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泣き虫なすと、片足のシェフ

「おいチビなす、腐ってねェでそろそろ出て来い。腹、減ったろうが」

「うるせェや! 腹なんかへるもんか!」

真っ暗闇から声を上げればこれ見よがしのため息が聴こえる。

分厚い扉を隔てた向こう、片足のシェフが仁王立ちする姿が目に浮かぶ。

サンジは無意識に口を尖らせぎゅうと小さな膝を抱いた。つるりと白いふくらはぎがたくし上げた裾からちらりと覗く。

「へんっ。いいんだ、どうせオレの料理なんか……!」

呟く台詞は水気を含み赤い小鼻は「ずずり」と鳴いた。

扉の前の静かな気配が、なにかを逡巡するように息を飲む。

――……カツこつ。かつココツ。

不規則な足音が遠のいていく。

 

 

 

サンジがここで料理を始めて1年の月日が流れていた。

ふたりで築いたレストランにはぽつぽつと客足が増え始めていた。

最初は興味本位で始めたことだった。見よう見まねのお遊びは思わぬほどに深みにはまった。

毎日のように包丁を握り次から次へメニューを覚えた。

前菜、スープ、肉料理。島々で取れる新鮮な食材を思う存分味わい尽くす。

まるで見事な音楽のようだった。

サンジはただただ夢中になった。

休みともなれば街に出向き様々な食材を調達して来る。ゼフに内緒でつまみ食いをし、一心不乱に舌で覚えた。

思い通りの味が生まれることが驚く程に楽しかった。

「……どうかな?」

不安げに見上げた視線の先で、美しいレディがにこりと笑う。

常連の彼女はサンジの頭を撫で「オレンジゼリー、もひとつ頂戴」と微笑んだ。

 

 

「――オレの料理、ゼフのより、うまい?」

サンジの口からその質問が出るようになったのはここひと月ほど前からのことだった。

来る客来る客のテーブルに足を運び、おもむろにそう、質問を投げる。

前菜、スープ、肉料理……一流コックの下で修行を積んだサンジの料理は、半年前からテーブルを飾っていた。

前菜の瑞々しい彩、黄金に輝くスープの波、てらりと汁を垂らした美しい紅――

お客はみな困ったように眉を下げ、そのさらさらとした金の髪を撫でる。

「どうしてそんなことを訊くんだい、坊や」

するとサンジはぷぅと頬を膨らませ、ぐるりと巻いた眉を寄せるのだった。

 

 

厨房を満たす甘やかな匂いが泣き疲れたサンジの鼻をくすぐっている。

誰もいなくなった夜のキッチン。

サンジはそうっと包丁に触れる。

誰よりもうまい飯が作れると、本気で思ったことは一度や二度ではなかった。

物覚えがよく勘の鋭いサンジは大抵一発で料理の味を再現できた。

勉強のためにと入った店を「ごちそうさま」と笑顔で立ち去る。

そのたび、密かに胸のうちに燻る炎。

――ぜったい、おれのほうが、うまい。

心もとなさに窓を見上げれば降りしきる雨がだらりと筋を描いた。

ここひと月、雨が振り続いている。

月の隠れる夜は永い。

灯りの落ちたキッチンに佇みサンジは掌を静かに見つめる。

「うめェじゃねぇか」

そう言って笑うお客の言葉にかつてサンジの瞳はきらきらと輝いたはずだ。

『だけど、オレより、ゼフのほうが人気だ』

そんな言葉を吐いてみてもサンジの空虚が満たされるわけではなかった。

だけど。

――あんただって、オレよりゼフのほうがうまいって、思ってんだろ?

