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鉄格子の青

泣く子も黙る、七武海。死の外科医、というふたつ名に、震え上がらないものはいないだろう。
トラファルガー・ロー。
キレる頭に、鋭い眼光。効力範囲内の対象を「好きに操ることができる」という奇妙な能力は、幸か不幸か、一味そろって実際に体験済みである。

もはや見慣れた万年寝不足の隈を浮かべ、ローは僅かに目を見開いた。
「・・・これは。」
「おぉ、トラなんとか野郎!いいとこに来やがった。そこ座れ、今日はてめぇが主役だろ?」
金髪のコックが、こともなげにそう言い放つ。
船の大きさに比して広々としたキッチンに、所狭しと料理が並んでいる。それらはどれも色とりどりに輝いて、甘く香ばしい香りを立てている。
「おらクソ野郎ども!主賓のお出ましだぞ!つまみ食いばっかしてねぇで、さっさと席につきやがれ!」
「おー!トラ男!遅ぇんだもんよー、俺待ちくたびれちまったよ~。」
「何が待ちくたびれただクソゴム野郎、全然待っちゃいねぇじゃねぇか。ったく次から次へと・・・」
「おいクソコック、酒だ。」
「てめぇはあとだ、クソマリモ!さきに主役が飲むんだろうが!」
「・・・ふん。」
緑頭の剣士が、じろりと外科医をにらみつけた。どうも、酒が飲めないことよりも、コックに特別視されていることの方が、気に入らないという風である。
「・・・なんの、騒ぎだ。」
トラ男はそんな視線にも構わずに、先ほどから目の前にそびえる「それ」を、ただただ唖然と見つめていた。
真っ白いクリームが塗りたくられている、甘い香り漂う、巨大な物体。
これは、おそらく・・・
「ケーキ、・・・か?」
自分の身長の1.5倍はあるだろうその「食べ物」に、ローは怪訝な表情を向けた。
テーブルに出されている大量の料理といい、このどでかいケーキといい、いったい、どうしたというのだろう。

一味の異様なお祭り好きさ加減については、客人であるローもよく知るところであった。
何かにつけて宴を開きたがるきらいのある船長に、最初はえらく振り回された。なんたって、身の危険を伝えた次の瞬間に、いきなり宴を始めてしまうのだから。
こいつらは、本当に、ただのバカなんじゃないか・・・
深く物事を考えているようで、実は行き当たりばったりのことも多いローである。さすがに今回の同盟は失敗だったかもしれないと、真剣に頭を抱えたことは、一度や二度ではなかった。
しかしまったく、慣れとは恐ろしいものである。
日々繰り返される意味のわからない宴の空気に、いちいち腹を立てることにもやがて飽きたローは、今ではすっかり、麦わらのペースになってしまっていた。

そもそも元来、このローという男、面倒くさがりなところを多分に持ち合わせている性分なのだ。天下の七武海とはいえ、争いごとを好むタイプでも、決してない。今だって、自身の野望のため仕方なく刃をふるっているだけで、できることならばただひたすら、ごろごろと布団に寝転がって生きていたい。
ここ最近では時折こうして、叶わぬ願望が胸を掠めるのが常だった。鋭い瞳の奥に隠された、本来の大雑把な鷹揚さ。それがこの船にいるとなぜか、ふと顔を覗かせてしまうようであった。

