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ファインダー越しの未来

夏  ― 出会い1 ―

 

 

出会いは、衝撃と共に訪れた。

「おーいウソップ、課題終わっ――」

がらっ、と大げさに引いた引き戸がいつものところで突っかかる。

聞き飽きたセミの声が背景の夏色を濃く染め上げていた。

絵の具に汚れたリノリウムの床。無造作に立てかけられた白いキャンバス。

いつも通りの見慣れたデッサン室には壊れた扇風機の乾いた羽音が響いていた。

「……あぁ、悪ィ。先約か?」

「あ、いや――」

ぽたり、と汗の落ちる音がした、ような気がした。実際には音など聴こえるはずもない。

むせ返るような、夏の匂い。

「すぐ、片付ける」

「あ、え? あ、いや、そうじゃなくて……それ、……すげぇな」

高い天井を仰け反って見上げ、サンジは思わずそう零す。

丸く開いた蒼い瞳に飛び込んで来る、赤、青、紫の極彩色。

「……そうか」

愛想のない生返事は今思えばこいつの精一杯だったはずだ。

「てめェが、創ったのか」

「あぁ? これか? あァ、まぁ」

「ここの学生か?」

「彫刻科、4年」

怠そうに立ち上がりながら、散らばった布を拾い上げる。筋肉の目立つ上半身は黒いTシャツに包まれた。頭に巻いた白タオルを剥ぐと、緑の頭をがしがし撫でる。

「ロロノア・ゾロ」

ぽつりと落ちた小さな言葉が、広い部屋にしんと響いた。

――ゾロ。

「あ~……乾くまで置かせろ。どうせ提出は明後日だ」

「そりゃ別に構わねェけど、ここァ俺の部屋ってわけじゃ、」

サンジの台詞が終わるのも待たず、ゾロは静かに部屋を出る。

「あっ、おいお前、4年って俺と同じ――」

ふいに立ち止まった「ロロノア・ゾロ」が、眩しい光のなかに振り返る。太陽の光がキラキラと舞っていた。セミの音色が僅かに遠のく。

「編入だ。――よろしく」

背景を彩るコンクリートの打ちっぱなしがやけに明るく白を放っていた。

濃厚な夏の気配。

サンジはしばらくそこを動けぬまま、天井に伸びる「塔」をただただ静かに見上げていた。

 

 

 

「それでよ、俺はカヤに言ってやったんだ。『世界一の油画師になって、世界中の色を集めてやる』ってな! どうだ、かっこいい……おい、聞いてっか?」

怪訝に眉をひそめたウソップの長鼻がサンジの額にずいと近寄る。小首を傾げ見つめる表情はきっと女の子がすれば最上に愛らしいはずだ。

「……なんか、心外なこと思ってねェか?」

「ん、……あァ、いや、別に」

思ってた。全力で。

サンジは小さくため息を吐いて、立ち上がった。昼をまわった食堂には学生たちがわいわいと集まり始めている。

「あ、おい待てよサンジ、3限講義?」

「サボる」

「おいおい大丈夫かよ、来週テストだぜ」

お前やりゃあできるんだから、卒業くらいしてくれよ~?

駆け足で後ろに続くウソップが聞き飽きた台詞を吐く。緑濃いキャンパスのレンガ道。セミの声がシャワーのように降り注いでいる。

「カヤちゃん。元気?」

「あぁ! 元気元気! 相変わらず編み物ばっか作ってっけどな。この暑ィのによぉ。巻かれる俺の気にもなってみやがれってんだ」

「はは。……幸せそうだな」

「そう見えるか? ふん、間違いねェな」

自慢げに腕を組み、長い鼻下を指でこする。

えらく浮かれたウソップに半ば無理矢理近所のファミレスに連れ出されたのが、ちょうど2年前。虚勢ばかり張りたがるこいつに似合わない可憐な美人に、サンジはいたく感動して腰をくねらせた覚えがあった。

