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異国の空と、路地裏の猫。

ザ……と乾いた地面が鳴く。ぬるい風が頬を撫ぜる。
 けたたましいクラクションと耳をつんざくエンジン音。怒号のようなわめき声が喧騒のなかに埋もれていく。
 空は白く霞み、風はほこりを舞い上げ、独特の匂いが鼻をついた。
 冬を知らない暑い国の、もっとも南に位置する町。
 「……暑ぃ」
 思わず口をついて出たのは、すでに百回を越えたその言葉だった。わかりきってはいるけれど、だからといって暑いものは暑い。
 ゾロは額の汗をぬぐって、歩道の出店に目をやった。
 ガリガリと氷を砕く老婆がひとり。汚れたプラスティックの棚のなかにはうまそうなフルーツジュースが並べてある。
 ごくり、と鳴ったのどに小さくため息をついてゾロは仕方なく目をそらした。とにかく水だけは飲むんじゃないと、出国前に口を酸っぱくして忠告されたことを思い出す。別に腹のひとつやふたつ壊そうがかまわないが、仕事に支障が出るのはご免だった。
 ゾロはもう一度息を吐いて向こうに見えるコンビニに目をつけた。あそこでミネラルウォーターでも手に入れよう。ついでに少し体を冷やしたい。いっそ革靴も脱ぎ捨てて、サンダルでも履いて海に浸かりたい気分だ。
 腕にかけていたジャケットを鞄に突っ込み、気だるい歩幅で歩きだす。

 

 国際犯罪捜査官――――
 なんとも仰々しいその名前が、現在ゾロの担っている職務である。
 もとは穏やかな片田舎の、交番に勤めるヒラ警官だった。警察学校を卒業し、巡査として配属された。おとし物の処理や迷子の捜査、ときにはばあさんの話し相手に駆り出されることもあった。先輩警官からは「これも仕事だ」と言いくるめられ、ぬるい午後を相づちに費やした。
 数年前から近隣の都市では違法薬物の売買が問題になっていた。
 常であれば尻尾を掴んで、一気に引きずり出すのが中央のやり方だ。ところがどうにも鼻のきく者がいるのか、まったく影がつかめない。証拠は山のように出てくるのに、肝心な「ホシ」はなかなか姿を表さなかった。
 町を南にまっすぐ行ったところに名前も曖昧な港がある。
ゾロの勤める交番はここを巡回区域として担当していた。
 『……ん?』
 積み重ねられた貨物の隙間にチラチラと人影が動く。ゾロは反射的に足を止め、そっと息を詰めて後ずさった。
 こんな夕刻の港が眠る時間に、違和感のある光景だった。足音を消してゆっくりと近づき、物陰にそっと身を潜める。
 『……ということだ。あとの話は俺がつけておく。いいか、なるべく何も知らないガキを使え』
 男の声は波音に紛れて、生ぬるい空気を揺らして響く。
『受け渡しが最もサツに見つかる瞬間だ。ガキには飴玉でも舐めさせておけ。まさか誰もガキがヤク運んでるとは思わねぇだろ?』
 声にはわずかな微笑が滲み、男が勝ち誇っているのがわかった。ゾロはスッ、と目を細め、言葉の隅々に気配を配る。取り引きの場所は……どこだ。
 『わかったか。わかったら返事だ』
 『……No, Sir.』
 パンッ! と軽やかな銃声が響いたのとゾロが飛び出したのはほとんど同時のできごとだった。
 目に映るのは鈍色の空と、美しく流れる鮮血の紅。
 「こちら第二港、倉庫街。被害者一名、犯人は逃走した模様。おそらくこいつもバイヤーだ。至急応援を頼む。車体ナンバーは――――」
 胸ポケットから無線を取り出し、仲間の警官に緊急要請を告げる。ゾロはその場に立ち尽くしたまま遠い海の果てをぼんやりと見つめる。ざわざわとうるさい潮風が緑の髪をかすめていた。

 

 

 

