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Mの衝撃

 「あっ、あいつ!」

 通りに面した大きなガラス窓。透明な光の向こう側にはざわついた店内の様子が見える。
 真っ白なシャツのボタンをふたつ開け、サンジは大きく息をついた。流れるような汗がぽたりと金糸の先から落ちる。夏。
 「信じらんねェ。五日連続だぜ?!」
 お気に入りの自転車のブレーキが錆に軋んで「キィッ」と甲高い音を立てる。坂の上に佇む古い図書館からの帰り道。友人の誘いを断ってサンジは今日も家路を急いでいた。



 サンジの実家は老舗のフランス料理店を営んでいる。現役で店を切り盛りするのはここらでは名の知れたシェフ、ゼフだ。サンジの実の祖父でもあるゼフは早くに両親を亡くしたサンジの親代わりのような存在である。
 ゼフの料理は別格だった。もちろん確かな腕前などは大前提で、しかし根強い人気の秘密は何よりもその繊細な「心遣い」にあった。
 ゼフは客が来店するとその客の味の好みを細かく分析した。料理をひと目見た感想や口に含んだ瞬間の表情、咀嚼につれ変化する瞳の色の変化などにより客の趣向を推し量るのだ。
 そうしてその客が次に訪れたときにはゼフは完璧に味を調整していた。もちろんその微妙な変化に気付く者は少なかったけれど、どことなく「しっくりくる」味わいに客は再び店の門を叩いた。
 サンジはゼフを尊敬していた。
 最初は「まぁまぁかな」などと言っていた評論家気取りのおじさんが三日と開けず店に通うのをその目で何度も目撃した。凄まじい鍛錬と鋭い感性によって創り出される絶品の数々。
 「クソじじぃ! 帰ったぜ!」
 門をくぐるなり店の奥へと声をあげた。夕の刻が迫るこの時間はちょうど仕込みの最中だった。女性をターゲットにした軽めのランチと完全予約のディナーコース。最近では平日でも予約の取れない日があるほどバラティエの営業は盛況である。 
 「遅ェぞ、チビナス。勉強はしっかりできたのか」
 「ったりめェだろ」
 高校受験を控えた夏休み。地元に四つある中学のうち良くも悪くも特筆することのないしがない公立校にサンジは毎日通っていた。
 すらっとした長身に華奢な腰つき。色白な肌に映える金の髪。陽に当たるととろりと溶けてしまいそうなほど繊細な容姿だが、それでいて運動神経も悪くない。人数合わせで時折呼ばれる試合であっさりゴールを決めたりする。
 要するに、器用なたちだった。
 成績は中の上。決して出来は良くないが悪いと胸が張れるほどでもない。志望校は制服がかわいいからと選んだ地元の普通科。先月受けた学力テストではB判定とやらが返された。
 教師から見れば手のかからない生徒で、といって良い子すぎるわけでもなかった。器用で朗らかで無闇に相手の領域を侵さない、サンジは実に「面倒くさくなく」、だから思春期の複雑な人間関係のなかではなんとも「ちょうどいい」存在だった。
 学校に行けば誰かしら絡んでつるむ友人がいた。忘れた教科書を借りたお礼に曲がった煙草をこっそり渡したりする。かわいい女の子たちが群れをなして窓の外からサンジに手を振ることもあった。サンジはいつでもにこにこと笑顔で手を振り返したけれど、そのかわいい女の子たちの名を知るような出来事はついぞなかった。
 そこそこ、満足な学生生活。
 子どもでいられる最後の夏休み。
 部活に明け暮れていた同級生たちがみな焦ったように塾へ通い始める。
 『まぁ、俺ァ料理ができりゃあ、それで』
 誰にともない言い訳をひっそり呟きタンスの上段に手を伸ばす。取り出したエプロンをさっと開き長い腰紐を後ろ手に結んだ。
 ぱん、と小さく前生地を叩く。パリっとのりの利いた真っ白なエプロン。
 金糸を後ろで小さく束ねながら鏡を覗くまでの一連の動作は、厨房に向かう前の戦闘準備であり決まりきった「儀式」のようなものだった。


