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俺が海賊だった頃の話をしよう

 ホームがいくつも入り組んだ大都会の駅からふたえき。

 改札を出ると出口は北か南のたったふたつで、北に出れば飲食店の並ぶ商店街が、南に出ればオフィス街へとつづく大通りに出る。

 南口を出てすぐ左に曲がり、もう一度左に曲がると細い路地がある。昼間でも薄暗いその路地には老舗の洋食店が店をかまえていた。

 金髪の少年がいきおいよく店の扉を開いて飛び出し、その路地をまっすぐに駆け出していく。

 「バカ野郎! ゾロなんかだいっ嫌いだ!」

 美しいボーイソプラノが春の風にふわりと溶ける。路地を走る足音が暖かな空気を軽やかに彩る。

 いつも腰を折って掃除をしているおばあさんのいる家を右に曲がり、三毛猫のおやこが住み着いた小さな畑をちょうど10歩で横切る。

 ピンクの看板のかかったクリーニング屋と、メガネをかけたおじいさんが切り盛りする古い時計屋。その隙間に誰も気づかないような、細い階段が上へと伸びている。

 「おじさん、いる?」

 息を切らして声をかければ店の奥からガタガタと音が聞こえた。

 小さな店内には所狭しと古い本が置かれていて、棚に入りきらないぶんは床に雑然と積み上がっている。古いインクの匂いが鼻奥をついて、なんだか懐かしい気持ちになった。

 西側にひとつだけついている窓には今日もブラインドが降りている。また昼寝をしていたのだろう。店の奥のカウンターから背伸びをする指先が見えた。店主よりもいくぶんか愛想のいいねこが、足元に駆け寄ってきて「にゃあ」と鳴く。

 「おじさん、ゾロのやつがひでぇんだ!」

 少年はまくしたてるように声をあげて、奥のカウンターへとどかどか走り寄る。

 「アイツまた、俺の飯をまずいって言いやがった! そんなはずねぇよ、じじぃに教えられたとおりに作ってんだ! ねぇ、おじさんってば!」

 ひょいっ、と背伸びをしてみると、何十冊も本を積み上げたタワーの向こう側で眠そうに眼鏡をかけ直す男の横顔が目に入った。丸いメガネにはチェーンが揺れている。頬に伸びる無精ひげ。

 「ねぇどうしてアイツは、俺ばっかりいじわるするんだろう……」

 すこし自信をなくした声でしょんぼりと靴の先を見つめる。ころんと丸い靴の先には、畑をとおって来たからか白い泥が跳ねていた。

 「なんだクソガキ、また喧嘩か」

 男がぼそりと声を出してふあ、と大きくあくびをした。

 この男はいつも暇そうだった。店はたいてい毎日あいていて、男はいつ来ても本を読んでいるか眠っているかのどちらかだ。冬に少年の指先をあたためた電気ストーブが、もう暖かくなった今でも出しっぱなししてある。客がはいっているところなんか見たことがない。それでも店はあいている。

 「喧嘩じゃねぇよ、アイツがむかつくだけだ!」

 少年は口先を尖らせてカウンターの脇をとおってなかに入る。

 くるくると回る丸椅子の横には何十冊もの古本が山のように積まれている。茶色く日に焼けてシミのついたもの、ページが破れて読めなくなったもの。だいたい数百円から数千円の値段がついていて、手作りの値札が貼られている。ちょうど窓のしたのあたりではタダ同然の本が積まれていて、ジャンルも分類も雑多なそこにはほこりがうっすらと積もっている。

 そうやって雑然と並ぶ本の山を丁寧に崩していくと、ときおり数十万円の値段がついた本が並んでいたりもした。なんだかよくわからないけれど、それはちょっとした見ものだった。

 「なぁおじさん、おじさんは誰かと喧嘩したことある?」

 男の隣に回り込んで、首を傾げて顔を見上げる。男は白いシャツの上からいつもの黒いエプロンをつけていて、セミロングの金髪を後ろで緩くしばっている。

 「そうだな……」

 男はふっ……とため息をついて、大きな手のひらでワシワシと頭を撫でた。やめろよ、と声には出すけれど少年はそれが好きだった。しみついた煙草の香りがする。

 「あるぜ、喧嘩したこと」

 「そうなの?! どうして喧嘩したんだ?!」

 少年はぴょんぴょん跳ねながら、男に話の先をうながす。意外だった。いつも眠そうに見える男が、誰かと話をするところさえ想像できない。

 「昔の話さ……」

 男は大きくあくびをして、ひざに乗ってきたねこを撫でる。ねこはごろごろと喉を鳴らして気持ちよさそうに目を閉じる。ブラインドの隙間から西日が差し込む。春がぼんやり溶けている。

 「昔? 昔って子どもの頃のことか?! なぁ教えてくれよ」

 目をキラキラさせながら、少年が男の話をうながす。男は困ったように眉をさげて笑い、それからそっと目を閉じた。そうだな、だったらこんな話はどうだ。

 「俺が海賊だった頃の話をしよう――」

 