 コンビニエンスストアはクーラーが効き過ぎるほど効いていて、ゾロは早々と店を出た。
 外気があまりにも暑いせいか、この国の人々は極端だった。どこへ行っても中間がなく、暑いか寒いかのどちらかしかない。
 「ビン、キ……なんだ、読めねぇ」
 見慣れない文字の羅列を見ながらゾロは深々とため息をつく。
 この街についてもう二時間もこうして路地をぐるぐるしていた。もともと勘を頼りに行動することが多い方だ。地図を読まずに案内をして、あとで大目玉を食らったこともある。訊いてくる方が間違っているのだと苦言を告げれば、先輩警官はため息をついた。
 「ここが二の三番地、ってことはこの近く……」
 人に訊こうにも言葉がわからず、身振り手振りは邪険に扱われた。年間二百万人の観光客を受け入れる国にしては、なんとも粗雑な国民性だった。食べものは美味しく気候が安定している、それだけで何やら満足してしまうものらしい。中途半端に仕事を投げ出して昼間から賭け事に興じている男たちを、今朝からもう見飽きるほど見た。
 ゾロは何度目かの角を曲がって、薄暗い路地裏に目を向けた。錆び付いた自転車と青色のゴミ捨て場。光の届かない細道には古びた看板がしまい忘れのように佇んでいる。
 『……“酒”、“準備中”、“いらっしゃい”……』
 小さく頷いたあごからは、ポタリと濁った汗が落ちた。見慣れた母国語にほんの少し胸をなで下ろしながら、ゾロは路地へと足を向ける。
 今回の滞在は同郷の移民が集まるアパルトメントの予定だった。このあたりなら比較的言葉が通じるからと、それは本部からのささやかな心遣いだった。
 「近ぇな」
 たぶん、とあたりを見回す。
 事前に送られてきた資料では、趣味の悪い薄緑色の壁に古びた窓枠がはまっている三階建ての建物のはずだった。窓はどれもやたらに大きく、おもちゃのようなオレンジ色のビニール屋根が張り出している。
 隣接する建物は自分勝手に塗りたくられていて、統一感など完全に無視されているようだった。淡い黄色に鮮やかなブルー。古い建物と新しい建物がちぐはぐに林立し、時の流れをあいまいにしている。狭いバルコニーを占領する、手入れのされていない観葉植物。屋上から姿を覗かせているのは、用途不明のほったて小屋――
 ゾロは隙間から覗く狭い空を見上げ、汚れた空気を押し出すようにため息を吐いた。
 なにをしていても、暑い。
 部屋についたらシャワーを浴びてまずはここらで一杯酒をひっかけたいと思う。
 「――何してる」
 ふいに後ろから呼び止められてゾロはぎょっと足を止めた。
 ほこりっぽい匂いが鼻奥を突き、けほ、と乾いた咳が落ちる。
 「お前、旅行者か」
 「あぁ、まぁ……似たようなもんだ」
 「へぇ。さっきから同じとこ、ぐるぐる回ってるじゃねぇか」
 ゆっくりと振り返った視線のさきには、影に紛れた男の姿が見えた。ぼうぼうと換気扇の回る油っぽい裏口の、五段ほどあるコンクリート階段。けだるそうに腰掛けた横顔からは白い煙が立ちのぼっている。
「……宿が見当たらねぇ」
 「地図、貸してみろ」
 ん、と差し出された右のてのひらがゾロに向かって伸ばされる。ゾロは一瞬たじろいで、一歩、二歩と男に近づいた。重い煙草の匂いがふたりを囲う。
 「……あぁ、こりゃあ」
 呆れたような声を出して男がわずかにあごを上げた。さらりとゆれた金糸の隙間から左の目がちらりと見える。真っ白なコックコート。
 男は首に巻かれた赤いスカーフを左右に引っ張って短くなった煙草を咥え直した。緩んだ胸元から白い肌が覗く。ゾロはそれを黙って見る。
 「全然違ぇよ。交差点二つ分向こうの通りだ」
 「あぁ? ……ったくわかりにくい地図、寄越しやがって」
 「なんだ、てめぇ来たばっかりか? ここじゃタクシーに乗って運転手に聞くのが一番だぜ。入り組んだ街だ、簡単に迷子になっちまう」
 男は細く煙を吐いて、立ち尽くすゾロをじっと見上げた。
 太陽の届かない路地裏でふたりの視線が静かに交わる。
 ほこりの匂い。溶ける熱風。
 「悪ぃな、助かった」
 ゾロがそう声をかけると男は片方の口端をあげて笑った。後ろのポケットをごそごそと探り、太い煙草をゾロへと差し向ける。
 「いらねぇ。これから仕事だ」
 「へぇ、そりゃ悪かった」
 肩をすくめるように煙草を引っ込め、つまらなそうに息をつく。退廃的な路地裏の空気に男の影がゆらりと揺れた。
 「仕事の邪魔したな、コック」
 「コック?」
 「違ぇのか?」
 出で立ちから察して声をかければ男は不自然に押し黙った。ぼうぼうと回る換気扇から油の匂いが漂ってくる。もうすぐ昼時だ。十二時の時報がラジオから流れると街はもっと賑やかになるのだろう。
 男はしばらくゾロを見上げて、それからふっと頬を緩めた。
 一瞬、目を奪われる。
 むさくるしい街の片隅に、花のつぼみがほころぶような。
 「……また、食いに来いよ」
 じゃあな。そう言って店の中へと姿を消す。
 ゾロはしばらく立ち尽くし、ふたたび街へと足を向けた。

