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ペルセウスの誓い

「なぁ、知ってるか?」
夜食という名の宴が終わり、甲板でひとり、風にあたっている時だった。
カタリ、と靴裏を響かせてふいに現れたのは、この船のコックである。
金に揺れる柔らかい髪が、海からの風にふわふわとそよいでいる。後片付けでも、終わったのだろう。おもむろに肩を並べた黒足のコックは、甲板の柵に肘をつくと、ふう、とゆっくり紫煙を吐き出した。

ほんの少し前までは、日中ともなればこの甲板にも、かんかん照りの太陽が降り注いでいた。
暑い暑いとへばっては、犬ころのようにぜぇぜぇと舌を伸ばす。大事な一戦が控えているというのに、そんなことはおかまいなく見事に疲弊した一味を見遣って、ご苦労なことだと、ローはため息をついた。
地獄の蒸し風呂のような光景が、まるで昨日のことのように思い起こされる。
『やはり潜水艦の方が、なにかと便利だな。』
もともと太陽とあまり縁のなかったローのことである。言わずもがな、季節を感じようなどと思ったことも、一度もなかった。そんな風だから、もっぱら海の中を潜って進む方が、性に合っているのだ。

黒く凪いだ海が、ぼんやりと半月を反射させている。
吹き渡る風は、どうやらすでに、僅かばかりの冬の匂いを乗せているようだった。
「ペルセウスの話だ。」
「・・・?」
話の趣旨が飲み込めず、ローは無言でコックを見つめ返した。
それは、一見すれば、見つめたというよりも、睨んだ、に近い形相だったのだが、サンジは特に気にする様子もなく、どこか嬉しげに煙を揺らしていた。
・・・肺に悪ぃ。
見慣れたサンジの煙遊びに、ローは冷静な解釈を挟み込む。見たところ、かなりの期間、同じ量を吸い込み続けているように思える。既に肺は真っ黒か、少なくとも健康な状態ではないだろうと、医者なりの目線で予測をつけた。別に海賊が、どこでのたれ死のと勝手だが、少なくとも俺は、そんなリスクは取らねぇな。
ローの頭に響いた言葉は、喉から零れ落ちることはない。

「空。見てんだろ?」
「空?」
「あぁ。星だよ。綺麗だなぁ、今夜はまた空気も澄んで、絶好の天体観測日和じゃねぇか。」
そう言われて、初めてローは空を見上げた。昨日の嵐で雲が持って行かれたのだろう、確かに空は塵一つなく、いくつもの星を無遠慮に浮かばせているようだった。
「いや・・・、別に。そんなつもりは、全くなかった。」
「あぁ?なんだ、違ぇのかよ。鬼も恐れる死の外科医とやらも、たまにゃぁロマンスなことすんだなぁと思ったのによ。」
ぐるぐると巻いた珍妙な眉が、ぎゅうと眉間にしわを寄せた。
しかしその表情には、やはりどことなく、明るい何かが満ちているようである。

「秋の星座、好きなんだよなぁ、俺。」
おもむろに口を開いた黒足が、唐突にそう言葉を零した。聞き慣れない単語に首を傾げば、「え、そんなのも知らねぇの?」と、なかば小馬鹿にしたような台詞が投げかけられた。
知らないもなにも、興味がない。
「星座っつうとさ、やっぱ有名なのは、春の北斗七星だとか、冬のオリオン座とかだろ?夏は夏で、大三角や天の川があるけどよ、秋の夜空ってのは、実はちょっと、地味なんだよなぁ。」
へぇ、とローは喉を鳴らす。興味はないが、聞けない話でもない。珍しいな、そんなこと詳しかったのかと問えば、「レディとお話するためだ。当たり前だろ?」と、事も無げに返された。

普段であれば、一味の話の聞き役に回ることの多い男だった。全くと言っていいほど常識を持ち合わせない船長や、些末なことでいちいち心を乱す長鼻、純粋にものを知らないトナカイなど、この船にはとにかく、人格的なばらつきの多い奴ばかりが乗り込んでいる。同盟を結んでからというもの、その異常な能天気さに、ローは嫌というほど振り回されてきたのだが、そうであればこそ、基本的に常識人であるこの男が、フォロー役に回らざるを得ないのだろう。