 

 

 

 

 サンジが家を飛び出したのはほんの7つの頃だった。

 殺し屋稼業を生業にする一族の、上から数えて三番目。年の離れた兄たちは若くして独立していて、サンジはもっと幼い頃から一族の正当な後継人として育てられた。

 「今だ、やれ」

 耳元で囁かれる声に、手元が震えて引き金が引けない。父親ががっくりとため息を吐くのを聴くのはこれでもう100回目だ。

 「お前には期待してるんだ」

 言外に『がっかりしている』とにじませながら、ぽん、と一度頭を撫でる。そうして当たり前のように引き金を引くと、遠くで影がゆらりと落ちた。鼻を突く、硝煙の匂い。

 サンジはぎゅ、と目をつむり父親のあとをついて歩く。

 小さなてのひらに握らされた重い銃は氷のように冷たかった。

 

 命からがら逃げ出して、港に停泊中の船にもぐりこんだ。下働きを頼み込み、大人にまじって仕事をこなす。

誰もサンジの出生に関して不審な目では見なかった。「親を亡くした」とついた嘘は、すんなりとコックたちに受け入れられた。サンジが幼すぎたこともあるだろう。みなそれなりに人が良く、親切で、サンジのことを適当に可愛がってくれる。ただオールブルーの話だけは、誰も信じてはくれなかった。

 嵐とともに船が襲撃され、仲間たちはバラバラになった。心の底から憎んだ海賊の男になぜだか命を救われた。

 海の一流コックになる。それはいつしかサンジの夢となり、生きる希望となっていった。

 それは料理が好きだった優しい母の、永遠に別れた面影だったのかもしれない。

 『ねぇサンジ、オールブルーの話をしてあげましょう――』

 

 

 平穏だったはずの日常は、またしても海賊の男に破られた。

 一緒に海に出ようなどと、軽々しく大口を叩く。

 「簡単だろ! 野望を捨てるくらい!」

 男の胸が十字に切り裂かれ、沈んでいくのをこの目に見た。

 無意味な苛立ちが胸に募った。それでももう一度、海に出た。

 

 砂漠の夜はひどく寒い。日中から二十度も下がっていた。パチパチと燃える火のそばで男がうつらうつらと船をこいでいる。

 「……寝れねぇのか」

 隣にすっと腰をおろすとゾロがぼそりと声をかけてきた。起きていたらしい。同じ船に乗り込んで、しばらくの時が経っている。

なんだかんだと癇に障るやつだった。第一、同い年というのがいけない。飯だってろくにひとりで作れねぇくせに、偉そうに船で寝てばかりいる。

 サンジは「さぁな」と曖昧に返事をして夜空に輝く月を見上げた。煙草の煙が星を隠す。女王の涙の落ちる音がする。砂漠にのぼる、満月。

 「お前はどうして、剣を振るうんだ」

 ずっと聞きたかったことだった。ひとを殺める意思を持って戦うのは今のところこの船でこの男だけだ。言葉は思ったより自然に口をついて出た。大きな戦いが迫っている。なにげない風を装って、サンジはふわりと煙を吐く。焦燥感がじわり、と滲む。

 「ガキの頃からやってきたことだ。理由なんかねぇよ」

 ゾロはたんたんと言葉を紡いだ。そうか、とひとことサンジは答える。ひとを斬るのに理由はねぇのか。サンジはそっと目を閉じる。『お前には期待してるんだ』耳奥で声がこだまする。

 「……でも、」

 ゾロは珍しく言葉を繋ぎ、ほんの一瞬迷ってみせた。

 瞳に火の粉が反射してキラキラと夢のように輝いていた。

 「今は、アイツらを、守ってやるためだ」

 ぼりぼりと頭を掻いて居心地が悪そうに立ち上がる。それ以上言葉は交わさなかった。

 

 

 目の前で、ゾロが、死のうとしている。

 船長をかばって己の首を差し出すと、吠える声はわずかに震えていた。

 薄らいでゆく意識のなかで、サンジは必死に手を伸ばす。届かない。

 裏社会の筆頭の第一後継者。破り捨てたその過去が重い首をもたげてくる。

 今だろう、と思った。隠し続けてきたこの身分が役に立つのは今この瞬間のはずだろう、と。

 表舞台でのし上がっていくはずの男が、サンジに向かって背を向けている。

 『行くな……!』

 叫びたいのに、声が出ない。喉はふさがってひゅうひゅうと音を立てるだけ。

 『ゾロ、行くな……っ!』

 折れた肋骨が、つぶれた内蔵が、全身をキリキリと痛めつける。俺の過去を持っていけばいい。俺の人生なんかはじめからなかったようなものだ。だけどアイツは……ゾロは、違う。果たしていない野望があるんだろう?

