top of page

高架下の恋

  「あぁ疲れた……」

 ごろり、とベッドに伸しかかると、くぐもった低いうめき声が届いた。無遠慮に片足を乗せた腹が、サンジのかかとの形にへこむ。首筋に噛みつくようなキスをすると、男は「……帰ったのか」と呟いた。そしてなにごともなかったかのようにシーツにくるまって、再び寝息をたてはじめる。

 真夜中、三時半。

 ぬるい風に秋がにじんで、自転車ですすむ頬をさらりと撫でた。高速道路の高架下、昼間にはそこそこ車の往来がある帰り道は、夜にはがらんとした静寂をたたえている。

 ときおり猛スピードで駆け抜けるトラックを横目に見ながら、サンジはふわり、と煙を吐いた。

 ひとつ、またひとつ。

 またたく星をぼんやりと数えながら、ゾロの眠るうちへと帰る。

 夏の残り香が鼻先をかすめると、なぜだか心臓が「きゅっ」と鳴いた。

 

 

 

 

 街はずれにある小さなナイトクラブ。

 サンジは週末になるとそのステージに立った。

 爆音で刻まれるビートのリズムと、光を散らすミラーボール。安いアルコールのにおいが鼻奥をついて、けほ、と乾いた咳がこぼれる。

 「おはよう。悪ィ、電車が遅れてた。週末だってのにヤんなるな」

 「アウ、サンジ。まぁあることだ、気にすんな。おまえの客もそろってんぜ」

 黒いサングラスの下から、人のよさそうな顔がのぞく。ロッカールームのカギを手渡して、フランキーはポン、と肩をたたいた。ロボットのような体つきはクラブの警備にはもってこいだった。サンジがこの店に来た頃にはここにいたから、ずいぶん長く勤めているはずだ。

 だいたいのことは知らなかった。それでも大して問題はない。

 互いの素性も知らないまま、だらだらと付き合うのは悪くない。

 「あと二十分でステージだとよ。今夜のDJがよろしく、つってたぜ」

 「あぁ。あとで挨拶いく」

 黒いタンクトップを脱ぎ捨てて、白いシャツを素肌に羽織る。天井に響くエイトビートが、ぬるい内臓を震わせる。

 「ところでおめぇさん、まだアイツと住んでんのか?」

 昨日の晩飯を聞くのと同じトーンで、なんでもないように台詞を吐く。フランキーはロッカールームの壁にもたれかかって、眠そうにあくびをかみ殺した。

 「そうだよ。おかげで寝不足だよ、毎日セックスが激しくて」

 「そこまで聞いてねェよ」

 ハッ、と迷惑そうに息を吐いて、今度は隠さずあくびをこぼした。ステージの終わったダンサーたちが、興奮した面持ちでどやどやと部屋になだれ込んでくる。

 「それがどうかしたか?」

 「いや、野暮用だ」

 フランキーはぽりぽりと頭をかいて、それからチラ、と視線を向ける。もの言いたげな視線が重なる。なんだよ、と笑って答える。

 「いや。なんかおまえ、浮かねぇ顔してっからよ。ま、幸せならいんだ」

 壁に預けていた体を「よいしょ」と起こし、肩をふって部屋を去る。

 サンジは腕時計に目を落とし、ほんの少し迷ってから煙草に火をつけた。

 

 

 

 

 「あれ、起きてたの」

 朝方、玄関の扉をあけると珍しくキッチンに明かりが灯っていた。

 サンジは靴を脱ぎながら、白熱球の向こうに目を凝らす。

 「おかえり」

 「……ただいま」

 ゾロは目だけでこちらを見て、新聞のページをはらりとめくった。朝刊が届く時間だった。昨晩はすこし飲み過ぎて、店のソファで夜を明かしたのだ。よくあることだった。

 「今日はなに?」

 「つぎの舞台の打ち合わせ。遠方であるんだ」

 開いていた新聞をぱさり、と閉じて、とんとん、と端を整える。この家に転がり込んできたときにはすでに、新聞が毎朝届いていた。それを「おやじくせェ」と笑ってやったら、ふ……と表情を崩して笑った。それで、ゾロにキスをした。

