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丘のうえの風車、そしてダンスホール(1876年)

 星のまたたく夜の空に、賑やかな音楽がキラキラと散る。

 ひとびとの笑い声。グラスのぶつかる音。華やかなドレスのすそがひらひらと風に揺れる。

 カンカン帽をかぶったスーツの役人に、真っ赤なほっぺをした農家の娘。黒いベールをかぶっているのは、丘のうえの修道院から抜け出してきた若きシスターたちだろう。

 身分も、階級も、ひととき忘れて夜ごと開かれる幸福の饗宴。

 風車のみえるダンスホールに、星はキラキラと降っている。

 

 

 

 

 「おっと、ごめんねレディ。ところで、ワインはどうだい?」

 サンジは片手にトレーをかかげ、振り向いた女性に目配せした。ひげの伯爵と談笑していたマダムは「そうね、白の甘いのをもらおうかしら」と頬を赤らめてにこにこ答えた。

 今日はちょうど川上流域で作られた、上質のリースリングが手にはいっている。

 「もちろん、喜んで」

 サンジはぺこり、と一礼するとごったがえす人ごみをするすると抜けていった。

 華やかな光景だった。

 屋外に作られたダンスホールでは、みな色とりどりの衣装に身を包んでワルツを踊っている。

 政治家、音楽家、キャバレーの踊り子、家庭教師に、アパルトメントの清掃員。

 流行りのコルセットを巻いているのは、貴族階級の若い娘さんだ。青いリボンが揺れる白いドレスを、重そうに持ち上げて微笑んでいる。

 ダンスホールのちょうど真ん中には小さなステージがあって、室内楽器の生演奏がおこなわれていた。楽団をビール片手にあおるおじさんは、丘の下で画廊をひらいているこのあたりでは有名な資産家だ。

 「よおサンジ、今日も盛況だな」

 バーカウンターのしたでグラスを片付けていると、真上から声が落ちて来た。青いビロードのスーツに身を包み、黒い山高帽をかぶった男。ウソップだ。

 「あぁ。おかげさまで商売繁盛だぜ」

 サンジは振り返りざまくわえた煙草をぴょこんと揺らし、それから人好きのする顔でニッと笑った。

 市内を一望できる小高い丘の、北側の斜面にこのダンスホールはあった。もとは風車で小麦をひいて、そのあまった小麦でガレット・ブルトンヌを焼きはじめたのが店の始まりだ。うまい焼き菓子が食べられると評判になり、いつの間にか人々が集うようになった。サンジがまだ幼かった頃の話だ。

 ウソップは丘のてっぺんに建設中の寺院の裏手にある、小さなアパルトメントに住んでいる画家のたまごだ。都市化の進む市内からすこし離れたこの丘は古きよき街並みと緑が残っていて、まだ若く熱心な画家たちの格好の題材となっていた。

 ウソップたちのグループは、数人でアトリエをシェアして日々創作に励んでいるようだった。それらの作品はサロンでの入選と落選を繰り返し、一部で新しい論争を巻き起こしているらしい。

 賑やかな時代だった。

 大きな戦争もなく、街は活気に満ち溢れ、人々は不自由のない生活を送っていた。昼間は畑で精を出し、夜はキャバレーでビールを流し込む。隣人とのささいないさかいはあれど、週末のパーティではすべてを忘れる。