 

 

 

 ようやくアパルトメントにたどり着く頃には、街はすっかり夕陽に染まっていた。
 エレベーターが六階で開くと、ちょうど目の前が滞在の部屋だ。
 「はぁ……」
 どさり、と荷物を置いてそのままゴロリとソファに寝転がる。ガンガンに効いた空調がこのときばかりはありがたい。
 ゾロは手探りに手を伸ばし、適当にテレビのスイッチを入れた。聞きなれない言葉と安っぽいBGM。怒ったように早口でまくしたてられるニュースをゾロはぼんやりと聞き流す。

 

辞令が下りたのはひと月前のことだった。
 きっかけは、今回の事件に関与しているとみられる組織の内部から密告者が出たことだった。
 それによると拠点は海外のようだった。これで雲隠れの辻褄が合う。海を超えれば足は付きにくい、密告は信頼できるとの判断だった。
 いよいよ中央が動き出し、国内外の捜査を強化する方針が決まった。それが、ふた月前。
 いかつい革張りのソファから、柔和な笑みを貼り付けた男が立ち上がる。
 「しっかり頼むよ、ロロノア君」
 ポン、と叩かれた肩は冷たい。
 この国の警察組織のなかで、唯一あちら側と接触したのがゾロだった。
 声を聞いたこと、影を見たこと、顔を合わせたかもしれないこと……。
 そうして一介のヒラ警官に過ぎなかったゾロの肩には、いつの間にか仰々しい名前が乗っていたのだった。
 何かを成し遂げるためにこの仕事を選んだわけではない。ゾロは黙ってつま先を見つめる。
 赤い絨毯に沈み込む革靴。
 拒否は、許されなかった。

 

 いつの間にかウトウトと浅い眠りに落ちていたようだった。
 夢とうつつの狭間にまどろみ、ゾロは大きくあくびを零す。
 一日中、歩き回って疲れたのだろう。
 冷えすぎたクーラーに腕をさすってゾロはソファに身体を起こした。
 なにはともあれ、腹がへった。

 

 

 

