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APARTMENT301

 はがれかかった白い壁。無骨な鉄筋コンクリート。螺旋を描く外階段は降り出した雨を受けてカタカタと揺れる。
 電気の切れかかったエントランスを抜けるとセメントの階段が上へと続いていた。三階建ての小さなアパート。壁がなく直接風が吹き込んでくる廊下は、しん、と静まり返っていて固い靴裏の音がやたらに響く。
 最上階のいちばん手前、階段をあがりきってすぐに見えて来るくすんだ青色の扉に手をかける。呼び鈴がないからそのまま開いた。鍵はあいている。
 「……ノックくらい、しろよな」
 白い煙を吐きながら男がこちらに笑いかける。ゾロは「悪い」と言葉を零し「……入ってもいいか」と喉を鳴らした。

 

 

 

 二か月間の舞台のためゾロはアパートを探していた。
 故郷を離れて10年め。役者の武者修行を心に決めて身一つで都会に出てきたことを昨日のことのように思い出す。最初の頃はアルバイトをいくつも掛け持った。新聞配達、弁当屋、八百屋のレジに夜のホテルの清掃員。あいた時間は稽古に費やし、寝る間も惜しんで役づくりに没頭した。
 ここ最近ではずいぶんと役者の仕事に専念できるようになっていると思う。役者以外の仕事といったら時折友人に頼まれる深夜の警備くらいだった。大して売れているわけではなかったが、無名なりに場数をこなし仕事はまずまず順調だった。
 この街にやってきたのはこれが生まれて初めてのことだった。都心から電車を乗り継いで四十分。交通の便が悪いわけではないがこれといった観光名所もない。用事がなければ来ないようなこの場所に演劇用の小さなホールがあった。
 「それだったら、ルームシェアなんかどうだ」
 長い鼻をさすりながら男がゾロに提案を寄越した。引っ越しの一週間まえ、現地の不動産屋につれられて物件をいくつか見学しているときだった。
 「ルームシェア?」
 「そう。なるべく安く、多少条件が悪くても防音を重視で、ってことだろ。安い物件だとどうしても構造が甘くなりがちなんだ。それだったらいっそ、シェアの物件で家賃を下げた方が合理的なんじゃねぇかな、と思って」
 多少条件は悪くなるけど、と念を押すように不動産屋が言葉をつなぐ。ゾロは数秒考え込む恰好をして「じゃあ、それで」と返事を返した。

 「おまえ、役者なんだって?」
 コポコポとお湯の沸く音がして男がおもむろに立ち上がった。荷物は小さなスポーツバックがひとつだけ。それを適当に部屋に置いて誘われるがままリビングルームの椅子に座っている。
 「ウソップから聞いた」
 「ウソップ?」
 「あれ、おまえ会っただろ。このアパート紹介してくれた不動産屋だよ」
 ああ、と低く声を漏らす。もともと人の顔を覚えることは得意な方ではなかった。弁当屋で店のおばちゃんから「常連には声をかけるもんだよ」と口を酸っぱくして言われていたことを思い出す。覚えていないのだ、必要のないことは。だから役者になったとき、最初に作ったのはお客用のノートだった。声をかけてくれた客、手紙を送ってくれた客、何度か顔を見ている客。そういう、ひとりひとりを大切にできるのは小さな規模の劇団ならではだった。決して華やかな舞台ばかりではないが、この距離の近さは嫌いではない。
 ゾロはぼんやりと天井を見つめて一週間まえのことを思い出した。あの、鼻の長い不動産屋。確かに、覚えている。
 「堅物そうだけど悪い奴じゃない、って紹介されたぜおまえのこと。なんか、職人みたいって」
 「あの野郎……」
 別段気を悪くしたわけでもないが反射的に悪態がこぼれる。男は目を丸くしてそれから「ははっ」と楽しげに笑った。
 「なんだ」
 「おまえ、いいな」
 「あ?」
 んーん、なんでもない。
 機嫌がよさそうにそう言って、白い煙を天井へ流す。男がコップにコーヒーをそそぐと香ばしい香りがふわりと広がった。

