに転がっている。

「あいつ、弾ハズしやがった」

「アホか、死にたかったのかてめぇ」

「悪くねぇな」

「は~……これだからてめぇらの考えることは、よくわからねぇ……なぁロビン」

 ガチャリ、とドアを開けて女がなにかを運んでくる。銀のトレーの上からはほかほかと湯気が立っている。

「暖かいスープよ。傷口を閉じるための薬も溶かしてあるわ。飲んで」

 丸いスープカップを両手で受け取り、ありがたくひとくち口を付ける。じわりと身体が温まる。血が足りなくて、温度が低い。

「サンジは空港に向かったわ」

「おいロビン、それは言っちゃ、」

「……オムライス」

「は?」

「オムライスが、食いてぇ」

 のそり、と上半身を起こすと強い目眩が全身を襲う。体が鉄球のように重い。両足の感覚も鈍っている。心臓は……動いている。

「貴方ならあるいは、止められるかもしれない」

「……」

「仕事以外で誰かに執着したことなんてないの」

「……あぁ」

「あの子、ずっとひとりぼっちだった」

 ……知ってる。

 ゾロは氷のような両足を地面につけて、棒のような両手をジャケットに通した。

 体の境界はあいまいだった。サイドボードの玩具に手を伸ばす。ひやり、と冷たい鉛の感触。――生きている。

 それで十分だ。

「世話になった」

「あ、お前、ちょっと待て」

「なんだ、時間がねぇ」

「いいこと教えてやるよ。アイツは、……サンジは」

 扉に手をかけたゾロの背後から静かなトーンが鼓膜を揺らす。雨に沈むギャング街。天はすべてを平等に見守るだけ。

「飛ぶ前に必ず、市内のタワーにのぼる癖がある」

「……恩に着る」

 ジャケットの裾をひるがえし、夜の街に足を踏み出す。

 踏みしめた水たまりがバシャリと軽快に水を跳ねた。

 

 タワーの最上階には「スカイデッキ」という展望室があって、24時間立ち入りができるようになっていた。

 まだ日の出る前の暗い街並みが360度の眼下に広がる。

 一歩踏み出した革靴の裏が、静まり返ったフロアに「カツン」と響く。

 目の前に広がる「自由」はいつだって、別れの悲しみをはらんでいる。

「……生きてたのか」

「分かってただろ」

 美しい曲線を描くタワーの窓ガラスに向けて、ひとりの男が立ち尽くしている。

 西側に広がる街には高層ビルが立ち並び、やがてくる朝を待ちわびる。

 切れかかった路地裏の街灯。誰もいない道路で点滅する赤信号。まばらなバイクの整列は、もう数十分後にはいつもの喧騒を連れてくる。

「見てみろ。こっちの東側はまだ開発途上にあるんだ。濁った河と湿地帯、長い電線のほかはあぜ道ばかり。向こうにマンションが見えるだろ? 国はあれを皮切りに大規模な開発に乗り出すつもりだった。ところが他国の不況のあおりを受けて、もう何年も計画は止まったままだ。ま、ここらじゃよくある話だ。国民も諦めるのには慣れてる」

 サンジはふぅ、と煙草の煙を吐き出して暗い平原に目を細める。幅の広い河の向こう側はトンネルが道を繋いでいた。しかしそれもときどき工事車両が走るだけで、その場所に息づく人などいないように見えた。

「このまっすぐ向こうに見える、白い家の固まった場所。あそこがいわゆる“四区”だ。家々は入り組み、道は無計画に伸び、行き止まりや作りかけばかりの雑然とした街だ。はずれにはスラム街が広がっていて、金のないやつはそこに押しやられる。金と、暴力と、性のうずまく街。俺の生まれた……愛しい故郷だ」

 ハッ……と短く息を吐き出し、サンジは遠く家々を見つめる。東の街に真っ赤な光がひとすじ差し込んで、少しずつ朝がのぼっていく。白い煙がふわりと揺らぐ。白んだ頬に光が溶ける。美しい夜明けの色。

「お前には、わからねぇよ。俺はこの世界にしか生きることができねぇ。理由や理屈じゃねぇ、ただこの場所で、生きるためにあがいてるだけだ」

 短くなった煙草を小さなガラ入れに擦り付けて、金のジッポをキン、と開く。オレンジ色の淡い光が朝焼けに混じって頬に映える。

「てめぇだって同じだろう? 生きるために誰かを押しのけ、罪を重ね、善を押し付ける。肉を喰らい、偽善を叫び、道端で舌打ちをするてめぇらと何が違う。正義の基準が違うだけで、どうして俺たちだけを“悪”にできる。なぁ、ゾロ」

 薄く開いた口元からふわり、と白い煙があがった。振り向いたはずの顔が金糸に隠れる。朝焼けがふたりを包んでいく。――――綺麗だ。

「あのとき。半分は気づいてたんだろ? だったら、どうして俺を、」

「コック」

 呼び慣れたその名を呼ぶ。サンジがびくりと肩を震わせる。朝もやがだんだん晴れてゆく。西にも、東にも、同じように太陽がのぼる。正義の境界があいまいになる。

 天は同じく、すべてを見つめているだけ。

「俺ァまだ、てめぇのオムライスを喰ってねぇ」

「……は、お前なに言っ」

「てめぇが、」

 ぐい、とサンジの左手を掴む。わずかな抵抗がゾロの右手に伝わる。

 一秒、二秒、三秒……――

「俺を生かしておいたのはそのためだろ、コック」

 白い煙が立ちのぼる。太陽が朝を連れてくる。電車がゆっくり動き出す。

「……来い」

 エレベーターが最上階に止まって「チン」と軽いベルを鳴らした。

 ふたりの靴音がフロアに響く。夜が明ける。朝が来る。

 背景にきらめくのはただ360度の朝焼けだった。

 