 「――どうぞ、いらっしゃい」
 カランカラン、とドアベルが鳴いてゾロはカウンターに腰掛けた。アパルトメントの脇の通りに見つけた、こじんまりした店構えのバーだ。なんでもないドアに紫色の小さな看板。少し古びた金の文字が、両脇から暗い明かりに照らされていた。
 「なんでもいい。強ぇ酒をくれ」
 ゾロはひとことそう言って、出されたおしぼりで両手を拭く。
 店内には小さくBGMが流れていた。聞き覚えのない古いジャズ。
 出されたウィスキーをロックで流し込み、ゾロは「ふぅ……」と息をついた。異国の匂いがする。
 「お前、見ねぇ顔だな」
 隣から声をかけられてゾロは視線を横へと流した。ドレッドヘアーを後ろで結んだ長い鼻の男がこちらを見ている。
 「旅のモンか?」
 「まぁ、そんなようなもんだ」
 昼間に似たような会話をしたと思いながら、そっけなくそう答える。グラスのなかの氷が揺れて「カラン」と軽やかな音を立てた。
 「そうか。気ィつけろよ、ここらじゃあんまり、人のことに首を突っ込むな」
 男はゴクゴクと酒を飲み干し「同じのくれ」とグラスを差し出す。透明なアルコールの注がれたグラスに泡の立つサイダーが注がれていく。八つ切りのレモンがふちに差さる。シュワシュワと明るく泡がのぼる。
 「どういうことだ?」
 「どうもこうもねぇよ。言ったまんまだ」
 男はちびりと口をつけてゾロの方も見ずに豆をつまんだ。ごくり、と喉の鳴る音が聞こえる。店内に人はまばらだった。会話のさざなみが寄せては返す。
 「不用意にいろいろなことを探るな。興味本位が命取りになる」
 「あら、親切なのねウソップ」
 カウンターの向こうから黒髪の女がかすかに笑いかけた。ほかに店員らしい姿は見えない。ひとりでやっている店なのだろう。
 「なにも知らねぇヤツ巻き込む必要ねぇだろ」
 「ふふ、そうね。貴方……いつまでこちらに?」
 「ひと月だ」
 「そう」
 女は意味深に笑って、カウンターの下からつまみを取り出す。白く小さい皿のうえでミックスナッツがカランと揺れる。明かりの落ちた店内に、古いジャズが流れて溶ける。
 「素敵な旅を」
 それ以上、話はしなかった。

 

 

 

 翌日、現地の警察署に顔を出してからゾロは昼食のため街へ出かけた。
 今日もうだるような暑さだった。
 太陽は無遠慮に街を焦がし、白壁がギラギラと熱を反射する。無数のバイクは川の流れのように狭い道路を埋め尽くしていた。
 熱と音が思考を支配してどことなく頭がぼうっとする。
 ゾロは額の汗を拭いて目的の路地を足早に曲がった。
 「……お前、昨日の」
 カウンター席に腰を下ろし、冷たい水をごくごくと飲み干す。男はゾロに気づいたようで、コック帽を脱いでフロアに出てきた。
 広い店内は明るく落ち着いていて、裏側の油っこい雰囲気とはうって変わって小洒落た雰囲気だった。木のテーブルが等間隔で並び、お客はほとんど満席だ。
 「食いに来たのか」
 「あぁ。なんでもいい、腹へった」
 ゾロがそう注文を告げると、男は一瞬止まってふっ……と笑う。
 「お前……」
 「あ?」
 いや……。
 可笑しそうになにかを言いよどみ、男は厨房に足を向けた。ゾロはその背中を見送って、注がれた水をもう一度飲み干す。

 

 「あいよ」
 「お」
 白い平皿がコトリと置かれてゾロはそれに目をやった。細い麺の盛られたメイン料理だ。それを半月に囲むように、野菜サラダや包み焼きが手際よく並べられていく。
 「これはバインセオ。薄く焼いた卵で野菜を包んで蒸し焼きにしてある。付け合せの揚げ春巻きと、これはココナツミルクのスープだ。それからこれは、ミー。まぁ、そっちの焼きそばみてぇなもんだ」
 淡々と説明をしながらカトラリーを揃えていく。一応それなりの店なのだろう。なにげなく店内を見渡せばナフキンをきちんと前かけにしている客も見当たる。
 「適当に食ってくれよ。肩肘張るような店じゃねぇ」
 ゾロの微妙な変化を汲み取ったのか、男がポン、と肩を叩いた。ゾロは頷き、麺を口にする。――美味い。
 「……だろ?」
 ハッ、と自慢げに口角をあげて男がニヤリと微笑んだ。挑戦的な笑みにはしかし、かすかな感情が滲んだ気がする。喜びと、安堵と。
 「こっちに来たばかりだろ。せっかくだから、郷土料理だ」
 「いつからコックやってんだ」
 「あ? …………さぁな。気づいたときにはコックだった」
 男がグラスに水を注ぐと白い頬は前髪に隠れた。金の糸がばらばらと散って、一瞬の表情を隠していく。
 「でも、結構好きだぜ、この仕事」
 「そうか」
 ず、と音たててスープを飲み干す。甘い。
 「自慢の料理は、オムライスだけどな」
 「いいな。今度、それをもらおう」
 「なぁ、お前」
 「ゾロだ」
 「ゾロ、」
 男はひと呼吸を置いて、ぐ、と口元を耳に寄せる。
 ――……夜、時間あんの?
 男の柔らかな誘いの音色が腹の底へと深く沈み込む。