 丘の上に立つ図書館からはまっすぐな下り坂が続いていてサンジはいつもこの通りを自転車に乗って降りていた。人通りの多い交差点の周辺には様々な店舗が軒を連ねる。シンプルな本屋やたくさんのギターがかかった楽器屋、おいしいと噂のサンドイッチ屋。中心地へのアクセスのよさも手伝って若い家族も急増しているらしい。どこか小洒落た雰囲気を漂わせるここら一帯は休日の人気お散歩スポットだった。

 さてサンジが見つめているのはとある有名なテナントである。
 交差点から三店舗向こう、見慣れた看板が空に伸びている。赤字に黄色のロゴマーク。窓越しに見えるピエロ人形。街の雰囲気に合わせた木目調の店内は洒落ていたけれど、それは正真正銘紛れもなく「あの」店である。
 ――ちくしょう、喰ってみてェ……!
 サンジはその場所を通るたびいつもごくりと喉を鳴らした。
 実家が名の知れたフランス料理店、その料理長は実の祖父。繰り返される日々の食事は正直独特だったと自覚している。
 店に出す残り物を使った高級食材の賄いご飯。いきなり最高ランクの肉が出てくる日もあれば、貴重な深海魚がテーブルいっぱい山盛りになっていたこともあった。
 いい料理人を目指すなら、いいものを見分ける舌を作れ。
 それが祖父の料理人としてのプライドで、だからどんなに忙しくてもサンジの飯は必ずゼフが作った。
 そんなこだわりを持つゼフのことだ。とかくサンジが口にする食べ物については幼い頃から酷く厳しかった。 

 郊外にありがちな比較的広い二階建ての店舗は一階と二階の窓際に沿ってコンセント席が並んでいる。友人たちはテスト前になるとみな携帯やゲームを持ち込み勉強するふりをしながら母親の猛攻をすり抜けていた。
 そうでなくても腹の虫が鳴く成長期の男子たちだ。こと油脂分の多い「ファストフード」は腹の虫を鎮めるのにちょうどよかった。汗にまみれた部活帰りに、下心覗くデート中に、彼らはひょいと気軽な足取りで空調の利いた空間に足を踏み入れる。
 そんな同級生たちの後姿をサンジはいつだって羨ましげに眺めていた。
 『いいよなァ、いっぺん、食ってみてェなぁ……』
 じゅるり、と零れた透明なよだれを人知れずごしごしと袖で拭う。
 「ファストフードは食いモンじゃねェ!」
 そう言って取り上げられた一本のポテトをサンジはずっと忘れられないでいた。
 あまりにもバカバカしい憧れだった。――ポテトを食ってみたいなどと。
 もちろん友人になど言えるはずもなく、切ない願いは密やかに腹の底へとひた隠した。
 皆と同じに。そんな強迫観念を、多かれ少なかれ腹に抱えはみ出さぬよう日々を歩む。思春期。
 止まったら、負けな気がする。
 綱渡りにも似た15の夏。