 喉をなぞるように口づけを落とし、冷たい乳首に前歯を立てる。肩をかばうように体勢を変えれば敏感な腰がひくりと反応を返す。

「は、ぁっ」

 甘いため息が転がってゾロの中心に熱が集まった。そのまま甘噛みをするようにカリカリと先端をしごいて、舌先でじゅっと強く吸い上げる。

「ハッ……あぁっ」

 あいた方の乳首を指で転がしながらそのまま下腹部へと唇を沿わす。ちゅ、ちゅ、と立ちのぼる水音が、だだっ広いホテルの一室に淫靡に反響する。

「あっ、ゾロ、ぁ」

 熱く猛った塊を無遠慮に口に含めば堪らないように甘く呻いた。先端をちろちろと舌で遊ぶと、腰を引こうと体をひねる。細い腰を押さえつけてそれを防げば、サンジは両手でゾロの頭を掴んだ。ゾロは肩に痛みを覚えて「うっ」と小さく喉を鳴らす。限界が近いのかもしれない。先走りがとろりと口に広がる。

「やっ、も、ゾロっ……ゾロ、あぁっ」

「イきそうか」

 硬い根元から中心を舐め上げるとニ、三度細かく腰を振るう。焦らすように裏筋に舌をはわせて、膨らんだ亀頭を一気に含んだ。

「やっ、やっ、あっ、あぁぁ……っ!」

 ぐん! と強く腰を振るってどくどくと生ぬるい精を吐き出す。ゾロは十分にそれを吸い取ってからサンジの片膝を肩に担いだ。――痛ぇ。

「ゾロ、なに……やっ」

 どろりとした感触がサンジの後孔に糸を引く。ついさっき吐き出された欲の塊が、暗い穴を割り開いていく。

「どうだ」

「う、くっ、ッ……」

 指を暗闇に突き立てるたび、サンジの喉からは苦痛の声が零れた。ぐちぐちと湿った音色が響く。一本、二本、三本……。

 落ちる声が次第に色を帯びる頃に、ゾロは一気に指を引き抜く。

「は、あぁっ! て、め……っ、いきなりなにすん、ハッ、うぅ、あっ……で、でけぇ、クソッ……!」

「なんだ、煽ってんのか」

 ぐぐ、と腰を沈めてやれば白い眉間に苦痛のシワが寄った。嫌ならば本気で抵抗すればいい。そう、鼓膜に吹き込んでやれば物言いたげな視線が返る。

『――もっと、か』

「いっ、いや、あっゾロっ、も……も、ダメ、も……!」

「もう……なんだ」

「も、うごい、て……う、動いて、ゾロ、もっと、奥まで欲し……っ 欲しい、ゾロっあぁぁっ」

 ずん! と奥まで中心を突き立てる。透明な空気を嬌声が震わせる。

「あっ、あっ、あ、あ、ぁっ……あぁっ……! ゾロ、あ、っイ……!」

 びくん、と大きく跳ねた体は熱を天へと一気に放った。

 

 小さなバッグをひとつだけ背負い、男は空港のエントランスに立っている。

 窓ガラスの向こう側には白い土ぼこりが煙っている。

 次々と空へ飛び立つ重い機体。それはいつだって夢の象徴だ。

「じゃあな」

「あぁ」

 ゾロは見送りゲートの前に突っ立って、歩き出すサンジの背中を見送っていた。おかしいだろ、てめぇが俺を追いかけて来たんじゃねぇのか。そう言って笑ったサンジの唇に、たった一度だけキスをした。

 ふたりが出会ったこと。そのささやかな証明。

「――ゾロ」

 振り向いて、呼びかける。目の前に広がるのはだだっ広い自由。少しの感傷と、別れの哀しみと。自由はいつだってほんの少し寂しい。

「オムライス、作ってやるから……ちゃんと、見つけろよ」

「当たり前だろ」

 冷める前に喰ってやる。

 事も無げに言ってやれば、ようやくニッと意地悪く笑った。そのままくるりと足を向け、そうして一度も振り返らない。

 耳慣れないアナウンスが高い天井に反響していた。空港には独特の空気が満ちている。

 人々のざわめき、乾いた空気。後ろ姿は人波に飲まれて、次第に小さく霞んでいく。

 たった一度交わっただけの、重なることすらないはずの未来。

 今度はあの街で、もう一度。

 そう願うのは本当に俺だけか――

「はい、もしもし。はい。えぇ、被疑者は未だ見つからず、はい――――」

 緑色のタクシーが滑り込んで街の色がくるくると変わっていく。

 強い匂いが鼻を突く。まぶしい光が心臓を満たす。

 すべてを覆う混沌と無秩序は、今日もただ熱に溶かされていく。

 

(完)

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