あれから。病状は、一進一退。

上がっては下がる数値に踊らされながら、毎日のようにウソップは病院に通っている。

「なァ、ところで、さ。ウチって編入制度あったっけ?」

「んぁ? あァ、3年次編入のことか」

「3年……?」

「そう。まァ、そんなに数は多くねェみてェだけどな。美大なのにあえて学校変わる必要のあるヤツがそもそも少ねェんだろ。それより、自分の技術だしな。あ、ホラ噂をすれば」

ウソップが指を差した先、美しいオレンジ色の毛先が揺れる。

「んナぁぁ~ミすわぁ~ん!!」

「あら、サンジくん。と、ウソップ。何してるの?」

「愛しい貴女を求め大学という名の鳥かごの中を彷徨い歩く僕はまるでおとぎ話の王子様、はたまた」

「あぁハイハイわかったわ。あ、サンジくん、またおいしいおやつ持って来てね」

「もっちろん喜んで!」

いつの間にか膝まづいた膝には青々とした芝が張り付いた。本望である。

「ウソップあんた4限出るでしょ? ちょっと、ノート取っておいてよね」

「おいナミ、そんなの自分で」

「あら? 来週のテスト問題、教えてあげたの、誰だっけ?」

うぐ、と喉を詰まらせたウソップにひらりと手をふり去っていく。去り際に、サンジに向けてウィンクを飛ばすことも忘れない。それだけであの「バラティエ」のお菓子がたんまりと手に入るのだから、ウィンクのひとつやふたつ、ナミにとっては安いものなのだ。

芸術学科に所属している彼女は編入当初から異彩を放っていて、学内でもやたらと目立っていた。授業よりも自身の「仕事」に忙しなく動き回る彼女に対しても、当初から教員たちは文句のひとつも言わない。

ナミはこの美大では比較的珍しい、服飾デザイナー志望の学生だ。

とはいえこの春に編入してきた時点で、既に随分と名を上げていたのが本当のところである。どうしてわざわざ編入したのかと問えば「無名よりは有名な大学の方が信頼されるから。要するに、学歴ロンダよ。あと、ヒマな学科に来たかったのもあるわね。私にはのんびり学校に出てる余裕なんてないから」と言ってのけた。布を幾枚も重ねて作り上げられる彼女の美しいシルクドレスはどれも、ひとつひとつが深い物語を紡いでいるかのような存在感である。

「じゃ、このあと打ち合わせだから。楽しみにしてるね、サンジくん」もう一度振り返り、満面の笑顔を咲かす。

実力勝負なのだ。要するに。

ナミに向かって手を振りながら、サンジは再び小さく嘆息する。

芸術の世界は、表現をすること、と同時並行かそれ以上のスピードで、自分を売り込む才が必要だった。売り込む、というと聞こえが悪いがつまりは自分のことを相手に「伝える」手段を磨かねばならないということだ。

実用品でもない限り本来芸術品など「あってもなくてもいいもの」なのである。それで人様から金をいただいて食っていくだなんて、そこには相当の覚悟か、もしくはいっそ何も考えないくらいの、突き抜けた何かが必要だった。

――俺は未だに、どちらにもなりきれない。

「なんで編入の話?」

「え?」

ふと我に返ったサンジの瞳に、不思議そうな視線が映り込んだ。小首を傾げるその仕草。女の子だったらさぞ可愛らしかったことだろう。デジャブ。

「あ、あァ。いや。編入って、……目立つよな?」

「そうだな、割と。まぁナミはさすがに目立ちすぎだから、4回生のサンジが知ってんのも頷けるけど、それでも同学年の編入生だったらだいたい知ってんじゃねェか? ……なんで?」

当然のように質問が返った。ウソップの黒い瞳がこちらを見据えている。

「いや――」

サンジはウソップから視線を逸らし、手持ち無沙汰に胸ポケットを探った。

紫の煙が空に登って、爽やかな晴れ間を毒色に染める。

「おっ、と。いい時間だ。俺、4限までに病院行って来るからさ。じゃあなサンジ。授業出ろよ」

「考えとく」

囁かな苦笑いを残し、ウソップは去った。

 

