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ネモフィラの海のほとり

 かつて、たった一度だけ、オールブルーを見たことがある。

 

 

 「もう知らねぇ! おれひとりでだって見つけてやる!」
 バンッ! と扉が開かれて、鉄砲玉のように少年が飛び出した。金髪の少年はコックコートの裾を揺らし、街の雑踏に駆けてゆく。
 あとを追いかける笑い声。呑気で愉快な調理場の音。
 街ゆくひとたちは朝から何事かと振り返り、風のように駆け抜ける少年をちらりと見やった。
 
 サンジたちがこの島にやってきて、十日と半日が経っていた。
 バラティエのオーナー、ゼフの決定で船は東へと航路を進んでいた。
 荒れ狂う海、凶暴な海獣たち、招かれざる「お客さま」。
 コックたちはみな豪快に笑って、強靭な腕っぷしを存分に発揮した。
  「なんで信じねぇんだよ、本にだって書いてあるだろ!」
 サンジが頬を膨らませて抗議するのもいったい何百回めのことだろう。コックたちは目を見合わせ、それから馬鹿にするように鼻で笑う。
  「あのなぁチビナス、夢は夢のままだから綺麗なんだぜ」
  「そんなことねぇ! 海はこんなに広ぇんだ、どこかにあるに決まってる!」
 サンジの必死の訴えにも大人たちは訳知り顔でにやつくだけ。悔しさに涙を浮かべながらサンジがぎゅ、と下唇を噛むのはいつもどおりの日常だった。
 食料を補給するために立ち寄った島は、温暖な気候の続く、小さな村が点在する島だった。なかでももっとも賑わう街のはずれに、居抜きで貸し出されているレストランがあった。
 噂を聞いたゼフたちはさっそく交渉に出かけ、そのままひと月の滞在を決めた。新しいメニューを考案するかたわら、長旅の小遣い稼ぎをしようという算段だ。
  「……クソ、あいつら馬鹿にしやがって……」
 サンジは地面に向かってつぶやきながら、目の前の小石をつま先で蹴飛ばす。朝の日は高く上りはじめ、サンジの影を短く伸ばしていた。尖らせた口先を風が撫ぜて、踊るようにとおりすぎる。ふわりと揺れた金の糸が、流れた涙をそっと隠した。
 オールブルー。
 世界中の海の生き物が集まるというその場所は、この広い海のどこかにあるという。
 今よりももっと幼い頃、赤い表紙に金色の印字がされた分厚い本を開いてから、サンジはその存在にずっと焦がれてきた。
 北も、南も、東も、西も。住んでいる場所など関係ないのだ。いさかいも争いもおこらないし、誰かを脅かすことも、何者かに怯えることもない。ただただ自由な、青い海。
 夢のようだ、と思った。
 その穏やかで平和な暮らしは、かつてのサンジにとってまるで楽園のように思えた。それはサンジがずっと手に入れたくて仕方なくて、けれどもどうしても手に入れられなかった、幸福の象徴にも思えたのかもしれない。


 ふと気づくと太陽はずいぶんのぼっていて、あたりには人影がなくなっていた。乾いた砂利道はわずかに上り坂になっていて、手入れの届いていない道端の草が空に向かって背を伸ばしている。
  『……あれ、どこだここ』
 サンジはキョロキョロとあたりを見回し、それからぼんやりと道の先を見た。道端の草むらはどんどん深くなり、もうすこし先は森の入口になっているようだった。海からの風にざわざわと木々が揺れ、しめった空気が鼻奥を突く。
 サンジは急に不安になって、一歩うしろへと後ずさりした。怖いものなんてないはずなのに、わずかに足がすくむ気がする。ぐう、とお腹の鳴く音にサンジはぎゅっと眉をしかめた。そうでもしていないと、なんとなく……ダメな気がする。なんとなく。大きく深呼吸して高い空を見上げて見ると、青い空が笑ったような気がした。
 ――ガサガサッ!
  「うわぁっ!」
 向こうの草むらがいきなり揺れて、思わず上ずった声が漏れた。慌てて口元を両手でおさえ、周りをさっと見回してみる。サンジを馬鹿にする声は聴こえない。あのむかつくコックたちがいなくてよかったと、サンジはほっと胸をなでおろす。
 ――ガサッ、ガサガサ。
 草むらの揺れは道の先へと向かい、蛇行しながら遠のいているようだった。どうやらそこから飛び出してサンジを襲う意図はないらしい。そもそもここにサンジがいることにも気づいていないのかもしれない。
  『……』
 サンジは下唇を噛み締めて、後ろを振り返り、それからもう一度道の先を見た。耳を澄ませて気配をうかがう。コックたちの笑い声が聴こえる気がする。
そうしてもう一度風が吹いたとき、サンジの勇気ある小さな足は、森の方へと向かったのだった。