惨めな暗闇を引きずる瞳。痛みに疼く真っ赤な心臓。

「貴女にめしあがっていただけるだけでこうえいです、レディ」

自分の口から流暢に流れる「しゃこうじれい」がサンジの鼓膜を煩く、揺らす。

 

 

ぎぃ……という乾いた音がキッチンの暗闇に静かに響いた。

分厚いドアがおもむろに開き「びゅわ」と雨風が吹き込んで来る。

どうやらゼフは店のマスターキーを持ち出したらしい。

幼いサンジにできる抵抗など、所詮はその程度なのだ。

「おいチビなす。いつまでそうしてる」

夜のまかないも食べないままに籠城を始めた夜の城。

ゼフが取ってきたのはマスターキーだけじゃなく、ほかほかに温まったスープだった。

「ほら。食え、意地張ってねェで」

いやだ! そう言って突き返すサンジの右手をゼフの掌がひょいと包む。頭に乗せられた黄色のスープは甘い甘い匂いを放つ。

クソ……あったけェ。

「てめェ最近うちの客に妙なこと訊いてまわってるらしいな」

サンジの吐き出す煙について文句がないのは珍しいことだった。

横に並んで座ったじじぃは何事もない風に口を開く。

「……それが、なんだよ」

微かな罪悪感が胸を刺し思った以上に喉が震えた。

三角に抱えた膝小僧は心細くなるほどに硬く、小さい。

「俺よりうまけりゃ、満足なのか」

地を這うような鈍い低音。サンジの方をチラとも見ずにゼフは淡々と言葉を紡ぐ。

「てめェの料理が“いちばんだ”って、それでてめぇは――満足なのか」

「そんなの……!」

当たり前だ、と続けようと開きかけた喉がごくりと温い音を上げた。

ギロリ、と睨めつける真剣な眼差し。まっすぐに刺さるゼフの目。

どこからどう見ても「本気」の視線がサンジをぐさりと縫い付ける。

「俺のよりうまいと言われて、それで、どうする。俺を倒したつもりになって、この小せェ店で一番になって、それでてめェは世界の何かを、その手に全部掴んだつもりか」

「っ……」

何かを言おうと吸った空気が肺に溜まって煙を混ぜた。硬く閉ざした喉奥からは、うぅ、だか、あぁ、だか呻き声が漏れる。握り締めた小さな拳が振り上げられもせずカタカタと震えている。

「確かに俺の料理の腕はいいだろう。こんだけのモンを振る舞える奴ァ、この広い海探してもそうそういねェ」

自慢でも傲りでもない。単なる、事実。

「だけどな」

ゼフの瞳の色が強くなる。鍋が気づかず吹きこぼれたとき、魚のうろこが残っていたとき、油断して指を切ったときと、それは全く同じ目だ。

「これは“俺の腕”がいいってェだけの話であって、誰かよりうめェとか、誰かには勝ってるとか、そういう話じゃねェ。わかるか、チビナス」

ゼフの口調は、優しい。

「愛情込めて作られた料理に、優劣はねェ。じゃあてめェの母ちゃんが作っていた料理は不味いのか? てめェより腕の悪ぃコックの作った料理は蔑むのか? 食材は正直だ。そういう浅ましい根性は、必ず作った料理に、出る」

穏やかな声なのに目はちっとも笑っていない。怒っているのだと、サンジは思った。

「オ、オレだってべつに、じぶんの料理が世界一だとかそんなこと、」

「そういうところだ、サンジ」

ゼフはサンジの零す弱い台詞を強い口調で遮った。有無を言わさぬ声色だった。

「どうせ、別に、俺なんか。そうやって自分のことを下げて、必死で守ってるモンはなんだ。傷つくのが怖くて逃げてるだけじゃねェのか。そうやって作った“ろくでもねェ”料理を、てめぇは客に喰わせるのか? ふざけるな!」

耳の奥がツーンと鳴いてほんの2秒だけ世界が途切れた。戻って来た世界の音が、ざざん、ざざんと船底を撫ぜる。

馬鹿げた形のレストランの底。真っ黒い波がべろりと舐める。善も悪も存在しない海。ただありのままにたゆたうだけの。

サンジは声を上げることができない。

「いいか、チビナス。何遍もは言わねぇよぉく聞け。自分の料理がうめェと思うなら、胸張ってそれを主張しろ。世界一だと声をあげろ。傷つかねェように自分を下げて、そんなてめェの料理“なんか”を喰わされた客の気持ちを考えろ。屈折した謙遜は傲慢さの裏返しだ。誰かに認められたいと思うならそれを素直に表現やがれ。己が心からうめぇと思うものを、作って、作って、作って、傷ついて……自分の傲りに打ち勝つしかねェんだよ」