 「場所はどこ?」

 「東京」

 へぇ! と声をあげる。それは単純にすごいことだと思った。

 ゾロは仕事について多くを語らなかった。サンジがゾロについて知っていることと言えば、役者をやっていること、市内の劇場に出入りしていること、年に数回の遠征があること、くらい。だいたいひとつの仕事が終わると、次の仕事が待っていた。きっとそれなりに形になっているのだろう。誘われて初めて観に行った舞台で、ゾロはどきりとするほど鋭利な表情をしていた。

 「すげぇ。ついに東京デビュー?」

 「いや、今回は脚本を頼まれただけだ」

 ずず、と音を立ててお茶をすすり、気持ちよさそうにあくびをする。気の抜けきったジャージのズボンと、洗いすぎて緩んだグレーのシャツ。一緒に住み始めてもう、二年。ゾロはなにも変わらない。おやじくせぇ、と笑いながら、その胸に顔をうずめるのが好きだった。

 「あっちに一泊してくる。おまえ今日は寝てるだろ」

 「うん。もうくたくた……」

 タンクトップを脱ぎ捨てながら、大きなあくびをひとつこぼす。ぼふ、とベッドに身を任せ、ゾロの足音を聴きながら目を閉じた。変わることのない穏やかな日常。

 「明日の朝には帰る」

 ぽん、と頭の丸みを撫でて、薄い耳たぶにキスを落とす。離れるときの唇の音に、腰の奥が熱を持つ。

 クローゼットを開け閉めする音を聴きながら、サンジはまどろみに落ちていった。

 いつまで続くかわからない毎日の、不安定な足音は聴かないように。

 

 

 

 次に目を覚ましたとき、部屋には誰もいなかった。サンジの眠るベッドには、遮光カーテンの隙間から太陽の光が落ちている。引き戸の向こうのキッチンには午後の陽が差し込んでいて、薄いまぶた越しにもわかるくらい、鮮やかな光に満ちていた。

 「ん、んん……」

 ごしごしと目をこすり、スマートフォンのボタンを探す。午後一時四十分。友人からのLINEが一件と、荷物預かりの留守電がひとつ。ゾロからのメッセージはない。

 薄い布団をはねのけて、ベッドのなかで向きを変える。寝転がったまま返信をかえして、もう一度枕に顔をうずめる。泥のようにねむい。

 「……起きるか」

 まるで決意表明でもするように、枕に向かってもごもごと呟いた。ふあ、とあくびをこぼしながら、床に落ちたズボンのポケットを探る。潰れた煙草に火をつけて、重い煙を肺へと流す。ようやく地に足がつく。現実に思考がもどってくる。

 シャワーを浴びたら買い物に出よう。日曜日は近所の肉屋で鶏肉の特売をやっているはずだ。バターとガラムマサラも買って、明日の昼はゾロと一緒にカレーを食べよう。なんたって一晩寝かせたカレーは、美味い。

 そう決めるとすこしだけ心は浮き立って、吸いかけの煙草を灰皿につぶした。クローゼットに眠る新品のスニーカーを思い出して、勢いをつけてベッドから跳ね起きる。洗面所の鏡に映り込んだ顔には、昨晩のアルコールが染み込んでいた。

 

 

 ちょうど特定の相手のいない時期だったのだと思う。ゾロとの出会いは曖昧だった。

 見慣れない五、六人グループのひとりとしてやってきたゾロは、そのなかでもことさら地味に見えた。フロアの端に所在無げに立ち尽くし、ちびちびと酒を飲む男。

 「あんたら、仕事仲間?」

 脳みそに響くベース音が、音楽をガンガンまわしていた。気が狂うようなリズムの繰り返し。夜が深まるほどに体の境界線は溶けていく。曖昧で、憂鬱で、華やかで、焦がれるほどまぶしい。エアポケットみたいなこの場所を、サンジは心から愛している。

