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死神の、遣い。

※こちらは2014年 SUPER COMIC CITY 23 で無料配布したコピー本になります。

  このときの新刊(「死神の、憂鬱。」)の後に続くお話として、若干その世界を引き継いだお話になっています。

  本を読んでいなくても問題なく読めますが、原作にない設定が見当たったらそれはオフ本の設定だと思っていただき、

  さらりと流していただけますと幸いに思います。

 

 

 

遠く波打つ潮騒が薄い鼓膜をそろりと撫ぜる。

 

 

 吹き渡る風は強く温く空に掲げた旗を揺らす。

 寄せては返すさざ波の狭間、凪の寸瞬を号令が翔ける。

高らかに響く陽気な合図にクルーの拳が蒼へと伸びる。

 

前へ前へ、もっと先へ。

 

さらさらと靡く極黒の背中は、ぐんと高く、丸く、震える。

 

 

 

 「おら飯だ、猫」

 金髪のコックがのっしのっしと甲板を渡ってこちらへやって来た。コックは紫の煙を燻らせながら金の糸を風に遊ばせている。

 いつもの光景だった。

 金髪のコックは猫の目前に立ち止まると粗雑な手つきで皿を差し出す。陶器の皿はふかふかと柔い芝生の上、緑の絨毯にそろりと沈む。

 「お? 気に入ったか」

 いい匂いだろ?

ふんふんと鼻を利かせていればコックの口角がニヤリと上がった。

心なしか嬉しげな表情だった。

柔らかい喉からは無意識のうちに幸福の音色が零れて落ちる。

――ゴロゴロ。ゴロゴロ。

コックは満足そうに片目を細め、猫の狭い額をわしわしと撫でた。

 「しっかり喰えよ」

 そう言って静かに立ち上がる。

 ふわりと飛んだ視線の先は、この船の一番高い場所へ。

 そこは剣士が毎日飽きもせず鍛錬に精を出すトレーニングルームだ。

 

 

 

 「猫」がこの船に乗り込んだのは、ちょうど半年ほど前のことだった。

行き先も告げられぬまま放り込まれた愛と情熱のオモチャの国。

 路地裏でのんびりと欠伸を零しおれば、目的の男が「ぬう」と顔を出した。

 ――緑頭に金のピアス。

 腰に刺した物騒な剣は「情報」で知るよりも一本少なかった。

訝しげに警戒姿勢を取ってみたものの、サングラスの向こうに光る鋭い瞳、それは紛れもなく「彼」のものだ。

 「おいお前、こんくれェの布袋、走って来なかったか?」

 年若いと聞いていたのに口元に白ひげを生やしたその男は、「猫」に向かって問いを投げた。

 訊かれたところで言葉を放てるわけでなし、繰り広げられる光景はアホらしいことこの上なかった。しかし男はそんな猫の胸中を知ってか知らずか怯むことなく言葉を重ねる。

 「――大切、なんだ」

 真摯な台詞はまっすぐに猫の瞳に突き刺さった。

 猫は数瞬考え込んでくるくると豊かに喉を鳴らした。

そうしてゾロの懐に潜り込む。

いきなりのことに戸惑うゾロの、勇敢な傷に、するり。頬ずりを寄せる。

 「なんだ。行くか、一緒に」

 笑ったゾロの横顔は暗いサングラスに隠れてよく見えなかった。

 ――不器用で、まっすぐで、優しい男。

心地よい振動にうとうとと船を漕ぎながら、猫はゾロを一瞬で好きになる。

艶やかな喉から満ち足りた音色が零れ落ちる。

暖かな懐に伝わる、あの心優しいひねくれ男がうんと惚れてしまうくらいの、果てしない「強さ」。

 

 

 

船員たちの眠る夜。

一番遅くまで起きているのはだいたいいつもコックだった。

 オレンジの灯りが照らすキッチン。小気味の良い包丁のリズムは部屋いっぱいに和音を奏でる。

 「さて、と……」

 朝ごはんの仕込みを終えると、コックはおもむろに棚を探った。

 手にしたのは緑色の一升瓶。

 『勝手に飲むな!』

油性マジックででかでかと書かれた注意書きがキッチンの明かりにチラリ、光る。

コックは透明に揺れる液体を小さなとっくりに注ぎ入れる。

向かう先は、この船の一番高いところ。

毎日飽きもせず鍛錬に精を出す、あの無骨な男の待つトレーニングルーム。

 

 

