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約束の台詞

青色の海が、あたりを包んでいる。
ゆらゆらと揺れる波に合わせて、透明なうろこがキラリとひるがえる。
分厚いガラス越しに見えるその小さな海には、明日の朝食になることも知らないのんきな魚たちが、ひらひらと優雅に泳いでいる。

「ちょっ・・・と、おい待てって、ルフィ・・・っ!」
「やだ、待てねぇ。」

固いソファーの上では、この船の船長が、線の細い男に馬乗りになっている。
ふぅふぅと吐き出される息は荒く、件の膠着状態がしばらく続いていることを示していた。

船長の腕に組み伏されて悶えているのは、黒足と呼ばれる、この船のコックだった。
薄桃色のシャツははだけ、そこから色白の胸元がのぞいている。

「だから、・・・なんべん言ったらわかるんだ!だめっつったら、ダメだ!」
「いいもダメもねぇ!俺がしたいんだ!」
「っ・・・、あのなルフィ、」
「何も聞かねぇ。したいからする、それだけだ!」

船長は思いつめたように歯を食いしばり、はだけた色白の胸に顔をうずめようと、力を込める。
コックはその頬を、全力でぎゅうぎゅうと押し返す。

「はぁ・・・、意味わかんねぇ。キスならさっき、・・・してやったろ。」
「違ぇ!それとこれとは別だ!」
「あァはいはいそうですか、・・・わかったから、とりあえずいっぺん退けろって。」
「やだ!サンジお前逃げる気だろ!」
「っ・・・、・・・じゃどうすりゃいんだよ、」
「だから!俺にキスさせろって、言ってんだろ!」
「・・・だめだ!ダメっつったらダメ!わかったらさっさとそっから降りろ、クソゴム!!」

頭ごなしに罵声を浴びせかけながら、困ったように目をそらす。
大きく舌打ちを打ったその頬はしかし、僅かに赤みを帯びている。




キスさせろ。

扉を開けるなりそう言い放った船長が、勢いサンジに“突進”してきたのは、つい数十分前のことである。
夕食の片付けが終わり、分厚い本を片手に煙を燻らせているときだった。
なんの説明もなしに飛びついてきた船長は、青い海を背景に、力任せにじたばた暴れまわった。

精一杯の抵抗でなんとか押し戻し、荒く息を吐き出す船長を、ソファの隣に座らせる。
切羽詰った眼差しが、サンジの瞳をまっすぐに射すくめていた。

『こいつ、・・・何、考えてやがる?』

いきなり襲いかかるように抱きついてきて、キスもなにもないだろう。
だいいち、サンジの思う「キス」と、ルフィの思う「キス」が、果たして同じ直線上に存在しているのか、サンジにはよくわからなかった。

・・・ガキなのか、本気なのか。

船長の熱っぽくうるんだ瞳を見つめて、サンジはしばし、逡巡した。
しかしその瞳には、戸惑うコックの吐き出した紫煙が、もやもやと揺れているだけだった。


「・・・・・・わかった。・・・5秒だけ、目ぇ瞑れ。」

観念したコックが、ため息混じりに承諾の言葉を吐き出す。

一瞬で目を輝かせた船長の、四方に跳ねた艶やかな黒髪に指を通す。
そしてほんの少しだけ、こちらに向かって引き寄せた。


「っ・・・ばか、終わりだ。目ぇ開けろ。」

約束の5秒よりも少し長めに唇を重ね合わせたサンジは、自分に言い聞かせるかのようにそうつぶやいて、立ち上がる。
そのまま足早に立ち去りかけたサンジを、船長のよく伸びる両手が、さっと掴んで引きずり下ろした。





「・・・だから、さっきもしたじゃねぇか。」

困惑の滲んだサンジの声が、広い部屋に響き渡っている。

まだ、夜も浅い。

それぞれの船員は、夜の穏やかなひとときを、思い思いに過ごしているのだろう。
誰かがふいに、助けに来やしないかと思った直後に、こんなところ誰に見られるのもたまったもんじゃないと、即刻その考えを取り下げる。