 

 


 年季の入った外観からはそれとわからないくらい、室内は広々として別の空間のようだった。白を基調とした内装、使い勝手のよい家具、天井には空調用のファンがまわっている。まんなかの共同スペースを挟むように、それぞれの部屋への扉がついていた。部屋は中から内鍵がかかり、それぞれの生活空間は半分独立している。
 去年の暮れに内装だけ作り変えたのだと、なぜだか鼻の長い不動産屋が自慢げに話していたのを思い出す。家賃は普通のアパートの相場より1割程度安い。部屋も見ずに即決したが確かにここは良物件に思えた。
 ゾロはぐるりと部屋を見渡して「へぇ」と小さく声を出した。共有のキッチンスペースとダイニング、それから隣にはソファとテレビが備え付けられている。向こうにはガラスの引き戸があって小さなバルコニーもついていた。晴れた日には洗濯物も干せそうだ。
 「結構いいよな、ここ」
 ゾロの視線の意味を読んでか男がそうしゃべりかけてきた。自分の分のコーヒーをいれてテーブルの向かいの席につく。
 「そうだな」
 「おれもさ、ルームシェアってどうかなって思ってたんだけど」
 男は一週間前にここに越してきたらしい。サンジ、と名乗った金髪は近くの店でコックをやっていると話した。
 「よかった、相手がおまえで」
 にこり、と笑ったのだろうか。
 うつむき加減に前髪が落ちて、どんな顔をしているのかわからなかった。

 

 

 

 翌日から稽古がはじまった。五日間の通し稽古が終わると宣伝を兼ねた報道を入れてのゲネプロが待っている。本番は来週の日曜日からだった。
 ゾロは毎朝7時に起きて駅に向かって自転車をこいだ。二駅分電車に揺られて劇場のある街に着く。駅にひとつだけの改札を抜けるとさびれた商店街が目に入る。赤ちょうちんの並ぶ裏路地は夜にだけわずかに賑わいがもどる。昼間はしんと静まりかえった街はまるで草陰に息をひそめる獣のようだった。
 駅前のさびれた道のりを抜けて5分ほど歩くとぽっかりと小さな劇場が見える。ドーム型の珍しい形の劇場だ。そのまわりには街の雑然とした風景とは馴染まない、洋館風の建物がぽつぽつと並んでいた。前任の市長が張り切って、劇場を中心とした区画整理計画を立てていたらしい。それも市長の不祥事でとん挫して、結局は中途半端なまま放られている。張りぼてみたいな街だった。
 「おはようございます」
 「あ、ロロノア、ちょうどよかった。きみさ、昨日変えた台詞のところなんだけど――」
 こうして日常がはじまっていくことをゾロは心地良いと思う。

 

 

 

 「なぁ、おまえの舞台の初日っていつなの?」
 珍しく早く起きてきたコックがゾロにそう話しかけてきた。ここに暮らし始めて四日目の朝のことだった。朝も夜も活動時間はゾロの方が早く、普段はあまり顔を合わせない。一度飲み会で遅く帰ったときに、寝室に入る後ろ姿を見かけたくらいである。
 サンジはまだ眠いのか、パジャマ姿で目をこすっている。
 「日曜日」
 「へぇ……」
 なにかを考えるような間があって、サンジは片方の人差し指をピンと伸ばした。いたずらを思いついたような顔をしている。
 「飯、作ってやろうか」
 「あ?」
 「飯。言っただろ? 俺はコックなんだって」
 「そりゃあありがたいが……どういう風の吹きまわしだ」
 ゾロは眉間にしわを寄せてサンジに疑問を投げかけた。初日の祝いに、ということなのだろうか。確かにその日は本番のあと解散の予定となっていて、特に誰かに誘われもしない限り、晩ご飯は駅前のしょっぱいラーメンになる予定である。
 「おまえどうせ、ろくなもん食ってないんだろ。朝ごはんも食べずに出かけやがって」
 「……それはそうだが、お前にとやかく言われるつもりは」
 「おれ、月曜は店が休みなんだ」
 ゾロの言葉を遮るようにサンジがふわりと言葉を重ねる。
 「日曜日は、帰って来いよ。飯、食わせてやるから」
 それだけ言うとニッと笑って、眠そうにあくびをしながら寝室へ戻る。ふわふわと揺れる金髪が朝陽に透けて光って見えた。

