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夏風邪を、ひきました。

「けほっ、こほっ、・・・ッ」
「サンジぃ、・・・大丈夫か?」
 
よいしょと背伸びをした船医が、額のタオルを持ち上げる。
そこに片手の掌をあてて、しばらくしてからため息をつく。
うっすらと滲んだ汗をついでに拭って、ばしゃりとバケツに投げ入れた。
氷がたっぷり入った透明な水は、キンキンに冷えて船医の毛皮を濡らしていくが、おそらく5分もしないうち、タオルはほかほかと湯気を立て始める。
 
「・・・下がらねぇな、熱。」
 
真ん丸な瞳に心配の色を浮かべて、船医がぽつりと嘆息を漏らした。
濃い藍色に変わりゆく空には、半分に欠けた月が、ぼんやりと黄金に輝きはじめている。
狭く蒸し暑い、小さな医務室の一角。
もうかれこれ2時間ほど、この一連の処置が、休むことなく続けられていた。
 
「こほっ・・・んン、悪ぃなチョッパー。」
「あぁっサンジ、起きちゃだめだ。」
 
慌てて制止する船医の様子に苦笑を零しながら、サンジは真っ赤な顔で、タオルを返した。
どのみちすぐに、微温くなる。
冷却の効果は僅か一瞬で、あとはだらだらと額に居座るだけの、濡れたタオルの心地が悪い。
だったらいっそ、氷でもそのまま額にぶちまけたいと、ズキズキ痛むこめかみを親指で押して、サンジはぐうと喉を鳴らした。

体の芯が、ぞくぞくと震える。
 
「・・・もういいぜ、けほっ、ただの風邪だ。一晩寝りゃあ、なんとかなるだろ。」
 
心なしか乾いた声で、サンジが船医に目配せを寄せた。
喉がカラカラだ。
半身を起こしたまま体をひねり、枕元のグラスを手に取った。
慌てて手伝おうとする船医の好意を軽く遮り、乾きを喉の奥へと押し流すかのように、ゴクゴク音を立てていっきに水を飲み干した。
 

 
船医の下した診断は、「夏風邪」だった。
 
いつもであれば風邪をひいても、少し休めばすぐに動き出せた。
症状だって少々鼻がむずむずする程度で、熱はおろか咳だって出ることは珍しい。
なにせ、人様の健康を預かるコックである。
暖かい季節であっても手洗いうがいは怠らないし、言わずもがな栄養はばっちり摂れている。
そもそもノース出身のサンジは、体がいくらか寒さに強くできているようなのだった。
 

それなのに、である。
 

その日サンジは、いつも通り夕飯の仕込みのため、午後からひとりキッチンに篭っていた。
鼻歌を歌いながら、野菜を切り刻む。白く丸い玉が、爽やかに汁を飛ばして目に染みる。
ゴロゴロとボールに転がる色とりどりの具材を鍋にぶち込んで、弱火でコトコトと湯気を吹かせる。
 
「ご、っほん。」
 
陽気なメロディが、咳払いに取って代わった。
喉に絡みつく厭な粘着が、悪い予感を後押ししていく。
 
「・・あぁ、あー、あ、ごほっ、」
 
気づいたときには、遅かった。
みるみるうちに広がる頭痛はサンジの頬を紅く染め、鼻にかかった甘い声が枯れていくのは、ただただ時間の問題であった。
 


 
「働きすぎだ、サンジ。」
 
確か船医は、そう言った。
そうは言われても、とサンジは曖昧な返事を返したはずだ。
 
苦い粉をパラパラと口に含んで、ゴクリと水で流し込む。
・・・情けねぇ。
船の健康を預かるべきコックが、いちばんに風邪をひくとは何事だ。
『医者の不養生』、そんな言葉が思い浮かんで、思わず小さくため息が漏れた。
 
このまま伝染すのは悪いからと、渋る船医を何とか部屋から追い出した。
人間の風邪は伝染らないと、言い張るトナカイに何度も「念のため」と言い聞かせる。
半分は本音で、半分は綺麗に固められた、嘘だった。
 
「けほっ、ごほっ、・・・」
 
心なしか、熱があがっているようだ。
 
・・・見せたくねぇよ、こんな姿。
 
心配ゆえに見舞おうとするクルーたちの意向も、なんやかやと理由をつけて、ことごとくお断りを入れていた。
あの見目麗しいナミさんのご好意まで跳ね除けたのは、自分のことながら驚きである。
 
サンジは少し、弱っている。

 

 

 

———————
 

 

 

うっすらと目を開けたのは、何やら部屋に反響する、微かな物音に気付いたからだった。
ベッドサイドの椅子をひいたのであろう、ごとりと静かに響いた音には、気遣いの間合いが含まれている。
 
『・・・誰だ?』
 
オレンジ色の薄明かりに、ぼんやり細めた目を凝らす。
知らず、その暗がりにナイスバディを探していた視線が、腕を組んだ男を捉える。
罪悪感から看病を断った、自分の情けない台詞を思い起こす。
近づくな、と言われた場所にわざわざ近づくようなやつは、この船のなかで、ひとりしか知らない。
 
