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砂浜の果て

 真っ白な砂を踏みしめると「キュッ」と高い鳴き声があがった。

 革靴で遠慮なく踏みつけて歩けば、か細い鳴き声がリズミカルに続く。キュッ、キュッ、と続く足音が真夏の海岸に静かに溶けていく。じんわりと汗をかいた額からひとすじの汗がぽたり、と落ちた。

 白い砂浜の続いた先にはエメラルドブルーの海が広がっていた。

 寄せては返す透明な青。太陽を反射する白波のてっぺん。白と青のコントラストが夏をくっきりと浮かび上がらせている。夢のような、虚像のような。ゾロは僅かに片目をつむった。銃撃でなくした左目が震える。あぁ、やっと見つけた。それはまるで砂浜の切れ目で世界がエンディングを迎えるような潔さだった。

「おう、よく見つけたな。迷子だったんじゃねぇか」

 男は笑って煙を吐いた。白旗が夏の風に流れていく。

「いい加減お前、その軍服やめろよ。思い出しちまうだろ」

 金髪がさらり、と風に揺れて波の音が大きくなる。向こうの入江は波が穏やかでキラキラ光る水面が見えていた。まぶしい、と思った。まぶしい。海も、こいつも。

「たくさんの人が死んだな」

「……あぁ」

 ゾロは喉を唸らせただけでその場から一歩も動けなかった。探していたのだ。必死に。こいつだけを。――なぜ。

「で、また一緒に音楽でも聴くか? 捕虜の兵隊サン」

 男はまるでゾロを馬鹿にするようにニッと笑って煙を吐いた。

 こいつは分かっているのかもしれない。そういう、余裕を含んだ笑い方だった。俺がどうしてここに来たのか。自分にもわからない、その答えを。

 ゾロは男を訝しげに見つめ、悔し紛れに舌打ちをこぼした。なぜだかわからないけど、腹が立つ。

「……教えろ、ひとまず」

「あ?」

 男は適当に手を止めてゾロの方をじっと見やる。軍服はやめろと言いながら、上はシンプルな白シャツに、ズボンは見慣れたそれだった。

「名前」

 あぁ、と男はしらじらしく驚いてみせて、何かを調べるみたいに「ふーん?」と首をかしげた。検分されているような気分がして居心地が悪い。

「気になる?」

「わからねぇ」

 素直にそう言ってやれば、男はけらけらと声を上げて笑う。むかつく野郎だ。

 それでも、見つけたのだった。

 

 

 奇襲で幕を開けた戦争は当初ゾロの国が勝利を重ねた。

 生真面目で小さくてよく働く、国民性のなせる技だったのかもしれない。

 しかしそんなお祭り騒ぎもほんの一時のこと。結局は経済力に押し負けて戦況はみるみる悪化。到底かなわない相手に竹槍で応戦しているようなもので、完全な負け戦であることなど火を見るより明らかだった。

 ゾロはその戦争で唯一地上戦が行われた島で捕虜として捕らえられていた。支給される飯を断り、理由もない空腹に耐える。別に軍に愛着があったわけでも、国に忠誠を誓っていたわけでもなかった。ただ、そういう時代だった。敵兵に捕まることは恥だ、そう教えられた仲間たちが次々と命を消していくのを、ゾロは眺めることしかできなかった。

 捕虜になって三日目の夜のことだ。

 その収容施設は海にほど近く、潮と風の流れによって時折波の音が届くことがあった。

「……おい、なんか聴こえねぇか?」

「あ?」

 横に居た軍人に声をかける。軍人はしばらく耳を傾けていたが、わからない、とばかりに首をすくめた。

「気のせいだろ。こんだけ食ってなきゃ、頭だっておかしくもなるさ」

 ハハッ、と笑った元上官は今日も断食を続けているようだった。ゾロは僅かに眉をひそめる。戦争は終わるというのに理不尽だ。たったそれだけを伝えるための言葉が見つからない。

 ゾロは部屋を抜け出して、外に続く扉を開けた。作業のための狭い庭だ。雑草の生えた荒れた庭は、周りをフェンスでぐるりと囲まれている。捕虜兵たちはそこにはいつ出てもいいと言われていた。それでも頑固に部屋にこもり続ける軍人たちを、敵国の兵士は不思議な目で見つめたものだった。

 ――――…………。

 緩やかな波音に溶けるように、微かな音色が聴こえてくる。ゾロはじっと耳を傾けて音のする方に足を向ける。

 ――……。

 音の正体は、ラジオだった。フェンスの向こうの見張り番が古びたラジオにじっと聴き入っている。

「それ、なんていう曲、」

「シッ」

 見張り番は唇に指をあて、ゾロの言葉を制止した。ゾロは思わず言葉を飲み込む。金髪が夜に揺れる。フェンスを隔てて1メートル。

「ここが、いいところなんだ」

 男はじっと目をつむり、甲高い音色に耳を寄せる。絡み合う弦楽の音色。高く、高く、低く。高く、高く、低く。旋律は波音に乗ってゾロの耳にも平等に降りそそぐ。高く、高く、もっと高く。

