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ねむりねこ

 

「……なんだ、てめェ」

いつものようにだらだらと朝寝坊を決め込んでいたゾロが、ひとりぼそりと声を漏らした。

海を渡る潮風が、気持ちよく頬を撫ぜている。高い空には雲が流れて、時折ふわりと優しい影を落としていた。緩やかにはためくジョリーロジャー。誇らしげに笑うライオンの顔。

今日は絶好の二度寝日和である。

「あぁ~……知り合い、だよな……たぶん」

緑頭をぽりぽりと掻いて、ゾロはもごもご言葉を濁す。

太陽はキラキラと溢れんばかりの光を放ち、新しい朝の訪れを喜んでいるようだった。風の匂いに、熱が篭る。太陽がゆっくり、空へと登る。いつもであればそろそろ、まるで毎朝の恒例のように行われている、面倒な儀式が始まる頃合いのはずだった。

 

 

ゾロは毎朝、しっかり二度寝をすると決めている。

昼間はひたすら鍛錬に励む毎日なのだから、とにもかくにも体力が必要なのだ。一味を守るのは他でもない己であるという自覚があったし、自分は戦闘員としてこの船に乗り込んでいるという、心に秘めた信念もあった。

――あの、コックとは違って。

ゾロはぼんやりと、そんなことを思う。

いつ寝て、いつ起きているのか知らないが、この船のコックはとにかくよく動き回った。

山積みの洗濯物、簡単な拭き掃除、備品の確認に、海図整理の手伝い……

なかには、どこからどう見ても、コックの仕事には思えないような仕事もあった。風呂掃除なんか毎日やっているみたいだったし、大量の洗濯物などはまさしくその典型例だ。ゾロからしてみれば、風呂も洗濯も1週間に1回で十分、それだってコックが「入れ」というから仕方なく入ってやっているだけなので、一体全体どうしてそんなに働くのか、ゾロにはまったく不思議でたまらなかった。

あの線の細い体のどこに、そんなエネルギーが眠っているというのだろう。

 

「楽しいか?」

それはいつのことだったか、やはり昼寝を決め込んでぐうぐうといびきをかくゾロの目の前を、金髪の男が右へ左へと動き回る午後のことだった。

別段、その問いに意味はなかった。コックが動き回っているのはいつものことだし、ゾロの迷惑になっているわけでもない。

ただ、無性に、気になったのだ。あまりに幸せそうな、あいつの横顔が。

一瞬はたと立ち止まったコックが、驚いたようにゾロを見下ろす。だらしなく咥えた煙草の先から、ふよふよと呑気に煙が漂う。

「好きだからな」

問いの答えは、至極単純だった。

そうか、と答え、目を瞑る。その夜ゾロは、コックを抱いた。

ゾロにはよくわからないが、とにかくコックは、人のために働くことが全く苦ではないらしかった。

 

 

はてこの状況をどうしたものかと、ゾロは困って眉根をひそめる。

まったく今日は、あほがつくほどのいい天気なのだ。こんな日は何も考えず、寝坊がしたい。

堪えきれずに視線をそらせば、海の蒼が鮮やかに映る。抱くときに見せる、コックの涙。

『……かと言って、“コレ”を抱くわけにも、いかねぇし』

ゾロは小さく溜め息を吐く。だいたいのことを筋肉で片付けてきたゾロにとって、頭を使うことほど不得手なことはない。

こんなとき、コックがいてくれたら……とゾロは思う。あいつは、バカでムカつく阿呆だけれど、ふとしたときに見せる冷静さは、なんというか、悪くないのだ。

「あ~……その。いくらてめェでも、そのままじゃさすがに、抱きにくいんだが」

一瞬の間が、ふたりを包む。優しい海風が、金の毛並みをさわさわと揺らす。

――あ……、やべぇ。

鈍感なゾロがそう思ったのは、全身の毛を逆立てた“コック”が、思い切り不機嫌そうにため息をついたからだった。

 

凶悪な目つき。揺れる金糸。咥えた煙草から紫煙がのぼる。

「……眉毛、やっぱり巻くんだな」

今度こそ、本気の蹴り技が飛んでくる。やっぱり。

 

働き者で、賢くて、誰からも愛される、俺の恋人。

 

