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ヴィンスモークの夢の続き

 カツ……。

 固い革靴で床を踏むと、乾いた靴音が天井に響いた。古い真っ赤なカーテンの隙間からは薄い月明かりが差し込んでいる。

 胸ポケットから煙草を取り出し、埃っぽい空気とともに肺へと流し込む。反射的にこぼれた咳に、サンジはわずかに眉を寄せた。

 扉から入って右手の壁には、古いアップライトピアノが忘れ去られたように置いてある。がらんどうの部屋のなかで、それは時を止めて佇んでいるようだった。かつて泣きながらバイエルをたどった、幼い思い出がよみがえる。サンジはかすかに苦笑いして埃をかぶったフタを押しあげる。滑らかな白い鍵盤と、吸い込まれるような黒鍵の整列。それは記憶のままそこにあって、相も変わらず無機質だった。人差し指で鍵盤を押しさげると『ポン……』と見知った単音が揺れた。「真ん中のド」はわずかに色をくすませて、記憶の底から音を響かせる。

 ジェルマ66――

 サンジが足を踏み入れたのは、悪名高い「殺し屋」のアジトだった。二十数年前、追跡を逃れてこの地にやって来てからというもの、この森の奥で平和に存在し続けているらしい。サンジは静かにため息をつく。巨大な屋敷の周りを取り囲む、鬱蒼とした森も曇った空も見知ったそれだ。

「呼ぶなら、掃除くれぇ……しとけ」

 ピアノの上のフォトフレームを手に取って、サンジはふう、と息を吹きかけた。ぽつりとこぼれたつぶやきは、煙とともに揺れて、消える。

 戻りたくもない過去の残像。忘れたつもりの冷たい感触。

 サンジはそっと目を閉じて、森のざわめきに耳を寄せる。

 大きな手のひらにおさまった、見覚えのある集合写真。金に透ける髪の毛とぐるりと巻いた妙な眉はみなそっくりで、ひとめで家族とわかってしまう。固い表情の兄弟に挟まれて、真ん中できょとんと見上げる瞳。かっちりと黒スーツを着込んで立ち尽くす少年は、ほかでもない、サンジ自身だった。

 

――――――

 

 「おいチビナス、さっきの客を伸したのはてめぇか」

 地響きのようなうなり声が扉の向こうから聞こえてくる。サンジは小さくため息をついて、扉にかけた手を緩める。

扉の向こうは厨房になっていて、調理の音が漏れ聞こえていた。じゅうじゅうと肉の焼ける音や、皿のぶつかる「カン」という甲高い音。

 「あぁ。むかついたから締めといた」

 「ったくてめぇは何度言ったら……!」

 バン! と勢いよく扉が開かれる。途端、凶悪な瞳と目があった。このレストランのオーナー、ゼフだ。ゼフは頬を真っ赤に染めて、今にも噴煙でも上げそうな顔をしている。

 「客は大事に扱えと、なんべん言ったらわかるんだ、チビナス!」

 「あぁ? あっちが先に手ぇ出して来たんだろうが。おれァ悪くねぇ!」

 床に落ちた咥え煙草が、ジュッ、としみったれた音を立てる。ふわふわとのぼる白い煙は、ふたりのあいまを漂って、消えた。

 

 

 

 海上レストラン、バラティエ。

 東の海の端に漂うこの一見おちゃらけた船は、海に浮かんだ一流レストランだった。

 新鮮な魚介と、島で調達した瑞々しい野菜のかずかず。腕のいいコックたちは、目にも鮮やかな美しいメインディッシュを作った。

 「海のうえに美味しいレストランがあるらしい」

 噂は噂を呼び寄せて、各地の海から客がやってくる。

 サンジがここで働くようになって、十年とすこしが過ぎていた。

 着の身着のまま乗り込んだ船で、命を守るため雑用を請け負った。そのうちにコックたちに可愛がられるようになって、自然と料理の腕が身に付いた。

 ようやく静かに生きていける。そう確信しはじめた頃、突然の嵐にみまわれた。不幸は畳み掛けてくるのものなのか、そのうえ海賊船にも襲われた。

 「……いまなんて言った、このガキ……!」

 海賊船の船長はなぜだか青い顔をして、サンジのことを見下ろしていた。わけもわからず海に放り出されて、死ぬほどの飢餓を味わった。

 同じ「夢」を目指しているという。

 助けられた船のなかで口にしたオレンジの、かすかな甘みをサンジは一生忘れない。そしてどんなヤツにも飯を出してやるレストランを開こうと、それはふたりの夢になった。

 