 

 

 

 初日は成功、といってよかっただろう。江戸の悪人の人間模様を描いた脚本はよくできており、二回目となる今回の再演には前回ついた客もかけつけているようだった。
 ゾロがキャスティングされたのは、主人公と敵対している盗賊団の二番手の役だった。お頭の意に沿い働きながらも、善と悪のあいだで揺れる難しい役だ。台詞が少ない分、表情での演技に重きが置かれる。後半へと向かう幕の途中で、己の善を貫くためにお頭を裏切るこの役は、決して派手ではないものの物語のかじ取りを握っている重要な存在ともいえた。
 ゾロは心地よい疲労感を背負って家までの帰路についた。まだまだ、やれることはある。しかし今持っている全力は尽くしたという自負もあった。胸に残るのは暖かな拍手の波と、ほろ苦く爽やかな後悔の色。
 二駅分電車に揺られて、ホームからふと空を見上げる。半月になった月の光が夜空をほんのりと夏色に染める。
 明日は雨が降るかもしれない。頬を撫ぜる生ぬるい風がほんのわずかにべたついていた。この長い梅雨が明ければすぐに、あの夏がやってくるのだ。太陽がギラギラと照り付け、アスファルトを焦がす夏。セミの声と、祭りの音頭と、花火の光に満ちた季節――
 ゾロはふっと頬を緩めて家までの道を歩き始める。カラカラと自転車のタイヤがまわる音がする。夜空にぼんやり霞がかかる。
 誰かが家で待っているのは、少しだけ、悪くない気がした。

 


 「おかえり」
 ガチャリ、と扉を開けると香ばしい匂いが鼻をついた。ゾロは一瞬面喰って「……ただいま」と声をかける。
 「ほら、突っ立ってないで入って来いよ。初日、おめでとう」
 「あぁ……」
 ありがとう、と言葉にはしないでゾロはゆっくり靴を脱いだ。
 正直、予想以上だった。
 ダイニングの机に並んでいるのは、色とりどりに湯気を散らす名前の知らない料理ばかり。
 「すげぇな、これ一人で作ったのか」
 「当たり前じゃねぇか。本業だぜ?」
 眉根をわずかにはの字に下げてサンジがてきぱきと料理を運ぶ。背中を押すように座らされて、琥珀色のシャンパンが差し出される。
 「一応、お祝いだから。焼酎はあとでな」
 「なんで知ってんだ、おれが焼酎好きって」
 「え?」
 サンジはぽかんとゾロを見て、それから何気ない風に呟く。
 「だって、そういうのってわかるもんじゃないかな? 見てれば、なんとなく」

 