 森のなかは日が陰って空気はひんやりと冷えていた。遠く鳥のさえずりが聴こえる。風が吹くと木々はざわざわと意味深にささやきあった。美しい木漏れ日の落ちる道を、サンジはとぼとぼと歩いていく。
 物心ついた頃にはすでに、この小さな両手には拳銃が握らされていた。
 その手はひとを闇に落とすものであったし、この目は獲物を追うためにあった。頭を撫でてくれる暖かい手のひらが、二分後には誰かの体温を奪っていく。絶望的な日常の繰り返しに疑問を挟むことすら許されなかった。
 あれはいつのことだったのだろう。命の気配の消えた屋敷のなかでふと手に取った分厚い本。赤い表紙に金色の印字が印象的な古い本だった。ふう、と埃を吹いてから、適当なページを開いてみる。
 その一面に広がった、ページいっぱいの美しい、青。
 ――おーる、ぶるー……?
 サンジは口のなかで呟いて、その青色をじっと見つめた。青はキラキラと輝いていて、まるで永遠の自由をたたえているかのようだった。
 サンジは驚きに見開いた目を、今度はぎゅ、と強く閉じた。そうして表紙を閉じたとき、その美しい赤に涙がひとしずく落ちて滲んだのを、まるでひとごとのようにサンジは見た。
 あれからずっと、恋をしている。

  「っしょ、と……」
 大きな岩をひとつ超えて、サンジは「はぁ」とため息をついた。森の木々はさざめくように揺れ、無邪気に光を散らしている。汗の滲んだ鼻先を、冷たい空気がふわりと撫ぜる。追いかけていたはずの「音」の正体は、いつの間にか消えていた。
 ふと目をあげる、立ち並んだ木々の向こうに空が見えた。すこし開けた場所になっているのかもしれない。青い空はぽっかりと浮かんで、のんきそうに雲を流している。
 サンジはもう一度足を踏み出し、そこに向かって進んでいった。大きな木をふたつ超えて、背の高い草をかきわけて。

 

 ――う、わ…………っ!

 

 その瞬間、サンジは思わず息を飲んだ。
 深い森を抜けた先、瞳に映りこんだ一面の、青。
  「オールブルーだ……」
 思わずそうつぶやいてまばたきも忘れてじっと見つめる。
 見える限りずっと向こうの方まで、一面を埋め尽くす青色。
 花の群生だった。
 遠景にゆくほど丘になっていて、空との境を曖昧にしている。
 まるで海みたいだ。サンジは思って泣きそうになる。世のすべての青色を溶かし、平和と自由を抱く、あの愛おしい海。
  「――あ」
  「え?」
 茂みから聴こえた声に、サンジはぎょっと振り返った。ガサガサと草むらが揺れて、長い草がかき分けられる。サンジは身を固くして向こうの出方をじっとうかがう。
 そうして目の前に現れたのは、少年だった。背の高さは同じくらいで、見たところ年も同じくらいに思える。負けん気の強そうな瞳が向けられる。柔らかそうに風に揺れる髪の毛は、おもしろいほどの緑色。
  「お前、誰だ」
  「えっと……」
 いきなり話しかけられてサンジは言葉を詰まらせた。そもそも普段から「子ども」と話し慣れてなかった。普通、のやり取りをしたことがない。どうしていいかわからなくて、頬がぼっと赤くなったのがわかる。
  「おまえひょっとして……家出したのか?」
  「ちっ、ちげぇよ!」
 いきなり痛いところを突かれてサンジは慌てて大声を出した。少年は一瞬目を丸くして、それから興味もなさそうに「ふーん」と答えた。「海」がざわざわ風に揺れると、世界が溶けていくような気がする。
  「俺は世界一の剣豪になるんだ」
 今度はサンジが目を丸くする番だった。少年は「海」をまっすぐに見据え、いきなりそんなことを口にする。
  「け、けんごう?」
  「そうだ。剣の道は厳しいんだ。でも俺はいつかアイツに勝って、絶対に世界一強くなってやる」
 見ると腰には竹の刀が刺さっていて、なにか武術をやっているのだとわかった。きっとライバルがいるんだろう。もしかすると負け続けているのかもしれない。そう思うとサンジはすこしだけ気持ちが緩んで、なんだか気安い気持ちになった。だってきっとまだそんなに強くもないくせに、勝気に世界一だなんて言ってやがる。
 そうか。負け続けてたって、言っていいんだ。勝ちたいって。
  「それがおまえの夢なのか」
  「ちげぇよ!」
 ところが少年は怒ったように声を大きくして、サンジをさっと振り返った。サンジは「え?」と聞き返す。だって今、剣豪になるって。
  「夢なんかじゃねぇ。『予定』だ」
 少年はじっとサンジを見つめ、淡々と言い切ってみせる。サンジは目を見開いたまま次の言葉を紡げない。
 夢じゃなくて……予定?
  「俺はかならず世界一になる。ただ早いか、遅いかだけの違いだ。それって、予定ってことだろ。夢見たり願ったりするようなもんじゃねぇよ。待ってりゃ誰かがなにかしてくれるなんざ、甘ぇ。誰かのせいにしてりゃあ楽だけど、そんなんじゃいつまでたっても欲しいものは手に入らねぇ」
 逆光がキラキラと降り注ぎサンジは思わず目を細める。
  「俺たちはなんだってできる。行きたいところに行って、やりてぇことができるんだ。できねぇ理由は周りじゃねぇ、てめぇのなかにあるんだろ。見ろ、だって俺たちは、こんなにも自由じゃねぇか」
 少年は竹刀をスっと抜いて、「海」に向かってまっすぐに掲げた。一陣の風が通り抜けて、海を渡って頬を撫ぜる。遠い空が青を溶かす。白い雲が緩やかに流れる。
 頬を伝ったひとすじの光は風に吹かれて消えていく。
 ――俺たちは、自由。
  「おまえは?」
  「え?」
  「将来の、予定」
 竹刀を下ろして振り向いた少年は楽しげな笑みを浮かべていた。心臓がドキリと跳ねる。その瞳に映る、青。
 あ、綺麗だ。
  「……世界……」
  「あ?」
 サンジはわずかにうつむいて、それからまっすぐに少年を見上げた。見返す瞳に負けないように。強く、強く、空も飛べるように。
 世界は案外、生きるに値するのかもしれない。
  「俺の予定は、世界一の、海のコックだ!」
 きっぱりと言い切ったサンジの金糸が青い風にふわりと揺れる。海がざわざわと祝福を述べる。白い雲がゆっくり流れる。空はあっけらかんと笑っている。
 見つめ合った小さな影は、そうしてそれぞれの道へと戻る。
 高くのぼった太陽の軌跡。
 きっと明日も晴れるだろう。