なんとなく、名前は言い出せなかった。

 

 

 

サンジは都内の美大に通う4年生である。所属している映像技工科は、動画、静止画、舞台映像など世のあらゆる「映像」を扱っている学科だ。サンジはここで人物ポートレイトを専攻している。

ポートレイトは一番身近であるがために芸術として昇華させることが非常に困難な分野でもあった。人を相手にするだけに、写真の構図や対象設定といった技術に加えその瞬間の「関係性」が何よりも重要な構成要素となる。「物事の本質に迫る観察眼を持ちなさい」とは赤髪の教官が常日頃から口癖にしている台詞だ。

サンジがこの学科に入ったのは、将来への大きな野望があった、というわけでは決してなく、かといって腕を見込んでアドバイスをくれた大人がいた、というわけでもなかった。「写真は好きだし、家から近い」という理由はどちらかと言えば「なんとなく」に近かったし、それでも要領の良さで4年生までは上がったものの、写真の勉強よりは断然、女の子と遊ぶ方が楽しかった。

小学3年生の時に一度だけ、都の写真展で入賞を飾ったことがある。

「働く人」というテーマにサンジは、祖父のゼフを被写体に選んだ。ゼフはここら辺りでは名の通ったパティシエで、一代で築いた「パティスリー・バラティエ」は国内外で開催されるお菓子の展覧会で受賞の常連を飾るほどの有名店だ。

パティスリーの朝は早い。写真を撮るために早起きをしたサンジがその低い目線から見上げたゼフは、生クリームを真剣に絞り出しながら、少し煤けた茶色になって今でも厨房の壁を飾っている。

 

「課題、出さねェとなぁ……」

ウソップのいなくなった中庭で、誰にともなく独りごちる。

4年生の夏ともなれば座学の講義はほとんどなくなり、卒業制作に向けた本格的な下準備を始めろと指導教官がせっつき始める時期である。卒業を迎えた学生が全員出展する卒業展は、舞台、映像、彫刻、油画など多岐に渡る分野で毎年3月に開催されている。一般にも公開され盛況となるこのイベントからもわかるように、その程度には歴史のある学校だった。

3年後期に配属されるゼミで制作課題を決めるまでがだいたい半年。そこから4年生の1年間で卒制に向かってじっくり準備していく、……というのは表向きの流れだ。学生が焦り始めるのはたいがい秋頃になってからで、むしろ学生最後の長期休みだからと、最後の夏を満喫するヤツらが半分、就職活動に勤しむヤツらがもう半分だった。本気でアーティストとして食っていけるかどうかなんてこの時点でもう互いにわかっていて、そういうヤツらは海外に飛んで単位だけ取りながら修行を積んでいるか、そうでなきゃナミさんみたいに既にどこかに所属して作品を作り続けているのだった。

 

サンジは、その、どのコースにも乗りそびれていた。

 

やる気はない方だったけど、不真面目ではなかった。だから取れる単位はそれなりに取ったし、女の子と遊んだ次の日でもシャッターは切った。持ち前の要領の良さで合格点に引っかかる程度の作品を作ることもできたから、良くも悪くも特段目立った方ではなかっただろう。「個性の味付けが足りない」「訴えかける何かがない」それがサンジの作品に与えられる、いつもの評価だった。

『個性って、言われても……』

65点のついた評価用紙を握り締め、サンジは静かに奥歯を噛む。撮りたいものを撮る、それだけで楽しかったはずの「写真撮影」は、今や及第点を撮るための試行錯誤になり変わっていた。

 

最後に写真を撮ったのは、春の学内展用の課題だったか。

サンジはぼんやり空を見上げる。夏の蒼に、紫煙が溶ける。親指と人差し指で作った窓から、白い雲がフェイドアウトして行った。

 

サンジはしばらくファインダーを覗いていない。

 

 

 

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