 

 

 

 指定された場所に向かうとまっさきに男の影が目に入った。ブルーのシャツにグレーの薄手のジャケットを羽織って、閉まったシャッターに背中を預けている。
 街は昼からガラリと表情を変えて、夜の闇を抱き込んでいた。建物から建物へと渡された色とりどりの電球が自由奔放に夜を彩っている。
 くわえ煙草からは煙が流れ、街の雑踏に消えていく。ゾロが男を見つけた五秒後に、男もゾロに気づいたようだった。心臓に響くエンジン音。底抜けに明るい安物のネオン。アスファルトの熱。異国の夜。
 「行くぞ」
 「どこに」
 「夜遊び」
 ニッ、と意味深に笑みを浮かべる。
 ゾロはわずかに目を細め、訝しげな歩幅で背中を追った。

 

 ――ズンッ!
 低いベースが天井に響いてひときわ大きく歓声があがった。上下に揺れる人波がゾロを店の隅へと追いやっていく。
 「飲んでるか」
 「あぁ?」
 地下へと降りてきた螺旋階段の真下、ささやかなカウンターバースペースでゾロは眉間にしわを寄せた。
 なかば強引に連れて来られたのは、細い路地を入った先のクラブハウスだった。狭い入口には壊れかけのネオンが光っていて、急角度の階段を地下へともぐった。
 この街で若者たちの夜遊びといえば、クラブか風俗になるらしい。ほかの国と比べて規制が緩いのだと、含み笑顔で笑った同僚の顔を思い出す。名前も知らない誰かだった。
 「たまにはいいだろ、こういうのも」
 男は自然にゾロの腰に手をまわし、まるで歌うように話しかけた。そのまま大声で酒を頼み、ぐい、とひとくちにグラスを飲み干す。昼間に見せる姿よりもいくぶんか高揚しているように見えた。
 ゾロは小さくため息をついてグラスに酒を継ぎ足した。小さな店には重低音が鳴り響き、夜はますます鮮やかに揺らめく。
 男が煙草とともに吐き出す吐息に酒の匂いがツン、と混じる。ゾロはわずかに身をよじり、男から一歩距離を取った。
 混沌が緩やかに深まるほど、人と人の近づく場所。昼の残像と、夜の色と。強い香水が鼻先をかすめる。
 「酒、強ぇんだな」
 「そうでもねぇ。結構、浮かれてる」
 ゾロがそう答えると男は「へぇ?」と片眉をあげた。よく見ると眉の形は珍妙に巻いていて、整いすぎた男の顔をちょうどいい具合に崩しているようだった。
 「浮かれてんの? お前が?」
 「あぁ」
 ゾロは手元のグラスを持ち上げてカラン、と氷を回し飲んだ。琥珀色の水面が揺れる。背景の音楽が混沌を飲み込んでふたりの境界を曖昧にする。心臓を揺らす重低音。繰り返すリズム。テキーラの香り。
 「……へぇ」
 もう一度、確認するように相槌を打って男はわずかに首を傾けた。かすかに充血した三白眼が、心なしか潤んでいる。埃と煙草の混じった空気が肺の隅々に満ちていく。流行りの洋楽、男女の笑い声。そういうものに混じって、ゆっくりと落ちていく。
 「なぁ、お前……楽しいのと、気持いいの、どっちが好き?」
 射すくめるような細い視線。氷にも似た冷たい色。

 

 

 