 ゾロは到底こんな場所に通うタイプには見えなかった。にこりともしない表情は、真面目というよりいっそ不愛想だ。サンジは持っていたグラスに指を突っ込んで、混ざりきってないウィスキーをカラカラと混ぜる。ミラーボールがキラリと光って、ふたりの間をやみくもに照らす。

 「あぁ。まぁ、仕事仲間みてぇなもんだ」

 「へぇ。ここは初めてか?」

 サンジはなるべくフラットな言葉を選んで、ゾロに向かって話しかけた。特別気にかけていたわけではない。むしろ一緒に来たほかの男について探りを入れたいくらいで、明日になれば話したことすら忘れてしまう、ゾロはそういうたぐいの人間に思えた。

 「おれは初めてだ。メンバーのやつが来たことがあるらしい」

 「ふーん、覚えてねぇなァ。あんたらなんの仕事してんだ」

 「役者だ」

 へぇ? と今度はわずかに目を見開いて、色のある相づちを返す。男はごくりと酒を流し込み、サンジのほうをチラリと見遣った。ドキリとするほど黒に濡れた瞳。

 「市内の小劇場で舞台をやってる。今日はその打ち上げだ」

 「そうなんだ。へぇ、すげぇな。役者のことはよく知らねぇけど、おれの仕事に近いものを感じる」

 失礼かもしれねぇな、こんなこと。

 そう言って笑ったサンジの言葉に、男はふっ……と表情を崩して答えた。愛おしいものでも見るような、柔らかな視線が静かにまじわる。

 「よく、わかるよ」

 そのたった二秒間で、あとのことは全て決まったようなものだった。

 

 

 夕暮れの商店街をラフなサンダルでぶらぶら歩く。昼間に降り注いだ太陽の温度が、アスファルトにわだかまっている。両脇の店はどこも活気があって、日曜日の夕刻を彩っていた。頬を撫ぜる透明な空気に、揚げたてのコロッケの匂いが滲んでいる。

 「よう、サンジ!」

 ガラガラと引き戸の開く音に、威勢のいい声が乗っかった。サンジははたと立ち止まり、聞き慣れた声に振り返る。

 「ウソップ」

 「お、肉屋の特売か? さっさとしねぇと売り切れちまうぜ」

 上機嫌に笑いながら、外に出したピンクののぼりを肩にかつぐ。一本、二本、三本、とたばねて店のなかにしまい込んだ。商店街にたたずむ老舗のクリーニング屋は、夕方には店を閉めてしまうのだ。

 「今日は手羽が安いそうだ」

 「もも肉が欲しいんだけど」

 そりゃ残念だ!

 さも残念そうにおどけてみせて、長い鼻をしゅん、と鳴らす。そして「あ、ちょっと待ってろ」と言い置いて、店の奥に引っ込んだ。

 賑やかに行き交う人、人、人。夕陽に照らされる子どもの頬。手をつないで歩く親子の背中に、なぜだか鼻の奥がツンと冷える。

 型にはまった「幸せ」が本当の幸せだなんて思っちゃない。だけどふと、切なくなる。

いつかは変わってしまうことを、おれたちはきっと知っている。

 「――あったあった。ちょっと重いけど、持って帰れるか?」

 バタバタと足音を立てながらウソップが奥から顔を出した。近所のスーパーのビニール袋に入った荷物を、カウンターの向こうからひょい、と寄越す。

 「お客さんにもらったんだ。ひとりじゃ食べきれなくてよー」

 「……スイカ?」

 そうそう。ウソップは笑って、えーと、と付け加える。おまえまだアイツんとこに住んでんだろ?

