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森の声

※このお話は、2015年10月のスパークでお配りした無料配布のお話です。新刊「森のおいしいパン屋さん」の続きとなっていますが、これだけでも読めます。

まだ薄暗い部屋のなかでサンジはそっと目を覚ます。カーテンの隙間から差し込む光が朝をゆっくり馴染ませていく。

サンジはまどろみのなかに息を吸うと隣の温度に頭を寄せた。規則正しい寝息のリズムが薄い鼓膜をふるりと揺らす。

「ゾロ」

 小さな声でその名を呼ぶと頬がわずかに動いた気がする。とくとくと繰り返す心音は、幼子をなだめるように柔らかい。

「……ゾロ」

 返事がないと知りながらサンジはもう一度名前を読んだ。ゾロはぴくりと鼻を動かしただけで気持ちよさそうに眠っている。

 短い夏が駆け足で通り過ぎ実りの季節が訪れていた。森は美しく色づいて、くるみや松の実を恵んでくれる。

 迷子の子リスが置いていったまつぼっくりが窓辺にふたつ、並んでいた。いつかの雨の日に軒下を貸してやったのを律儀にも覚えていたのだろうか。片手でそれを拾い上げたゾロが優しく笑った意味をサンジは知らない。

 「ん、……」

気まぐれに腹の上に移動しているとゾロは眉間に皺を寄せて小さくうなった。上から見下ろす見慣れた顔の、眉がわずかに寄っている。サンジはそれをじっと見つめてまぶたの裏をふわりと緩めた。

 「おはよう」

 ささやくように声をかけるとゾロは眠そうにあくびを零した。そうしてサンジの頭をぎゅうと抱き寄せて、愛おしそうに金糸をすく。

 「……なんで、腹のうえに乗ってんだ」

 「ん、寝顔が可愛かったから」

 ゾロは大して気にもとめずに「そうか」と言って寝息を立て始める。スー、スー、と繰り返すリズムに朝の幸福が溶けている。

 

 遅く起きた朝だった。パン屋が休みの日曜日。

昨日は遅くまで起きていてふたりでウィスキーを傾けていた。普段は早寝をするゾロも土曜の夜だけは特別だった。残ったパンをつまみにしてふたりだけで開く囁かな宴。先に呂律が怪しくなったゾロを笑ったあとからは、気持ちのいいことしか覚えていない。少しだけ、声が枯れている。

 「スクランブルエッグ、塩とケチャップどっちがいい」

 「ケチャップ」

 もぐもぐとバケットをかじりながらゾロがぼそりと言葉を吐いた。子供じみた注文にサンジはそっと頬を緩める。

 コポコポとコーヒーの沸騰する音が遅い朝のキッチンに満ちている。太陽は柔らかに降り注ぎ緑の草原を鮮やかに彩る。透明な風がガラス戸から吹き込んでサンジはふと目を細めた。空が高い。白い雲がうろこを描いて風に形を変えていく。

この森にもまた冬がやってくるのだ。サンジは思ってまぶたを伏せる。あの、雪に覆われた白いだけの世界。すべての音が消える季節。

 「ゾロ、食べ終わった皿はシンクな」

 「どこ行くんだ」

 ん? とサンジは振り返ってゾロの方に視線をやった。行き先を聞いてくるなんて珍しい。別にどこだっていいだろ、と言いかけた言葉を飲み込んでサンジは小さく首を傾げる。

 「天気がいいから。散歩でもしようかなって」

「俺もいく」

 ガタリ、と席を立って皿とコップをシンクに運ぶ。教えたように水を流し、のそのそとこちらに歩いてくる。サンジはじっとゾロを見て、それからゆっくり森へと向かった。

 

 秋の陽がゆらゆらと木漏れ日を落として森は静かに凪いでいた。時折ゆるい風がとおり過ぎると木々はざわざわと葉を揺らす。

 倒れたブナの木に群生していたナラタケを、かごいっぱい詰め込んでサンジは息をついた。ゆっくりとした仕草で顔をあげてうぅんと大きく背伸びをする。山の中で動いたからか額にはうっすらと汗をかいていた。日中はまだ温度があがる。すこし向こうの切り株ではゾロがうとうとと船を漕いでいる。

 「ゾロ」

 枯葉がしゃくしゃくと音を立て、ふかふかの地面に靴底が沈み込む。キラキラと落ちる木漏れ日を抜けてぽっかりと拓けた場所に出る。

 「……帰るぞ」

 ゾロの前にしゃがみ込んで真正面から覗き込む。ゾロはスースーと寝息をたてながら気持ちよさそうに眠っていた。腕を組み寄りかかった切り株の向こう、背の低い草むらに隠れるように子狐が不思議そうにこちらを見つめている。愛されて育ったつぶらな瞳。もうじき、冬が来る。

 「いつまで一緒に、いられるのかな」

 ふいに口をついた台詞が深い森に吸い込まれた。ゾロの柔らかな髪の毛ををそっと一度だけ優しく梳く。

永遠のような二秒間。

サンジはわずかに目を細めると、小さく小さく息を吐いた。そうして何かを振り切るように、膝をパンっとはたいて立ち上がった。

 「じゃあな。先に帰っ、わっ」

 立ち上がりかけていたサンジの体がいきなりぐらりと傾いた。油断をしていたから抵抗もできずにゾロの方へと倒れこむ。そのまま胸に引き寄せられて、体はぽすりと胸に収まった。

 「……なんだよ、起きてたのか」

 「さっきのはなんだ。もっぺん言ってみろ」

 ゾロはサンジの文句を無視して頭の上から声を降らせる。サンジはきゅ、と目を瞑り、いやいやをするように首をふった。

 「なんでもないよ。言ってみただけ」

 「一緒にいてもいいのか」

 え、と驚いて見上げると、ゾロのまっすぐな視線とぶつかった。光のなか見下ろす顔は、優しく、穏やかで、ほんの少しだけ緊張している。かすかに震える聴き慣れた声。

 ――あぁ、そうか。

 「なに、おまえ……そんなこと、今さらだろ」

 「そんなことって、おまえがそんなこと言ったことなんて、一度もねぇじゃねぇか」

 ふてくされたようにため息をつき、眉をひそめて目をそらす。子供のようなその仕草にサンジは一瞬目を見開いて、そうして堪えきれないように「ハハッ」と柔らかな笑い声をあげた。不服そうなゾロの視線。サンジはくすくすと笑みを零す。そうか……そうか、こいつも。

 ――同じように、こわかったんだ。

 「……まぁ、お前がどう思ってようが俺の気持ちは変わらねぇが」

 金糸をさらりとひと束撫でてゾロがサンジを覗き込む。秋の風が優しく吹く。森の歌声が海に届く。

 「結婚するか」

 「えっ」

 今度は心底驚いたように目を丸くして、サンジはじっとゾロを見つめた。見下ろす瞳はやはり優しく、穏やかで、凛として、美しい。

 ――海みたいだ、まるで。

 「一緒にいろよ。この先も、ずっと」

 ぎゅ、と強く抱きしめられてサンジは一瞬息が止まる。どきどきとうるさい心臓の音が耳の奥でこだまする。

 「好きだ」

 腕の隙間から幸福が聴こえる。秋の空気が透明に輝く。サンジは世界に生まれてきたばかりの赤ん坊みたいな気持ちになって、小さく小さく頷きをかえす。ふたりの明日は、今、ここから。

 「俺の方が、もっと好きだよ、ゾロ――――」

 

 

 

To be continue… ?

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