「どっからどう見ても、ケーキだろ。んなこともわかんねぇのかよ。」
緑頭が、ニヤリと笑う。小ばかにしたようなその言い方に、一瞬むっと腹が立つ。しかし、こんなどうでもいいところで競っても、自分にとっては何の利益ももたらさない。だいたい、ケーキくらいで得意な表情を向けるバカ腹巻と、同じ土俵になど上がりたくもない。
「今日は、コック特製スペシャルバージョンだぜ。っとに、野郎のくせに、俺にこんな手かけさせやがって・・・」
「俺は別に、頼んでねぇ。」
「はぁ?!つれねぇなぁ。こんな日くれぇ、ちったぁウキウキしたらどうだ?七武海。それともなんだ、てめぇまさか、自分の・・・」
そこで金髪が、何かに気づいたようにはっと口をつぐんだ。
ぐるりとキッチンを見渡して、ほかの一味と顔を見合わせる。
なんだ?・・・いったい、何が起こってるんだ。
「ひょっとして、・・・トラ男、お前・・・まさかそんな、ミラクル野郎なのかよ?」
「は?なんのことだ、鼻屋。」
「あう!トラ男とやらよ!今日はてめぇの、スーパーな日だろう?」
「・・・意味が、よく、」
「うふふ。あなたまさか、忘れてしまったわけじゃないでしょう?」
「・・・っ、」
信じられない、という風に向けられたいくつもの視線に、ローは少なからず、うろたえた。
忘れてしまった、って、・・・いったい、なんのことだというのだろう。自分にとって有益なこと、もしくは不利益を被る可能性のあるものについては、忘れることなどあり得ないのだが。
相変わらずキラキラと輝くキッチンに、しばしの静寂が訪れる。
誰の顔にも、自分の頭のなかにも、さっぱり答えを見つけられなかったローが、困惑の質問を重ねようと口を開いたときだった。
船長が、実に嬉しげに、胸を張って、大声を張り上げた。
「おまえ、誕生日だろ!トラ男、おめでとう!あと、出会ってくれて、ありがとう!!」
瞬間、一味から大きな歓声と拍手が巻き起こった。
航海士の女と船医から、大きな花束が手渡される。「これ、高かったんだからね。」という無駄な情報を聞きながら、ローは呆然と、それを受け取った。
「なんだ、んな鳩が豆鉄砲食らったような顔しやがって。」
「・・・いや。」
「あぁ?」
忘れてた。
ローが零したその言葉に、一味は一瞬の間を置いてから、いっせいに驚嘆の声をあげた。
正確に言えば、忘れていた、というよりも、考えたことがなかったのだ。
追われるようにめまぐるしい日常の中で、そんな細かいことをいちいち覚えている暇はなかったし、そもそも、誰かに誕生日を祝われることなど、これまでの人生で、あったのだろうか。
『・・・あぁ。』
そういえば、とローは微かな記憶をたぐり寄せる。
夏の光がゆっくり影を潜め、急に冷え込んだ、ある日の朝。
枕元に置かれていた、まっ白いくまの、ぬいぐるみ。
―あれは。

「なぁサンジぃ!!もう腹が限界だ!!肉喰おう!肉!」
「てめぇはさっきまでバクバク喰ってただろうが!」
「あんなんじゃ全然足りねぇよ~!」
「・・・もういいだろ。酒持って来い、クソコック。」
「それが人にものを頼む言い方かクソマリモ!」
てめぇはいったん湖から出直して来い!
ぎゃあぎゃあと騒がしいキッチンに、愉快な音楽が響き始める。骨がゆらゆらと揺れながら、ご機嫌なリズムを奏で始めた。にこにこと微笑む考古学者の隣で、同じく楽しげな航海士がパチパチと手拍子を重ねる。肩を組んで歌う長鼻と船医が、足を鳴らしてキッチンを駆ける。
合図は、船長の、満開の笑顔だ。
「野郎ども!!宴だぁー!!」



細かく並んだ鉄格子から、切れ切れに青い空が見える。
薄く尾を引く淡い雲は、まるで秋の空に溶けていく綿あめのようだ。
海楼石の、頑丈な檻。
自身の能力で心臓をくりぬかれた今、無謀な抵抗は単なる自殺行為に違いない。
―・・・ふりだし、だな。
ローはその鋭い瞳で、遠くの空に目を細める。
げらげらと響く、煩い笑い声。すっかり慣れてしまった今となっては、その声が聞こえないことが、えらく寂しく感じられた。