朝目が覚めると、コックは、ねこになっていた。

 

 

―――――――

 

 

時は遡ること、夜明け前。

サンジは、ひととおりの仕込みを終えて、いつものごとく遅くに床についていた。ぐうぐうとのんきにいびきを上げる、むさくるしい男連中。飽きるほどに見慣れた光景に、わざとらしく舌打ちを落とし、サンジはごそごそと布団に潜り込んだ。

ようやく眠れる。安らかに。

目を瞑って思い浮かべるのは、美しい女神たちの微笑みだ。にやにやとだらしなく口元を歪めて、愛の囁きを反芻する。

うとうとと深い眠りの渕を覗けば、甘い香りがサンジを誘った。人よりも長く起きている分、サンジの眠りはいつも、深い。

 

――愛する人からのキスで、目覚めよ。

夢か現か余韻を残して、サンジの泉に声が響く。

深い眠りへと引きずり込まれる寸前のサンジが、一瞬ぼうっと思考を止めた。

ふいに襲う、妙な感覚。

全くありえないことなのだが、なぜか全身が縮むように感じて、サンジはぶるりと背中を震わせた。

慣れない感触を不安に思い、固く閉じたまぶたを開く。反射的に煙草を探るが、なぜだか枕が大きく感じられた。

――……手が、届かない。

慌てて引いた右手を見遣れば、見慣れないクッションが目に飛び込んでくる。

可愛らしい、ピンクの肉球。

……さすが、俺。こんなときまで、愛くるしいだなんて。

二度、三度と爪を出し入れしてから、サンジは深くため息をついた。

体が伸びたり、中身が変わったり、はたまた年齢を戻してみたり。

いい加減、この海で起こる不思議現象には慣れたつもりだったが、さすがにこれは予想外だ。

 

サンジ、21歳。この船の腕利きコック。

イケメンで爽やかで頭が良くて、世界中のレディを愛して止まないこの俺は、なぜか絶賛、クソ野郎とお付き合い中。……不本意だけど。

 

サンジは再びごそごそと、今度はもっと入念に、枕下の煙草を探った。しゅぼっという音と共に、暗がりが一瞬オレンジに染まる。

壁に映る、小さな影。見慣れない、ふたつの耳。

『ついてねぇなぁ……』

胸の内に響いた声は、小さなため息となって零れ落ちる。

 

ありえない。全くありえないことだけど。

どうやら俺は、……ねこになってしまったらしかった。

 

 

ゾロの反応は、思った以上に、普通だった。

こいつが、バカでよかった。

ゾロの阿呆さ加減に感謝をしたのは、これまでもこれからも、このときのただ一度かもしれない。

とにかく、目の前にいきなり現れたその場にいるはずもない生き物の姿に、ゾロは叫びも喚きもしなかった。

実際は、金色の毛に覆われた薄い皮膚がビリビリと細かく熱を感じたので、おそらく見聞色でも使っていたのだろう。

ゾロは困ったようにサンジを見つめて、何かを逡巡しているようだった。

朝日がゆっくりと登り始める。いつもであれば、そろそろ二度寝に入る頃合いだろう。サンジはちらりとゾロを見遣って、その瞳に言葉を探した。

ゾロを蹴り飛ばしに行く毎朝の儀式。サンジはそれを、二度寝をはじめてからきっかり1時間後と、決めている。

「あ~……その。いくらてめェでも、そのままじゃさすがに、抱きにくいんだが」

何を思ったか呑気にもそんなことを宣ったゾロに、サンジは思い切り不信感の視線を浴びせかけた。正真正銘の馬鹿だ、こいつ。

いったいどういう神経をしていたら、ねこになってしまった恋人の姿を見て、開口一番そんなことが言えるのだろう。

サンジはイライラと紫色の煙を吐き出す。ちょっとは、こっちの気持ちを想像してみるという、人間的な営みができないものだろうか。この、アホマリモ。

「……眉毛、やっぱり巻くんだな」

サンジはそれを聞くやいなや、全力で飛びかかって蹴り技を繰り出した。緑の頭がふかふかと気持ちがいい。マリモのくせに。

ねこになっても足技は出せるんだと思い至って、サンジはふうとため息をつく。体は完全にねこなのに、思考が人間のままなのがなんだかおかしかった。

サンジはじいと、ゾロを睨む。飽きるほど見慣れた、仏頂面。

 