 

 

 サンジはふてくされながら、ベッドにごろりと横になった。キッチンから出て行けと怒鳴られることなど、日常茶飯事のできごとである。ぼんやりと天井を見上げると、見慣れた染みが目についた。ひとつ、ふたつ、みっつ。この船が完成して最初にこのベッドに寝たとき、それが怖い顔に見えてしまって、涙をこらえたことを思い出す。

 暖かい食事、暖かい布団。

 そんなものが自分に与えられるだなんて、サンジはこれっぽっちも思わずに生きてきた。

 騙し、騙され、あざむいて、己のいのちを必死で守った。

 あの頃、誰かのせいにするには世間を知らなすぎ、運命を呪うにはサンジはまだ幼かった。

 与えられた仕事を着々とこなすこと。それが「生きる」ということなのだと、物心つく前から痛いほど知っていた。

 サンジはヘッドレストに手を伸ばし、赤い表紙の本を手に取る。

 『オールブルー』

 擦り切れかけた金色の箔押しが、窓からの光にチラリと光る。

 サンジはそれをゆっくり開いて、両手で掲げて天井の光を遮った。

 もう何度も開いてすっかり型のついてしまった真ん中のページ。左右に広がった別世界には、一面の青と美しい珊瑚礁が夢のように広がっている。

 

 

 

 階下が騒がしくなりはじめて、サンジはのそりと体をあげた。

 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 また喧嘩でもやってやがるのかと、ジャケットの襟を直しながら螺旋階段を下りていく。

どでかい大砲の音が響いたから軍艦でもやって来たのかもしれない。サンジは黙ってため息をつく。どうせまた、箸にも棒にもかからねぇヤツだろ。

 チリリとこめかみに痛みが走ってサンジは眉をわずかに寄せた。大切なものを守るためなら、こんな汚れた命なんか惜しくないと思った。

 

 

 

 

 「ずいぶんと暴れてんだな、てめぇ」

 ふいに声をかけられて、サンジは静かに足を止めた。ちっぽけな海兵を一匹と、海賊の手下を蹴散らしたあとだった。

 「……あぁ? なんだてめぇ、雑用の仲間か」

 サンジは両手をハンカチで拭きながら、扉を後ろ手にバタンとしめる。雑用とは、つい数時間前に船に飛び込んできた、麦わら帽子をかぶった妙な男のことだ。船の修理代が出せないからと、厨房でのアルバイトを始めたらしい。

 サンジはちらりと「そいつ」を見やって、どうでも良さげに煙草をふかした。そこには緑頭の男がひとり、壁にもたれて立ち尽くしていた。ずいぶんと態度がでかいように思える。立ち上る煙はゆらりと揺れて、毒が空気に溶けていく。

 「じじぃのヤツ、てめぇにずいぶんな言いようだったじゃねぇか」

 「あんなの……いつものことだ。おら」

 トイレの扉を開けてやりながら、サンジは男にあごをしゃくった。「便所はここだ」そう言って、その場を立ち去ろうと前を通りすぎる。

 「うちの船長にもずいぶん気に入られてんだな、てめぇ」

 「知らねぇよ。おれァここを出てく気はねぇんだ」

 短く息を吐き捨てて、通り過ぎざまに男を見やる。男はまっすぐにサンジを見たまま、なにかを見極めるように目を細めていた。サンジはわずかに息をつめて、そのまま男を見返した。見透かすような視線が刺さる。永遠のような十秒間。

 一体こいつは、なにを考えているのか。

 「……お前ら、」

 「あ?」

 「しばらくここに、いるんだろ」

 サンジは声を押し殺して男に一歩近寄った。

 だったら――

 耳元に向かって吹きかけた声が、船底の波音に溶けて、消える。

 そしてなにごともなかったかのように、サンジはまた廊下を進む。

 風はわずかにいきおいを強め、船を上下に揺らしていた。

 