 「嬉しい。そういや今年、スイカ食ってねぇな」

 「もう夏も終わるな。暑くて、にぎやかで、早かったなぁ」

 今年の夏も。

 そう言って、なかば強引にビニール袋を押し付ける。サンジは快く受け取ってから、また来る、と笑って片手を振った。

 

 結局手羽も六本買って、甘酢に漬けて柔らかく煮込んだ。もも肉を使ったバターカレーが、コトコトと鍋蓋を持ち上げる。

 

 

 お玉ですくって味見をしているときに、机の上に置いたスマートフォンがぶるぶると震えた。サンジは濡れた手でスマートフォンを手に取って、光る画面を右にスクロールする。

 「もしもし」

 『おれだ』

 愛想のないいつもの声が、薄い鼓膜を震わせる。後ろ手コンビニの扉が開く音がして、ゴー、と車の走る音が重なった。

 「ゾロ。お疲れさま。どうだった、打ち合わせ」

 『あぁ、そっちは問題ねぇ』

 そっか、とそつなく返事を返しながら、一瞬なにかが引っかかる。なんとなく胸騒ぎを覚えた気がして、火のついてない煙草を一本取り出す。コトコトと音を立てる銀の鍋。白いゆげがたちのぼる。

 『別件でおまえに話がある』

 サンジは電話ぐちで首を傾げ、ゾロの言葉に耳を向けた。いつもと変わらない音程と、いつもと変わらない優しい喉の震え。その声が、吐息が、熱情が、サンジの首筋を赤く染めていくのが好きだった。下腹にそっと口づけて、探るように見上げる瞳。濡れた眼球の奥底に眠る欲情に、サンジは何度だって喉をのけぞらせた。

 それなのに。

 『東京に出る』

 「……え?」

 耳に届いた言葉の意味を、はかりかねて言葉をなくす。東京に出る。それはどういう意味なのか。今、瞬時に浮かんだ選択肢の、そのなかでもっとも最悪なのは――

 『こっちで事務所が決まった。完全に籍をこっちに移す』

 そうだと思った。

 言葉をなくしたサンジの代わりに、あたまのなかで声がする。聞き分けがいいのは昔からの癖だった。ふきこぼれる鍋の音を聴きながら、サンジはじっと目をつむる。

 「……よかったね」

 どうして、も。おれは? も。

 胸に浮かぶ言葉たちは、つるつると心臓をすべっていく。

 駄々をこねるみたいに泣きわめいたら、ゾロは振り向いてくれるのだろうか。

 「帰ったら、一緒にカレー食べようか」

 精いっぱいの愛の告白は、都会の雑踏にまぎれて、消えた。

 

 

―――――――

 

 ガチャリ、と扉の開く音がして重い足音がキッチンを横切った。

 戸棚にぶら下げたワイングラスがぶつかって、リン、と軽やかな音を立てる。

「寝てんのか」

 聴き慣れた低音が降ってきて、サンジはわずかに息を詰める。部屋には朝の光が満ちていた。ゾロは革のバッグを床に置いて、ジャケットをその辺の床に投げる。シワになるからハンガーにかけろといつも注意してるのに。そして足音が近づいて、ベッドの前で立ち止まる。ゾロは何も言わないまま立ち尽くし、じっとこちらを見下ろしている。

 「……起きてんだろ」

 ごそごそとサンジを押しのけて、布団のなかにもぐり込んでくる。サンジはなるべく拒否するように、背中を強く押しのけた。靴下をはいた足の先が、冷たい右足にそっと触れる。

 ゾロのにおい。

 「なに泣いてんだ」

 「泣いてねェ」

 枕に顔をうずめるように、サンジはいやいやと首をふった。少ししめったゾロの体温がサンジを背中から包み込む。

 「……嫌か」

 「そうじゃねぇ」

 「じゃあなんだ」

 まっすぐな言葉だった。ゾロはいつもそう。サンジはぎゅ、と目を閉じる。そうやって真正面から、嘘のない言葉ばかり、いつだってありのまま目の前に差し出すのだ。それがどんなに難しいことで、特別なことかをサンジは知っている。知っているからこそ、ときどき怖くなる。ゾロといると自分ばかりが嘘つきになったように思う。