 料理はおかしいほどに美味しかった。見たことのある素材ばかりのはずなのに、食べたこともないような味付けに仕上がっている。
 何より、酒が進む。少しだけ濃い味に仕上がっているのは焼酎に合わせることを前提としているからだろう。その微妙な気遣いにゾロは思わずため息をつく。
 「お前……本物だな」
 「はは、なんだよそれ。コックに本物も偽物もあるかよ」
 そう言いながら嬉しげに笑う。
 サンジはどうやら洋酒が好きらしく、ひとりでウィスキーを傾けていた。小さいグラスとはいえロックで3杯目だ。酒は強いのかと聞いてみたら「そうでもないよ」と答えが返る。たぶん、強いのだろう。
 「どうだった? 舞台」
 ルッコラとバジルソースを生ハムで巻いた串ざし――長ったらしい名前は忘れた――をつつきながら、サンジがそっと言葉をかけた。
 「あ? あ~……」
 ゾロはしばらく天井を見上げて困ったように頭をかく。
 「悪くなかったと、思う」
 「なんだそれ」
 サンジは困ったような笑顔でからからと笑って酒を飲んだ。4杯目。
 「……うまく言えねぇんだよ、改めてそう言われると」
 「あぁ、おまえ、口下手って感じするもんな」
 「あぁ?」
 ゾロが不満げに喉を鳴らすとサンジは笑ってくしゃりと頭を撫でた。ゾロは一瞬目を丸くして思わず跳ねた心臓の音を聞く。
 「な、っにすんだ、ガキじゃねぇぞ」
 「わかってるよ。こんなおっさんくさいガキがいてたまるかよ」
 自分で言った言葉がつぼに入ってサンジがまたけらけらと笑う。酔っぱらっているのかもしれない。もともと柔和な印象が、もっとふにゃふにゃと和らいで見えた。なんだ、こいつ。ゾロは思う。こいつとこんなに話したのも、そういえば、初めてのことだった。
 「まぁ、でもこれで満足ってわけじゃねぇな」
 ごくり、と喉を鳴らして透明の酒を流し込む。サンジはすかさず瓶を傾け6杯目の酒をなみなみと注いだ。
 「後悔、というよりも目標、だな。今できる全力は尽くした。でも、これが頂上ってわけじゃねぇ。客はその舞台を見るためだけに、生活の何かを削ってやってきてるんだ。たった1回の失敗が、その客にとってはすべてだったりする。俺は自分のエゴのために芝居をやってるって、自覚がある。でもそれだけじゃねぇんだって、最近ようやく思いはじめたんだ」
 はっ、とため息を吐くようにゾロは小さく息を継いだ。足かけ10年、それでもなんとかこれで飯を食ってきた。プライドと、傲慢さと、かすかな自信。そういうもろ刃の剣を抱えながら、それでも真摯に向き合い続けるしかない。
 「……ちょっと、しゃべりすぎたな」
 しゃべり終わると急に恥かしさを覚えて、ゾロは小さく言葉を紡いだ。夜風が窓をカタカタと揺らす。明日はきっと雨が降る。
 「いや、」
 わかるよ。
 サンジがぽろりと言葉をこぼす。それは夜の空気に溶けて、いつの間にか、見えなくなった。

 

 

 

 それからも日々は淡々と続いていった。
 ゾロは毎朝7時に起きて、電車に乗って舞台に向かう。公演は一日に2回。昼の部と、夜の部をこなして舞台が終わるとまた電車に揺られる。
 サンジとは相変わらずほとんど顔を合せなかった。サンジが何時に家を出て何時に帰っているのか、本当のところはよくわからない。
しかしあの初日の夜から、日曜の夜と月曜の朝だけはふたりで一緒に食卓を囲むようになっていた。
 朝食の時間が増えたのは、ゾロの「朝から食欲わかねぇよ」のひとことからだ。サンジはちょっと見ない怒り方をした。「信じらんねぇ、人として終わってる」とあきれたようにゾロを見下ろす。さすがにそれにはカチンと来て、なにかを言おうと口を開いたところで、「月曜の朝はおれが飯作ってやるよ」と何かしらの決定が下った。
 「はい、ゾロいってらっしゃい」
 背中のほこりをそっと取ってサンジがひらひらと片手を振る。耳にかけた金髪が右だけぴょこりと跳ねている。ゾロはそれをちらりと見遣ってそのまま外へと扉を開く。夏の光がキラキラと降る。
 いつの間にか、梅雨が明けた。

 

 

 

 

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