 「あ、あぁ……っ」
 鼻にかかったような甘い声が脳みその奥を揺らしていく。じんわりと汗をかいた白い背中が硬い腹の皮膚に無遠慮に吸い付く。
 「っは、……ぁ」
 不器用そうに息を吸って吐く息に合わせて腹を震わせる。四つん這いになった右手のひじは溶け出す体重を支えきれずに崩れかけている。
 「な、ゾロ……も、っと」
 ハッ、と吐き出した息が熱い。金糸が垂れて顔が見えない。酒と煙草の匂いが混じってゾロの脳みそを強引に揺さぶる。
 「もっと、奥……来て、あっ」
 言い切るのを待たずに腰を入れれば切ない鳴き声が鼻から抜けた。握り締められた両のこぶしに温度をあげた掌を重ねる。
 男の手だ。熱くて、ごつくて、乾いている。こんなにも近く、それなのに果てしなく遠かった。色の滲んだ白い皮膚。ささくれだった指先が絡む。自覚があるのか、それともないのか。空虚な心臓がドクリと脈を打ってゾロの下半身を重くしていった。
 重い。
 まるで鉛のような快楽だった。
 「ゾロ、ゾロ……なぁ、」
 懇願するように呟く口元に自然耳を寄せていく。ハ……と吐き出す短い息が厚い耳たぶをかすめていく。
 すべてが溶け出しそうな夜。
 『……ゾロ』
 なぁ。
 ――もっと、痛く、して。
 とぎれとぎれに聴こえた台詞になけなしの理性は簡単に焼き切れた。
 まるで心臓をぶつけるように自身を夜の暗闇にうがつ。
 そうして何度目かに目を覚ましたとき、隣に男の姿はなかった。

 

 


 捜査はいたって短調に進み、当然のように難航した。
 現地の警察はやる気があるのかないのか、適当な資料を寄越すだけ。
 そもそも、駐車禁止もスリもぼったくりも賄賂で解決できる国だ。仕事を真面目にこなすよりも、預かった金をくすねた方が利があるといっても過言ではない。
 その程度の生活水準なのだ。国家警察といえども所詮はイチ市民。軍部に守られているから手出しができないというだけで、この国の警察官など基本的に信用に値しなかった。
 『まぁそりゃ、俺も変わらねぇか……』
 ゾロはぼんやりと空を見上げる。あいまいな青をたたえた空には薄雲のようにもやが霞む。

 

「はっ?! あのクラブに行ったのかよ!」
 椅子から落ちるような勢いでウソップが後ろに仰け反った。驚いた拍子にグラスを倒し、あわてて袖で酒を拭き取っている。店内のBGMがざわめきを隠す。今夜もこの店は客が少ない。
 「だ、誰かに会ったのか」
 「……いや」
 ゾロは適当に言葉を濁し、差し出されたピーナツを口のなかに放り込んだ。ウソップはぶつぶつと文句を呟きながら額の冷や汗を適当にごまかす。
 この国に来て十日目の夜だった。
 今夜もうだるように暑い。通り抜ける風は昼間の熱を残し、湿っぽく喉もとにまとわりつく。
 主張ばかり強い街並みと、10メートルごとに変わる街の空気。
 洗剤は強い花の香りがして、ズボンからもシャツからも暴力的な匂いを撒き散らしている。
 知らない街。
 「誰にも、会ってねぇんだよな」
 「会ってねぇって言ってるだろ」
 「たとえば、ほら……き、金髪の男、とか」
 わずかに声のトーンを下げて、おどけたように笑って見せる。細められた瞳の奥がほんの一瞬ぎらりと光る。静かで鋭い光。有無を言わせぬ警戒の色だ。
 「――――会ってねぇよ」
 「……そうか」
 ほっ……と胸をなで下ろし、ウソップがごくりと酒を煽った。カウンターのなかから伸びた白い手が「あなたもどう?」と酒を勧める。
 「あぁ、もらおう」
 「堅物そうに見えて、遊べる人なのね」
 意外と、と付け加えて意味深に笑う。ホールから「ロビン、酒だ」と声がかかると、女は上機嫌でカウンターをするりと抜け出した。
 「あのなぁ、言ったろ? 余計なことに首を突っ込むなって」
 「知らねぇよ。たまたま入った店だ」
 ひそひそ話のように声を落とす。
 「たまたまって、なぁ……まぁいい。もう二度とその店と、あと……四区には立ち入るな」
 「四区?」
 「あぁ」
 白い平らな皿からカシューナッツを口に放り込む。それを横目にゾロが酒を煽ると、氷が「カラン」と音を立てた。
 「あの辺はいわゆるギャング街だ。日常的に犯罪が起こる。警察も軍も認識していながら、まったく手出しができねぇ。事実上の無法地帯だ」
 苦虫を噛み潰したような顔で一気にまくしたてる。
 「簡単に、金と暴力の餌食になる。ただの旅行者が踏み込んでいい場所じゃねぇ。お前がただの……旅行者の場合は、だが」
 じろり、とゾロを睨みつける。瞳の奥がなにかを探る。鋭い光。何かを検分するような。
 一秒、二秒、三秒……――
 そうして「ふぅ」と息をつく。
 「ま、自分の身は自分で守れよ、旅のモン」
 「あぁ。忠告、恩に着る」
 背もたれのない丸椅子から立ち上がると、それを見計らったようにロビンがジャケットを差し出した。金と引き換えにそれを受け取り、ゾロは店の扉を開く。小雨が降っている。
 「傘は必要かしら?」
 「問題ねぇ。すぐそこだ」
 「そう」
 くすくす笑って右手をあげる。そうして扉が閉まったのと同時に、ゾロは家とは反対の区画へと迷いなく歩き始めたのだった。

