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花屋と、坂の上のレストラン

 

 

 

――あの角を曲がると、春に包まれる。

 

「今日の仕入れはどうだい、ナミさん」

 ざらついた白壁から顔を覗かせれば、甘い香りが鼻をついた。

 淡いピンクに、パステルイエロー。店先には色とりどりの花たちが季節を喜ぶように並んでいる。アネモネ、カトレア、チューリップ。目にも鮮やかな緑の葉っぱが吹き込む風にさわさわと揺れる。

店の向こうではちょうど配達に出るらしいウソップが、片手を上げて挨拶を寄越した。

「あら、サンジくん。今日は早いのね」

 丸いプランターを持ち上げながらナミが店の奥から顔を出した。抱えているのは赤色を基調に寄せ植えされたセット売りのプランターだ。ナミはスリッパを足先につっかけ、それをレジ前の鉢の隣に「よいしょ」と寄せる。

「一秒だって早くナミさんに会いたくて」

「ありがと。で、何から持ってく?」

 慣れた風に言葉を交わして、ナミが「ふぅ」と息をついた。汚れた軍手の甲で額の汗を拭う。土の入ったプランターを運ぶのは思ったよりも重労働だ。

「そうだな……かすみ草がいくらかと、ピンクの大きめの薔薇が五本。それから、小さめの黄色い花はあるかな」

 できるだけ、葉っぱが細いものがいいんだけど。

 そう言ってカウンターの前の高い椅子に腰を掛ける。そこはナミが座ると足がつかないからと、もっぱらサンジの定位置になっている場所だった。

「黄色い花だとラナンキュラスが入ってるわ。マスフラワーの薔薇に合わせるにはちょうどいい存在感ね。オレンジもイエローもそろってるからアレンジはしやすいはずよ。でも、そうね……」

 ぐるりと店内を見渡してナミがうーんと首をひねる。そうして「あ」と何かを見つけてパタパタと店先に走っていく。素晴らしく可憐な後ろ姿だ。

「これ。地味なお花だけど、可愛げのある子よ。特に主人公を立てるにはもってこい。ついでにフィラーフラワーのかすみ草に加えて、全体の繋ぎとしてムスカリかヒヤシンスなんかはどう?」

 そう言って差し出された小さな花は、微笑むようにゆらゆらと揺れた。サンジはふっ、と破顔して目の前の小鉢を優しく受け取る。クロッカス。花言葉は、青春の喜び。

「……いいね。老人会の講話に、ぴったりだ」

 そろり、と花びらを優しく撫でて慈しむように香りを吸いこむ。にこにこと笑顔を振りまくナミは楽しそうに電卓を弾く。

「あ、これウソップに運んでもらえるかい?」

「もちろんよ」

 送料は上乗せね。

 パチリ、とウィンクを投げるナミに「商売上手だね」と褒め言葉を紡ぐ。

 

 お金を払って花屋を出ると春の太陽がのぼっていく途中だった。キラキラと細かい陽の光が街を幸福の色に染めている。

サンジは鼻歌を歌いながら角を曲がって坂をのぼった。のどかな午後である。長い冬が終わりを告げ、ようやく暖かな季節が巡ってきた。

 地元の美術学校を卒業したあと、サンジはそのまま実家に戻った。すぐ隣には祖父が一代で築いたレストランがある。地域に根付いた老舗のフランス料理屋では毎日気軽なフレンチがふるまわれていた。

もともと料理は好きなたちだった。ご飯はたいてい自炊で済ませたし、休みの日には手の込んだケーキを焼くのが趣味だった。自分で食べるのも好きだったが、人に喜んでもらう方が数倍嬉しい。最初は反対していた祖父もサンジの頑固さと寄る歳には勝てなかった。

「好きにしろ」

ただし他にやりてぇことがあるならそっちが優先だ、バカ息子。

投げつけられた冷たい台詞はゼフの精いっぱいの譲歩だったのだろう。頭を下げたサンジの滑らかな背中に、軽い布生地の感触が触れる。それが真っ白なコックコートだと気づいたときサンジは大声で祖父の名を呼んだのだった。

「――よう!」

 緩むエンジン音に振り向けば、長鼻の友人がヘルメットを脱ぐところだった。トレードマークのドレッドヘアーが緩やかな風にふわりと揺れる。

「おおウソップ、さっきナミさんに配達頼んでおいた」

「あぁ聞いた。悪ィな、ちょっとスケジュール詰まっててよ。今日は午後になっちまうけどいいか?」

「もちろん、頼んだぜ。花ってやつは思った以上に繊細なんだ」

 戯れに鼻の先をぎゅう、とつまめば涙声で抗議が返る。あの花屋に通うようになって三年。もともと知り合いだったこの友人と再会して、それからだいぶ長い付き合いになってきたなと思う。