 『なんだよ、あの、頭』
 そうやって毎日羨ましげに店内を眺めていたサンジの目に、その日とんでもない違和感が飛び込んできた。
 カウンターに並んで座るのは仕事中のサラリーマンやテスト前の大学生たちだ。彼らは何やら真剣にパソコン画面を見つめては想像もつかない速さでキーボードの板を叩く。その少し奥、元は離れていた机をつけてお喋りに興じるレディたちはおおかた旦那がいない間の情報交換を兼ねた井戸端会議中だろう。
 『……みどり?』
 いつもと変わらぬ顔ぶれの中にある、いつもと違う存在感。
 そいつの頭はまるで美しく手入れをされた青々と茂る芝生のようだった。サンジは思わず目を奪われてしばらくその場に立ち尽くした。
 夏休みに入ってすぐの頃のこと。図書館に通い始めて三日目の午後だった。
 暑い日差しが容赦なく照りつけ街を白く霞ませていた。ぼんやりと陽炎の立つ広い道路。青々と茂る大きな街路樹。
 そいつは実にうまそうに大量のポテトを食らっていた。
 むしゃむしゃと一心に頬張るその姿。サンジはつい目を離すのを忘れてじっとそいつに見入ってしまった。
 赤いパッケージから覗くポテト。カラリと揚がった細いフォルム。時折キラリと光るのはまとわりついた油だろうか。
 ふたりの間に流れる時間がふっと流れを止めた気がした。
 そうしてサンジはいつの間にかかなりの時間見つめてしまっていたようだった。だから次にそいつが顔を上げた瞬間、ほんの一瞬、目が合ってしまった。
 コンマ2秒で我に返り一目散にチャリをこぐ。
 ぐんぐん遠のく街の風景。背景に溶けるセミの声。
 『ば、バレてねェ、……よな?』
 だから家に着く頃には、どこの制服だったか、どんな顔だったか、そんなディティールのひとつひとつを何ひとつ思い出すことができなかった。



 それから毎日のように図書館に通うようになったサンジは店内を覗き込むのが日課になった。どうもそいつは頻繁にこの店を利用しているようだったけれど決まった時間にいるわけではなさそうだった。
 週に二度しか見ないこともあれば、行きと帰りの両方で見かけることもあった。
 音楽でも聴いているのか小さなイヤホンを耳に詰め小難しげに眉を寄せる。考えるときのクセなのか眉根に皺が寄れば寄るほど、指先でまわるシャープペンシルの回転速度は早くなった。
 そうして、迎えた今日である。
 机の上に置かれた大学ノートを店外から覗くことはできなかった。乱雑に置かれた筆箱と、脇に置かれた馴染みのパッケージ。
 ポテト、バーガー、ダイエットコーラ。
 サンジはごくりと喉を鳴らし適度な距離を取って眺めていた。いったいどういう味なのだろう。五日間も食べ続けられるほど美味いのだろうか。
 油でギトギトの不健康なポテト、塩を振りすぎた大味の肉。コーラはほとんど水の味だと、友人たちはみな言い合って笑っていたと思う。その話題に乗れないサンジはいつだって適当に笑って誤魔化した。
 どこからかセミの喚く声がする。夏の終わりを告げる声。
 あと三日。
 子どもでいられる最後の夏があっけなく幕を閉じようとしている。

 そいつはえらく早い速度でコーラをじゅう、と吸い上げた。むしゃ、と放った最後のひとくちでレタスがベロンと顔を出す。
 窓越しに繋がる「ふたり」の空間。
 そいつは乱暴に口元を拭いてブルーのシャープペンシルを持ち直した。
 どうやら他校の生徒のようだった。夏服ではよくわからないがバッグから察するに東中だろう。確か男子は暑苦しい学ランで女子のセーラーがかわいらしい。山手にある古風な校風、学力レベルは四校トップだ。
 サンジがそんなことを考えているとそいつは目線を落としたままパクリとポテトを咥え込んだ。よくもまぁ、毎日毎日。そう思いながらもサンジの喉はごくりと音を立てる。緑頭は相変わらずうまそうにもぐもぐと一心に口を動かしている。背景に沈む街の雑踏、通り過ぎるエンジン音。
 ――と。
 なんとそいつがいきなり、パッと顔をあげたのだ。
 ぎょっ、としたのはサンジの方だった。
 一度ならず二度までも。明らかに動揺してしまった拍子にチャリのペダルですねを打った。
 「ってぇぇ…………」
 涙目のサンジが立ち上がり、再び全力でチャリにまたがろうとした、そのとき。
 ――こっち、来いよ。
 上がった右手が「ちょいちょい」とドアの方を指し示していた。
 『お、……俺?』
 他校の生徒に絡まれるなど中庸な学生生活にはもってのほかだった。ましてや女の子を守るためとか縄張りを広げるためとか大義名分を掲げた喧嘩でもなく、相手はファストフード店の窓越しに目が合っただけの野郎などとは。
 ……格好悪いことこの上ない。
 そう結論付けてペダルを思い切り踏み込もうとした時、サンジの脳裏をある欲望が一直線に通り過ぎた。