「・・・マリモか。」
「んだ、起きてんのか。」
 
てめぇのせいで、目ぇ覚めたんだよ。
喉まで出かかった罵りの言葉が、鈍痛に負けて押し戻される。
ったく、こんな調子じゃうっかり喧嘩もできやしねぇ。
罵声の代わりに、長い長いため息を零す。
 
その様子を、ここに居ることへの肯定と捉えたのだろう。
マリモはたっぷりひと呼吸を置いてから、先程からごそごそと氷水につけていたタオルをぎゅうと絞って、サンジの額にふわりと乗せた。
剣を振り下ろすのと同じ手とは到底思えない、うかがうような躊躇いの手つきに、思わずドキリと心臓が跳ねる。

冷やりとして、ずいぶん、心地がいい。
 
「熱は、あんのか。」
「・・・さぁな。」
 
ぶっきらぼうに、そう応える。
マリモはしかめた眉を寄せて、訝しげな視線を寄越している。
これでも、心配しているのだろう。
慣れてない気遣いの様子が、やたらに不器用で可笑しかったし、それは微かに、くすぐったい。

どうやら、熱は少し、下がっているようだった。
 
「鍛えが足りねぇ証拠だ。」
「・・・るせぇ。」
 
生憎、てめぇみたいに筋肉バカじゃないんでね。
今度はきちんと空気を震わせ、サンジの声がゾロに届く。
ふるりと鼓膜を震わせたその声は、鼻にかかってくぐもっている。
 
「ごほっ、けほ、・・あぁ、マリモ、・・・ちょっと。」
 
さらに悪態をつこうと開いた口から、乾いた咳が零れ落ちた。
苦しさにぎりりと奥歯を噛み締めて、片手をあげて合図を送る。いったん休戦だ。
小さなテーブルの上に置かれた水差しを振り返ったゾロは、了解の表情で立ち上がった。
 
「悪ぃな、・・・喉が渇くんだ。」
 
おそらく薬の副作用なのだろう。
うとうとと眠りに落ちかけては、喉の渇きで目が覚める。
サンジの口内は砂漠のように、吸収できる水分を探しているようだった。

マリモに向かって、グラスを差し出す。
 
『・・・ん?』
 
片手に水差しを持ってふらふらと戻ってきたゾロはしかし、それをコトリとヘッドボードに置いた。
 
「おいマリモ、水はこっちに、・・っむんン?!!!」
 
突然視界が、暗く遮られた。

熱く湿ったゾロの唇が、サンジの乾いた蕾に乱暴に触れたようだった。
抵抗しようと伸ばした右手を掴まれて、そのまま深く抱きしめられる。
腰にまわしたゾロの腕は、熱く痺れて、細い腰にまとわりつく。
 
「っん、・・ンンん!、っは、おい!マリモなにやって、」
 
至近距離で、視線が交わった。
僅かに荒く息を吐くゾロの瞳に、戸惑う自身が映り込んでいる。
 
「なにって・・・喉、乾いてんだろ?」
 
こともなげにそう言い放ったゾロに、サンジはぱくぱくと口を開いた。
 
「違っ、今のはそういうんじゃ、むンぅっ・・・!」
 
サンジの悪態を最後までは聞かず、零れ落ちる言葉を唇で塞ぐ。
今度はもう少し、丁寧に。さっきよりも、もっと深く。
 
形ばかりの抵抗は、すぐに甘いため息に代わった。
ベッドがぎしりと音を立て、ふたり分の体重を受け止める。
息継ぎとともに落ちる蜜のような母音が、淫猥な水音とともに狭い部屋に満ちていく。
 
「は、・・ん、ゾロ、・・・っ」
 
うわ言のようにその名を呼べば、開いた蕾の隙間から、真っ赤な舌が侵入してくる。
上あご、下あごを確かめるようにゆっくりとなぞり、綺麗に並んだ歯の裏側までも、厭に丁寧に蹂躙していく。
狂おしいほどに絡み合う、燃えるように熱い舌先。
その温度にゾロの欲情を感じ取って、サンジの腰がぴくりと跳ねた。
 


 
「・・・ゾロ、俺は・・・てめぇじゃなくって、水が欲しかったんだが・・・」
 
酸素を欲して離れた瞬刻に、サンジがぽつりと言葉を零す。
長く深い口付けに、互いの肩が荒く上下している。
ふっと空気の止まる気配がして、目の前の男がニヤリと笑った。
 
「だから、充分湿らせてやったじゃねぇか。・・・それとも、——」
 
いきなり寄せられた唇に、サンジの敏感な耳は瞬時に紅く染め上がる。
小さくつぶやいたその台詞が、熱く絡みつく吐息とともに、サンジの鼓膜を震わせる。

 
「・・・ば、っバカ野郎!俺は病人だ!クソマリモ!」
 
弾かれたように悪態をついたサンジの瞳が、微かに潤んで光を反射する。
 
思い出したように、病人面しやがって。
ゾロはそれを肯定と取って、再びサンジに覆いかぶさった。

じたばたもがく両足は次第に力をなくし、狭い部屋には甘い吐息が満ちていく。

・・・クソ。仕方ねぇヤツ。
ひっそりとつぶやいた愛しさの台詞は、一体どちらの言葉だったのだろう。



――それとも、『・・・「俺の」をたっぷり注いで欲しいか、サンジ?』

 