 街のまんなかを流れる川が、ゆったりと日々を運んでいくようだった。

 「あ、そうだサンジ」

 カウンターに座り直したウソップが、帽子を取りながら思い出したように声をかけた。外の音楽が小さく届く店内では、紳士淑女たちが和やかにグラスを交わしている。

 「墓地のちかくの修道院に、軍の小隊が宿泊してるって話、知ってるか?」

 ウソップはごくりとグラスをあおって、ライム味のカクテルを喉へと流し込んだ。

 「へぇ? 兵隊さんがこの片田舎に。珍しいな。そういやホールでも軍人を何人か見かけたよ」

 軍服でダンスなんざ色気もクソもねぇな。そう言って笑い、シャカシャカとシェイカーを振る。

 「なんでも隣国への遠征の途中らしい。物騒だよな、わざわざ戦争なんかしかけなくったって、おれたちは十分な生活を送ってる」

 「まぁそういうわけにもいかねぇんだろ。なにかを手に入れりゃあ、つぎのなにかが欲しくなるのが人間だ」

 ふ、と細く煙を吐いて、目をつむったまま氷の触れる音を聴く。店内のざわめきは波ように、寄せては返しを繰り返して永遠に続く夜を彩っている。

 「ところでウソップ、絵のほうはどうなんだよ」

 「お、聞いてくれるか」

 ウソップはパッと顔を輝かせ、持ち前の長い鼻を「ふふん」と鳴らした。本格的な話はこれからなんだけどよ……と、もったいぶって前置きをする。どうやら市内の大通りに面したアトリエで、仲間内での個展を開くことが決まったらしい。若手の画家を積極的に起用している写真家から声がかかったのだと嬉しそうに笑う。歴史が変わる瞬間だぜ、と大げさにのたまう。ピーナツがのどに落ちていく。月の光が差し込む窓。夏がちかい。

 「万人の評価が欲しいわけじゃねぇんだ。でも誰かには見ていて欲しい。人のために描くわけじゃねぇけど、自分のためだけってわけでもねぇ。安易に褒められてぇわけじゃねぇのに、そのくせ評価を欲しがってるんだ。贅沢だろ、こんなわがまま」

 ウソップは「ハハ」と乾いたように笑って、それからそっと眉根をさげた。いろんなことがあったのだろう。傲慢と絶望はいつも隣り合わせだ。サンジは何も言わないで、真っ白いマッシュポテトをテーブルに差し出す。こりゃ、おれのおごりだ。

 「おまえは何を描きたいんだ」

 サンジがそう問いかけると、ウソップは「うーん」と喉を鳴らした。マッシュポテトがほろりとくずれる。店内の笑い声。あたたかな喝采。音楽はますます華やいで、夜のとばりを金銀に彩る。

 おれたちが描きたいもの。永遠に閉じ込めておきたい感傷。

 キラキラと落ちる光。移りゆく景色。子どもたちの微笑みと、明日を生きるためのパーティ……。

 「――幸福、かな」

 カラン、と氷がグラスに溶ける。遠くで客が手をあげてサンジを呼ぶ。

 夜は静かに黒を流して、月の明かりを溶かしていく。

 

 

 

 

 週末に開かれるマルシェには、新鮮な野菜がごろごろと売られていた。赤、緑、黄色、オレンジ。瑞々しい野菜たちは朝の光を浴びて輝いている。

 「兄さんよかったらどうだい、美味しいパプリカが入ったんだ」

 「へぇ、いい色だ。それに実も詰まってる。……よし、ひとつもらおう」

 「まいどあり!」

 威勢のよいかけ声に、サンジもつられて笑顔がこぼれる。呼び止められるたびついつい足を止めていると、自然と荷物が増えていった。喜ばしい重みだ。

 『……ん?』

 マルシェの開かれている公園のいっかく、テントが切れてあいたスペースのできているあたりに見慣れない人垣ができていた。女性はなにやら遠くから恐々と静観しているし、男たちは興奮している様子だった。やんやと煽るかけ声がこの場所まで届いている。

 『ケンカか?』

 サンジはわずかに興味を引かれ、人だかりの方へと足を向けた。

 丘のふもとにあるこの公園の近くにはネオンの輝く歓楽街があった。見慣れない外国人が歩きまわり、夜はあまり治安がよくない。それとはうって変わって明るい時間帯は、むしろ人通りが少なかった。こうしてマルシェの開かれる土曜日とトラムの乗り換え以外では、すれ違う人も少ない地味な街だ。

 「兄ちゃんいけー! やってやれ!」

 「向こうもびびってんぞ! 押せ押せ!」

 たいした娯楽もないのだろう。人だかりの男たちは頬を上気させ、酔っぱらったように享楽の声をあげていた。土曜の朝だというのに物騒だ。サンジはわずかに眉を寄せる。

 「なんだなんだ、なにがあったって――」

 人だかりをかきわけた先で背中を押され、サンジは思いもよらずその人垣を抜けていた。そうして目の前の光景にさっと目の色を変える。なんとも獰猛な唸り声をあげる野犬が、こちらに向かって走ってきたのだ。

 「っぶね、……!」

 買った野菜を隣の女性に押し付けて、たっ、と石畳の地面を蹴った。空に向かって飛び上がると、野犬はそれを追うように軽い身のこなしで直上にジャンプする。サンジは「チッ」と舌を打ち、そのままくるりと回転した。空中で一瞬すれ違いざま、柔らかな脇腹へと蹴りをお見舞いするのを忘れなかった。