クソ……てめぇはいっぺん、死んでこい。

 

 

―――――――

 

 

キッチンは一瞬しんと静まり、いきなりぎゃあぎゃあと大騒ぎになった。ゾロはそれを、無言で見つめる。騒ぎの中心は、ウソップとナミだ。さすがは今日も、いいチームワークである。

ふたりは、ゾロのことを馬鹿にしたり、頭がおかしくなったんじゃないかと心配したり、チョッパーに無理矢理診察させようとしたりした挙句、真っ赤だった頬をいつしか真っ青に染め変えて、目の前にぶらさがったねこを見つめていた。

「……それ、が? サンジ、だって?」

「あぁ。間違いねぇ」

事も無げに言い放つゾロに、ふたりの口がぱかりと開く。

ねこはさっきから、首根っこを掴まれた格好で、おとなしくぶらぶらとぶら下がっている。

 

 

ゾロは、飛びかかって来たねこをコックと見定めると、はたと困って首を傾げた。

コックの抱き方は知っていても、いかんせん、ねこの抱き方には詳しくない。

片腕にしがみついたままのコックは、何を思ったかゾロの顔をじっと覗き込んでいた。何かを訴えかけているような気はするが、意図がまったく掴めない。

『……撫でろということか?』

そう思いついて柔らかい背中を思い切りわしわしと撫でてやれば、容赦なく鋭い爪が顔面に振り下ろされた。……痛い。どうやら、お気に召さなかったらしい。このままでは、剣士のプライドを刻んだ左目に別の傷がついてしまいそうである。

そういうわけでゾロは仕方なく、首の後ろをぐいと掴んで頭から離した。

じたばた暴れていたコックは、それでやっと静かになったのだった。

 

 

首根っこを掴まれてぶらぶらと揺れるコックは、先程からごろごろ喉を鳴らしはじめていた。理由はどうあれ、ナミの視線を独り占めできていることがどうも嬉しいらしい。このエロコック。まったくおめでたいひよこ頭である。

「信じられないけど、あなた本当に、サンジくん、……なの?」

問われた瞬間、コックはつぶらな瞳をでれりと細めた。もはや、条件反射の域だ。ナミはそれを見て、コックであることを確信したようだった。ナミが青い顔で俯いてしまってからも、コックは何やらをとびきり甘い声でにゃあにゃあと並べ立てていた。何を言っているのかは、わからない。まぁ、……だいたい、予測はつくが。

「ど、どうすんだよ、こんな……こんな……まさか、サンジが……ね、ねこに……!」

狼狽えるウソップをチラリと見遣って、ゾロはぼそりと台詞を吐き出す。

「全部、俺に任せとけ」

暗く沈んだキッチンに、ぱぁ……!と明るく陽が灯った。

「お、おぉゾロ! 頼もしいなお前! さすが未来の大剣豪だ! まぁ俺様ほどじゃねぇけどよ!」

「ちょっと、なんか策があるなら先に言っときなさいよアンタ! びっくりしちゃうじゃない!」

「ふふふ……ずいぶん、頼もしいのね」

 

一味の期待を一心に背負って、ゾロはひとりキッチンに残される。

ごつい右手の先に、ぶらぶらと揺れる、いっぴきのねこ。

コックは一瞬、不安げにゾロを見つめた気がする。

「あ~……まぁ、そういうことだ」

ゾロがぽりぽりと緑頭を掻く。今のところ、策は、ない。

 

……まぁ、なんとか、なるだろ。たぶん。

 

 

―――――――

 

 