珍しく饒舌に話す黒足の白い横顔が、いやに綺麗に、バックの夜空に映えている。

「星座にはそれぞれ、神話ってのが関係してんだ。例えば、あの月だって、ヘーラっつう神様のお話がついてんだぜ。昔の神様ってのは案外雑で、えらく煩悩にまみれててよ。それがまたやけに人間くさくて、おもしれぇんだよなぁ。」
「・・・そうか。」
指に煙草を挟んだまま、へらへらと嬉しげに言葉を紡ぐ。何がそんなに楽しいのか、夜空を見上げては、目を細めている。ローもつられて、夜空を見上げる。やっぱりただの、星しか見えない。
「それで、秋の神話っていうのが、いいんだ。あそこに、四角形に結ばれる星が見えるだろう?」
指差した方向を見遣れば、確かによっつ、明るい星が線を結ぶ。
「あれは、ペガスス座っつう星座なんだけど、その左上の星、・・・アルフェラッツっつうんだが、それをびよんと伸ばした先に、アンドロメダ座と、ペルセウス座がある。」
「・・・アンドロメダ。」
それならなんとなく、聞いたことがあるような気がする。
「そんで、今度はその四角形を下に伸ばしたところ、・・・いや違ぇそれじゃねぇ、もっと左、・・・そうそう、それだ。その星、デネブカイトスから星を結んだ星座が、くじら座なんだ。」
ラブーン、元気してんのかな。
耳慣れない名称が横切ったのを気にせずに、ローは話の続きを待った。
こんな風にしゃべる黒足を見るのは、やはり、珍しい。弱いくせに、アルコールでも摂取したのだろうか。ローは怪訝な瞳でサンジをチラリと見遣る。広い夜空を共に指差すせいか、喜々として空を見上げるサンジの柔らかい金糸が、いつの間にか、やけに近くで揺れている。
「・・・綺麗だ。」
「な、そうだろ?」
思わず零れたローの言葉に、わかるか?と、口角をあげる。不意に落としたため息を星空への嘆息と取ったのだろう、黒足はますます嬉しそうに笑みを零した。

無邪気ともとれるその破顔に、ローの心臓が、どきりと跳ねた。

・・・なんだ、今のは。

「アンドロメダはお姫様なんだけどさ、あんまりかわいいから、親が自慢しまくってたの。そうしたら、怒った神様が、ある国にくじらを寄越したんだ。くじら座って、名前はかわいいんだけど、実は化けくじらのことなんだ。要するに、海獣っつうこったな。そいつが国にあらゆる災害を起こすもんだから、アンドロメダ姫は、生け贄に捧げられることになった。」
何がどうなって生け贄なのか、あまりの急展開にローは眉をひそめた。思えばローもこれまでに、いくつかの神話を読んだことがあった。確か、精神医学の勉強中だったろうか。神様というのは案外と短絡的で、欲求にまみれていて、まるで人間の映し鏡のように、ドロドロと欲望を渦巻かせていた記憶がある。
「両手を鎖に繋がれたアンドロメダ姫。もうだめだ、と思ったそのとき・・・!」
黒足がいっそう、瞳を輝かせる。楽しげな横顔は、まるで無邪気な子どもの、それだった。
・・・こんな表情もするんだな。
その蒼い瞳には、無数の星が、キラキラと浮かんでは消えていく。
「なぁ、聞いてっか?こっからが、いいとこだぜ?」
「あぁ。悪ぃ。」
—てめぇに見とれてた。
零れ落ちそうな甘い熱を、寸でのところで喉奥に押し込める。
・・・危ねぇ。
ローは極力、この船に乗っている間は、波風を立てずにいたいと考えていた。
ただでさえ、作戦を勝手に変えるような、自由すぎる一味なのである。こんなところで変な気を起こせば、狭い船内に筒抜けもいいところ、うっかりすれば貴重な同盟関係が崩れてしまう可能性だってあるのだ。
それに。
ローが僅かに、眉根を寄せる。不機嫌なときの、癖である。
同船してからというもの、時折ローに向けられる、とある視線に、ローはいい加減うんざりしていた。マリモ剣士とやらが含ませる、その鋭い視線の意味。

あいつは、こいつに、惚れている。

想いが叶っているのかは知らないが、少なくともこいつに今手を出せば、まっさきにあの腹巻き野郎から、惨殺の刃が振り下ろされることは間違いなさそうだった。
『まぁ、・・・負ける気も、ねぇが。』
ローはひっそり、ため息をつく。

「悪ぃ、飽きちまったか?」
「・・・いや。続けてくれ。」
微妙な心情の変化を読み取って、サンジがチラリとローを見遣った。本当に、気を使いすぎるくらい、気の使える男である。そりゃあ、腹巻き野郎も絆されるわけだ。どことなく人ごとのように、ローは思う。つまりこいつのそういう部分に、他でもない自分もしっかり絆されかけているという事実に、なるべく今は、気づかないでおきたい。
「てめぇの話が聞きてぇ。」
そう言ってやれば、見開いた目がぱあと華やいだ。思い切り上げた口の端が、ちぎれんばかりの喜びを表す。

っ・・・!