 店の飾り付けのアクセントになればいい。

 そう思って始めた趣味だった。近所で開かれていたフラワーアレンジメント教室に半年ほど通って、勧められるままに資格を取った。元来器用な性分である。学生時代に身につけた美術の下地も手伝ってみるみるうちに上達した。フラワーアレンジメントの講師資格まで取ろうと思ったのは店の経営のたしになればいいと思ったことが半分と、実際花に関わる仕事がずいぶんと楽しくなったせいもあった。人好きのする性格も手伝って、サンジの開く教室は満員御礼。今では週に二回ほど、店の閉まっている時間を利用してフラワーアレンジの教室を開きながら頼まれた仕事をこなすようになっている。

「明日は朝早ぇのか?」

「いや。講話が十時からだから、九時過ぎに届いてればいいってさ」

「じゃあ作品は俺が届けてやるよ。ちょうど空いてる時間だし。お前、昼の仕込みもあるんだろ?」

 悪いな、助かるよ。そう言って、手を振り颯爽と去っていく後ろ姿を見送る。サンジのこれまでを知る友人は、こうして少しずつサンジに優しい。

 風を掌で遮りながら咥え煙草に火を灯す。

 

 坂を登りきった先の角を曲がると大きな公園に突き当たる。それをまっすぐに突っ切ると二車線の大通りに抜けることができた。通常ぐるりと大回りをしなければならない道を、脇に逸れて入るこの道が、花屋への近道になっている。

『……ん?』

 サンジは公園の向こうの端にその視線をふと奪われた。大きな池が円を描く向こう側には古びたベンチがずらりと並んでいて、特に花見の頃になると恰好のお弁当スポットになっている。

『あれは……』

 僅かに首を捻りながらサンジはまじまじと目を凝らした。見慣れた風景のなかに浮かぶ、見慣れない光景に目が奪われる。

 ――緑?

「おい! コラてめぇ! 待ちやがれ……」

 と、地を這うような低音が響いてパッと何かが飛び出して来た。鉄砲玉のように駆け出したそれは一目散にこちら側へ突っ込んでくる。ぐんぐんと風を切って走る姿が大きくなる。何気なく手を広げたサンジに子どもは思い切り飛び込んできた。

「っと……、脱獄成功だな」

「へへっ」

サンジは子どもの後ろ襟をつかんで、息を切って追いかけてきた男に差し出した。子どもはバタバタと足をばたつかせて楽しそうに首を振る。

「あっ、おい、暴れんなこいつ」

「おいおい、そんなんじゃ子ども泣いちまうぞ」

 見るにみかねて声をかければ仏頂面の表情が返った。追いかけてきたのは緑色の髪の毛が目立つ、サンジより若い男だった。見たところ大学生くらいの年齢だろうか。サンジに声をかけられて、不審な様子でむっとしている。その顔は怒っているようにも見えるのだが、なんとなく困っている顔にも見えた。