 本心なんて、知りたくない。

 「……なんでもねェよ」

 「嘘つくな。なんでもねェこたねぇだろ」

 「ほっとけよ」

 「おまえ、おれが東京に」

 「るせぇっつってんだろ!」

 ガバッ、と布団を蹴り上げて、ゾロの体を押しのける。白シャツのボタンをふたつはずしたゾロが、隣でサンジを見つめている。吸い込む息がふるふると震えて、嗚咽のような息が漏れる。

 あぁ、ちがう。

 「……ゾロ」

 こんなこと、言いたいんじゃない。

 「セックスがしたい」

 整わない息を吐き出しながら、震える声でそっと告げる。時計の秒針が時を刻む。高速道路を車が行き交う。

 「――わかった」

 覆いかぶさるゾロの唇は、わずかに乾いてすこしだけ、苦い。

 

 

 「あっ……」

 硬く立ち上がった中心をこすられて、サンジは上ずった声を漏らす。両足のひざを合わせるようにもぞもぞと動かすと、それを遮るように足を割り開かれる。

 「はっ、あぁ」

 二本の指でほぐされた場所にもう一度指が差し込まれる。ゾロの中心にあてがうように、ゆっくりと腰を落としていく。

 「いっ、ん」

 「痛ェか?」

 サンジはふるふると首をふってゾロの腰を両手でつかむ。じゅぷ、と湿った水音が鳴いて、熱い塊が奥へと入り込んでくる。

 「痛かったら、言え」

 「きもち、い」

 とぎれとぎれに息を吐いて、見下ろすゾロを必死でみあげる。

 いつもよりほんの少し切羽詰まった表情に、サンジの下腹がきゅう、と鳴く。

 「あっ、きもち、あぁ……きもちい、気持ちい、ゾロっ……」

 半開きの口の端から、たらり、と透明な液体がこぼれていく。それは頬を伝った涙を巻き込んで、ベッドのシーツに染みを作る。

 「動いて、動いてゾロ、もっと、もっと」

 「ん……」

 ほんの少しあごをあげて、サンジの言葉を優しく飲み込む。もっと乱暴でいい。もっと投げやりでいい。もっとめちゃくちゃにして欲しかった。

 愛されてるなんて思いたくない。

 どうせいつかは離れてしまうのだから。

 腰はしだいに深く突き刺さり、サンジは白いのどをのけぞらせる。

 「やっ、あぁっ、イく……!」

 ヒュッ、と喉が細く鳴いて、下腹にぎゅうと熱が集まる。押し出されるように吐き出した白濁が、自身の腹をべたべたと濡らした。

 

 

 