暗闇に爛々と輝くゼフの瞳が遠くのぼった月を映す。空はいつしか涙を止めて静かに海を見守っている。規則的に寄せる波。心地よい心臓のリズム。

「誰と比べるでもねェ。てめぇはてめェで、尊い価値があるんだ」

すっかり覚め切った黄金のスープを喉の奥へと流し込む。

たくさんの野菜が溶け込んでそれはとろりと極上に甘い。

ぼろり、と零れる透明な蒼。

「うっ……うぅっ……えぐ、っ」

三つ編みを揺らし、ゼフは笑う。

「――クソうめェだろ?」

 

 

 

 

「あ、」

窓から覗く満月に思いもよらず声が零れた。

不意に震えたキッチンの空気に隣の男が寝返りを打った。

「あ?」

「いや、……変なこと思い出しちまった」

妙な横顔をしていたのだろう。はだけた薄い毛布をかけ直しながらゾロが僅かに首を傾げる。今夜はいつにも増して冷える。そろそろ雪が降るのかもしれない。

「……なんだよ」

「なぁゾロ、誰かに負けたくねェと思ったこと、あるか?」

「あァ?」

唐突に投げられた脈絡のない質問に怪訝な視線が寄せられた。無言で布団を引っ張る男に抗議のつもりで蹴りを入れる。クソ寒ィ。てめェばっか独り占めすんな。

「あ~……んなの、当たり前ェだろ。二度と誰にも負けねェと誓ったんだ」

もそもそと毛布にくるまる男の胸に走る袈裟懸けが見えた。世界の頂点に立ち向かって美しく散った紅の飛沫。

「じゃあ、じゃあよ。自分より強ェ奴に出会っちまったら?」

「勝ちゃいいだろ」

事も無げに言い放ちつまらなそうに頭を掻く。大きく吸い込んだ冷たい空気が白い吐息となってキッチンに溶ける。

「じゃあ、じゃあさ。もしもだ、もしも、」

「んだよしつけェな」

「もしもそいつに、――負けちまったら?」

窓から覗く満月がぴかぴか呑気に船を照らす。ざざん、ざざんと寄せくる波はあの夜と全く同じリズムだ。

ゾロはまっすぐにサンジを捉えそれからふ、と視線を逸らす。びん、と張った繊細な空気が闇を包んで静かに震える。

「……変わらねェよ。俺は強くなるだけだ。誰に勝つか負けるかじゃねェ。世界一を目指す、ただそれだけだ」

ゾロはごろりと背中を向けてでかい図体を丸く縮める。ついさっきまで繋げていた蕩けるほどに熱い孔がしくりと痛む。

「……小せェアタマで何ぐるぐる考えてんのか知らねェけどよ。てめェの歩いて来た道は、そんなに間違っちゃねェよ」

広い背中はぽつりと零し、それからすぐにいびきを立て始めた。

ゆるやかに上下する薄い毛布。サンジは黙って見つめ続ける。

「……なに、気取ってやがる」

ぐうごう、ぐうごごう。

不規則なリズムは海を渡るあの足音のようだ。

夜風に揺れる麦わらの旗が穏やかな呟きを波間に沈める。宵闇はますます黄金に輝きつかの間の天下を謳歌する。サンジはふう、とため息を吐く。満月。

「ふん。明日の朝は、一流コック特性スペシャルモーニングおにぎりだ。覚悟しやがれ」

夢に落ちるほんの間際、ふわりと滲む確かな光。

いつからだったから忘れるほど幼い頃から親しんだ自信。

「世界一クソうめェぞ、大剣豪」

明日もきっと、晴れるだろう。

 

 

 

(完)

 

 

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