 

 

 

 ギッ、ギッ、ギッ……と音を立てて足音が近づいてくるのがわかった。

 サンジは天井を見つめたままで耳をそっとそばだてる。足音はなにかを探しながら、部屋の前で立ち止まった。風の音が強くなる。

 「――入れよ」

 そう声をかけると、扉がギィ……と音を立てて開いた。扉の隙間から月明かりが差し込んで、細い光が筋を伸ばす。波がざぶんと船を揺らす。風がびゅおうと吹き込んでくる。

 「来たのか」

 「来いって言ったのはそっちだろ」

 男の影が長く伸びて、サンジの影とゆるく交わった。昼間のできごとが頭をかすめる。扉が小さな音を立てて閉まる。夜が永遠に落ちてくる。

 「……なんで呼ばれたか、わかるよな」

 サンジはそっと手を伸ばし、男の喉の隆起に柔らかく触れた。見た目よりも滑らかな皮膚は、しっとりと右手に馴染んでいく。自分よりも高い体温。三連のピアスがしゃらりと音を立てる。

 「興味ねぇな」

 男はこともなげにそう言うと、サンジの右の手首を掴んだ。男のてのひらはすっぽりとサンジの手首を覆ってしまう。サンジは思わず腕を引く。動かない。

 「船長が仲間を増やしたいってんで、どんな野郎かと見に来たんだよ。あいつは言いだしたら聞かねぇヤツだからな。……てめぇ、いつもこんなことやってんのか」

 男はしごく淡々と、ただ事実を告げるようにそう言った。サンジはぐ、と喉を詰め、目の前の男を睨み上げる。

 心臓の拍動が痛みに変わる。まじわる視線。真っ白な沈黙。

 こんな間合いは、はじめてだ。

 「……だったらなんだって言うんだ」

 やっとのことでそれだけ言って、苦し紛れに目をそらした。幼い頃、ただ生きるために男どもに取り入ることを覚えた。レディを傷つけることなどできなかった。顔すら覚えていない野郎どもの、下衆た笑い声が鼓膜にこびりついている。

 蔑むような声が聴こえる気がして、サンジは無意識に目をつむった。男が掴んだままの右の手首が、じんじんと熱を持っている気がする。熱い、熱い、……いたい。

 「べつにおれァ、お前らと一緒に行きてぇわけじゃねぇ。軽蔑するなら勝手にしろ」

 吐き捨てるようにそう述べて、チッと短く舌打ちをこぼす。今夜の勝率は二割と踏んでいた。部屋まで来たのにも正直驚いたのだ。堅そうな野郎だと思っていたのに、案外軽ィな……などと思っていたら。なんだ、船長のため? 笑わせるよな、ふざけんな。

 拒絶されることには慣れていた。所詮自分など使い捨てだと知っていた。誰かに裏切られることなんかに、いちいち傷ついてなどいられない。

 昼間のじじぃの言葉がリフレインする。『そいつらと一緒に海賊になっちまえ』――

 おれは必要のない存在なんだ。

 「わかったら、さっさと」

 「酒はねぇのか」

 「……あァ?」

 男はサンジの腕を離してすたすたと部屋のなかに入っていった。手近な丸椅子を見つけ出して、どかり、と横柄に腰を下ろす。サンジはぐるりと巻いた眉をひそめて、男の真意をはかりかねる。いまこいつ、なんて言った? 酒を……飲む気、なのか?

 「つまみもありゃあ最高だな」

 「……なんのつもりだ」

 「言っただろ。てめぇを見に来たって」

 男はこともなげにそう述べて、丸椅子に座ってサンジを見上げた。小窓から差し込む月明かりが男の頬を黄色く染める。窓ガラスを風が叩く。夜が永遠に続く気がする。

 「あぁ、それから」

 男とはふと思い出したように目を見開いて、なんでもないように口を開いた。「昼間の飯、うまかった」そして屈託なく、口端をあげてニッと笑った。

 

 

 

 