 大きく息を吸い込んで、それからそっと吐き出した。

 上下する腹にまわされたてのひらは、いつもの温度に暖かい。

 「なぁゾロ。結婚して」

 ゾロに背を向けたまま、サンジがぽつり、と言葉を吐く。後ろの気配はほんの一瞬揺らいで、それから何ごともなかったのように静寂を取り戻す。

 「答えは、ノーだ」

 「……だと思った」

 振り向こうとよじった体がそのまま後ろからと抱き込められた。ゾロの足がサンジの足のあいだに絡んで、またすこしだけ下腹部がじんと熱を持つ。

いつもそうだ。そうやって、必死なのはおればかり。ゾロはいつだって余裕な顔をして、おれのことは置いてきぼりで――

 「またそうやって、勘違いすんなよ」

 「え?」

 めずらしい物言いに、サンジは思わず目を開いた。ゾロは「やっぱりか……」と呟いて、ため息ついでにぽりぽり頭をかく。

 「あのな、自分だけが寂しいと思うなよ。自分勝手なんだよ、おまえ」

 ぐしゃぐしゃとサンジの金糸を乱して、おのれの体重をサンジの背に預ける。心地よいゾロの重みと、柔らかな温度が背中を包む。

 「寂しいに決まってんだろ……アホか」

 はぁ、と思いきりため息をついて背中から強く抱きしめる。愛おしそうに金糸を撫でる右の手が、サンジの頬にそっと触れた。

 ゾロの指を伝う、透明なしずく。

 「自分ばっかり辛いみてぇな面しやがって」

 「だってゾロ、東京行くって決めたのは」

 「一緒に居るだめだろ」

 きっぱりと言い切って、サンジの体を真正面に向けなおす。まっすぐに向けられた正直な視線が、サンジの瞳を直線にとらえる。

 まっすぐ。まっすぐに。それはゾロの生きてきた道だ。

 「おまえと、一生、一緒に居たい。だからプロポーズくらいおれにさせろ」

 ふっ……と表情を崩して、人差し指で頬に触れる。透明なしずくはいくつもいくつも、ゾロの指に絡んで落ちる。

どうしようもない。もう、どうしようもないほど、ゾロのことを愛してる。

 「おまえに惚れてる。一生ついて来い」

 堪えきれずに漏れた嗚咽が、ゾロの胸に吸い込まれる。

 朝日の落ちるキッチンに、カレーの香りがわだかまっている。

 

 

 

 

 キーン……――

 空を裂く甲高いエンジン音が、青いキャンバスに吸い込まれていった。乾いた冬空はからりと晴れて、薄雲を柔らかに散らしている。

 「……よかったのかよ」

 遠く空を見つめたまま突っ立つ背中に、心配そうな声が届いた。「さみィな」と両腕をこすりながら、中に入ろうとは言い出さない。

 「あぁ、いいんだ」

 「一緒に行こうって、言われなかったのか?」

 「言われたよ」

 「だったらなんで……」

 サンジがそっと振り返ると、ウソップはいぶかしげに目を細めた。見送りなんかいかないと、さんざん言っていたはずなのに。本当に世話焼きなヤツだった。おれたちが付き合ってるって言ったとき、青くなって耳をふさいでたくせに。

 「決めたんだ。自分のことくらい自分で決められねェと、本当に一緒にいることはできねぇ、って」

 サンジは言って目をつむる。寂しいと、言ったゾロに、嘘をついてはいけないと思った。

 なにより、自分自身にも。

 ――ちゃんと、ゾロを、愛したいから。

 「まぁ……おまえらがいいんなら、いいんだろ。似た者どうしだもんな、おまえら」

 「え?」

 思ってもみなかった言葉に、サンジはきょとん、と首をかしげる。ウソップは「えっ?」と心底驚いて、それから深くため息をついた。遠く見あげる青空は、ゾロへと続く一本道。

 「本気になるのが怖いのはゾロも一緒だろ。おまえと出会って、自分の弱さを知って、ようやく向き合う気になったんじゃねぇか? おまえのおかげだと思うぜ。ゾロがどう思ってっかは知らねぇけど」

 は~、やだやだ。なんておれが分かってやんなきゃいけねぇんだ。

 ウソップは文句をこぼしながら、白い息を空へと流す。揺れる煙は中空によどんで、ゆっくりと空気に溶けていった。

 ぬるいコーヒーに角砂糖が溶けるように。ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて。それはまるでおれたちみたいだと、言葉に出さずにそっと思う。

 「なぁ。それって、悪くねェかな」

 サンジが笑って、煙が途切れて、太陽はキラキラと光を降らす。

 ウソップの呆れ顔も、ゾロの声も、一緒くたにして季節はすぎる。

 きっとすぐに春が来る。そしてすぐに夏が来る。絶望的な繰り返しだ。だけどそれこそが救いだと思った。

 「さっ。さっさとクリーニング仕上げちまえよ、クソながっ鼻」

 「へん、優しくしてりゃあ調子に乗りやがって」

 鼻の下をこすりながら、ウソップが「ニッ」と笑って答える。飛行機が飛び立つ。空が湧きたつ。たくさんの人が手を振り別れる。

 サンジは最後に煙を吸い込んで、冬の空へと吐き出して笑う。

 次に会ったらなんて言おうか。

 とろけるような、愛の言葉を。

 

 

 

 

(終)

 

 

 

 

 

bottom of page