蹴り技のひとつでもお見舞いしようかと飛びついた腕に、サンジはがしりとしがみついていた。

そうだ。キスをしてもらうには、まずは……こっちから近づかねぇと。

サンジはわざわざマリモに会いに来た目的を思い出し、そうっと顔を覗き込んだ。

阿呆のマリモのことだ。どうせ俺を人間に戻すことなど、これっぽっちも考えていないに違いない。

――愛する人からのキスで、目覚めよ。

なんだそりゃ、シラユキヒメかよ。

サンジはその、いかにもありがちな誘導の声を思い出し、ゾロに気づかれないよう小さく舌打ちを打った。

王子様からのキスで目覚めるだなんて、古典的にもほどがある。俺だったら、まず試す。

……相手がレディのとき、限定だけど。

サンジは何かを決心すると、ねこなりに精一杯のおねだり顔を作って、ゾロの瞳をじいっと見つめた。こんな気持ち悪い顔、人間の俺だったら絶対にしない。一生しない。

ところがゾロは何を思ったか、いきなりサンジの背中をがしがしと撫で始めた。力の加減もせずごしごしとやるもんだから、結構痛い。ねこの体は存外に繊細なのだ。

クソ、このアホマリモ野郎……! ねこ様が可愛らしくこの身を捧げているというのに……鈍いにもほどがある!

瞬時に沸点に達したサンジは、その顔めがけて思い切り爪を振った。

さすがの剣豪、いきなりの攻撃にもその剣先を真正面から受けるようなヘマはしなかったが、薄く付いた傷からはほんのりと赤い鮮血が滲んだ。

 

 

サンジが登場したキッチンは、水を打ったような静寂のあとに、ひどく大げさな騒ぎとなった。

こうなるとわかっていたから、わざわざ先にクソマリモのところへ足を向けたのだ。

サンジはぶらぶらと揺れながら、ひとりこっそりため息をついた。おそらく抱き上げ方がわからなかったのであろうマリモが適当にサンジの首根っこを掴むと、体からはいっきに力が抜け落ちた。どうやら今は、親ねこに運ばれる子ねこの状態になっているらしい。

真っ赤な顔をして喚いていたナミさんが、いつの間にやら青い顔をしている。光の差し込む明るいキッチンには、冷静なゾロと慌てる一味、そして見慣れた目つきの……ねこが一匹、という異様な光景が広がっている。

――あぁ、今すぐ俺の手料理で、この女神様たちを安心させて差し上げたい。

サンジはぼんやりとそんなことを思う。

まったく、料理もできないとは、ねこの体というのは不便極まりない。

 

 

大口を叩いたゾロに全てを任せ、クルーたちは去っていった。

「あ~……まぁ、そういうことだ」

なんの脈絡もなくゾロが零し、緑頭をぽりぽりと掻く。

つまり、……策はない、ということだろうな。

サンジはふっと、不安に襲われた。果たして自分は、いつまでこの姿のままなのだろう。

苦し紛れに煙を吸い込めば、小さな肺が毒で満たされる。

だいいちキスで目覚めるなんていう、おとぎ話が本当に通用するかもわからないのだ。声が聞こえたのだって半分眠っていたときだから、聞き間違えた可能性は充分にある。そもそも、こんなに簡単に復活のヒントが手に入ること自体がなんだか疑わしい。

 

サンジはふいと視線をそらせ、小窓の外の空を見遣った。

いつもは優しく包み込んでくれる、遠く高い澄んだ蒼は、今はひどく他人行儀に思えた。

 

 

―――――――

 

 

キッチンのテーブルの上にサンジを下ろして、ゾロは静かにそれを見つめた。

コックは相変わらず、不機嫌そうにそっぽを向いている。ふわふわと立ちのぼる紫の煙。くるりと巻いた眉毛が面白い。

キッチンの小窓からは、午後に向かう陽の光が差し込んでいた。広がる蒼。まるで、こいつの目玉みたいだなと、ゾロは思う。

金色の毛並みが、美しい光のなかにふわふわと幸せそうに輝いている。それは呆れるほどに、綺麗だ。

 

 

「いつでも俺に抱かれるための準備か?」

あれは、初めて体を重ねてからしばらく経った頃だった。俺は毎日風呂に入っている、と聞かされたゾロが、さも当然のように言葉を零した直後、腹巻の腹に本気の蹴り技が華麗に決まった。あまりの急展開に、さすがのゾロも避けきれなかった。何が起こったのかと不思議に思ってコックを見遣れば、コックはなぜだか頬を真っ赤に染めて、わけのわからないことをぎゃんぎゃんと喚き散らしていた。性欲の処理がどうの、とか、自分勝手、とか、そんなことを言っていた気がする。仕方ないので抱きしめてやれば、腕の中は静かになった。