 翌朝、酒が残ったあたまで目が覚めると、窓の外を霧がおおっていた。

男は適当に飲んで、話して、そしてなにもせずに船へと戻っていった。

 剣の道を極めるために海へ出たのだと男は言った。名前は、ゾロ。変な名前だと笑ってやれば、てめぇの眉毛よりゃマシだと言葉が返る。同い年の気安さなのか、それとも汚い部分を最初に見られた諦めなのか。男とこんな風に過ごすのは、正直はじめてで不思議な心地だった。それでも「ゾロ」といる時間は、悪いものではなかったように思う。

 二、三日この霧は続くらしい。サンジは金髪をかき上げて、窓の外をぼんやりと眺めた。窓ガラスにうっすらと映る自分の顔に、短く乾いたため息をつく。この顔も、声も、髪の毛も……まるで呪いだと、そう思った。

 殺し屋一族の三男坊。

 その重たすぎる看板は、サンジが生まれた瞬間に背負っていた運命そのものだった。冷静で頭のキレる長男と、なんでも腕力に訴える次男。彼らは生まれたときから「殺し屋」の道義を背負い、それはまた幼いサンジとて同じことだった。

 透けるような金の髪は母親譲りで、ぐるりと巻いた眉は父親譲りのそれだった。裏社会では恐怖を込めて「カリスマ」などと呼ばれた家族は、しかし到底一般社会でなど生きてゆけるはずもなかった。ねぐらを転々と変えていたのも、裏側で生きるには仕方のないこと。ひとところでじっくりと何かを育てるには、決して十分な時間だったとは言えないだろう。

 箸よりはやく拳銃を握り、文字よりはやく騙しを覚えた。兄弟たちがまるでゲームのようにひとを手にかけていくのを、無感情で眺める日々。

 長男は父親から十分な教育と厚い手ほどきを受け、次男は長男に反発しながらもまたすべての技術を教わった。ふたりがライバルのように腕を磨くなか、一方のサンジは「父親」からはもっとも遠い存在になっていた。

 ――オールブルー。

 いつしかサンジは本のなかの、とある海の虜になった。

 父親の書斎のいちばん奥、もう読まれなくなった古い本が打ち捨てられたその場所に、古く分厚いその本は忘れ去られたように積み重なっていた。

 すべての海の生き物が集まる、幻の「海」。

 サンジは毒薬の名称を覚える代わりに、その本を繰り返し読みふけった。

 父の帰りを待つ母親の美しさと、賢くて強い兄弟たち。それなのにどこか置いてきぼりだったサンジは、夢見がちで、ぼんやりとした、なにを考えているかわからない子どもになった。

 その頃にはすでに少年へと育っていた長男や次男は次第に「殺し」の頭角をあらわしはじめていた。父親はふたりにかかりっきりで、幼いサンジに目をかけていなかったこともあるだろう。

 ある夜、「オールブルー」以外の「すべて」をその屋敷に置いたまま、サンジは宵闇に姿を消した。

 殺しの技術はとんと覚えなかったサンジが、唯一兄たちに勝つことができたもの。

 広い屋敷を縦横無尽に走り回った、それはかつての「かくれんぼ」と同じだった。

 

 

 

 酔いのまわった頭のまま、ふらふらとキッチンの扉に手をかける。なかからはジャアジャアと水の流れる音が聴こえてきて、それにカンッ! とフライパンをたたく音が続く。

 「おせぇぞ、チビナス」

 「うるせぇ、まだ誰も起きてねぇだろうが」

 そう言いながら、蛇口をひねって手を洗う。レストランの朝は早い。

 仕込みをするのはいつだって、オーナー・ゼフが一番乗りだった。

 

 

 

 

 その夜も、そしてその次の夜も、男はのこのこと部屋にやってきた。

 最初に酒をやったのがまずかったらしい。男はとんだ大酒飲みだった。来るたび「酒」と当然のように酒をせびり、おかげでサンジはそのたびつまみを作ってやるはめになった。

 「てめぇら、どうするつもりだよ、これから……」

 サンジはほとほと呆れて声をかける。どうやら美味いモンを食ってないばかりか、壊血病のことすら知らなかったらしい。そんなんでよく海賊やろうと思ったな、とこぼすと「海に出たほうが強ぇ奴がいる」とこともなげに言葉が返った。