 一瞬の静寂。それから、喝采。

 「――で、そっちは峰打ちか」

 スタン、と地面に降り立って、背中合わせに声をかけた。観衆がやんやと声をあげる。耳をつんざくうるさい声に、サンジは片耳を小指でふさぐ。背後に立ち尽くしていた男は持っていた短刀を「キン」と鞘におさめたところだった。

 「手伝いは頼んでねぇ」

 「誰かが死ぬとこだっただろ」

 サンジは大きくため息をつき、振り返って煙草をふかす。

 「なぁ、ゾロ」

 男はこちらを振り向かないまま、「ふん」と息を吐き出した。

 鳴りやまない喝采が鮮やかな朝を虹色に彩っている。

 

 

 

 ロロノア・ゾロ――

 久しぶりに口にした名前は、懐かしい響きを含んでいた。

 二年前、正規の軍に入隊すると告げてこの丘から消えた男。

 最後に交わした言葉さえももう思い出せないでいる。

 太い二の腕には筋が浮かび、柔らかな髪の毛は燃えるような緑色。片目を戦でなくしたらしいと、風の噂で聞いていた。

 耳に馴染んだ低い声。三連のピアス。冷めたような薄い瞳の色。

 なにもかもが懐かしい。だからちくりと胸が痛んだ。

 なにひとつ知らなかった幼い日々。

 ただの幼馴染でいられたあの頃。

 

 

 「いらっしゃ……あぁ、来たのか」

 サンジはグラスを拭く手を止めて、バーカウンターに座る男に声をかけた。

 男は羽のついた三角帽を面倒くさそうに脱いで、隣の椅子の背もたれに引っかける。

 「飲み物は?」

 「バーボンでいい」

 サンジはその言いぐさを鼻で笑って、丸いグラスに氷をくだく。今夜はすこし蒸している。

 「遠征だってなぁ。噂になってんぞ」

 「いつものことだ。近場でやろうがよそへいこうが、やることは一緒だ」

 ただの戦争だろ。

 ゾロは冷めた声で短く呟いて、それからがしがしと頭をかいた。その仕草は昔のゾロを思い出させて、サンジの心臓はまたしくりと痛む。

 ゾロとサンジは幼馴染だった。

 日曜日には同じ教会に通い、まいにち喧嘩に明け暮れた。

 アパルトメントの並ぶ路地裏の階段、つるバラが絡む壊れかけた垣根、荒れ果てた草の道。

 それらはサンジたちを飽きさせることもなく、いつだって同じ顔でその懐に招き入れた。

 風が吹けばススキが揺れ、川はとうとうと流れていく。

 泥だらけの顔でふくふくと笑い、駈けずりまわった幼い記憶。

 風車のまわる原風景には感傷の面影が落ちている。

 「いつ出発するんだ」

 なにげない風に差し出す言葉にはわずかな焦りが滲んで溶けた。サンジはあわてて咳払いする。ゾロはきっと気づいていない。

 「まだ決まってねぇ。上層部で慎重派と推進派がやりあってるらしい。まぁどのみち行くことにはなるんだ。早いか遅いかは大した問題じゃねぇよ」

 大した問題、ねぇ。サンジは小さく繰り返しながら、ピーナツの缶をポン、と開けた。真っ白い皿のうえにじゃらじゃらと豆粒がこぼれていく。まるで雨の降る音みたいだ。

 天井にぶらさがったシャンデリアが月の光にキラリ、と光る。人々はみな笑い、踊り、生きる痛みを瞬間忘れようともがく。

 そうだ。ただの幸福なんてあるはずもないのだ、本当は。

 「なぁゾロ、今晩……あいてるか」

 「あいてるから来たんだろ」

 じ、とサンジを見据えながらゾロが喉をうならせる。

 かすかに細められた隻眼に、色が灯るのを確かに見た。

 

 

 