 

 

———————

 

 

 

柔らかく降り注ぐ朝陽が、キラキラと船を包んでいる。
緩くうねった大きな波が、船底を優しく撫でては消える。
遠くから響き渡るのは、白く大きな名もない鳥だ。
甲高い鳴き声が空に溶け、朝の訪れを美しく彩っている。
 
「あら。サンジくん、もういいの?」
「あぁナミすわん!貴女からの愛のお言葉、朝から僕はなんて幸せなんだ~!」
 
少し遅めにキッチンへ到着したナミは、くるくると踊り始めたサンジを見て、ほっと胸を撫で下ろした。
 
・・・治ったのね。
 
昨晩、ナミの看病を断ったと聞いた衝撃に、船は一時騒然となった。
あいつが、ナミの申し出を断るなんて。
珍しすぎるだろう。これは、参りましたね。おかしいぞ。相当悪いな。
 
・・・死にかけてるんじゃねぇか?
 
看病にあたっていたチョッパーがいなかったことが、余計に素人の想像を煽っていた。
青い顔が、いくつも並ぶ。
 
ごくりと唾を飲み込んだウソップの隣で、呑気に居眠りをしていたのは確か、・・・。
 
「あれ?誰か、いないわね?」

ぐるりと見渡すキッチンには、明らかに人数が足りていなかった。
二人のやりとりに怪訝な視線をくれるウソップと微笑むロビン、早くも肉を食べ始めた船長に、フランキーとブルック・・・
 
「おはよう!お前ら今日も、医務室には近づくなよ!」
 
小さな船医が、いきおいこんで扉を開けた。
責任感に溢れた横顔は、まさに医者のそれである。
 
「どうしたチョッパー?具合の悪いヤツでも、・・・っ」
 
そう言いかけたウソップが、はっとした表情でナミに目配せを寄越す。
数秒の逡巡ののちにぎょっとして一瞬固まったナミは、はぁと深くため息をついて、訳知り顔で微笑むロビンの隣の椅子をひいた。
 
「あぁ、・・・そういうこと。」
 
「わかったかお前ら!ゾロは風邪をひいてるんだ!」
 
船医は変わらず凛々しい瞳で、キッチンの面々を真剣に見つめる。
 
「症状としては、昨日のサンジと同じものだ。まるで直接伝染されたかのよ、」
「あぁぁぁチョッパー、わかった、そこまでにしよう!な!」
「なんだよウソップ。俺は医者として、仲間の様子を明確に、」
「あぁ、うん、そうだよな、うん、でもわかる、なんとなく。全部わかったから、もういいぞ、チョッパー。ありがとう!」
「どういうことだ?」
「いいのよチョッパー、あんなやつ、放っておいても大丈夫よ。」
「つれねぇなぁ、ナミぃ。昨日のサンジ、見ただろ?ゾロもまったく同じように苦し、」
「あぁぁぁはいはい、うん、そうね、チョッパーは本当に優秀ね!たった一日で、こ~んなにスッキリ治したんだから!」
「もう、ナミぃ・・・そんなに褒められても、」
 
嬉しかねぇぞ、このやろが~!
 
くねくねと赤ら顔で喜ぶ船医の向こう側に、さらに真っ赤な顔をしたコックが、料理の皿を持ったままつっ立っている。
あれ、今からこっちに運ぶのかしら。
もう一度深くため息をついたナミは、目の前に置かれたコーヒーをひとくち含んだ。
僅かにほろ苦い大人の甘さが、朝のお供にぴったりである。
 
「サンジ、お前は回復が早くて良かったよー。夏風邪は、治りが遅いんだ。サンジが普段から、栄養に気をつけてる証拠だな。あとは、・・・ゾロに伝染したからかな?」
 
ウソップとナミが、同時にぶぅとコーヒーを吹き出す。
 
「・・・お前ら、汚ねぇぞ。」
 
船医から向けられた抗議の視線に、片手をあげて謝罪を示す。
隣では相変わらず、ロビンがニコニコと微笑んでいる。
 
「ん?まだ顔が赤ぇな、サンジ。もっかい熱、測っとくか?」
 
船医のうながしを曖昧に流し、サンジは朝食の残りに取りかかった。
シャキシャキと瑞々しい音を立てて、レタスが皿に盛られていく。


シャキシャキ シャキシャキ


こちらを一度も、振り返らない。


淡い緑の新鮮な葉は、真っ白な皿にうずたかく重なっていく。

穏やかな海を、風が撫ぜる。
空にはぽっかりと、白い雲が浮かんでいる。



( 完 )

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