 つくづく、馬鹿野郎だ。

 「まぁ、どうにかなんだろ。船長が言ってんだ。それに、おれァもっと強くなる」

 「そういう問題じゃねぇだろ。あ~……ほら、か弱いレディだって乗ってるわけだし……」

 どことなく歯切れの悪い自分自身にサンジは「チッ」と舌を打つ。べつにこいつらがどうなろうが知ったこっちゃない。夢を追いかけて海に出ることが、どれだけ過酷かなんて語るまでもないだろう。

 おれは死ぬまで、ここにいるんだ。

 「てめぇはいいよな、自由で」

 思わず口をついて出てきた、言葉にサンジはぎょっと目を見開いた。思ってもみない言葉だった。いや……思っても言わないようにしていた、言葉なのか。

 「……悪ィ、忘れてくれ」

 「自由ってのァ、てめぇで決めるこったろ」

 男はぐび、と酒をあおってそれからぷは、と息を吐いた。もうすぐ酒瓶が一本空になるというのに、顔色ひとつ変わらない。獣みたいだ。

 「誰かに縛られてると思うのは勝手だが、そんなの責任転嫁の言い訳だろ。てめぇの人生くらいてめぇで決めろ。だから海に出たんじゃねぇのか?」

 箸でひょい、と漬物をつまんで奥歯でボリボリと噛み砕く。透明な酒をつるりと飲み込んで、「ごちそうさん」と席を立った。

 「またあしたくる」

 「もう二度と来るんじゃねぇよ、クソマリモ」

 そうしてバタリ、と扉がしまって、あとには波の音だけが残った。

 

 

 

 

 

 体を重ねるようになったのは、海に出てしばらく経った頃だ。

 仲間がひとり、ふたりと船を降りた、あの、しめった心細い夜。

 「ひとりか」

 後ろ姿に声をかけると、ゾロは左目だけでちらりとこちらを見遣った。

 海には高く波が立ち、満月の光を散らしていた。

 「……あいつらは」

 「ナミさんとチョッパーは一緒に飯食うってよ。不安なんだろ。ルフィはひとりで部屋にこもってる」

 ふぅ、と細く煙を吐けば、海からの風にすぐに消える。ざざん、ざざん、と寄せ来る波がなぜだかしくしくと心臓を刺した。

 「そうか」

 ゾロはそれだけ答えて、寄せ来る波に視線を移した。揺れては押し寄せ、ぶつかっては消える。いきもののようなその繰り返し。

 誰かとずっと一緒にいられるなんて、甘ったるい幻想だ。

 「――なんであのとき、抱かなかったんだ」

 サンジはゾロの背中を見据えたまま、煙を吐くように声を絞る。あてつけのような台詞だった。月が波間に揺れている。風がざわりと頬を撫ぜる。心臓の音がうるさいくらいだ。

 「……おれのこと、見てなかっただろ」

 腹の底から響くような声で、ゾロがぽつりと言葉を吐いた。

 波間を漂う光のようだった。不安定で、心もとない。

 あぁ、そうか、こいつも。

 「怖ぇのか」

 サンジがこぼしたその言葉に、かえる返事は聞こえなかった。ただもう一度振り返った視線が、熱に濡れているのをサンジは、見た。

 「ゾロ」

 なぁ。

 「おまえがいい」

 遠慮がちに伸ばした手を、熱っぽい手のひらがぐい、と引く。

 コンクリートに乱暴に押し付けられて、真上からゾロの視線が落ちた。いつものように、まっすぐに。怖いのは、いったいどっちなんだろう。もう誰かがいなくなるのは嫌だ。

 「後悔すんなよ」

 「そんなの……最初からしてる」

 ニヤリ、と笑った口元を噛み付くような口づけが塞ぐ。苦しいような息継ぎの合間に、シャツのあいだから手のひらが入り込む。ガチャガチャと音を立ててはずされたベルトが千切れるほどに引っ張られる。

 「あっ……」

 ひやりと触れた指先が焦ったように先端をしごく。伸びた爪が皮膚を引っ掻く。いつのまにか口端は切れていて、薄い血の味が舌の上に広がった。

 ピアスがしゃらり、と鳴く音にサンジはごくりとつばを飲んだ。波の寄せる音に紛れてぐちゅぐちゅと淫猥な水音が溶ける。サンジはぎゅ、と目をつむる。痛い、痛い、……はやく、ほしい。