 「じぃっと見やがって。何か用かよ、金髪野郎」
 店内には緩やかなボサノバのBGMが流れていた。革張りの椅子は少し固く形ばかりお洒落な椅子がところ狭しと並んでいる。
 ぐるりと店内を見渡せば店の奥にゆったりと腰かけるソファ席が見当たった。かわいいレディの二人組に、デート中の若いカップル。あの席は人気が高くて朝早く行かないと取れないのだと友人の誰かが言っていた気がする。
 『そういうときは、隣に座って大声出してりゃ、すぐどっか行っちまうぜ?』
 面白そうに笑う友人たちの品位を、サンジは心底嫌っていた。
 そう。顔には、出さないのだ。絶対に。――青春サバイバル。
 「あぁ……えっと、」
 いきおいで思わず入ってきてしまったものの、サンジとそいつは初対面も同然だった。正確に言うならサンジが一方的に「見て」いただけであって、そいつからすればほとんど、いやこれが初見になるだろう。
 シャツから覗くTシャツは緑色が多いこと、考えるときにシャープペンをまわす癖があること、飲み物はいつもダイエットコーラであること、そうしてここ五日間毎日のように通っていること――
 思った以上にそいつを「見て」しまっていたことに、こんなことになってから気付いてしまいサンジはなぜだか愕然とした。まるで己にすら隠していた性癖が思わぬ形で露呈したような気分だった。
 ……なんてこった。
 饒舌にまわるいつもの舌はどこかに置いてきぼりになっているらしい。
 いきなりだったのもある。準備さえも足りなかった。だけど、それ以上に――
 サンジは観念したように、視線を落として頭を掻いた。
 「あ~……その。……ポテト、1本、くれねェか」
 言った瞬間に後悔した。
 怒られるか、怒鳴り上げられるか、大方は馬鹿にされるだろうと身構える。
 ――は? ポテト?
 ぎゃははははと、小馬鹿にするように笑う友人とも言えない奴らの声が耳の奥から聞こえてくる。
 そうだ。別に、俺には友人などいないのだ。
 サンジはぎゅうと目をつむり、全身の筋肉を強張らせた。
 絶対、馬鹿にされる……!
 後悔の嵐が襲い来る。でももう遅かった。意を決して零したのは紛れもない本音だった。五分前の俺に巻き戻りたい。でももう、言っちまったもんは――
 「ほれ」
 「…………え?」
 きょとん、とした表情で見返せば、わけがわからんとでも言いたげな顔が返ってきた。ふたりで小首を傾げたまま、数瞬の時が流れていく。
 「……おい。ほら、ポテト。欲しいんだろうが」
 「…………あ、……あぁ、そうか。ポテト」
 「は?」
 「あ、いや何でもねェ。……、」
 ありがとう、という言葉はなんとなく飲み込んだ。
 サンジはしばしそいつを見つめたのち受け取ったポテトをじぃと見つめた。そうして何も言わないまま、ひとくちに口内へ放り込んだ。
 舌先に感じる塩の粒。口いっぱいに広がる油の香り。暖かい蒸気、香ばしい香り、憧れ続けたファストフード……――
 「――――まっずぅぅぅぅ!!!」
 「はぁぁぁっ?!!」
 ごくり、と無理やり喉奥に押し込みながら手元のコーラを勝手に拝借する。細いストローに口をつけ制止する声も右から左にごくごくと一息に流し込んだ。
 「うわっ、うぅわっ! ぺっぺっ、まっじぃぃぃ! なんだこれ、なんだこれ!! ただの油の塊じゃねェか! お前こんなの毎日食ってんのかよ!」
 「はァ?! 人聞き悪ィな! 何食おうと勝手だろうが! だいたい欲しがったのはてめェの方だろ!」
 「うっわ~、はぁぁぁびっくりした。クソジジィがダメだっつってたのがわかった! あぁ~まずかった。ふぅぅ、こんなの喰ってたら舌がおかしくなっちまう。おい、お前、」
 「ゾロだ」
 「ゾロ!」
 今初めて知った名前を気安く呼んで一直線に指を指す。ゾロ。緑頭の、おかしな奴。
 「お前、今からうち来い。な」
 「はっ?! 何言っ、あっおい! ちょ、てめ、ちょっと待て、俺のかばん、」
 抗議の声を無視したまま涼しい店内をスタスタと歩く。口直しに煙草を咥えながらカウンターのかわいいレディに笑顔を振りまくことも忘れない。「お会計は?」そう言って優男よろしく歩み寄れば不審な視線がいくつも刺さった。
 

