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桜のつぼみ、金のかぜ

 「ゾロ!」

 美しく澄んだアルトの音。金色の光が風に溶けて、ぬるい空気を鮮やかに蹴散らす。

 ガラガラと開けられた扉からは、少年が勢いよく飛び込んできた。

 「……先生、だ」

 ゾロはこれみよがしにため息を吐いて振り返る。生徒のいなくなった教室には、夕方の光が差し込んでいる。

 天井に渡されたカラフルな輪つなぎ。剥がれかけた紙の花。チョークで描かれた「卒業おめでとう」。ふたりぶんの似顔絵を消しかけたところで、ゾロはゆっくり手を止めた。さっきまでのざわめきが教卓のあたりにまどろんでいる。

 「へへっ、俺、卒業できたぜ」

 「あぁ、よかったな。ようやくせいせいする」

 ハァ、とため息をついてパイプ椅子に腰掛ける。かけていた眼鏡をそっとはずして、教卓の上に畳んで乗せた。金髪の少年は「つれねぇな」などと言いながら、いちばん前の席の机に尻をあずけた。見下ろす瞳は薄い色をしている。

 窓から見える校庭では、生徒たちが思い思いの時間を過ごしていた。胸に赤い花をつけた卒業生たちと、それを送る在校生たち。三階の部屋からでもわかるすがすがしい顔だ。女生徒たちは泣きながら何かを語らっていて、その短いスカートをぬるい風がひらひらと揺らしている。

 「あ、パンツ見えそう」

 少年は人差し指と親指で円をつくって、望遠鏡のようにじっと覗き込んだ。校舎に馴染んだ笑い声と、終わりを告げるチャイムの音。手を振り分かれていく彼女たちの、道はきっと少しずつ離れていく。

 「……おら、てめぇもさっさと帰れ。どっかで女でも待ってんじゃねぇのか」

 「え、なに心配してくれてんの? やだなぁ、俺はセンセイひとすじだって言ってんじゃねぇか」

 それに、第二ボタンはもう売り切れだよ。

 ニッ、といたずらっぽく笑いながら布に包まれた箱を取り出す。「ハイ」と無邪気に差し出される、見慣れた薄水色が目にはいった。

 「だから、いらねぇって言ってんだろ」

 「そう言いながらいっつも美味そうに食うじゃねぇか」

 ぐう、と喉の奥が詰まる。社会科準備室にこもりきりだったゾロのもとに、少年が顔を出しはじめたのはいつ頃からだったのだろう。お昼を告げるチャイムとともに、ひょっこりと顔を出す金髪の少年。「ゾロ、いるか?」その聴き慣れた声。うかがうような視線。手にはお手製の、弁当を抱えて。

 「……あのなぁ。俺ァ生徒から物をもらっちゃいけねぇんだよ。校長に見つかったらてめぇ、どうしてくれんだ」

 「じゃあ食わなきゃいいじゃん。ほら」

 目の前に突き出されたミートボールを、観念して口に入れる。見下ろす瞳が期待に濡れる。ため息とともにもぐもぐ咀嚼すると優しい甘さが口に広がった。肉汁がとろりと舌に巻きつく。

 「な、うめぇだろ?」

 そうだな、ともごもご声を返して、手を伸ばして金色の頭をワシワシと乱した。やめろよ、と笑いながら少年は楽しげに笑う。黒に直せと何度言っても、全然聞きやしなかった金色だ。ほかに悪いことをするわけでもなかったから、周りも最後は諦めた。得する性格だ。

 全校集会も、運動会も、文化祭の合唱も。こいつの金髪は、どこにいたって目についた。

 脳裏に浮かぶ嬉しそうな顔。

 まるで自分を見つけてもらうための、目印みたいだとゾロは思った。

 「お前どうすんだ。卒業したら」

 ふわふわと柔らかな卵焼きを頬張りながらゾロは少年に問いかけた。生徒の半分は大学進学、もう半分は就職していく、そういう高校だった。大学で社会学を専攻するかたわら、たまたま取れた教員の免許を、なんとなく履修してそれから、数年。人生なんて自分で決められることは少ないのだと、あとになって知ることはいくらでもある。

 思い描く未来はすぐそこまで来ていると、信じて疑わなかったあの頃。

 「俺、レストランに修行に行くんだ」

 東のほう。

 少年はぽつりと声を落とす。

 彼の実家はこのあたりは老舗の洋食屋で、休日にはひっきりなしにお客がはいっていた。確か祖父が一代で築いた店だと同僚に聞いたことがある。早くに両親を亡くしたこいつは、小さい頃から店に立って接客をしていたらしい。教員の忘年会で店を使ったときに、せっせと料理を運ぶこいつにビールを勧めたら「そういうのはダメなんだろ、センセ?」と小声でたしなめられたことがあった。あれは一昨年の冬のことだ。自分にとってはなんでもない三年間が、少年にとっては果てしない時間だったということを知っている。

 「そうか。よかったな」

 ゾロがそう声をかけると少年はうつむき加減にうなずいて、なにかを考えているようだった。ひらり、とカーテンが揺れて春の風がふわりと舞い込む。横顔を隠す金の糸がゆらゆらと物思いに揺れた。

 「……なぁ、」

 美しいアルト。通りすぎる感傷。今だけを映すまなざし。

 ゆっくりと落ちる鮮やかなまばたき。

 ずいぶん遠いところまで来たような気がする。

 「俺、頑張るから、……」

 ――キスして、センセイ。

 白い頬に紅が挿す。金色の髪に光が透ける。窓の外から歓声が聴こえる。

 今こいつはどんな顔をしているのか。

 春の風がふたりの間を通り抜けていく。

 永遠の、一瞬だった。

 