 「あっ、あぁ……っ」

 唾液で濡らしただけのそこに、ゾロが無理やり侵入してくる。「待った」も「やめろ」も聞きそうにない。まるでおびえた獣みたいだと思って、サンジの心臓はキリキリと痛む。

 「やっ、あ、ぁ……あぁ、ッ」

 抑えきれない声が零れる。風はますます強くなる。

 「ゾロっ……ゾロ、……あ、ぁっ」

 「おまえ、もう……どこへも、行くな」

 途切れ途切れに聴こえた声に、わずかな独占欲がにじんだような気がしてサンジは目を開けた。絶対に自分以外になにかを求めない男の、それは初めて見せた「弱さ」だった。

 サンジは歯を食いしばり、そして唐突に夜へと果てる。

 しめった風の吹く寂しい夜。

 あっけない、はじめてだった。

 

 

 

 

 「う、ぐっ……」

 意識の底から見たゾロの背中は、ひどく広くて余計に怖くなった。

 ――行くな……。

 届かない声を振り絞り、最後の気力を振り絞って叫ぶ。

 ――行くな……行くな……!

 だんだん小さくなる背中を見据えながら、サンジの意識は遠のいていく。

 ほんの一瞬振り返ったように見えたのは、死神の見せた幻影か。

 バーソロミュー・くまに連れられて、ゾロはサンジの前から遠ざかる。

 ゾロ……「行くな、」ゾロ……。

 

 

 そうして次に起きたときに、ゾロの姿はそこになかった。

 

 

――――――

 

 

 「――ここにいたのか」

 カツ、と靴の響く音に、サンジは耳だけを傾けた。手にとった家族写真のなか、まだなにも知らない瞳が無垢な色で見上げている。

 「どこにいようと勝手だろ。ここはおれの家だ」

 ふぅ、とこれみよがしに煙を吐き出してフォトフレームをもとに戻した。水色のキルト生地の敷物のうえで、にこやかに微笑む一家の長。あの頃と変わらない穏やかな声。そうだ、この声に叱られたことがある。

 「仕事だ、サンジ」

 なにげない声で告げられる命令。後ろ手に握らされた冷たい拳銃。これから起こることを知りながら、サンジは黙って煙草をふかす。

 「うまくやれ。おまえはおれの息子だ」

 そう言って、静かに足音は遠ざかった。バタン、と扉がしまってから、サンジはぼんやりと天井を見上げた。

 『決まってんじゃねぇか――』

 あの声が、まなざしが、死ぬほどに恋しいと、そう思った。

 

 

――――――

 

 

 二年の月日はサンジを強くし、そして一味を強くした。
 身につけたのはただちからで押すだけではない、柔軟でしなやかな「強さ」だった。
  「なぁ」
 酒をあびて寝こけるマリモにサンジはふと声をかける。大きな戦いが終わったあとだった。あんなに嬉しそうに戦うこいつをひさしぶりに、見た。背中合わせに敵を睨んで、いちにのさんで飛び出した。息はぴったり合っていた。二年のブランクなどなかったようだ。
  「なんであのとき、おれを抱いたんだ」
 煙を吐くようにそう述べれば、ゾロはむくりと体を起こした。ぼりぼりと苔頭をかきながら、「あー」と天井を見上げてつぶやく。キラキラと光がふっている。ゾロのマリモ頭にも、サンジの美しい金糸にも。
  「そんなの、決まってんじゃねぇか」
 おもむろに手を伸ばし、サンジのあたまを引き寄せて首筋にキスを落とす。それから額に口付けて、名残惜しいようにまぶたにもう一度。こんなにも甘やかされるだなんて、あの頃は考えもつかなかった。照れていいのか笑っていいのか、それでも……悪い気がしないのはどうしてだろう。
 ゾロがそっと耳打ちする。三連のピアスがしゃらりと揺れる。ふっ……と笑ったゾロの唇に、今度はサンジからキスをする。
  『おれが離れていかねぇって、証明だろ』
 天井に広がった青い海がキラキラと光を落としてきらめいている。色とりどりの魚が踊る。
 それはまるでオールブルーみたいだと、サンジはその瞬間、確かに思った。

 

 

 

 

 

 

 

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