「このチビだってなんかやりてぇことあったんだろ。それ、聴いてやったのか?」

「いや……」

 男はもごもごと言葉尻を濁しながら罰が悪そうに視線をそらした。池の向こう側では幾人かの子どもたちが「先生」の号令で少年と男の帰りを待っている。

「ア! ちょうちょ!」

「っあ、おい」

「まぁ待てよ。おいクソガキ、お前、ちょうちょ好きか」

「しゅき!」

 パァ、と光が灯るように微笑みかけられてサンジの心臓がきゅう、と疼く。胡麻化すようにわしわしと頭を撫でれば子どもは嬉しそうにキャッキャと笑った。

「じゃあ、この緑頭のお兄さんと競争して勝ったら、ちょうちょ、やるよ」

「ほんと?!」

 うわぁっと瞳を輝かせて、満面の笑みで手を叩く。よーいドンの号令も待たずに少年は列へと駈け出していく。

「あっオイてめぇ! あ、あの、すいませんでした」

 思い出したように振り返って頭を下げる男にサンジは「ちょいちょい」と手招きをする。不思議そうに近寄ってきた男の手にビニール袋をひょい、と手渡した。

「……何だ、これ」

「ちょうちょだよ」

 ふっ……と煙草の煙を吐いて意味深な笑顔を男に向ける。虚を突かれたように固まった男はきょとん、とサンジを見つめている。

 ――俺ァ男に見つめられる趣味なんかねぇよ、アホ。

「ホラ、あいつ先に着いちまうぜ」

「あっ! コラ待て! 簡単にゃ勝たせねぇぞ!」

 緑頭の男は慌ててきびすをかえし、小さな少年の後を追いかけた。キラキラと舞い散る春の光り。ガサガサ揺れるビニール袋。

――花言葉は「青春の喜び」。

「お、勝ちやがった」

 大人げねぇなと笑いながらサンジは公園を大股で横切る。春の匂いが風を彩る。大きく響き渡る泣き声が降り注ぐ光をゆらゆらと揺らしている。

 

 

 

 

 

 

 暖かな風の吹く、午後のことだった。ふらり、と花屋を覗いたサンジは店内を見回して「お?」と首をひねった。いつもと様子が、違う気がする。

「あれ。今日はウソップ、いねぇの」

「あらサンジくんいらっしゃい。そうなの、実はね――」

 うんざりしたような表情でナミが喋りはじめた。聞くところによれば、ウソップは自宅の階段でうっかり足を踏み外し全治一か月の怪我を負ったらしかった。当然配達の仕事はできず、一昨日から休みを取っているとのこと。「ほんと、おっちょこちょいなんだから」ナミはぶつぶつと文句を言いながら外のプランターをビニールの屋根の下にしまっている。こう見えて心配もしているのだろう。ちょうど手の空いていたサンジは、花の植え替えを少しだけ手伝う。

「でもナミさん、アイツいないと一人で大変なんじゃない?」

「そうなの。だから、新しい子にお手伝いをお願いしてるんだけど……あ、帰って来た」

 タタッと駆けだして行ったナミが、通りに出て「こっちよ!」と手を振っている。サンジは不思議な面持ちでその光景を見遣った。珍しい。まさか店主様直々にお迎えに上がるほどの大物だとでもいうのだろうか。一抹の不安を抱えていぶかしげに立ちあがったサンジは「あ」と思わず声を漏らした。

間違いない。

それは目を見張るほどに、鮮やかな。

 ――緑。

「よかった。帰って来ないかと思ったわ。ったく徒歩十分に何時間かければ気がすむのよ。そういうわけだから、これからひと月よろしくねサンジくん」

 ポン、と背中をはたかれて半歩前へとつんのめる。捕獲された迷子のマリモは何かに気づいたように「あ」と声を出した。

 

「ナミさんの、いとこ? てめぇが」

「そうだっつってんだろ、しつっけぇな」

 面倒くさそうに返事を返してゾロはよいしょ、と腰を上げた。カトレアの花が並んだ花瓶をショーケースのなかへと慎重にしまう。サンジはいまだ納得できない風に眉間にぎゅうとしわを寄せた。ゾロはそんなサンジを気にも留めず、黄色いチューリップの束をカウンターの上にバラバラと並べていく。

「お前まさか、変な嘘ついてナミさんに近づこうってんじゃ」

「アホか。あんなひでぇ守銭奴に好き好んで誰が近づくかよ。だいたい、小せぇ頃から見慣れたアイツの尻に今さら」

「無駄話してんじゃないわよ!」

 ゴン、と盛大な音を立ててふたりの頭にこぶができた。いってぇ……と文句を垂れながらも手先の作業を休めない。どうやら任された仕事はきっちりこなすタイプの奴のようだった。

花瓶の水を入れ替えて、枯れた葉だけをハサミで切っていく。新聞紙に落ちる葉を適度に集めてバケツに捨てる。存外に丁寧な手つきである。

サンジは鼻の下を伸ばしてナミのご機嫌を取ってから、改めてゾロの方に向き直った。カウンターに両肘をついて下からゾロの顔を見上げる。

「ふーん、ま、いいけどよ。で、こないだのは一体なんだったんだ。ずいぶんと似合わねぇことやってたみてぇじゃねェか」

「あ? あ~……」

 ぼりぼりと頭を掻いてゾロは決まりが悪そうに視線を逸らした。どうやら罰が悪いときの癖らしい。「あぁ」だか、「うぅ」だか喉を唸らせて言葉にならない声を紡ぐ。歯切れが悪い。