 最初に手を出したのは紛れもなくゾロだった。

 けれどもそれを煽ったのはサンジのほうで、つまりふたりは同罪だった。

 「……後悔すんなよ、クソコック」

 「後悔、するほど、てめぇを思っちゃねぇよクソ剣士」

 強がって笑った唇にゾロの硬い歯がガシリと噛みついた。あとはもう無我夢中で、ひたすらそれが終わるのを待った。

 「いっ……てぇ、ゾロ」

 「悪ィ、ちっと、我慢しろ」

 もう少し……。そう言って押し進められる重い腰が、ぐいぐいと奥へ侵入を試みる。感じたこともないような違和感に歯を食いしばりながら、サンジはぐ、と腹に力をこめた。

 軍に入隊することにした、と、ゾロはいつもの調子で淡々と述べた。サンジの作った飯を食べながら、いつもどおりの午後をすごしているときだった。

 「――ふーん」

 サンジはできるだけいつもどおりに、気のない返事をそっけなく返した。

 十代最後の暑い夏。

 口を開けば何かがあふれ出してしまいそうで、サンジは強く下唇を噛んだ。

 あれから二年が経った。

 

 

 

 「あっ……」

 こぼれた母音を拾うように、サンジはぎゅ、とシーツをつかむ。天蓋のベッドにはレースが落ちていて、ほんのりとバラの甘い香りがする。風俗街のいっかくにある比較的マシな連れ込み宿だった。ふたりがそろって街を歩けば興味本位の視線が刺さった。

 「ゾロ、あぁ……っ」

 ひざの裏を抱えるてのひらはあの頃と同じ温度で熱い。薄目をあけてのぞいた隙間からあごにしたたる汗が見えた。

いったいどんな顔をしているのか。

 「あ、あ、……っ、は」

 ちからを逃がすように息を吐けば途方に暮れたような声がもれた。幼かったあの頃のふたり。赤い空のした、ぬるい風が吹いて世界にはたったふたりきりのような気がした。高い空はどこまでも澄んで、ふと心許なくなる瞬間。

 振り返ればいつもそこに、ゾロがいた。

 どうしていなくなってしまうのだろう。

 「あっ……あぁ、っ」

 なぁ、ゾロ――

 かみ殺すようなうめき声が喉の奥に飲み込まれていく。深く、深く、もっと深く。もしかするともう二度と会うこともないのかもしれない。戦地へと出かけて帰って来なかった、いくにんかの友人の顔が思い浮かぶ。暗闇に飲みこまれた焦燥が、腹の底へと沈んでいく。ゾロ。

 なぁ、どうして。

 「てめぇなんか……勝手に、野たれ死んでろ……」

 おれたちはずっと一緒には、いられないのだろう。

 

 

 

 

 その夜、サンジは夢を見た。

 真っ白な光のなか、振り返る人影。逆光で顔は見えない。

 窓からは風が吹き込んで、レースのカーテンをふわりと揺らしている。

 「――――」

 人影はゆっくりとくちを開いて、なにごとかを述べている。声は、聴こえない。

 サンジはどうしようもなく人影に触れたくてまっすぐに手を伸ばす。

 届かない。あと一歩、ふわり、と風が吹く。焦燥ばかりがつのっていく。

 そうしてざあ、と風が吹いて光はゆっくりと消えていく。

 あぁ、まだ伝えていない。

 「行くな……」

 言いたいことはいつも言えないまま。

 どこからともなくピアノの音が聴こえていた。透明なジムノペティ。

 目を覚ますとそこはホテルの一室で、サンジはひとりシーツにくるまって朝の光を浴びているのだった。

 

 

― ― ― ― ― ― ―

 

 街に号外がばらまかれたのはそれから五日後のことだった。

 軽やかにベルを鳴らしながら、黒いベレー帽をかぶった新聞配達の少年が自転車で走り抜けていく。

 「号外だよー! 号外!」

 抜けるような青空に白い雲が尾をひいていた。のどかな午後だった。ちょうど昼寝から起き出した男たちが、麦わら帽子をかぶりなおして畑に向かって歩きはじめる。

 「号外だよー! 号外! 兵隊さんの出兵だ!」

 街のひとたちはなにごとかと振り返り、少年のうしろ姿を見つめた。隣国への侵攻についての論争はついに決別し、なかば強引に出兵が決まったそうだった。推進派についた小隊長をはじめとしたいくつかの分隊が、上層部を押し切ったらしいというのがおおかたの見方だった。

 「号外!」

 新聞配達の少年は頬を赤く上気させ、この世の正義をしらしめるように丘をぐるりと走り抜ける。そうして自転車が通り過ぎたあと塀の緑が静かに揺れるのを、みなまるで夢でも見ているようにうっとりと眺めるのだった。