『なにが欲しい?』
賑やかな宴は夜遅くまで続き、ようやくそれぞれが寝静まった、真夜中のことだった。
キッチンでひとり後片付けに精を出すコックを、見るともなく観察しながら、ローはひとり杯を傾けていた。
あまり量を飲める方ではなかったが、その分ちびちびと長い時間をかけるのが、ローのいつもの飲み方である。
「なにが、・・・とは?」
「プ・レ・ゼ・ン・ト。」
「・・・?」
誕生日会と称されたその賑やかしい宴は、もう終わっているはずだった。なにより、あんなに豪勢な料理のあとで、プレゼントもなにもないだろう。ローは心底不思議に思い、自然、しばらくの沈黙が続いてしまった。
その意味を、どう取ったのだろうか。チラリとローを見遣ったコックが、どことなく嬉しげに煙を吐いて、上機嫌で言葉を続けていった。
「てめぇよ、あんまこういうの、やったことなかったんだろう?」
「あぁ。ないな。」
・・・ほとんど。
ぼんやりと霞む記憶を、微かに手繰り寄せる。あれは確かに、くまだった気がするが。
やっぱり、よく、思い出せない。
「だよな。だと思ったぜ。だから、忘れちまってたんだろ。切ねぇなぁ、天下の七武海様が誕生日も祝われねぇとは。てめぇんとこのクルーは、いったい何やってんだ。」
そういえばいつだったか、誕生日はいつかと、ペンギンやらシャチやらが、やたらにしつこく聞いてきたことがあったような覚えがある。そのときは、適当になんだかんだと話をそらせて、結局伝えずじまいになっていたような気がするが・・・
「苦労したんだぜ?てめぇの誕生日調べるの。」
船員も知らないそんな情報をどこから仕入れてきたのかと問えば、平然と「海軍。」と答える。
確かに、一時期は優秀な政府の狗であった自分の情報を仕入れるには、政府関連機関というのは、いちばん優れた情報源だろう。しかし、少なくとも海賊がやすやすと近づけるような機関であるはずがないし、なによりこいつらは、世間を騒がす「麦わらの一味」なのだ。
人のことを祝うためだけに、そんな危険な労力を払うとは・・・
「・・・あほだな。てめぇら。」
「ふん、あほで結構。」
ふわり、と煙を吐き出して、サンジは嬉しそうに口角をあげた。じゃあじゃあと流れる水音が、祝いの空気を残したキッチンに反響を響かせる。祭りのあとの、けだるい空気。
「出会うことができたのも、一緒のときを過ごせるのも、全てはてめぇが生まれてきてくれたから。1がなきゃ、100もねぇんだ。だから、てめぇの生まれた日は、一年のうちで一番大切な日、・・・なんだとよ。うちの船長の、ご意向だ。」
大げさなスピーチは、どうやら船長の言葉を借りたものらしい。麦わら屋の考えそうなことだ。その甘さが、いつか自分の首を絞めるかもしれないのに、ヤツはそれをも全て、飲み込んでいこうというのだろうか。
―・・・それから。
コックは続けて、口を開いた。今度は、さっきよりも、いくぶんかトーンを落とした口調で。
「船長のこと。助けてくれて、・・・ありがとな。」
・・・あぁ。
小さく喉を唸らせて、ローは曖昧な返事を返した。単なる気まぐれ。しかし、そのおかげで「今」があるとしたら、必死に生きながらえることも、この世に生まれてきたことも、・・・そんなに悪くは、ないのかもしれない。

「・・・そうだな、」
カタリ、と椅子から立ち上がり、スタスタとシンクに近寄っていく。「お?」という無防備な表情で振り返ったコックを後ろから抱きすくめると、ローはその真っ赤な耳元に、小さく小さく言葉を届ける。
「てめぇがいい。」
「・・・あ?」
「プレゼント。」
しばらくの沈黙のあと聞こえたのは、コックが零したため息の音だ。
「・・・ったく。てめぇといいマリモといい、なんで俺は、野郎の世話ばっかさせられんのかね。」
「っ、俺はあいつなんかと、」
「いいぜ、試してみてぇんだろ?その代わり、・・・」
コックがわしわしと黒髪を撫でる。四方に跳ねた遊び髪が、さらにくしゃくしゃに散らされる。まるで小さい子どもになったような感覚に、むずがゆくなったローは眉をしかめたが、その心臓はほんの少し、甘やかな熱に包まれていた。
―・・・こんな風に、愛されているのだろうか。あの剣士も。
「今は、だめだ。俺はマリモちゃんの世話で、手一杯なの。やるなら、・・・次の島で、な。」
「・・・ふん。」
俺に指図すんな。
そう言って静かに手を離すと、コックはけらけらと笑いを零した。

その揺れる金糸を、こんなにも欲しいと、願ったのに。

「・・・死ぬんじゃねぇぞ、ロー。」
「こっちの台詞だ、黒足屋。」



微かに聞こえる風の音が、晩秋の便りを運んでくる。
次に進むべきは、冬の航路。
『出発は、なるべく早くしたいが・・・。』
即座に殺す気もないのだろう、時折運ばれる食事は、ローの命をかろうじて繋いでいた。
しかしそれは、彼らにとってはいちばんの有効なおとりでもあることを、ロー自身もしっかりと感じ取っていた。
生きていれば、必ずあいつらが、やってくる。
『俺なんか捨て置いて、先に進めばいいものを。』
ふう、とため息を吐き出して、ふたたび切れ切れの空を見上げる。
美しく煌くブルーは、あの日見た、瞳のなかの海のようだ。
「黒足屋。」
声に出して呼んでみる。
誰もいない静かな牢に、その声は甘く切なく響き渡る。
ふわりと揺れる紫煙のように、それはぐるぐると鉄格子に絡みつく。そしてずいぶんと長い間留まって、なかなか離れることはなかったのだった。



(完)

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