「……ただの、バイトだ」

「ハ、てめぇが? 子守りのか? なんでまたそんな、不釣合いに凶悪な面で」

「っ、……専攻なんだよ」

 言い返せないとでも言うようにゾロが忌々しげに言葉を吐いた。専攻? サンジは首をひねる。専攻っていやァ、あれか。大学だか専門学校だかで、自分が専門とするべき学科の……。

「……俺ァ今、保育科にいるんだよ」

 観念したようにゾロが呟く。たっぷり五秒の間を置いて腹を抱えたサンジの横顔に、ゾロの精一杯の眼光が浴びせられた。

「うるせぇ! しょうがねェじゃねぇか! ガキが好きなんだよ!」

「その顔で言うかよ!」

 顔は選べねぇだろ! そう言って喚くゾロの顔は真っ赤に染まって今にも爆発しそうである。顔は選べない。確かに。確かに、そうなのだけど――それだって他になかったのかよ……!

「はぁ……腹痛ェ……。悪ィ、あんまりにもてめェに似合わねェから、つい。気ィ悪くしてくれるなよ、夢を笑ったわけじゃねぇ」

「……別に、いいけどよ」

 ふい、とそっぽを向く横顔はまるで拗ねたガキだった。ガキどもの世話の前にてめぇのその顔どうにかしやがれ。思ったけれども、言わないでおく。

 サンジはごそごそとズボンのポケットを探って煙草の先に火を付けた。カチッ、と音を立てて灯った炎がいつもの匂いを空気に溶かす。

「あんたは」

「ん?」

 咥え煙草で目を遣ればゾロの視線がふわりと絡んだ。その先はやがて、サンジの左手へ。薬指の甘い締めつけが、意味深な様子でキリリと疼く。――痛い。

「子どもでも、いるのか」

「……なんで」

なんか、慣れてたから。

 そう言ってまた下を向いて手元の作業に視線を戻す。

 他人に必要以上に深入りしない。横顔から伝わるその姿勢をサンジはとても好ましく思った。

 

 

 

 サンジには、妻がいた。

 今から四年も昔の話だ。

 あの頃サンジは日々学校の課題と卒展の準備に追われ、まるで人生をかけているような気持ちになって全てを創作につぎ込んでいた。

 相手は三つ年上の社会人。

式はサンジの卒業を待ってから。

順調だったはずの約束はいつしか、会えない時間に上書きされていった。

 それでも本気で好きだったと、言い訳のように繰り返す言葉はただ空虚に宙を舞う。

 子どもができたと聞かされたのはそれから間もない頃だったと思う。

 相手は会社の先輩だという。

 目の前でガラガラと音を立てて崩れたように思えた幸せは、実際には静かに、穏やかに、そしてずっと前から、淡々と歯車を違えていただけだった。

 大切にすることは、想いではなく行動なのだと。言い募った彼女の言葉がひたひたとサンジの心臓を締め付けた。

 あれから、四年。

一瞬とも永遠とも言える時が過ぎてもなお。

サンジは恋をすることができないでいる。

 

「――指輪。気になるか?」

 ニィッと笑った口端から紫の煙がふわりと零れた。ゾロは大して興味もなさそうに視線をはずし「別に」とぶっきらぼうに言葉を吐いた。

 そんなものさっさと捨てちまえと、友人たちは口々に言った。

 若きに任せたどんちゃん騒ぎはサンジの気持ちをいくぶんか軽くもした。ちょうど卒業の雰囲気も加わってあの頃は毎晩のように飲み歩いた。

 だけどなんとなくつけっぱなしにしてしまった薬指のリングはまるで自分への戒めのようだった。ふと、襲う思い出の洪水は時折ギリギリと心臓を締め付けた。

 大切に、できなかった。

 それは傍から見ればごくごく仕方のないことで、だから誰もサンジを責めたりはしなかった。

 だけどどんなに騒いでいても、ふっ……と姿を消してしまうサンジの背中に、重い十字架が背負われたことを、誰もどうすることもできなかった。

「懐いてたろ、あんたに」

「あ?」

「子ども、あのとき」

 ショーケースから花瓶いっぱいのアイスランドポピーを取り出しながらゾロがさらりと口を開いた。サンジはカウンターに肘をついたまま咥え煙草を上下に揺らす。

「あのくらい普通だろ。つうか、てめぇがおっかなびっくり過ぎんだよ」

 はァ、と溜め息をついてポピーの仕分けに加勢する。オレンジ、オレンジ、黄色、オレンジ、白、白、オレンジ、黄色。

「……どう接していいか、わかんねェんだ」

 途方に暮れたように、ぽつりと。

 夕暮れの子どもみたいな背中で言うから、サンジは何も言えなかった。

 ただ黙って花を仕分けるゾロの指が思ったよりも太いこと。無理やり着せられた小さめのエプロンが思いのほか似合っていることが、サンジには何となく悪くないことに思えていた。