 

 

 

 街はしん、と静まり返りまるで海の底のようだった。
 暴力的な前情報とは裏腹に、辺りにはぽつぽつと街灯の明かりが落ちるだけで、街は静かに眠っている。
 トタン屋根から落ちる水滴が地面の水たまりにぴちょんと跳ねる。
 ゾロはあてもなく路地を曲がって、街の隙間に何かを探した。
 よくよく目を凝らして見れば、入り組んだ階段の下や明かりの届かない暗がりには、物乞いの老人や少年が佇んでいるのが見えた。みなうつろな目をして、空洞な感情をまとっている。
 怒りも悲しみも痛みさえも持たない、ただ通り抜けていくだけの命。
 『不気味だな』
 ゾロは思う。それは哀しみにも似た乾いた絶望だった。
 この世に同じ生として生まれてきて、いったい何が違ったというのだろう。
 俺と、物乞いと、酒屋の女と、それから――――
 ジャリ、と土を踏む音がしてゾロはピタリと足を止めた。
 背後に冷たい気配が貼り付く。ガチャリ、と鈍い音が聞こえるとこめかみに重い感触が触れた。
 「弾は、三発入ってる」
 男は声を落とし、淡々とそう言葉を告げる。雨は静かに降り続く。
 それは冷たくも熱くもなかった。
 平凡で、ありきたりな、単なる日常の延長線。
 ――自慢の料理はオムライス。
 そう言ったのと同じ音色を、夜の誘いを吹き込むのと同じ唇で。
 「今ならまだ、逃がしてやる」
 「へぇ……ずいぶんと甘ぇコックだな」
 「ッ……」
 ギリ、とこめかみの感触が強くなる。重い温度が内蔵を冷やす。
 ぼんやりと霧がかった路地裏のゴミ置き場。黒い猫が早足に通り抜ける。夜の色。
 「減らず口を叩くじゃねぇか。怖ぇのか、クソ警官」
 「どうだか。てめぇに会うときゃいつだって心臓がうるせぇんだ」
 「ふん、セックスのときは無口なくせに」
 かかとで足の甲を踏みつけ、一瞬ひるんだ隙に手首をまわす。腹部に一発ひじを入れて、後ろに飛び退きながらジャケットを探った。
 てのひらに馴染んだ鉛の感触。
 「いつから気づいてやがった、クソ緑」
 「ヤってる最中は半信半疑だった」
 「そりゃさぞかし……気持ちよかっただろう?」
 カチャリ、と乾いた音が響いてそのまましん……と静まり返る。互いに向けあった銃口は夜の闇より深く、暗い。
 「……今ので一発目だ」
 まっすぐ心臓に銃をかまえたまま、なんでもない口ぶりでそう告げる。男は引き金に右手の人差し指をあてがい、見えている片目を薄く閉じた。
 「なにを企んでる」
 「企む? ハッ……違ぇな」
 口元に薄く笑いを浮かべ、全身をわずかにこわばらせる。
 色も、音も、吸い込まれる。すべてが月に隠れた夜。
「俺はただ、俺の世界で生きるだけだ」
 ――パンッ! と響く軽やかな音色。
 雨はさらさらと降り続いている。
 すべてを闇に葬るように。

 

 

 

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