 「……ダメだ」

 「っは、なんでだよ!」

 バッと勢いよくあげられた顔は、怒っているようにも傷ついているようにも見えた。不服そうな表情だ。意味がわからない、と顔に書いてある。

 「いいじゃんかよ、俺卒業したんだぜ?!」

 「生徒だろうがそうじゃなかろうが、ダメなもんはダメだ」

 「なんだよ彼女いねぇんだろ?! カワイイ生徒の最後のお願いぐらい、言うこときけよクソ教師!」

 「そういうとこがカワイくねぇんだよ……」

 ため息をついて立ち上がる。眼鏡をかけ直しながらくしゃくしゃと金の頭を撫ぜると、指の隙間から目があった。ゾロを見上げる濡れた瞳。紅のさした白い頬。もう一度「はぁ」とため息をつく。

 「お前はセンセイの俺に惚れてるだけだ。学校ってぇのは狭いからな、ちょっと年上の俺みてぇなのがすげぇ奴に見えるんだろ」

 窓からふと見下ろすと、三階の窓に届きそうな大きな桜の木が枝を揺らしていた。春になると二階の教室の窓は、この桜で一面がピンクに染まるのだ。社会科準備室からもちょうどこの桜の木が見えていて、夜中にひとりビールを飲んだことは一度や二度のことではない。

 葉のない枝の先にはつぼみが膨らみ、春の足音が聴こえる気がする。

 「俺だって学校から出りゃただのおっさんだ。コンビニ飯を適当に食うし、競馬に負けてやけ酒を飲んだりする。好きな奴も嫌いな奴もいるし、仕事なんかめんどくせぇと思いながら毎朝ため息ついてるんだ」

 ぬるい風が吹いている。夕方の光が街を満たす。

 1月が2月になるのと変わらないはずなのに、3月の夕日はどこからか泣きたい気持ちを連れてくる。

 「俺ァてめぇが思うような人間じゃねぇ。あとから知って幻滅するくらいなら、今から止めてやるのがオトナの優しさだ」

 ゾロは食べ終わった弁当のふたを閉めながら、たんたんと言葉をこぼす。幼い頃から大人に紛れて過ごしてきたこいつには、同級生は幼く見えるのだろう。どことなく大人びた表情に、ちがう意味でドキリとしたことはある。女生徒にもモテるらしいのに、全員カワイイから選べないなどと言う。そうしていつの間にやら口説かれていて、そのたびに適当にあしらってきた。それは別れの怖さを知らない、強さだ。ゾロは静かに目をつむる。

 「……怖がってんのはてめぇじゃねぇか」

 ぽつり、と吐き出された言葉にゾロは思わず顔をあげた。

 「俺がゾロのことをどう好きだろうが勝手だろ。幻滅するのを先回りして止めるのが大人の恋愛だなんて、俺は信じねぇ。そんなのてめぇが傷つきたくねぇだけのずりィ言い訳じゃねぇか」

 下唇を噛んでじっと睨みつける。傷ついた瞳には静かな怒りが満ちていて、なぜだか目がそらせない。

 「だったらずっと惚れさせろよ、俺のモンだって捕まえとけよ、俺は……俺は、そういうお前の全部が好きだって、言ってんだ……センセイ……」

 うつむいた横顔に金糸が落ちる。遠くから笑い声が聴こえる。最後のほうは声が震えていて、上手く聴き取れなかった。無邪気で、勝気で、まっすぐな、まぶしいほどの恋のエネルギー。切なくて、苦しくて、どうしようもなく胸が焦がれる。一体どこに忘れてきたのか。

 ――そんなの、もう覚えていない。

 「……キスしたら、なんか、変わるかもしれねぇじゃんか」

 だだをこねるようにそう言って、言った先からへらりと笑う。そうか、とゾロは思う。こいつはきっと、知っているのだ。

 もうすぐ子どもでいられなくなることを。その、かすかな感傷を。

 「あ~……そうだな」

 ゾロはガシガシと頭を掻いて、それからスタスタと少年に近寄った。

 少年はギクリと背筋を伸ばして、ゾロのことをうかがうように見上げてくる。

 「し、してくれんの」

 「アホか。俺ァまだ無職になりたくねぇ」

 ぽん、とてのひらを頭に乗せる。それだけでびくりと体が跳ねる。なんだ、緊張してんじゃねぇか……低い声で耳元に言ってやれば、「ち、ちげぇよ」と文句がかえった。

 「4月になったら」

 「え」

 「桜でも、見に行くか」

 頭にてのひらを乗せたまま、少年の顔を覗き込む。そうすると白い頬がみるみるうちに、紅く染まっていくのがよく見えた。ゾロは思わず顔を崩す。おいおい……キスどころじゃねぇだろ、お前。

 「……約束だな」

 「あぁ、約束する」

 ぽんぽん、と二回あたまをたたいて手を離す。下校のチャイムが鳴り響く。机に転がった卒業証書。広げたままの弁当箱。

 「隙あり!」

 チュ、と頬にキスを寄越して、それからタッと駆けていく。ガラガラと勢いよく引き戸を開けて、パタパタと足音が遠ざかっていく。少年は一度も振り返らない。チャイムの音が空気に溶ける。窓から吹き込むぬるい風。金色の午後。

 卒業。

 「……そりゃ、フライングだろ……」

 ゾロはぽつりと呟いて、頬にそっとてのひらをあてた。

 キスをされたその場所は、ほんのすこしだけ暖かい気がする。

 確かにその瞬間、揺れる金糸を『綺麗だ』と思ったことを、ゾロはきっと忘れないと思った。

 

(完)

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