 

 

 

 

 

 

 さらさらと筋を描くように降る雨が時折「カン」と硬く跳ねる。太陽を遮るグレーの雲間から弱い光が降り注いでいる。

 10名クラスの教室を終えてサンジは窓際で一服しているところだった。近所の奥様たちに声をかけて始めたフラワーアレンジメント教室は、あれよあれよと人数が増えて、今では三ヶ月先まで予約が埋まっている。

丁寧な指導と柔らかな物腰は彼女たちに定評があった。加えてそれなりに見栄えのする背格好である。みな口々に「サンジ先生みたいな人が旦那だったらいいのに」と冗談まじりに柔らかく口説いた。

 サンジはそれを笑って受け取り、小さなブーケをそっと結わう。レディはみんな、可愛い存在。だからこそ特別を選べない。

明かりの落ちた店内には花の香りが微かに残っていた。机に落ちた切花のかけら。はさみで切られたオアシスのくず。サラサラと流れる雨粒を視線で追ってサンジは小さく息を吐いた。

「……ん?」

 店の前の大通りには車がひっきりなしに往来していた。雨の日は特に多いのだ。対向車線の車が跳ねた水が白い軽自動車のフロントガラスを濡らしている。

サンジはその通りの向こう側に何かを探すように目を凝らした。歩道橋の渡された道の端にはガードレールが続いている。向こうの通りには民家が多く、低い塀が途切れ途切れに並んでいた。晴れの日にはその塀の上を伸びやかに歩く、野良猫の姿を何度も見た。

「チッ、あいつ」

 これみよがしに舌打ちを零してサンジはスタスタと扉に向かう。ビニール傘を開きながら踏み出した街は、しんと春の気配をにじませていた。

「おい! クソガキ!」

 道路の向こうへ届くようにと精一杯の悪態を空へ放つ。しかし呼ばれた男は全く気付かない様子で、キョロキョロと辺りを見回していた。出がけに雨は降っていなかったのだろうか。頭から濡れた格好のままうろうろと、しかし大して困ってもいない風で呑気に細道を覗いていたりする。

『バッカ、んなとこに道なんかねェよ!』

 揺れる階段を駆け上り、天空の橋を小走りで抜ける。カン、カン、カンと響く音が雨音に混ざって音楽のようだった。

 春の雨のシンフォニー。

 もうすぐ、喜びの季節。

「おい! コラ待てよ、クソ迷子野郎」

「……あぁ?」

 訝しげな様子で振り返った顔は完全に極道のそれだった。おうおうそれでよく子どもの仕事になんか就けると思ったよなと、サンジは知らず頭を抱える。

「なんだよ、あんたか」

「なんだよじゃねェよ。てめぇ、ずぶ濡れじゃねェか。頭の芝生が根腐れすんぞ。配達は終わったのか」

 ゾロはコクリ、とうなずいてまっすぐにサンジを見る。その視線に特段意味はないのだろう。それでもサンジは一瞬たじろぐ。嘘のない目だ。背格好は自分とほとんど変わらない。

「あ~……そこ。うちの店」

「あ?」

「クソッ」

 サンジはじろりとゾロを見て、それからふっと視線をはずした。咥え煙草から煙がのぼって灰色の空気にふわりと溶ける。

「寄ってけ。てめぇが風邪ひくのはどうでもいいが、使いもんにならなくなっちまったらナミさんが可哀想だ」

 ま、馬鹿は風邪ひかねェって言うけどな。

 煽るように付け加えれば「うるせェ誰が馬鹿だ」と悪態が返った。

「オラ、ついて来い」

 くるりと踵を返したサンジの二歩後ろからゾロが続く。しとしとと降る春の雨が傘から半分はみ出したサンジの肩を暖かな色に濡らしている。

 

 

「よーしよし。ホラ、迷子の迷子のマリモちゃん」

「ッ、いいよ。自分で拭ける」

 嫌がるゾロを押さえつけマリモ頭をわしわしと乱す。脱いだ紺のジャケットを背もたれにかけて、乾いたジャージを投げて渡した。店内の空調を強めに入れながら、「それ、貸してやるから着替えろ」と指示を出す。テーブルに置かれた黄色いコーヒーカップからは、ほかほかと湯気が立ちのぼっている。