 「頼む……」

 そうして意識は闇に落ちて、目覚めたときにゾロはいなかった。

 透明に晴れあがった青空が嘘みたいに輝いている。じぶんの人生の全部をやるから、生きていてくれとそう思った。

 

 

 必ず戻る。

 そう書き置いたのは、決して嘘などではない。

 仲間を騙していたわけじゃない。ただ心はちくりと痛んだ。

 じぶんがこの船にいることで、いつか仲間が危険にさらされるかもしれないと思っていた。それは今のサンジにとっては何よりの恐怖で絶望だった。いつかその日がやって来たら、こうしようと胸に決めていた。

 「よぉ。アンタの顔も忘れてたぜ」

 真正面に立ち尽くし、ニヤリ、と口端をあげる。ふいに空高く舞い上がる。雨のような銃弾が降る。ポケットのなかに手を突っ込んで、空からまっすぐに銃口を向ける。

 『アイツらを、守ってやるためだ』

 耳奥に声がこだまする。愛しい音色に目をつむる。

 美しく響く銃声音。飛び散る赤、スローモーションの風景。

 手のひらにおさまった小さな銃は、氷のように冷たかった。

 

 

 

 

 

 「――それで俺はそのまま逃げて、仲間のもとには戻らなかった。命からがらこの街について、ここで本屋を開いた、ってわけ」

 少年はキラキラと目を輝かせて、男の話を一心に聞いた。あまりにも身を乗り出しすぎてしまって、腰掛けていたタワーが崩れてしまったほどだ。

 「ねぇおじさんその話本当?!」

 尻餅をついた少年は、期待の瞳で男を見上げる。逆光のなか見下ろす男の表情は、影になってよく見えない。

 「……ハハ、なァんてな。そんなわけねぇだろ。俺ァ昔からここに住んでる、本が好きなただのおっさんだぜ」

 ちぇ、なぁんだ。少年は口を尖らせて、男に精一杯の不服を述べる。真面目に聞いて「そん」した! 尻をはたいて床から立ち上がる。

 「まぁ、なんだ。その友達、大切にしろよ。案外てめぇの料理が食いたくて、わざわざ文句言ってるだけかもしれねぇぞ」

 「そんなわけねぇよ! くっそ~、思い出したらまたムカついてきた! 明日こそうまいって言わせてやる!」

 少年は瞳に健康的な炎を燃やして、新しい決意にこぶしを握った。じゃあね、おじさんまた来るよ! と声をかけて、細い階段を飛ぶように下りていく。日の落ちた春の夕方が、少年の頬をオレンジ色に染める。ぐう、と腹の虫が鳴いていきなりお腹がへった気がした。少年は全速力で店へと向かう。そこでは大好きな人たちが、少年の帰りを待っている。

 

 

 

 

 

 ギッ……ギッ……と階段が軋んで、サンジはもう一度目を開けた。ブラインドの隙間からは夕方の光が差し込んでいる。

 「なんだ、帰ってきたのか。もう遅いから、いい加減うちに……」

 カウンターのなかから顔を上げると逆光のなかに男が立ち尽くしていた。サンジは薄く目を細める。見覚えのある緑頭……――

 「……お前、なんで」

 「探した」

 男は一歩一歩カウンターに近づき、そうしてサンジの目の前に立った。サンジは唖然と男を見上げたままで、次の言葉を探せない。なんで……お前が、ここに。

 「帰るぞ。もたもたしてっとルフィが海賊王になっちまう」

 男はサンジの腕を掴んであっさりとそう言葉を吐いた。サンジはようやく我にかえって、男の手を振り払おうともがく。

 「な、なに言ってんだ、迷子のくせに! アイツは死んだんだよ、新聞だって出てただろ!」

 ようやく喉を振り絞ると男は振り返って呆れたように笑う。

 「アホか。あんなの誰も信じちゃねぇよ。さっさと帰るぞ、アホコック」

 そのまま強く腕を掴みスタスタと店を横切っていく。本の積み上がった狭い店内。古い紙とインクの匂い。耳の奥にこだまする、遠く懐かしい波の音。

 「帰ったらまず一発ヤらせろ」

 「馬鹿じゃねぇの、てめぇ……」

 うんざりとうなだれた細い体がふわりと温もりに包まれる。すこしだけ酸っぱい汗の匂いと、日なたのような甘い匂い。

 あの頃と、変わらない。

 「――おかえり」

 誰に聴かせるともなくそう呟いて、ゾロはまたスタスタと歩き始める。階段を下りて、交差点を曲がって、港への道をまっすぐに。

 「……ただいま」

 絶対ゾロには聴こえないように、小さな声で喉を震わせる。ただいま。

 少しこけた白い頬は夕陽に照らされてオレンジに光る。

 遠い空にたなびく雲が明日の天気を予感させる。

 耳の奥に響く波音。胸にせり上がる潮の匂い。

 透明に落ちる涙の雫はキラキラと美しく輝いている。

 

 

 

(完)

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