「なんでてめぇは、好きでもねぇ野郎のこと抱きしめ……っ」

「好きだ、コック」

ゾロは本心を述べただけだったのに、コックの瞳からは大粒の涙が零れた。

泣いたり笑ったり怒ったり、本当に忙しい奴だった。

叩けば空っぽの音でも鳴りそうな、阿呆らしい金髪の脳みそには、ゾロには知れないたくさんの言葉や感情が詰まっているのだろう。

いいな、と思った。

自分には、わからないけど。俺はそんな面倒な生き方、しないけど。

ただこの、バカで強情で繊細な優しいコックを、ゾロは守ってやりたいと思ったのだ。他でもない、自分の手で。

 

 

揺れる金糸にゆっくりと手を伸ばす。その背に掌の温度が触れたとき、コックの体は一瞬びくりと跳ねたけれど、今度は静かに撫でられてくれるようだ。

「……気持ちいいか?」

だんだんに目を細めるコックに向かって、ゾロは小さく声を届ける。薄紅に透ける三角の耳が、ぴく、とこちらに向けられる。返事はない。

「なぁ、てめぇはいつも何を考えてんだ?」

うとうとと甘い眠りに誘われているのだろう、コックの体から力が抜けていくのがわかる。ぱたり、ぱたりと緩やかに弧を描く柔らかいしっぽが、穏やかな心持ちを映し出している。

「別に、中身がコックなら、ねこでもいぬでも構やしねぇが……」

ほとんど独り言のように小さく零して、ゾロはコックの頭を撫でる。

二度と抱けないのは、やっぱり寂しい。

「好きだ、コック」

それは、ほとんど聞こえるか聞こえないか、わからないほどの小さな声だった。

別に、それでいい。

コックはいよいよすやすやと安らかな寝息を立て始める。掌に触れる、柔らかい金糸。ほんの少し躊躇ってから、それをふわりと抱き上げる。床に落ちる、吸いさしの煙草。

ひやりと冷たい鼻の頭に、ゾロは小さくキスを落とした。

 

 

―――――――

 

 

うとうとと甘い眠りに誘われながら、サンジはぼんやりとゾロの低音を聴いていた。

背中を撫でる大きな掌が暖かい。さっきまであんなに心もとなかった感情が、そうされている間だけは、心から緩むから不思議だった。

 

 

サンジは、ゾロのことが好きだった。

ひょんなことからともに船に乗り込んでからというもの、毎日のように飯を作って、風呂を炊き、迷子を連れ戻しては、背中合わせで戦ってきた。

こんなにむかつく野郎、さっさと船から降りればいいのにと、本気で願わない日はなかった。同い年で、同じ背丈で、同じくらい強かったゾロは意識せずとも癪に障ったし、信念のために死ねるような強さと脆さが、サンジはひどく嫌いだった。

そうやって毎日サンジの思考を支配するマリモ野郎に対して、信頼以上の感情が湧いていると気づいたのは、一体いつのことだっただろう。それを自覚したときの自己嫌悪といったら、思い出すだに反吐が出る。実際サンジは高熱を出し、三日三晩チョッパーの看病に預かった。

「たぶん、風邪、の一種だとは思うけど……」

なんとなく腑に落ちない様子で看病を続けたチョッパーが、三日目にぽつりと言葉を漏らした。

それも、そうだろう。しばらく続く温暖な気候に、色とりどりの豊富な栄養。1週間ほど身を寄せた島では、ゆったりと休暇を過ごすこともできたのだ。風邪をひく原因が見当たらない。

強いて言うなら働き過ぎかなと、チョッパーは遠慮がちに医者の見解を述べていた。ここんとこ忙しそうに働いてたもんなと優しく声をかけて、慣れた手つきで額のタオルを挿げ替える。

――「楽しいか?」

ゾロのとぼけた低音が、脳みその深くでリフレインする。

――「好きだからな」

ぽろりと零れおちたのは、たぶん、本音だった。

あれは、誰に向けた言葉だったのだろう。だってサンジは、本当に好きだったのだ。誰かのために働くことも、美味そうに飯を食うゾロの横顔も。

 

風呂に毎日入るのは俺に抱かれるためかと問われたとき、サンジは反射的に足を出した。

あの夜、初めて繋がった瞬間に、サンジは自覚してしまったのだ。                                                            

――俺は、ゾロが、好きだ。

だから、抱かれる前と微塵も変わらない、そのあまりに飄々とした態度のゾロに、サンジは思わずカチンときたのだ。

別に何かを求めているわけじゃねぇ。てめぇにとっちゃただの性欲処理だろ。だったら頼むから、もっと自分勝手に抱いてくれ……!