 厨房の電話でナミにゾロ捕獲の連絡を入れて、サンジはゾロの待つフロアに戻った。サンジが高校生のときに使っていた、今はパジャマとして使っている緑色のジャージを着たゾロは、退屈そうに窓を眺めてインスタントのココアをすすっている。

「お前……全身マリモだな」

「は?」

 不機嫌そうに見上げる瞳に文句の言葉が見え隠れする。サンジはそれを適当に誤魔化してテーブルの上に散らばった切花の破片を片付け始めた。

「で、いつ配達に出たんだ? どうせしばらく迷ってたんだろ」

「あ? あ~……おおかた、11時すぎくれェか」

「オイまじかよ……お前、本物のファンタジスタだな」

 サンジは店内の時計を見遣ってそれと同時に目を見開いた。ただいま午後16時15分。花屋を出てからからおよそ5時間が経っている。

「ファ、……そりゃどういう意味だ」

「いや、考えなくていい。つうことはてめぇ、昼飯、喰ってねェのか」

 切り落とされた葉っぱを集めてビニール袋のなかへとばらばら落とし入れる。使い終わったはさみをしまってテーブルクロスを丁寧にたたむ。

 毎日毎日、繰り返される日々。

 似たような風景、似たような感情。

 思い出したように頷いたゾロにこれみよがしに溜め息をつく。

「……飯。作ってやるから、ちっと待ってろ」

 それを壊すのはひどく怖くて、昨日と同じように今日をなぞり書きしていく。

 

 はふはふと熱い息を吐いてゾロがスプーンを口に含んだ。咀嚼する時間も惜しいように次から次へと口へ運ぶ。おかわりあるからゆっくり食べろと、たしなめる言葉は右から左だ。まるで獣のような食いっぷりにサンジも思わず苦笑いを零す。

「どうだ、クソうめぇだろ」

「うめェ」

 なんのてらいもなくそう答え、ゾロはまたスプーンを掲げた。白い平皿はカチャカチャと音を立てるけれど作法など今はどうでもいいことだ。

 輝くような白米にはディナー用に煮出した海鮮の出汁が絡んでいた。余ったエビやカニのくずから、いくらかの身をほぐして入れる。新鮮なキャベツと玉ねぎはできるだけ細かくみじん切りにした。スイートコーンとベーコンを入れて炒めれば即席海鮮チャーハンの出来上がりである。

「アンタ料理もできんのか」

 ゾロは夢中で頬袋をふくらませながら何気ない様子でサンジに問うた。向かいの席で煙を燻らせていたサンジは『お』とゾロに注目を向ける。確か、こないだもそうだった。相手のことを知るための質問がポロリとゾロの口から零れる。こんなにも他人に興味のなさそうな男が、サンジのことは気になるようだ。

「まぁな。小せェ頃から店を手伝ってたから、ひと通りのことはできるつもりだ」

 答えてしまえば大して興味もないように「ふぅん」と適当な相槌が返った。お供につけた中華スープを、器からそのままゴクゴクと流しこむ。

三杯目。

「お前は。どうして、子どもだったの」

 何気ない風に質問を投げればゾロの視線が一瞬とまった。チャーハンに突き刺した銀色のスプーンが音もなく静かに動きを止める。緑色のジャージに身を包んだマリモは静かに手元を見つめている。

あれ、聞いちゃいけねぇ話だったか?

「……小せぇ頃、幼馴染が死んだんだよ」

 なんでもないような口ぶりで、ゾロがぽつりと声を零した。サンジは別段驚きもせず頬杖をついて耳を傾けた。さらさらと流れる雨。無秩序に揺れる、紫の煙。

「あんとき、俺ァ子どもってモンの無力さを痛いほど味わった。大人は誰も助けてくれねぇ。だったら俺は……一人ぼっちの孤独を知っている俺は、ガキを助ける役目を、この無力な世界で担わにゃならねぇような気がしたんだ」

 さらりと零した鈍色の台詞が雨の音に混じって消える。窓に落ちる雨粒はあみだくじのように雫を集めて落ちる。子どものゾロの、まっすぐな瞳。きっとあの頃から、なにも変わらない。

「……へぇ。そう」

 サンジは窓の向こうを見つめたまま紫の煙を横へ流す。スプーンのあたるカチャカチャという音がレストランのフロアにこだまを残す。キリキリと締め付けられる薬指。キラリと光るシルバーリング。春の雨は表情も変えず透明な水たまりに落ちて、揺れる。

 

 

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