一瞬、サンジの瞳から星が零れ落ちたのかと、ローは自身の目を疑った。
まばゆいばかりの光が、心臓をひと突きしたような気がしたのだ。

それは、反則だ、黒足屋・・・!

「姫のピンチに突如表れたのは、ペガススに乗ったヒーロー、ペルセウス!持っていたメデューサの首を振りかざして、化けくじらを石に変えちまいましたとさ!・・・な?いい話だろ?俺は、そんなペルセウスに憧れ・・・、あ?どうした?」
うつむいたままふるふると肩を震わせるローに、サンジが不思議そうに言葉をかける。
「寒ぃのか?まぁ、ずいぶんと気温も下がったもんなぁ。悪ぃな、こんな話聞かせちまってよ。」
でも楽しかったぜ、てめぇと話せて。
ひらりと手を振り立ち去ろうとしたサンジの腰を、反射的にがしりと掴む。
ぐい、と強引に引き寄せれば、サンジの細い腰はぽすりとローの腕に収まった。
戸惑う心臓が、どくどくと脈打つのがわかる。
いったんこうしてしまえば、まるでずっと前からそうしたかったように思えて、ローはぎゅうと、いっそう強くサンジの体を抱きすくめた。

「・・・ってめ、いきなりなにやって、・・・っ!」
はっと我に返ったサンジが、突然のできごとに目を丸くしながら、思い切りジタバタと抵抗を返した。挟んだ指から落ちた煙草が、床からふわりと煙を上げる。
黒足の、匂い。
「・・・てめぇが悪ぃ。」
「は?!意味わかんねぇ!いってぇどういう、」
「うるせぇ。抱かせろ。・・・あいつばっかり、ずりぃ。」
うぐ、と喉を詰まらせる。かまをかけたつもりが、案外容易くひっかかったようだ。
そうか、・・・もう体は、あいつのもんか。

まぁ、・・・別に、問題ねぇ。

「俺は、処女趣味はねぇ。いっそ、開発されてる方が、やりやすい。」
「はぁ?!だから、どういう風の吹き回し、」
「どうもこうもねぇ。誘ったのは、てめぇだ。」
「お、俺は、誘ってなんか!」
「黙れ。」
無理矢理に口づけを落とせば、ビクリと微かに腰が跳ねる。
必死の抵抗の合間に落ちる、湿った吐息が、いやに艶っぽくローを煽った。
こいつ、・・・しっかり感じてんじゃねぇか。

「・・・っぷは!はぁ、はぁ・・・てめぇ、・・・どういうつもりだ、トラファルガー・・・!」
「どういうつもりもねぇよ、そのまんまだ。てめぇが欲しい。」
「だから、意味がわからねぇと、」
「わからなくていい。」
おもむろに零したローの気迫に、サンジの背筋がぎょっと固まる。寄せられるのは明らかな抗議だが、それにしてもと、ローは内心首を捻る。さっきの反応は・・・決して、拒否だけのようには、思えなかったが。
「俺にも、わからねぇ。だが、てめぇが食いてぇ。それは事実だ。」
「いや、・・・だから、てめぇの中で事実だろうがなんだろうが、俺は男とやる趣味なんか、うっ・・・」
さらり、と金糸を撫でてやれば、ふたたびびくっと体が震える。
・・・なるほど。この男、思った以上に、感度がいい。
「流されとけ、黒足屋。腹巻きに睨まれるのは、俺だけで十分だ。」
「っ、・・・」
微かな動揺が、手に取るように伝わってくる。こんなに流されやすいと来りゃぁ、あいつも相当、苦労すんな。
緑頭の腹巻き剣士に、思ってもいない同情を浮かべつつ、ローはもういちど、口づけを落とす。

今度はさっきよりも、もっと、深く。

なぁ、黒足。
てめぇの騎士道とやらは勝手だが、・・・俺に断らず、死ぬんじゃねぇぞ。

「次の島は、油断ならねぇ。なんせドフラミンゴは、・・・強い。」
「あぁ。わかってるよ。」
不器用に抱きしめられながら、黒足が僅かに体を捻った。その蒼い瞳に、幾千もの星空が浮かぶ。
ローは初めて、夜空を綺麗だと思う。
「わかったら、女なんかにかまけて、変な喧嘩売るじゃねぇぞ。ペルセウスなんか、神話にすぎねぇ。」
「・・・それは、」
できねぇな。
ふっと笑った横顔は、金糸に隠れて見えなかった。


ゆっくりと進む、航路の先に。
じりじりとにじり寄る戦の気配はしかし、今だけは少し、陰を潜めている。

だから、もう少し。
・・・あと、少しだけ。

立ち上る紫煙の香りは、秋の夜空に、溶けていく。
ローは、めったに願わない祈りの想いを、流れる星に、静かに託した。



(完)

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