自分でも歯止めがきかないほどに、いつしかサンジは激しい喚き声をあげていた。

違う、こんなこと言いたいんじゃねぇんだ。俺はただ、てめぇが傷つかないように、この薄汚い気持ちを隠したいだけで……

「好きだ、コック」

ふわりと抱きしめたゾロが、耳元でぽつりと言葉を紡ぐ。伝わる熱が、柔らかい。ぽんぽん、と優しく頭を撫でられて、サンジの蒼い瞳からはぼろぼろと大粒の涙が零れた。

――あぁ、暖かい。

「俺の方が、もっと好きだ」

サンジが零した小さな震えを、ゾロはちゃんと、聴いていたのだろうか。

単純で、バカで、頭の悪いこの剣士が、本当の意味で強いことも、とてつもなく己にストイックなことも、サンジは全部知っていた。

だから、守ってやろうと思ったのだ。プライドのために死ぬのでなく、明日を生きるために戦えるように。もう二度と、俺からはぐれて迷子にならないように。

 

 

丸まった背中を、ゾロの熱が撫でる。さっきまで不安に駆られていたのが嘘のように、穏やかな心地で目を瞑る。

「……気持ちいいか?」

ゾロの声が、空から落ちる。優しい、気遣いの音色。そうだった。ずっと前から、俺はこの声が大好きだった。

ふと、ゾロとひとつになっているかのような感覚に見舞われて、サンジの体温がふわりと上がる。あれ、なんだろう。……心地いい。

あぁ、またこいつに抱かれたいなぁと、働かない頭でサンジが思う。別に、ねこになるのは構わないけれど、料理ができないことと、ゾロと愛し合えないことだけは、やっぱりちょっと寂しかった。

「好きだ、コック」

それは、ほとんど聞こえないくらいの、小さな小さな声だった。

だけど、サンジにはちゃんと届いた。眠りに落ちる、ほんの手前。金糸を撫でる、柔らかい指先。

ゾロの両手が躊躇いがちに、サンジをふわりと抱き上げた。落ちる煙草。愛おしい瞳。そうして落とされる、静かなキス。

その唇が優しく触れたときにはもう、ねこになったサンジは、深い深い眠りに落ちていたのだった。

 

 

―――――――

 

 

朝の陽が差し込むキッチンの床に、ふたりの男の姿があった。

片方は愛おしそうに男を抱きしめ、片方は安心しきったように腕の中で丸まっている。

それはまるで、親ねこが子ねこを愛おしむような、あたたかく美しい光に包まれている。

乱れて散らかったシャツやベルトが、昨晩の熱を残しているようだ。

 

ふたりはどちらからともなく目を覚ます。

「……あれ。俺、……寝てた? いつの間に」

くあ、と小さく伸びをして、朝の光に目を細める。

「なぁ、ゾロ」

「……ん?」

男は小さく欠伸を零して、わしわしと金の毛並みを撫でた。その手は少し乱暴だったが、微かに慈しむような色が滲む。

「俺、変な夢見た」

「あ~……たぶん、同じだ」

きょとんと目を見開いた金髪に、緑頭がぼそりと言葉を零す。その手のなかに握られた、短く柔らかい、金の糸。

「なぁ。あの頃の話をしようか、……サンジ」

緑の男が片目を細める。蒼目の男が頬を染める。

そうしてゆるりと触れる指先は、愛おしそうに金の糸を撫でているのだ。

何度も、何度も。繰り返し。

その掌は泣きそうなほどに暖かく、甘やかに疼く熱を含んでいる。

「ゾロ」

「好きだ」

「……ばーか」

金髪はごろりと、背中を丸めた。朝ごはんの準備は、ちょっとだけ遅刻しよう。

緑の男が甘い瞳で、眠る子ねこを見守っている。朝陽がふたりを包み込んでいる。

その優しい光景にはまるで、小さな子ねこを愛する親ねこような愛おしさが、ふわりと滲んでいたのだった。

 

 

 

(完)

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