 

 

―――――――

 

 

 さて。
 剣道の県大会で優勝し冬の全国大会への切符を手に入れたゾロは、地元から少し離れた体育高校に入学するためしばしの受験勉強に励んでいた。
 ゾロには進学したい高校がある。全日本で毎年その名を響かせる日本有数の剣の有名校だ。
 文武両道を掲げたその学校はそれ故偏差値も倍率も比較的高く、だからこそ成績は中の上、テストでは毎回平均点プラスアルファのゾロにとってはそれなりに厳しい志望校だった。
 秋になればまた死に物狂いの鍛錬の日々だ。
 「あっほら、あの子。かっこよくない?!」
 キャッキャと騒ぐ煩い女子高校生の声にゾロは思わず嘆息した。
 ゾロは「そいつ」をチラと見遣りなぜだか小さく溜め息を吐く。
 いつも全力で汗を流しながら長い坂を下ってくる。
 見てくれはおそらく同い年、この時期ともなれば坂の上の図書館に受験勉強のためにでも通っているのだろう。
 羨ましげに店内を見つめる蒼い視線にゾロは最初から気付いていた。
 来る日も来る日も「そいつ」は店の前に立ち止まり、じっとこちらを見つめている。
 ゾロはイライラとシャープペンシルをまわして手元のノートに視線を落とす。
 どうしてこうも気になるかと言えばそれは些細な出来事からだった。ゾロがこの店に来た初日のことだ。 あの日、ほんの僅かだったが確かにそいつと目が合ったのだ。
 時間にしてコンマ2秒。そいつもなかなかの反射神経で、ゾロの身体能力をもってしてもほんの僅か視線をかすめただけだった。おかげで向こうは気づかれていないと思っているのだろう。しかしゾロの獣じみた身体感覚を誤魔化すことなどできるはずもなかった。
 店内の人は流れゆき金髪少年の存在に気付いている人はほとんどいないようだった。件の女子高校生たちは単なる「イケメン好き」のようだったし――いや、そいつが「イケメン」かどうかなど、俺には正直よくわからないが――店員は単純作業に追われていて店の外を見る余裕もなさそうだった。
 だから、というわけではないと思う。陽に透ける金糸が美しかったから、というわけでもないはずだ。
 どこからともなく現れる金髪の少年という、まるでお伽噺のような不思議な光景。
 ――ふたりだけが、知っている。
 妙な睦言を奏でるようなガラス越しの物語は微かに甘く、ゾロは苛立ちを募らせながらいつしか「そいつ」を待ちわびるようになっていった。