 それは天国へと続く階段のような、繊細で力強い神の響きだった。

 そうしてどのくらい経ったのだろうか。男はふと目を開けてゾロに向かって視線を寄越した。肌が白い。

「お前たちの国の者は、みな自殺志願者か?」

「いや。そういうわけじゃねぇが……」

 ゾロは口ごもって言葉を繋げない。わからないのだ。どうしてこんな戦争があったのかも、どうしてみなゆっくりと死に向かっているのも。

 そんなゾロの様子を見て、軍人はなぜだか気をよくしたようだった。いじわるに「ハハッ」と笑って見せてズボンのポケットをごそごそと探る。

「おら、これやるよ」

「……え、いや」

「いいから。食ってねぇんだろ?」

 フェンスの小さな隙間からちぎれたパンが差し出される。ゾロは慌てて目を逸らしながら、思わずごくりと喉を鳴らした。

「なんだよ、ちゃんと腹減ってんじゃねぇか。てめぇらあんまり飯食わねぇから、体の構造でも違ってんのかと思ったぜ」

 ん、と重ねてパンを差し出し、男はかすかに首を傾げる。ゾロはさっと周囲を見回しておずおずとそれを受け取った。急いでかじりつく。

 ……甘い。

 十日ぶりの食事だった。

「まぁ、生きてくれよ。じき戦争も終わる」

 男はぷかりと煙草をふかして夜の空をじっと見つめた。雲のない真っ暗な空にはキラキラと星が輝いている。

「なぁ、俺の故郷の話をしてやろうか」

「あ?」

 ゾロはもぐもぐと咀嚼しながら男の声に喉を唸らせた。男はそんなゾロの様子など気にも止めないように、フェンスにもたれかかって空を見上げている。

「海の綺麗な島なんだ。砂浜を歩けば音がする。鳴き砂っていってな、綺麗な海でしか聴けない音なんだ。空は抜けるように青く、砂浜は果てしなく白く広がって、まるでこの世の終わりみたいな色をしてる」

「綺麗なのに、終わりなのか」

 ゾロが言葉を挟むと、男は笑って言葉を続ける。

「まぁ、聞けって。真っ白な砂浜が延々と続いて、海のところでぱっきりと終わるんだ。まるで人生みたいだろ? 美容院の予約をして、友達とランチの予定を組んで、今晩見ようと思っていたTV番組がある、そういうときに人は死ぬんだ。死ぬっていうのは、そういうことだ。なんにも美しいことなんかありゃしねぇよ。もっとありふれていて、もっと現実的で、尻切れみてぇに格好悪いんだ」

 男は何を思っているのか、フェンスの向こうでは表情が見えない。

「どんな生き方したって、人は100年もしないうちに死ぬんだ。それって絶望的だろ? だけど、だからこそ好きに生きるしかねぇんだ。誰かのせいにして打ちひしがれてりゃあ楽だけど、その誰かってのは責任なんか取ってくれやしねぇ」

 男はふわりと煙を上げて、遠く星空を見つめている。空気が揺れて星がまたたく。波がざわめく。生きている匂いがする。

「俺、島に戻ったら飯屋を開こうと思ってるんだ」

「へぇ」

 意外そうに相槌を打てば男はフェンスから背中をはなした。これでも一流ホテルで修行してたんだぜ、などと嬉しげに言葉を漏らす。

「もうすぐ死ぬやつがそういうこと、よく言ってんな」

「やめろよ縁起悪ィ。おいお前、」

「ゾロだ」

「ゾロ」

 男はこちらに振り返って煙草をはさんだ右手をまっすぐにつき出す。

「お前、食いに来いよ」

「あ?」

「食わせてやるよ。俺の飯を、腹いっぱい」

 男はニッと笑って、地面に置いていたラジオを小脇に抱える。

「あ、お前、」

「交代の時間だ、アホ兵隊」

「名前っ……」

 すたすたと闇に消える男の背中に虚しく言葉がはねかえる。男はひらりと片手を上げる。「俺を見つけたら教えてやるよ」とこぼれた言葉が夜空の闇にキラキラと消えた。

 それっきり、戦争が終わった。

 

 

 

「まさか、本当に見つけるとはなぁ」

 男はぷかりと煙を吐いて困ったように眉根を下げた。敵でも味方でもなくなると、ふたりのあいだには微妙な関係性が横たわる。どうしてここに来たのか。

「で、どうする」

 自分から誘ったくせに、男はゾロに答えを求めているようだった。小馬鹿にするような視線にはしかし、甘ったるい匂いが微かに混ざる。

「……期待、しちまうぞ」

 ゾロがそう言葉を零せば、男は一瞬虚を突かれたように目を丸くしてそれから「ハハッ!」と大きく笑った。悪くない。悪くないのだ、そういうことが、全部。

「ゾロ、お前、腹へってんだろう?」

「あぁ」

 店はあっちだ。そう言って砂浜を歩き始める。キュッ、キュッ、と鳴く砂が夏の気配に音楽を奏でる。あの夜に聴いたベートーヴェンのように。高く、高く、もっと高く。

「言っとくが、まじでうめぇぞ。二度とほかの飯が食えなくなっても知らねぇぜ」

「もとより帰る気なんざねぇよ」

 ゾロは男の腕を掴んで、じっとその瞳を見つめた。ビー玉をはめ込んだような美しい眼球が海からの光できらり、と光る。

 綺麗だ。

 こいつの体も、魂も、全部――

「俺は、お前の終わりを見に来た」

 腕を掴んだまま、ゾロがそう言葉を零す。いつだって言葉は全然足りなくて、届かなくて、胸をかきむしりたいくらいにもどかしい。だけど伝えるしかないのだ。頼りない言葉、そのすべてを。なんたって俺たちは今、生きているのだから。

 男は今度こそ軽口も叩かず、じっとゾロの目を見て言った。

「……サンジだ」

 波の音が鼓膜にこびりつく。夏の匂いが肌を刺す。ふたりはじっと見つめ合い、そしてそっと歩幅を合わせる。長回しで撮影された、サイレント映画のエンディングのような風景。

 ずっとずっと続く白い砂浜。その向こうに続く海。終わりのない幸福の果てまで永遠に寄り添うように――――

 

(完)

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