 「あれ、サンジじゃねぇか」

 ベルを鳴らして三十秒後にのそのそと扉をあけたウソップは、物珍しそうに目を丸めて、それからぱちくりと瞬きをした。

 白い螺旋階段が上へと続く明るいアパルトメントのエントランス。絵具のついた両手をオーバーオールの尻で拭きながら、ウソップは不思議そうに首をかしげている。

 「珍しいな、おまえがここに来るなんて」

 「頼みがある」

 サンジは肩で息をしながら顔もあげずに声をこぼした。一刻もはやく。気ばかりが急いて、あー、と無意味な声がもれる。いつの間にか息が上がっていた。うまく言葉が見つからない。

 「どうした、落ち着けって」

 「風車を……」

 「え?」

 やっとのことで言葉を吐いてもう一度大きく息を吸い込む。

 ぬるい風、揺れるすすき、赤に沈むあの日の幻影。ふたりで駆けた細い通り道。そのどれもが本物だった。

 まだなにも伝えていない。

 「風車を、描いてほしい」

 最後のほうは細い息がただ震えただけだった。つかのまの沈黙が訪れる。白い光がふたりを包む。

 ウソップはじっとサンジを見て、それから小さくうなずいた。わかった。

 「三時間後に取りに来い。時間がねぇから凝った構図はできないけど、小さいキャンバスならなんとかなるだろう。それで間に合うか?」

 「あぁ。すまない、恩に着る」

 「いいってことよ」

 ニッ、と笑って踵を返したウソップが階段の一段目に足をかけて振り返る。なにかを考えるように鼻をさする。そうだな……。

 「お礼はサンジの焼いたガレット・ブルトンヌ、一年分ってとこでどうだ?」

 

 

 

 

 建設途中の寺院は丘のてっぺんにあって街がぐるりと一望できた。そのなかでももっとも高い場所、盛り土で一段あがった更地には白壁が整然と積み上がっていた。まわりをぐるりと足場に囲まれ、遠い日の完成を夢見ている。

 サンジは黙って煙を吐いた。

 足元には職人たちの使う工具が散らかっていて、抜け殻のようなさびしさが滲んでいた。なだらかな斜面には背の低い草が青々としげり、夕刻の風にさわさわと揺れる。遠く続く街並みに教会の鐘が響いている。

 「悪ィな、忙しいときに」

 サンジはもう一度煙を吐き出して、背中の気配に声をかけた。遠くで鳥の鳴く声がする。これからねぐらに帰るのだろう。暖かい住処。絶えることなく続く生命の連鎖。

 「てめぇに渡したいものがある」

 サンジは右手に持ったキャンバスを無造作に持ち上げ、金糸に顔を半分隠したまま振り返った。男は逆光に照らされていて、どんな表情をしているのかわからない。

 「画家の友人に描かせたんだ。まだ絵の具が乾ききってねぇ」

 ほい、と軽く投げて渡してやるとゾロは両手でそれを受け取った。十五センチ四方の小さなキャンバス一面に、あの店の風車が堂々と描かれている。この丘に住むものはみな、この風車のかたわらに育った。

 雨の朝も、乾いた午後も、台風のすぎさった夜の星空も。

 それらは風車の背景に溶けて、香ばしい焼き菓子の香りとともにダンスホールをキラキラと彩るのだ。

 仕事でつまずいたやるせない夕暮れ。友人と喧嘩した苦い夜。生活は思ったようには豊かにならないし、どうしようもなく逃げたい朝だってある。

 人生は幸福だなんて、そんなことあるはずもない。

 だからおれたちは描き続けるしかないのだ。人生のなにげない瞬間を。ほんのひとときのきらめきを。「幸福」の風景を。ちっぽけなおれたちにできる、それが唯一の闘いだから。

 あのダンスホールは人生そのものだ。

 「忘れんな、ゾロ。てめぇは確かにここにいて、走って、笑って、はしゃぎ疲れて眠ったんだ。飲んだくれて、踊って、また夢を見たんだ」

 サンジは顔をあげる。まっすぐに。夕陽に照らされたゾロの顔が映る。回り道ばかりしてしまった、幼い恋心が心臓をせかす。やっと気づいた。こんな簡単なこと。もう遅いことばかりだけど、最後にどうしても伝えたい。

 「その隣にはおれがいて――おれの隣にはおまえがいた」

 差し出した片方のてのひらが強いちからでぐ、と引き寄せられる。くわえ煙草が地面に落ちる。小さなキャンバスが転がって音を立てる。バランスを崩して倒れかけ、そのまま硬い腕に抱きとめられる。