 「おらクソマリモ、餌の時間だ」

 「……あぁ?」

 ロープを伝った先、すっかり剣士の部屋と化している見張り台にコックはひょっこり顔を出した。

見張り番は今夜も鉄の団子を咥え、信じられない数を刻んでいる。

五千八百二、五千八百三、五千八百四、五千八百……

ふう、と大きく息を吐いた剣士が、両手に抱えた塊を下ろす。

胸を伝う透明な汗。

とろり、蕩けるように筋を描いた水滴が袈裟懸けの傷にそっと寄り添う。

『俺からじゃ、ねェからな』

 いつだったか、この強情コックがやたらと強調するのを猫は暖かなキッチンで聞いた。

偶然、二人きりになってさ。

 いつの間にか、肩を抱かれてよ。

 伝わる温もりが、嫌じゃなかっただけで。

 いや、ほら、溜まった欲はお互い様、だったから――

 言い訳を重ねたコックの声は、甘く、切なく、美しい音色を奏でていた。

「残った海獣肉、あんかけにして木綿豆腐にかけた。嫌いじゃねェだろ?」

 「あぁ。悪くねェな」

 剣士はふわりと笑みを零し、「パン」と両手を一つに合わせる。

 それを見たコックの頬が僅かに紅潮するのを猫は黙って見つめている。

 世界を見つめる金縁の瞳。

 その美しい金糸が切なくさらさらと揺れるのを、美しい蒼が哀しみの雨に濡れるのを。

猫はもう永いこと、たった一人、いや一匹で、静かに見守って来たのだ。

 だから、わかる。

 これはきっと、サンジの最期の恋。

 

 

 「あ、っおい、」

 心なしか焦ったように上擦る声がコックの喉から転がり落ちた。剣士はそんなのおかまいなしにコックの腰に腕を回す。

 強く、優しく、まっすぐに。

 それは彼自身の生き方のようでコックはますます心を乱した。

 ――こんなにも愛おしい。

 コックの蒼い瞳には愛の調が浮かんで消える。

 熱を持った甘やかな痛みが剣士の首筋に紅を挿す。宵闇に零れる艶やかな溜め息。静かに溶ける金の吐息は三連のピアスを「シャラリ」、揺らす。

 「コック、こっち来い、もっと」

 「あ、やめ……っ、ん」

 ぎゅう、と強く抱きしめられてコックは瞳を飴色に染める。

 小さく絡み合う柔らかな笑い。

 「あほコック。ヤりてぇくせに」

 剣士はいつだって、素直で、まっすぐで、極上に、優しい。

 

 

 

 それからふたりは声を潜め甘い熱を闇に溶かした。

 ぐん、と仰け反る白い喉。美しく飛び散る白濁の雫。

コックの零す耽美な啼き声はゾロを何度でも高みへ導く。

――……キス、してェよ、ゾロ。

 小さく寝言を零しながらコックはうつらうつら、夢の深淵へ堕ちていく。

『キスは絶対に、俺からだ』

 なぜだかそれだけは頑なに、サンジは言い張って譲らなかった。それはいつもの主導権争いの単なる延長線上だったかもしれない。

初めて体を重ねた日。

サンジが何かを言いあぐね口ごもっていたことをゾロはとっくの昔に忘れている。

 あほコック。ヤりてェくせに。

ゾロは笑って、薄紅の蕾に花を寄せる。

絶対に、サンジを起こさぬよう。

 気付かれたらもう二度とこの白い素肌を掻き抱くことができないかもしれない。

 

そうして、触れるように軽く。

 こっそりと落とす、内緒の、キス。

 

 

満ち足りた気持ちで金糸を撫でてゾロも静かに夢へ落ちる。

どちらからキスをするかなんて、つまらない主導権争いなど本当はどうでもいいことだった。

ただもうずっと、たぶん気の遠くなるような昔から、ふたりはこうしたかったのだとゾロは思う。

なんとなく。

――例えば、命の輪廻のような。

 

 

 

微かな温もりが行き来して、サンジはぴくりと体をひねる。

 サンジは今宵も夢の中、甘く、切ない、キスをする。

 絶対に叶わないはずの幻。

 

 

 

猫はただ黙って、傍にいる。

 

 

 

何度めかの朝が来て、何度めかのご飯を食べて、何度めかに笑い合って、何度だって明日を描く。

 ほのかに光る薄紅の想いは命の円環を鮮やかに彩る。

 コックは笑う。

幸せそうに眉根を下げて。

 剣士は笑う。

 美味い飯を頬張りながら。

 何気ない日常こそが幸福の証だと、やっと気づいたことはそんなちっぽけなことだった。

 

 

静かに降り始めたお天気雨が夏島に向かう甲板をシャラシャラと潤す。

 喉が乾いたと喚く船長が大口を開けて空を見上げた。

 流れる雲、吹き渡る風。冒険の匂いが船を包む。

「――にゃあ」

 猫の零す愛の調に青鼻の船医が首を傾げる。

 ――だって、こんなにも愛おしい。

 猫は眩しそうに金縁を細めふたりの男を遠く見守る。

 

黒の毛玉は大きく伸びをして柔らかな甲板にごろりと寝そべった。

 キッチンからはいつものようにコックの怒号が響き渡る。

 クルーたちは笑みを浮かべ穏やかな心地で「またか」と呟く。

 猫は静かに目を瞑り健やかな心地で居眠りを始める。

 風に混じるバイオリン。誰も知らないジャズのメロディ。緩やかに響くしあわせの音色は遠い想いを海に溶かす。

 

それは神様にも内緒の祈りに似た静かな願い。

ほろり、落ちた透明の雫が剣士の着流しを水玉に染める。

 

 

 

死ぬまで愛してやる。

 

 

 

聴きなれた低音が薄い鼓膜をそろりと撫ぜる。

優しくふたりを包む光。

猫はそっと、見つめるだけ。

 

 

 

これがきっと、ふたりの最初の恋――

 

 

 

 

 

To be continued…

 

 

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