特に、あの、仏頂面の気難しい男・・・。


――・・・こんな姿、ゾロに見られたら・・・


「違う!キスを、されるのと、するのじゃあ、全然違う!」
「違くねぇよ、」
「違ぇ!!」
「・・・はぁ、ったく・・・。どこが、どう違うんだよ、ルフィ。」

呆れたようにため息を吐き出すサンジの様子を気にも留めず、船長はいっきに、言い放つ。

「手に入れたいもんには、自分で手ぇ出すのが海賊だ。・・・お前は、俺のもんだ!サンジ!」

真上から突き刺さった船長の鋭い視線に、サンジは思わず言葉を詰まらせた。



一瞬の隙をついて、船長の熱い唇が、サンジの首筋に押し付けられる。

逃げる間もない素早さだった。
その色白の首筋が、ほんのりと紅色に染め上がる。


「・・・っクソゴム、てめぇ、・・・っ!」
「黙れ。もう、・・・黙って俺に、キスされろ。」

いつもより低く響いた声色に、心臓がドクリと大きく脈打った。

思ったよりもずっと柔らかい唇が、高い鼻先に、紅潮した頬に、湿った上唇に、焦れたような口づけを堕としていく。
その厭に丁寧な触れ方が、逆説的に、サンジの色欲を煽った。
ふと油断をすれば、頑なに閉じた口元から、甘い母音が零れ落ちてしまいそうだった。

「っ・・・お、おい、・・・なぁ、・・・なぁって、んっ、ッ・・・」
「・・・まだ、終わってねぇ。」

耳元で響いた低音に、ビクリと腰が跳ね上がる。

そこが弱いと知ってか知らずか、ルフィは執拗に、耳元に唇を重ねていく。
その思わぬ心地よさに、サンジはいつの間にか目を瞑り、無意識に感覚を研ぎ澄ませていた。
甘く噛み付かれるたび、意図せず漏れ出す吐息には、微かな情欲が絡んでいく。


なされるがまま全てを許しかけたサンジの胸元に、船長のつるりとした右手が入り込んだ。

「っ・・!ちょい待て、待っ、・・おい!ルフィ、」

はっと我に返ったサンジは、慌ててその手を制止する。

「それは、・・・ダメだルフィ。」
「なんでだ、」
「おまえ、・・・自分が何しようとしてるか、わかってやってんのか?」
「どういうことだ?」

サンジの質問に、きょとんとした瞳が答える。


あぁ、たぶんこいつ、

・・・わかってねぇ。


「・・・あのな、そういうのは、“オトナ”になってから、やるもんだ。」
「なんだそれ?」
「いいか、・・・セックスっつうんだ、こっから先は!てめぇ、・・・キスだけじゃ足りなくなったんだろ。ガキのくせに・・・。できもしねぇことやんじゃねぇよ、ったく・・・。」

ぽかんと口を開けるルフィをよいしょと押しのけて、重たい煙草に火をつける。
煙を吐き出しながらソファに座りなおしたサンジは、金色の髪の毛をガシガシと掻きむしり、隣の船長をチラリと見遣る。
船長は、どこか納得のいかない表情で、まっすぐにサンジを見据えている。

「セッ・・・?」
「・・・あぁいい、あんまり考えるな。あと誰かに聞くんじゃねぇぞ。」

特にあの、マリモ野郎には、絶対に。

「なんでだ?」
「いいから、黙って言うこと聞けよクソゴム。」
「ずりぃぞお前だけ!」
「わかったわかった、喚くなうるせぇ、・・・俺がそのうち、教えてやるよ。」
「・・・・・・、それなら、いい。わかった。・・・おいサンジ、約束だぞ。」

約束、ね。

船長のその一言が、どのくらい重たいのかを知りながら、サンジは曖昧に喉を鳴らした。
肯定も否定もしなかったことが、唯一今、自分に対する言い訳だ。

果たして自分は、どこまで守ってやれるのか・・・。


そろそろ、キッチンには、あの剣士がやってくる時間だろう。
首筋の薄紅色に触れ、小さくため息を漏らす。


よれたシャツを直しながら立ち上がり、扉に向かったサンジの背中に、船長のまっすぐな声が響き渡った。

「サンジ!いいか、約束だからな!」

サンジは扉に手をかけながら、一瞬ぎくりと立ち止まる。
その胸が微かにぞくりと波立ったのを、サンジは慎重に、見ないことにした。




( 完 )

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