 「……阿呆か、てめぇは」

 がしがしと頭をかきながら、ゾロがひとつため息をこぼした。心臓がばくばくと音を立てている。ゾロは「あー」と無意味に声を出して西の空を見上げて呟いた。阿呆だな、おまえ。

 「戦地に赴くまえに、そんな未練たらしい話……縁起悪ィだろ、おれを殺す気か」

 はあ、ともう一度ため息を吐いて、それから「ぽん」と頭に手を乗せた。優しい体温が伝わってくる。サンジのそれよりすこしだけ高い。強くて、まっすぐで、柔らかな温度。

 好きだ、と思った。ゾロのぜんぶが、好きだ。

 「心配すんな。わざわざ死ににいくわけじゃねぇ。おれは負けねぇために戦ってんだ」

 懐かしい声が、愛おしい音色が、あたまの上から降ってくる。

 「おれァてめぇみてぇに強くねぇ。なにげない日常を切り取って、その幸福のうわずみだけをすくいあげるような、そんな繊細で強い生き方、おれには到底できねぇだけだ」

 後頭部を強く抱えられていて中腰のまま体が動かせない。目の前には軍服の黒。金ボタンには馬の紋章。

 「だから、戦うしかできねぇんだ。それしかこの幸福を守るすべを知らねぇ。不器用だって笑ってくれよ。そしたらおれァ、てめぇのこの金髪あたまを思いきり、小馬鹿にして笑ってやる」

 昔みたいに。

 ゾロは言って、それからそっと力を緩めた。柔らかな風が吹いている。草原の緑が夕陽の赤に映える。祝福の色。それは永遠の祈りにも似た――

 「待っててくれ。それがおれの願掛けだ。……わかるよな」

 そうして触れるだけの口づけが落ちて、サンジはゆっくりと目をつむった。

 金糸がさらさらと風に揺れる。風の音が鼓膜をふるわせる。美しい光は街を照らして、キラキラと夜が満ちていく。

 もうすぐ夏がやってくる。あの、明るく美しい夏が。

 「帰ったら、続きさせろ」

 「……ばーか、そういう奴が一番さきに死ぬんだよ」

 サンジは笑って、体を離す。そして足元に転がったキャンバスを拾い上げた。風車にはわずかに泥が散っていて、乾きかけの絵の具にぱらぱらと張り付いていた。光のあふれるような柔らかな点描。きっといずれ認められていくはずだ。こんなにも、決意に満ち溢れた世界。

 「これ描いたの、ウソップっていうんだ。たぶんそのうち有名になるぜ。今のうちにもらっとけよ」

 「へぇ、そりゃありがてぇ。生活の足しになる」

 本気だかなんだかわからないことを言って、ゾロが嬉しげに口角をあげる。きっと絵の価値なんかわかろうともしないだろう。そんなことなど知りもしないで、あいつも幸福を描き続けていく。

 誰しもが戦士だ、人生という闘いの。

 それは果たして絶望か、それとも。

 「じゃあ」

 「あぁ」

 短く言葉を交わし合い、影はふたつに離れる。夕闇の向こうに夜が届く。山の端が藍に染まる。水に溶いた宵闇の色。

 「ゾロ!」

 振り返らないで立ち止まる。輝く満月。

 「愛してる!」

 きっと今日の月は甘い。

 

 

 

 

 

 街中に響くファンファーレ。偽物のような空の青。空砲の残響。

 人波はさざめき、笑い、歌って、馬のひづめが石畳を踏んでいく。

 アパルトメントのあちこちの窓は開け放され、色とりどりのハンカチーフを持ったひとたちが顔をのぞかせる。

 白い洗濯物が風に揺れる。キラキラと朝の光が降る。

 昨日までと同じ今日の色が、明日もずっと続くようにと。

 「いってらっしゃい!」

 「元気で帰ってこいよ!」

 みな手を振り声をあげる。その言葉のひとつひとつが彼らを守ってくれると祈りながら。

 真っ白なスカーフを涙で濡らす少女にも、きっと幸福がありますように。

 「小隊、前進!」

 空砲が空へと放たれる。教会の鐘が響き渡る。拍手と喝采が入り交じり、丘はほんのひととき華やかに色づく。

 風車がまわる。ガレットが焼きあがる。今夜のダンスホールもきっと賑やかになる。

 グラスをきゅ、と拭きながら、サンジはゆっくり煙を吐いた。

 

 

 

 

(完)

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