 


  「――で、そのあと何回か行ってみたんだけどよ、そいつにも、その海にも、もう出会うことはなかったんだ」
 すう、と煙を吸い込んで口の端から細く流す。ゆらりとのぼった白煙は曖昧に揺れて空気に溶ける。
  「そんなこと、今の今まで忘れちまってた。ヤなヤツだよな。なんにもできねぇガキのくせに、なァにが『ただの予定』だ。笑わせるぜ」
 サンジは短く笑いを零して、もう一度深く煙を吸い込んだ。キラキラと光が落ちる。青い空はどこまでも澄んでいる。
  「自分はなんにもできねぇガキなんだ、ってことを、俺はそのあと何遍だって思い知らされることになった。自分の力だけじゃあどうにもならねぇことが、この世界には山のようにあった。だけど、あのときのアイツの……アイツが言った『自由だ』って言葉は、俺にとっちゃまるでオールブルーの魔法みてぇなもんだった。なぁ――ゾロ?」
 ざっ……と一陣の風が吹いて、森がざわざわと意味ありげにざわめく。木々のあいだから零れる木漏れ日が懐かしい色を連れてくる。暖かな風はやがて森を抜け、海を渡って、きっとあの街までも届くのだろう。懐かしい場所。幼かった俺たちの、可愛い「夢」の跡。
  「……そうか」
 ゾロはひとことそう言って、それから森にはまた静寂が訪れた。バカみたいに真っ白なスーツのそでに、こぼれた灰がはらりと滑る。遠くで教会の鐘が響く。ざわめきと雑踏が聴こえはじめる。逃げ出した『新郎』のあとを追って、じき『家族』たちが到着するだろう。
  「……どうやら俺の『予定』は、ひとりじゃ叶えられそうにもねぇよ。甘えていいか、ゾロ」
  「あたりめぇだ」
 ゾロはきっぱりと言い切って、黒いバンダナを頭に巻きつける。その瞳に灯るのは、あの頃と変わらないまっすぐな光だ。
  「その代わり、終わったら好きなだけ抱かせろ」
  「ハッ! いいぜ、でもさきに飯だ」
 ニッ、と背中合わせに笑い合って、それからパッと地面を蹴る。スーツのすそが軽やかにひるがえる。緩やかな金糸が太陽に透ける。

 目の前の小高い丘には、美しい海が広がっている。

 


Fin.
 

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