 夏休みも、残り一週間と少しとなった。
 あれ以降そいつも慎重になったのか目が合うどころか微妙にうまく姿を隠すようになっていた。
 しかしどうしても金髪少年のことが気になる。ゾロはついにある行動に打って出ることにした。
 ――毎日、ここに、顔を出す。
 そのささやかな変化がどう転ぶのか実はゾロ自身にも全くわからなかった。
 なんとか話をしてみたい。そのために特別なアイディアがあったわけでもない。ただ夏が終わる前に「動かなければ」とゾロはただそれだけを強く思った。
 夏の間は不人気になる日差しの眩しいカウンター席。
 朝から晩までその「特等席」を死守し続けてから、五日目のこと。
 夕の刻迫る暑い午後。ついにその瓦解は起こった。



 「どうだ、ゾロ。俺の飯は」
 次々と出される「本格フレンチ」にゾロは正直舌を巻いていた。
 頭の悪そうなひよこ頭にこんな特技があるとは思ってもみなかったのだ。
 客のいない暗い店内にカチャカチャと食器の触れる音が響く。天井のファンがくるくるまわり生暖かい空気を切り裂いていく。
 「……あぁ」
 「あぁ、じゃわからねェっつの。うめぇのか、まじぃのか。はっきりしろよ、マリモだって日本語くらい喋れンだろ?」
 ついさっきまで恥ずかしげに顔を赤らめていたサンジが勝ち誇ったようにゾロを見下ろしていた。「前会計なんて知るかよ!」そう言って喚き散すアホなひよこ頭が辿り着いた先。料理屋になど興味のないゾロでさえ耳覚えのある「バラティエ」の看板。
 右手に握られる銀のお玉、後ろ手に結ばれた真っ白なエプロン。ゾロはなぜだか黙りこくって出される料理を咀嚼していた。
 うまい。驚くほどに。しかし、――
 「あぁ! そうかわかったぜ。マリモちゃんはまだ腹ァ減ってんだな。成長期だもんなぁ。ようしちっと待てよ、今度はもっとすごいの作ってやっから!」
 サンジはそう言い残し颯爽と店の奥へ引っ込んだ。キリッと縛り上げた後ろ髪がぴょこんと揺れて後れ毛が落ちる。
 『……あぁ』
 チリ、と甘い痛みが駆け抜けた瞬間ゾロは全部わかってしまった。
 ――なんだ。……そうか。そういうことか。
 「ほれ! マリモちゃん、いい子にして待ってたか? ようし、次こそうめェと言わせてやる!」
 自信満々に出された料理を口いっぱいに頬張った。うまい。ゾロはにやりと笑いサンジに向かって皿を突き出す。
 「――まだまだ、だな」
 「はァ?! お前今、ちょう笑顔だったじゃねぇか! ぜってぇ今のはうまかったろ! クっソ覚えてろよ! てめェとりあえず明日の16時にうちに来い。ぜってぇだぞ! すっぽかしたらオロすからな!」
 金色の叫び声をBGMに追われるように店を出る。
 ……これでひとまず、明日の約束は取り付けられた、か。
 
 熱い心臓がどくどくと酷く煩い音を立てていた。勝手に飲まれたコーラのカップを捨てられないまま脇に抱える。
 こんなにも、単純なこと。何よりも、簡単な答え。

 ゾロはにやりと笑みを浮かべ緩い坂道を下っていく。
 全力で翔けた青い日々。子どもでいられる最後の夏。
 長い長い夏休みの終わりまで、目を瞑ってたってあと、三日。
 ゾロは抱えた重い道着を意味もなくぶんぶんと空へまわす。
 喉から零れる小さな鼻歌。遠く染まる紅い夕陽。
 目の前にあるのはきっと、大人へと登る小さな階段だ。
 
 サンジを手に入れるための密やかな戦い。
 それはたった今、始まったばかり。
 

 

 

 

(完)

 

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